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小仙奇譚  作者: 平井みね
第一章
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予期せぬ出会い・一

 空高くには太陽が燦々(さんさん)と輝いていた。季節は夏。陽光は降り注ぐなどという優しいものではない。まさしく突き刺さるという言葉がぴったりと当てはまるほど、烈しい。風はない。埃交じりの熱気が悶々と漂う。

 まだ風が吹いてくれればもう少しはましだったかもしれないのに、と楊鷹(ようおう)はぼんやりと考えた。

 こんな熱まみれの中、日よけも何もなしに歩くだなんて気がふれているとしか思えない。加えて、木製の枷で首と手を拘束された状態で、水すらまともに飲めないときている。薄っぺらい、質素というより襤褸(ぼろ)と言った方が正しい衣は、汗まみれで肌にくっつく。ひどく不快だがこれもどうしようもない。加えて、足がひどく痛む。この状態で、半日以上歩き続けている。完全に、狂気の沙汰だ。

 だが、それも仕方がないのかもしれない。己は罪人なのだから。

 楊鷹は歯を食いしばった。顔を上げて、前を歩く人間の背中をにらみつける。帽子をかぶった護送役人は、軽やかに歩を進めていた。その様子が腹立たしくてたまらない。

 水をくれと言っても、全く聞き耳を持たず。少し休みたいと言っても無視をして。足がこんなに痛いのだって、あの役人のせいだ。昨夜、宿に到着したら、あの護送役人は「足を洗ってやろう」と珍しく気を利かせてきた。だが、奴が用意したのは熱湯だった。断ったのだが、拘束されているのを良いことに護送役人は無視やりその熱湯で楊鷹の足を洗った。当然、大やけどだ。足の甲にも裏側にも、いたるところに水ぶくれができてしまった。さらに今朝、出立時に新品の草鞋を履かせてきた。「もうボロボロだったから新しいのを買ってきてやったぞ」とかのたまって。やけどの傷は朝にはだいぶ癒えていたが、とはいえ一晩しか経ってない。万全ではない。そんな足に履き慣れない履物を履いて、こんな荒れ地を歩いたら、足が痛んで当然だ。というか、痛みだけではなく少し(ぬめ)る。間違いなく、出血している。

 そもそも、そもそもだ。楊鷹自身、こんな目に合うこと自体がおかしいのである。こんな、護送役人と一緒に流刑地に向かうということ自体が。こんな旅をもう十日も続けていることが。


(何が減刑で流罪だ……。俺が何をしたっていうんだ)


 楊鷹はさらに奥歯を強く噛みしめる。そうやって高ぶる感情を押さえつける。

 こうなってしまった以上、おとなしく従うのが得策。少なくとも命は助かったのだから。ここでまた問題を起こしたら余計厄介なことになるだけだ。そう言い聞かせながら、楊鷹は大きく足を踏み出した。しかし感情を抑えきれなかったのか、幾分乱暴になった一歩はでこぼことした道に阻まれた。ぐきりと足首が捻じれた。楊鷹の体が傾いて、そのままなすすべなく地面に崩れた。手を拘束されているので、当然受け身も何もできずにしたたかに全身を打ち付ける。


