囚われの身・八
声の主は前方の人影、李白蓮その人であった。雨よけの笠を被った李白蓮は、早足で真っ直ぐ祠廟に向かってくる。手には盆を携えている。食事でも持ってきたのだろうか。
李白蓮は鼻息荒く楊鷹に近づくと、再度大声を上げた。
「なんで、そんなとこにいるんだい!」
鋭い声に打たれて、楊鷹ははっとした。
閉じこめた人物が、外に出ている。見張りはいない。この状況、逃げ出そうとしていると思われてもおかしくない。むしろ、そう考えるのが妥当だ。
鬱々と、腑抜けている場合ではない。
楊鷹は素早く立ちあがると、さっと拝礼した。
「逃げようというわけではありません」
「じゃあ、何様なんだい?」
問われて、楊鷹は言葉に詰まる。果たして、この状況を取り繕う最善の言葉は何か。
「……少し気分が優れず、外の空気が吸いたいと思い、出してもらいました」
迷った末の答えは、正直というには足りないが、まったくの嘘というわけでもなかった。不快な心持ちになったために外に出たのは事実だ。
李白蓮が、じろりと楊鷹の顔をねめあげる。まるで、品定めでもするように、鋭い視線を注ぐ。彼女の吟味が終わるのを、楊鷹は静かに待った。
やがて、彼女はつと目をそらし、つぶやいた。
「……確かに、少し顔色が悪いように見えるね」
李白蓮はその場にしゃがみこむと、盆を地面に置いた。盆の上には、碗と小振りの壺が乗っている。
李白蓮は壺の蓋をはがすと、その中身を碗に注ぎはじめた。白く濁った液体が、碗の中になみなみと満ちる。どうやら、濁酒のようだ。
「ほら、飲みな。気付けになる」
そう言いながら、李白蓮は楊鷹に碗を差し出す。
細かく波打つ、乳のような色の液体を、楊鷹はじっと見つめた。
溺れるほどの酒浸りであらば、おいそれと碗を手にするのだろうが、あいにく楊鷹はそうではない。酒癖は良いとは言えないが、節度はある方だ。あっさり酒に飲まれる、そのろくでもない性分を自覚している。
そして、眼前の濁酒に関しては、簡単に手出しできない理由がもう一つあった。
唐突すぎるのだ。この八日の間、粥などの食事や飲み水以外に差し入れられるものは、一切無かった。ゆえに、この濁酒は臭う。どうして、ここにきて酒が出てくる。
見た目は、変哲のない濁酒だ。白く濁っているために、碗の底は見えない。
果たして、底に潜むものはなんなのか。それとも、何もないのか。
楊鷹は見つめるばかりで、ぴくりとも動かない。突き出されたままの酒碗は虚しく、どこにも行き場がない。
李白蓮が、これみよがしに舌を鳴らした。
「なんだい、飲まないのかい?」
「いえ、酒は苦手なんです」
李白蓮は不機嫌そうに、鼻で笑った。
「はっ、そんなことを言って、どうせ何か混ぜ物がしてあるとか、思ってんだろう」
「いえ、そのようなことは……」
図星を突かれて楊鷹が言葉を濁せば、李白蓮はこれでもかと盛大に眉をひそめ、口の端を曲げた。
「それじゃあ、飲みなよ。苦手といったって、一口くらいいけるだろう」
嫌悪で歪んだ口元から発せられた声は、刺々しい。
しかし、楊鷹は碗を受け取らない。あまりしゃべればぼろが出そう――もとより、何を言っても李白蓮には聞く耳がなさそうである――なので、だんまりを貫く。動かず、しゃべらず、その様は、剛とそびえる巌のごとく。
対する李白蓮も、黙って碗を差し出し続けている。
お互い頑なに、ただひたすら、にらみ合う。
やがて、折れたのは李白蓮であった。彼女は、おもむろに碗を盆にもどすと、そっぽを向いた。
「信じてくれないのかい」
雨音の合間に、李白蓮の寂しげな声がこぼれた。そのまま、彼女はぽつりぽつりと語りだす。
「……そりゃあ、剣のことは悪かったさ。でも、この酒は違う。あんたは、剣を盗った私を訴えなかった。その恩に報いる、じゃないけどさ。まあ、そんなつもりで持ってきた酒なんだよ。ずっと閉じこめられて、気が滅入ってきてるだろうと思ったからさ」
一語一語発するたびに、棘が抜け落ちてゆくようだった。今や、李白蓮の声音も表情も、だいぶ和らいでいる。
楊鷹は、静かに指先を握りこむ。
李白蓮の言葉が本当で、この獨酒が彼女の真心の表れだとするならば、無下にするのは気が引ける。
剣を盗まれたことを、忘れたわけではない。これまでの李白蓮を顧みれば、彼女は気の好い人物だとは言えない。だが、人は変わる。善人が悪人になることもあれば、悪人が善人になることだってある。少なくとも、今目の前にいる李白蓮は、変わったように見えた。
握った手の内側が、じわりと汗ばんでくる。楊鷹は、何かに試されているような気がした。
「私の名誉のために言っておくけど、本当に単なる酒だよ」
そう言って、李白蓮は酒壺をつかむと。勢いよくあおった。ごくりと、一度喉を鳴らした後、彼女は地面に向かって壺を傾ける。中身がこぼれて、ぬかるんだ地面に白い染みを作った。
壺の中身は空ではない、ということは、彼女は確かに獨酒を飲んだ。
李白蓮は、手の甲で口元をぬぐうと肩をすくめた。
「ほらね。なんともないだろう?」
その言葉のとおり、李白蓮に異変はない。苦しむ様子などは一切なく、顔色も明るいままだ。そもそも、毒のような異物が入っていたら、自ら口にしない。
閉じ込められてから八日。その間に差し入れられた食事や水に、毒が入っているようなことはなかった。むしろその逆である。粥や饅頭など、質素な食事だが味は良く、しかもいつも温かい。囚人に与える食事にしては、上等なものだった。
(疑いすぎか……)
そんな安堵にも似た思いがよぎると同時に、楊鷹は恥ずかしさを覚えた。疑っていては神仙たちの思う壺だというのに、まんまと嵌ってしまっていた。
ここで変に拒み続けて、揉め事になるような事態は避けたいところ。李白蓮も北汀村の一員だ。村人との仲をこれ以上こじらせるのは、得策ではない。
報いの濁酒であるならば、杯酒解怨のごとく。この一杯をもって、過去のわだかまりは水に流す。そう決意した楊鷹はそっと拳を解いた。そして、その手を李白蓮に向けて差し出した。
「分かりました。その酒をいただきます。ですが、本当に苦手なので一口だけ」
「……信じてくれて、ありがとうよ」
つぶやくように言いながら、李白蓮は改めて獨酒の碗を差し出した。
楊鷹は碗を受け取ると、一口飲んだ。口の中に、甘酸っぱい味が広がる。なかなかに濃い酒だ。
「うまいだろ? 一口じゃなくて、もっと飲みな」
「いえ、本当に苦手なもので、もう結構です」
楊鷹が断ると、李白蓮はきっと眉を吊り上げた。
「なんだい。大の男がそれっぽっち……」
「飲むな! その碗、臭うぞ! 何か入ってる!」
突如として子供の甲高い大声が響き、李白蓮の言葉を潰した。
子供にしては、やけに大人びた口ぶり。そのちぐはぐな声音は、間違えようがない。毛翠の声であった。




