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Chap.9

Chap.9

 

 遠くから聞こえてくる昼休みの喧騒が、夢のようにぼんやり響く。時折にぎやかなしゃべり声と遠慮のない足音が近づいてきて、そして遠ざかっていく。この隠れた空間に響きだけ残して。

 「離婚しようかなって思ってて」

 あーあ、言っちゃった。

 言った途端、後悔と、何か少しほっとしたような気持ちで、後頭部がチリチリした。

 自分の上履きのグリーンのラインを見つめる。三年生はワインレッド。二年生はフォレストグリーン。一年生はカナリーイエロー。

「なんで?」

 静かな、しかし遠慮も容赦もない訊き方。あんまりストレートで、思わず微笑んでしまった。

「まあ…よくある話。女性関係?浮気?火遊び?なんていうのか知らないけど」

 ああ、これも言ってしまった。いいや、もう。なんだか妙な具合に気持ちが軽くなってくる。

「しかもね、映像見ちゃったんだから」

 思い切って顔を上げて、斜め上の秀の顔を見上げる。秀がどんな表情をするか見てみたいと思った。明かり取りの窓から降り注ぐ光が少し眩しい。

 案の定、秀の形のいい眉がきゅっと寄った。

「どういうこと」

 ここからがすごいのよ、遠野クン。覚悟はよろしい?

 秀の目をじっと見つめて言う。

「トップレスの女とベッドの上で、まあなんというかお楽しみの最中の動画をね、whatsAppでその相手の女に送ろうとして、間違えて私に送ってきたの」 

「……」

 秀の表情は変わらない。優も目を逸らさない。なぜか、絶対逸らすもんか、と思いながら続ける。

「セックスシーンじゃなかったし、自撮りでそうクリアーじゃないし、長さだって五秒間くらいの短いものだったけどね、破壊力抜群」

 そう言ったら、一気に目の縁が熱くなって目の前がぼやけた。悔しいけれど秀から目を逸らして、急いでハンカチで涙を拭く。

「…相手は」

 秀が低い声で訊く。

「研究室の助手。あの人、大学で教えてるの。天体物理。相手も既婚者で、謝罪してきた。子供もいるし、家庭を壊したくないから、お願いだから誰にも言わないでほしいって懇願された。もう二度としないからって。ただの一度きりの気の迷い、crazinessだからって」

 おかしいくらい涙がどんどん出てくる。

「あのね、すごい騙し打ちだったの。あの人と二人でいつも行くカフェに入ったら、その助手の人が待ってたの。私と直接話したいってあの人に言ったんだって。それであの人がセッティングしたの。なんで?私のほうはそんな人に会いたくもないだろうって、どうして思えないわけ?」

 大して綺麗でもない普通の女の人だった。ずっと年上に見えた。大柄な、ちょっとゴツゴツした感じの体格。うんと細い臙脂色のフレームの眼鏡。肩上までのふわふわした薄い金髪。こちらをじっと見て懇願する潤んだグレイの目。

「そんな公共の場でそんな話されても、なんにもできない。怒ることも、非難することも。ただお人好しの馬鹿みたいに大人しく話を聞くしかできなかった。ま、それが向こうの狙いだったんだろうけど。家に帰ってからあの人にそう言ったら、君のためにもその方がよかっただろう?って言われた。公の場だったから醜態を演じずにすんだだろう?って」

「いつ?」

「五年前」

「五年前?!」

 秀の声が辺りに反響した。今のは絶対に階段下まで聞こえただろう。

「なんでさっさと離婚して帰ってこなかったんだよ!」

「だって、そんな簡単に離婚したくなかったんだもの」

 夫は泣いて謝った。酔った勢いでしたことだ。恋愛感情なんてこれっぽっちもない。彼女になんの魅力も感じていない。お願いだからもう一度チャンスをくれないか。君だけを愛している。

 信じたかった。

 真面目な穏やかな優しい人だった。公園だろうが、誰の家だろうが、そこにいる犬や猫がすぐに寄ってきて甘えるような人だった。牧場では馬まで嬉しそうに寄ってきた。酔った勢いで他の女と…なんて絶対に絶対にしそうもない人だった。絶対に。