薛用(せつよう)! 待って!」


 後方から声が飛ぶ。楊鷹の後ろについていたもう一人の護送役人が、前方の役人を呼び止めたのだ。


「んあ? なんだよ」


 いかにも柄の悪そうな間延びした声で、薛用と呼ばれた役人が応える。楊鷹が視線を向けると、先を行く護送役人が足を止めて振り返っているのが見えた。

 薛用ではない方の役人――確かこちらは董把(とうは)とか言ったか――が、駆け寄ってきてゆっくりと楊鷹を起き上がらせた。


「……すまない」


 どうにかこうにか楊鷹が言う。乾ききった口は上手く動かず、出てきた声は掠れていた。まるで今にも死にそうな人間だ。


「ったく、どん臭ぇ野郎だな」


 薛用が鷹揚とした足取りで近づいて来る。すっかり楊鷹の目の前まで来ると、彼はますます居丈高に言ってのけた。


「さっさと立てよ。行くぞ」

「……水を、くれないか?」


 とうに限界は過ぎている。もう言葉を発するのも辛かったが、それでも楊鷹は本日何度目かになる頼みごとを口にする。


「ああ? 水だと?」


 薛用が応じる。これまた、本日何度目かになる反応だ。こう来たら、続く言葉は決まっている。


「生意気言ってんじゃねぇぞ。このくそ罪人が」


 案の定、予想した通りの言葉を吐き出しながら、薛用は手にしていた水火棍(すいかこん)で楊鷹の頬を突く。今日だけでも何度目かになるやり取り、ここ十日の間で数えれば散々繰り返しているせいで、最早だいぶ慣れた。楊鷹は怒りや悔しさを押さえつけたまま、じっと薛用を見つめた。


「もう限界だ、頼む……」


 言葉の最後の方が弱々しくかき消える。他人よりもずっと頑丈な上、生半可な鍛え方はしてないはずなのに、思いのほかもろくて情けなくなってくる。こんな護送役人に請わなければならないなんて、本当にどうしようもない。

 薛用の棍の先端が頬の刺青(いれずみ)をかすめた。と同時に、ひどく不機嫌な声が降ってきた。


「いい加減、自分の身分をわきまえろ。若くして武挙に通って? 晴れて禁軍に入って? そんな話、もう終わったんだよ。今のお前は単なる罪人なんだ。ここにしっかりその証があるだろ? 罪人の刺青が。そんな偉そうな口の利き方をするんじゃねえよ」


 言い終わると同時に、薛用が唾を吐きだす。こらえていた感情が漏れでてきそうになって、楊鷹はぐっとうつむいた。


「おら、分かったならさっさと立て」

「薛用、止めて。少し休もう。このままじゃ本当に死んでしまうから」 


 棍でせっつく薛用を、董把が止めに入った。今までは大人しく相方に言われるがままだった董把の思わぬ言葉に、楊鷹はちらりと真横をうかがった。眉を寄せながらも、真っすぐ薛用を見ている董把の顔が視界に入る。


「なんだよ、董把。俺に口答えすんじゃねぇ。こいつにやる水なんてねぇんだよ」

「水なら俺のをやる」


 きっぱりと言った董把に対して、薛用は目を吊り上げた。


「ああ? 聞こえなかったのか? こんな得体のしれねぇ野郎にやる水はねぇんだよ!」


 薛用は勢いよく水火棍を楊鷹に突き付けた。なかなかの鋭い動作だ。反射的に楊鷹は表情を引き締め、いきり立つ護送役人に視線を投げた。


「こんな変な髪と目の野郎、どう見たって(りん)の人間じゃねぇだろう!」


 荒々しく薛用が言う。彼の言は、楊鷹が今までさんざん言われてきたことだ。確かに、自分の見た目は(りん)国の人間とは少し異なる。まだ二十を少し過ぎただけだというのに、白髪交じりのような薄灰色の髪。そして、緑色の瞳。こんな外見の人間は、稟では自分以外に恐らくいないだろう。髪色も瞳も親譲りであるが、母親はもうこの世にはおらず、父親は行方が知れない。


