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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
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囚われの身・八

 声の主は前方の人影、李白蓮(りはくれん)その人であった。雨よけの笠を被った李白蓮は、早足で真っ直ぐ祠廟(しびょう)に向かってくる。手には盆を携えている。食事でも持ってきたのだろうか。

 李白蓮は鼻息荒く楊鷹(ようおう)に近づくと、再度大声を上げた。


「なんで、そんなとこにいるんだい!」


 鋭い声に打たれて、楊鷹ははっとした。

 閉じこめた人物が、外に出ている。見張りはいない。この状況、逃げ出そうとしていると思われてもおかしくない。むしろ、そう考えるのが妥当だ。

 鬱々(うつうつ)と、腑抜(ふぬ)けている場合ではない。

 楊鷹は素早く立ちあがると、さっと拝礼した。


「逃げようというわけではありません」

「じゃあ、何様なんだい?」


 問われて、楊鷹は言葉に詰まる。果たして、この状況を取り繕う最善の言葉は何か。


「……少し気分が優れず、外の空気が吸いたいと思い、出してもらいました」


 迷った末の答えは、正直というには足りないが、まったくの嘘というわけでもなかった。不快な心持ちになったために外に出たのは事実だ。

 李白蓮が、じろりと楊鷹の顔をねめあげる。まるで、品定めでもするように、鋭い視線を注ぐ。彼女の吟味が終わるのを、楊鷹は静かに待った。

 やがて、彼女はつと目をそらし、つぶやいた。


「……確かに、少し顔色が悪いように見えるね」


 李白蓮はその場にしゃがみこむと、盆を地面に置いた。盆の上には、碗と小振りの壺が乗っている。

 李白蓮は壺の蓋をはがすと、その中身を碗に注ぎはじめた。白く濁った液体が、碗の中になみなみと満ちる。どうやら、濁酒(どぶろく)のようだ。


「ほら、飲みな。気付けになる」


 そう言いながら、李白蓮は楊鷹に碗を差し出す。

 細かく波打つ、乳のような色の液体を、楊鷹はじっと見つめた。

 溺れるほどの酒浸りであらば、おいそれと碗を手にするのだろうが、あいにく楊鷹はそうではない。酒癖は良いとは言えないが、節度はある方だ。あっさり酒に飲まれる、そのろくでもない性分を自覚している。

 そして、眼前の濁酒に関しては、簡単に手出しできない理由がもう一つあった。

 唐突すぎるのだ。この八日の間、粥などの食事や飲み水以外に差し入れられるものは、一切無かった。ゆえに、この濁酒は臭う。どうして、ここにきて酒が出てくる。


 見た目は、変哲のない濁酒だ。白く濁っているために、碗の底は見えない。

 果たして、底に潜むものはなんなのか。それとも、何もないのか。

 楊鷹は見つめるばかりで、ぴくりとも動かない。突き出されたままの酒碗は虚しく、どこにも行き場がない。

 李白蓮が、これみよがしに舌を鳴らした。


「なんだい、飲まないのかい?」

「いえ、酒は苦手なんです」


 李白蓮は不機嫌そうに、鼻で笑った。


「はっ、そんなことを言って、どうせ何か混ぜ物がしてあるとか、思ってんだろう」

「いえ、そのようなことは……」


 図星を突かれて楊鷹が言葉を濁せば、李白蓮はこれでもかと盛大に眉をひそめ、口の端を曲げた。


「それじゃあ、飲みなよ。苦手といったって、一口くらいいけるだろう」


 嫌悪で歪んだ口元から発せられた声は、刺々しい。

 しかし、楊鷹は碗を受け取らない。あまりしゃべればぼろが出そう――もとより、何を言っても李白蓮には聞く耳がなさそうである――なので、だんまりを貫く。動かず、しゃべらず、その様は、剛とそびえる(いわお)のごとく。