 間違いは誰にでもある。魔が差すということは誰にでもあるのだ、と思った。 だから留まった。

「じゃなんで今は離婚しようと思ってんの」

「…気持ちが戻らなかったから」

「許せなかったんだ」

「ううん。そうじゃない。そういうレベルの話じゃないの」

 離婚したい、と切り出した時、夫にもそう言われた。やっぱり僕のことを許せないんだね、と。

「許すとか許さないとか、全然そういうんじゃない。それ以前の問題。もう好きでいられなくなっちゃったの」

 トップレスの女と、にやけ顔してベッドの上で自撮りしてるところなんか見てしまったら、百年の恋だろうが運命の愛だろうが冷めてしまうと思う。許すとか許さないとか、そんな話ではないのだ。

 中学生の時、祥子たちとそういう話をしたことがあった。

 夫が浮気したらどうするとか、夫に隠し子がいるってわかったらどうするとか、夫と自分どっちかの命しか助からない状況になったらどうするとか。夫どころか彼氏もいないのに、なぜか女子はこういう話が好きだ。

「そんなのさっさと別れるに決まってるじゃん」

「ええー、夫が反省してもう二度としないって約束しても?」

「あたりまえでしょ。他の女と浮気するような男」

「いや優、ちゃんと想像してごらん。岡崎がさ、あの大好きな大好きな岡崎が『別れたくない。こんなことは二度としない。僕が真実愛してるのはキミだけだ』って…」

「岡崎は浮気なんてことするような人じゃありませんっ」

「だから例えばだってば。想像してごらん。いい?目つぶって。まず岡崎と結婚します」

「…うん」

 頬が緩んであたりがピンク色になる。

「ラブラブで幸せに暮らしてたんだけど、何年かたって、なんと岡崎が浮気してしまったことが発覚。さあどうする?」

 優は一、二秒考えたあと目を開けてキッパリ言った。

「別れる。だってそんなことするような人だったら、『なんだ、この程度の人だったのか』って、気持ちが冷めちゃうに決まってるもん」

 このエピソードを思い出した時は、ひとりで笑ってしまった。涙が出た。

 そんな簡単なことじゃないのよ、と記憶の彼方の中学生の自分に言う。

 大好きだった人を——自身の気まぐれからではなく外的要因で——突然好きでいられなくなるのは、その人が目の前でバスに跳ねられるのを目撃するようなものだと思う。

 大好きだった人はもうそこにいない。二度と会えない。

 心臓にぐるぐる巻いてあった物凄く粘着力の強いガムテープを、思い切り引き剥がされるような痛み。

 そしてそれでも諦められなくて、よく世間で言われるように「時が癒してくれる」かもしれないと思って、五年間待った。

 ヒキガエルになってしまった王子様が、また元の王子様の姿に戻るんじゃないかと思って待った。

 あの動画のことは到底忘れることはできなかったけれど、考えないように、思い出さないようにしようとした。さっき秀が言っていたように、引きずらないように、振り回されないように努めた。

 それでも、一年経っても、二年経っても、前みたいな気持ちには戻れなかった。

 五年経った時、急に思った。憑き物が落ちたように。もうやめよう、と。

 これ以上待っても無駄だ。十分待った。もういい。日本に帰ろう。

「ったく」

 苦々しい声が斜め上から降ってきた。

「なんでそんな男と結婚したんだよ!」

 秀は苛立ちを隠そうともしないでこちらを睨んでいる。優もその目を睨み返す。

「だってそんなことする人だなんて、あの時は分からなかったんだもの」

「二十三なんてまだ世間のことも男のこともちゃんと知らないガキのくせに、結婚なんかするからだ」

 容赦のない厳しさで言われて、止まっていた涙がまた溢れた。

「しかもそんな奴にしがみついて五年間も無駄にして。何やってんだよ」

「…これって、もしかして仕返し?あの時の」

 ハンカチで目の下を押さえながらちょっと笑って言うと、また何か言おうと口を開けていた秀はぐっと言葉に詰まり、苛立たしそうに前髪をかき上げてため息をついた。

「…ごめん」

「ううん」

「もちろん仕返しなんかじゃない。なんていうか…」

 言葉を探すように、秀は視線をさまよわせる。 

「…今、目の前で泣いてるのは、中学生の七瀬で…、俺が好きだった七瀬で…、その七瀬が大人になった七瀬にひどい目に遭わされたみたいな……うまく言えない。ごめん。おんなじ七瀬なのに。辛かったのは大人になった七瀬なのに」