「お前だって聞いたことあるだろ? こいつの母親は異国の人間、きたねぇ蛮族なんだって」


 薛用の言葉に、落ち着きを取り戻していたはずの心がふつふつと煮え始めた。


「……母上を侮辱しないでくれないか」


 こらえきれずに言えば、薛用は意地の悪い笑みを浮かべた。


「ああ? なんだよ。本当のことだろう? ついでに言えば、化け物に心を売ったらしいじゃねぇか。てめぇの親父の方は――」

「薛用! もう止めるんだ!」


 楊鷹よりも先に、董把が叫んだ。思わぬ制止に、楊鷹はいささか驚き、目を丸くして己の上体を支える役人を見つめた。


「その噂、俺も聞いたことあるよ。でも、そんなの本当かどうか分らないじゃないか。どちらにしたって、この人は武官として国に尽くしてくれていたことには変わりないんだ」

「だから、こいつが武官だったってぇのは、もう終わった話だろう!」

「終わった話でも、その過去の行いまでは変わらないだろう」


 董把はそこまで言うと、ますます困ったように眉尻を下げる。今にも泣きだしそうな表情だ。


「薛用、おかしいよ。どうしたの? 俺たちの役目はちゃんと護送をすることでしょう? 途中で死なせて良いわけがない。……まさか、あの時采二に何か言われたんじゃ……」

「うるせぇ! 何にもねぇよ!」


 薛用がかっと目を見開いて叫んだ。今日一番の怒りっぷりである。董把もこれには怖気づいたのか、慌ててうつむくとそのまま黙りこくってしまった。薛用はその様子に満足げに息を吐く。すると、急に怒りの形相をひっこめてにやにやと笑いだした。


「まぁ、そんなに水がほしいなら、やらんこともねぇ。逃げ出さないって約束するなら、その枷を外して少し休憩でもしようじゃねぇか」


 薛用が突然正反対のことを言いだした。一体どんな風の吹き回しなのか、怪しすぎる。探るようにを細めて薛用を見れば、彼は笑みを潜めて不機嫌面になる。


「どうすんだよ! あぁ?」

「……逃げないし、何もしない」


 相変わらずの掠れた声で楊鷹は答える。逃げたり何かしたりしようと思えるほどの体力はない。相当気合を入れればできるかもしれないが、それよりも水の方がほしい。


「よし。おら、董把、枷を外せ」


 薛用が命令すると、董把は顔を上げた。その表情は、どこか呆気に取られたようで、すぐには動き出さない。


「ほら、さっさとしろや! てめぇが休んで水をやるべきだって言ったんだろが!」

「は、はいっ!」


 薛用にどやされて、董把は慌てて楊鷹を戒めている枷を外した。大きくて重たい木の枷が取り払われ、楊鷹の身が幾分軽くなる。それだけで、少し気力が戻ってきたように感じた。

 薛用が水袋を手に取って、楊鷹の目の前に突き出した。


「手を出せ。注いでやる」


 どこまでも偉そうに、薛用は言う。顔面には先程と同じ、あの嫌な笑み。やはり嫌な予感しかなかったので、楊鷹は水袋を見つめたまま動かずにいた。


「あれ? いらないのか? さっきはあんなにほしそうにしてたのに」


 薛用はそう言うと、水を飲んだ。一口、二口、三口。水を飲み込む、その喉の動きがひどく魅力的に映る。太陽はじりじりと全身を焼く。陽炎(かげろう)が揺らめく中、楊鷹のあごから汗が滴った。


「ほら、冷たくてうまいぜ?」


 薛用はひょいと水袋を掲げ、見せびらかす。

 不穏な予感は未だにうずくし、目の前の護送役人は(しゃく)に障る。だがしかし、これは水を得る格好の機会であった。逃すわけにはいかない。とっくの昔に限界は超えているのだから。

 楊鷹はゆっくりと両手を添えて、薛用の前に差しだした。


「何か言うことがあるんじゃないか? 薛用様、どうか水を恵んでください、とかよ」

「せ、薛用!」


 董把が前のめりになって叫んだ。


「そんなの……!」


 心優しい護送役人の言葉をさえぎるように、楊鷹は静かに頭を垂れた。


「……薛用様、水をお恵みください」


 どうにか声を絞り出せば、ふんぞり返った護送役人は鼻を鳴らした。


「ほらよ。ありがたく飲め」


 傾けられた水袋から、楊鷹の両手の中に水が注がれる。手の中で太陽の光を受けてきらきらと輝く小さな水面。それは水ではなく、神仙が住まう世界『桃李虚(とうりきょ)』にあると言われる、万病を癒す霊薬のように見えた。伝承に語られる、一口飲めば病も傷もたちまち癒えるという仙界の霊薬。そんな神秘の逸品が実在するとは思えないが、今の楊鷹にはそう思えた。それほど、疲弊していた。

 楊鷹は両手に顔を近づける。だが、その時。

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