 対する李白蓮も、黙って碗を差し出し続けている。

 お互い頑なに、ただひたすら、にらみ合う。

 やがて、折れたのは李白蓮であった。彼女は、おもむろに碗を盆にもどすと、そっぽを向いた。


「信じてくれないのかい」


 雨音の合間に、李白蓮の寂しげな声がこぼれた。そのまま、彼女はぽつりぽつりと語りだす。


「……そりゃあ、剣のことは悪かったさ。でも、この酒は違う。あんたは、剣を()った私を訴えなかった。その恩に(むく)いる、じゃないけどさ。まあ、そんなつもりで持ってきた酒なんだよ。ずっと閉じこめられて、気が滅入ってきてるだろうと思ったからさ」


 一語一語発するたびに、(とげ)が抜け落ちてゆくようだった。今や、李白蓮(りはくれん)の声音も表情も、だいぶ和らいでいる。

 楊鷹(ようおう)は、静かに指先を握りこむ。

 李白蓮の言葉が本当で、この獨酒(どぶろく)が彼女の真心の表れだとするならば、無下(むげ)にするのは気が引ける。

 剣を盗まれたことを、忘れたわけではない。これまでの李白蓮をかえりみれば、彼女は気のい人物だとは言えない。だが、人は変わる。善人が悪人になることもあれば、悪人が善人になることだってある。少なくとも、今目の前にいる李白蓮は、変わったように見えた。

 握った手の内側が、じわりと汗ばんでくる。楊鷹は、何かに試されているような気がした。


「私の名誉のために言っておくけど、本当に単なる酒だよ」


 そう言って、李白蓮は酒壺をつかむと。勢いよくあおった。ごくりと、一度喉を鳴らした後、彼女は地面に向かって壺を傾ける。中身がこぼれて、ぬかるんだ地面に白い染みを作った。

 壺の中身は空ではない、ということは、彼女は確かに獨酒を飲んだ。

 李白蓮は、手の甲で口元をぬぐうと肩をすくめた。


「ほらね。なんともないだろう?」


 その言葉のとおり、李白蓮に異変はない。苦しむ様子などは一切なく、顔色も明るいままだ。そもそも、毒のような異物が入っていたら、自ら口にしない。

 閉じ込められてから八日。その間に差し入れられた食事や水に、毒が入っているようなことはなかった。むしろその逆である。(かゆ)饅頭(まんとう)など、質素な食事だが味は良く、しかもいつも温かい。囚人に与える食事にしては、上等なものだった。

 

(疑いすぎか……)


 そんな安堵にも似た思いがよぎると同時に、楊鷹は恥ずかしさを覚えた。疑っていては神仙たちの思う壺だというのに、まんまと(はま)ってしまっていた。

 ここで変に拒み続けて、揉め事になるような事態は避けたいところ。李白蓮も北汀村(ほくていそん)の一員だ。村人との仲をこれ以上こじらせるのは、得策ではない。

 報いの濁酒であるならば、杯酒解怨(はいしゅかいえん)のごとく。この一杯をもって、過去のわだかまりは水に流す。そう決意した楊鷹はそっと拳を解いた。そして、その手を李白蓮に向けて差し出した。


「分かりました。その酒をいただきます。ですが、本当に苦手なので一口だけ」

「……信じてくれて、ありがとうよ」


 つぶやくように言いながら、李白蓮は改めて獨酒の碗を差し出した。

 楊鷹は碗を受け取ると、一口飲んだ。口の中に、甘酸っぱい味が広がる。なかなかに濃い酒だ。


「うまいだろ? 一口じゃなくて、もっと飲みな」

「いえ、本当に苦手なもので、もう結構です」


 楊鷹が断ると、李白蓮はきっと眉を吊り上げた。


「なんだい。大の男がそれっぽっち……」

「飲むな! その碗、臭うぞ! 何か入ってる!」


 突如として子供の甲高い大声が響き、李白蓮の言葉を潰した。

 子供にしては、やけに大人びた口ぶり。そのちぐはぐな声音は、間違えようがない。毛翠(もうすい)の声であった。

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