 ある意味、言い得て妙だ、と優はぼんやり思った。

 大人になった私は、私の中にいる昔の私をひどい目に遭わせてしまった。幸せな未来を思い描いていた女の子を。間違った選択をすることによって。

「…で、離婚して帰ってくるのか」

「ん…そうしたいなって思ってるんだけど…」

「けど?」

「まだちょっと迷ってる」

 秀が思い切り呆れた顔をして首を振る。大きく息をついて前屈みになり、飲み込みの悪い子供を我慢強く諭す大人のように言う。

「…七瀬。そういうことする男ってのは、そういう男なんだよ。酔った勢いとか一時の気の迷いとか言ったって、結局そういうことする奴はするし、しない奴はしないんだ。そういうことしたってことは、そいつはそういう奴なんだ」

「わかってる」

 苦笑して頷いてみせる。

「王子様がヒキガエルになっちゃったんじゃない。もともとヒキガエルだったのが王子様に化けてて、それが元のヒキガエルに戻っちゃっただけよね」

 秀は一瞬きょとんとして、それからくすりと笑った。

「なるほど」

「迷ってるのは、あの人に未練があるからとかそういうんじゃ全然ないの。そんな気持ちは微塵もない。今更日本に帰って、これからどうしようとか…、そういうこと。仕事ちゃんと見つかるのかなとか。一人になるのもちょっと…かなり不安だし」

「仕事なんていくらでもあるだろ。高学歴で英語もできて絵も描けて」

「簡単に言うねえ」

「そりゃ最初から満足できる仕事につくのは難しいかもしれないけど、何も仕事が見つからないってことはないよ。英語できるんだし。いいと思う仕事が見つからなければ、とりあえず英語を教えるとか絵を教えるとかだってできるだろ」

 優はため息をついた。

「そんな簡単にいかないって。現実は厳しいのよ」

 お医者さんにはわからないだろうけど。

 秀が笑う。

「現実は、って…。七瀬は現実知らないだろ。日本で仕事探したことないんだからさ」

「…そういえばそうね」

 本当にそうだ、と優は心の中で首を縮めた。優の知っている「現実」は、離婚すると決めてからネットで読んだものばかり。人によって書かれたものばかりだ。実際に遭遇する前に、できるだけ情報が欲しくてかき集めた、他の人々の経験。他の人々の現実。未知の世界。もっと若い頃に知っているべきだったのに、みんなはちゃんと知っているのに、自分は知らずにいた世界。自分だけ欠席してしまった授業。

「つべこべ言ってないで、さっさと帰ってこいよ。自分の国なんだし、仕事だってなんとかなる」

 自分の国なんだし。

 なぜかその言葉が胸にじんときた。

「…ほんと。異国人じゃなくてよくなるんだ」

「え?」

「うん…やっぱりね、よその国にいると、自分はここの人間じゃないって、I don't belong hereって、常に感じてるんだと思うの。気づかなくても。それって結構疲れるのよ。異国人でいるっていうの」

「現地人と結婚してても?」

「人によるだろうけどね。私も前はちっともそんなふうに感じなかったんだけどな。やっぱり長く住んでるとだんだんそういう疲れが溜まってくるのか、それともトシなのか」

 それともただ単に、夫ともう気持ちがひとつになれなくなったからなのか。

「トシ、トシって言うなよ。ババアだなあ」

「何よ。同い年のくせに」

「俺は自分がトシだなんて思ってないもん」

「私だって二十一だもん」

「出た!七瀬永遠の二十一歳説」

 二人で笑う。頬杖をついて首を傾げた秀が優しい目をする。 

「帰ってきたら疲れも取れるだろ」

 思わず見惚れる。

 うーん、中学の時、ほんの少しでもこの遠野に惹かれたことがなかったなんて、よっぽど岡崎のことが好きだったんだな、私って。一体どこに目をつけて…いやいや。

「そうだね。日本に帰って和菓子いっぱい食べたい」

「甘党だっけ」

「そうみたい。夢に和菓子屋さん出てきたりするもん」

 秀が深いため息をついた。生真面目な表情で優をじっと見る。

「…ほんとにごめん。辛かっただろ」

 そんなふうに言われると、また涙が出る。

「もー、また泣かせる」

 笑いながらハンカチで涙を拭く。

「悪い」

「ううん。聞いてくれてありがとう。これね、こんなふうに誰かに話したの初めてなの」

 秀が驚いた顔をする。

「そうなの?」

「うん。ずっと、誰にも話せなかった。この間、ようやく大学時代の友達の一人に少しだけ話せたんだけど、でもなんだか…やっぱり詳しいことは話せなくて」

 トップレスだのなんだの、そんなことはとても口にできなかった。ただ単に、夫が浮気したとしか言えなかった。

「五年間ずっと?セラピストとかは?」

「あの人にも勧められたけど、行く気になれなかった。…っていうか、あの人に勧められたから、かえって行きたくないって思ったのかもね」

 肩をすくめる。秀がため息をつく。

「…それじゃ余計辛かっただろ。ずっと自分の胸の内だけに抱え込んでたなんて」

「うん…やっぱりああいうことを誰にも話さないでずっと五年間もいたから……今こんな泣き虫になっちゃってるのかもね」

 また涙が出て、優は自分でもおかしくなった。なんだか本当に思春期の女の子みたいじゃないか、これじゃ。泣いてばっかり。情緒不安定。

「そう大したことでもないのに」

 秀が眉をしかめる。

「大したことだろ。そんな動画見ちゃうなんてさ」

「ああ、そこはね、確かに。あんな経験したことある人ってなかなかいないんじゃないかなって思う」

 優はふうっと息をついた。

「目で見るって、やっぱりね…。例えばね、そういうことがあったって話されただけだったら、もしかしたら離婚ってことにはならなかったのかもしれない。耳で聞いたら、そりゃ確かに色々想像はしちゃうだろうけど、でも結局想像は想像でしかない。実際の映像は…本当の、本物だから」

 思い出してしまって、ジリッと胸が焼けついてちょっと顔をしかめる。急いで続ける。

「でもね、例えば本当に浮気されちゃったとかいうのより…本気で浮気されちゃったとかいうのよりずっとマシなんだと思う。あんな動画を見せられた挙句、『彼女を愛している。だから君とはもう一緒にいられない』なんて言われるよりは」

「そうかな」

 意外なことに秀が反論した。

「そこまでやられたほうが、かえってさっさと諦めついて別れられたんじゃないの。七瀬のダンナのしたことって、生殺しっていうか、半殺しっていうか…。そのほうが残酷だと俺は思うけど」

 優はちょっと笑った。

 確かに秀の言う通りだ。

 あんなふうに謝られて、君だけを愛しているなんて言われて、自分さえ努力すれば元通りの幸せなラブラブ夫婦に戻れるのだと思わせられてがんじがらめにされるよりは、もうお前なんか愛していない、離婚だ、と喚かれたほうがよかったのかもしれない。少なくとも、そうすれば五年間も無駄にしなくてすんだのだ。

 そこへ、しばらく静かだった下の廊下をきびきびした足音が近づいてきた。靴と床が擦れるキュッキュッという微かな音。足音は階段下でぴたりと止まった。

「誰かそこにいますか」

 大人の女の人の声。低くて太めの声だ。

 二人は顔を見合わせた。

 どうする?

「返事をしなさい」

 二人がどうするか決めかねているうちに、足音がゆっくりと階段を上ってきた。秀の口元がおかしそうに歪み、優は慌ててもう一度目と鼻の下をハンカチで拭った。

 やがて二年一組の担任の体育教師が現れた。派手な赤いジャージ。極端に短い髪。豊かな頬。太った身体。

 踊り場のところで立ち止まって、体育教師は眉をしかめて二人を見上げた。

「こんなところで何してるの」

「話をしていました」

 秀が答えると、体育教師は一層眉をしかめた。

「ちゃんと立って答えなさい」

 二人は慌てて立ち上がった。

 体育教師が睨みつけながら顎で促すので、秀はもう一度、

「話をしていました」

 と答え直した。

「なんでこんなところで話さなきゃいけないの」

 ぞんざいな口調で体育教師が言う。

 なんて馬鹿みたいな質問。

 こういう頭の悪い質問をする教師がよくいたっけ。

 二人が答えられずにいると、体育教師はくるりと背をむけながら、

「放課後職員室に来なさい」

 と言って階段を降りかけたが、足を止めて振り返り二人を睨みつけた。

「返事は」

「はい」

 二人の声が重なり、体育教師は階段を降りていった。二人が顔を見合わせていると、下のほうから苛々したような太い声が響いてきた。

「早く教室に戻りなさい」

「はい」 

 足音が階段下で止まった。明らかに、二人が降りてくるのを待っているのだ。仕方ない、と目を合わせて、二人は階段を降りていった。二人が降りてきたのを確認すると、体育教師はさっさと二階への階段を降りていった。

 体育教師の足音が十分遠ざかったのを確認してから優は小声で言った。

「デブババア。最低」

 秀がわざとらしく息を呑んで、片手を自分の頬に当てる。

「まあ、奥様、なんてこと仰るの」

「大っ嫌いだったのよ、あの先生。超ムカつく」

「やな奴だったよな。変に威張ってて」

「そう!何様?って感じよね。大体何よあれ、体育教師のくせにあんな太ってていいと思ってるわけ?授業中だってバレーのサーブ以外なんの手本も見せられなくて、あれで教師って言えるのかしらね」

 あの体育教師に関しては、今もくっきりと覚えている出来事がある。

「あの先生に土下座させられたのよ」

 秀が目を丸くする。

「ほんとに?」

「しかも冤罪。三年の時。プールの時よ。ほら、女子って、泳ぎたくない人なんかが『生理です』ってズル休みしたりするじゃない?私はほんとに生理だったんだけど、あの日は確かに『生理です』って人数が多すぎたのよね。それであの先生が怒って、私たちをみんな体育館に連れていって、お説教して、一人一人土下座させたのよ。『ズル休みしてすみません』って」

 今思い出してもはらわたが煮えくりかえる。

「ひどいなそりゃ。ほんとにズル休みかわからないのに」

「でしょう?よっぽど『トイレに一緒に来てくれれば血まみれのナプキンお見せします』って言おうかと思ったわよ。ほんとに言ってやればよかったって今でもすごく悔しい」

「なんで言わなかったの」

「内申書」

 秀がうーんと唸る。

「そこか…。あったな、そういうものが」

「ひどい話よね。パワハラされようがセクハラされようが、内申書のことがあるから何も言えなかった」

「そうだったなあ…いや、ちょっと待て、セクハラ?」

 眉を上げた秀に頷いてみせる。

「…そんなことあったのか」

「まあね。大したセクハラじゃないけど、でもセクハラはセクハラよ」

「誰」

「牧村」

 音楽の教師。背の低い小太りの中年男。

「何されたんだ」

「何回かお尻を触られた…というか叩かれました。掴まれたこともある」

 秀の目がぎらりと光った。

「…あのすけべ野郎っ。知ってたらぶっ殺してた」

「ありがと」

 本当に、誰かが知っててくれたらよかったなと思う。冗談まじりに、笑いながらあんなことをされて、どう反応したらいいかわからなくて、曖昧に笑みを浮かべて黙っていることしかできなかったあの時の気持ち。

 遠野が見てたら、先生のこと殴ってくれたかな…。 

「ね、あいつ、教育実習生に手出して辞めさせられたって知ってる?」

「マジ?」

「私たちが卒業して…三年?いや四年後くらいかな。実習生たちと先生たちの飲み会があって、そこで実習生の女の子にキスしたんだって。その人がちゃんと訴え出て、それでクビになったらしい。PTAの役員やってた近所のおばさんから聞いたの。ざまみろよね」

 秀が険しい顔をして唸るように言う。

「クビになるくらいじゃ全然足りない。ふざけやがって…」

 そこで廊下にチャイムの音が響いた。

「わ、これ始業だっけ?」

「いや、予鈴じゃない?校庭に出てる奴らとかもいるわけだし」

 とりあえず、ゆっくりゆっくり歩いていたのを少しスピードアップして教室を目指す。

 相変わらず、あちこちから好奇心に溢れた視線が飛んでくる。明らかに敵意ある目を向けてくる女子もいて、優はふむ、と秀を見上げた。

「あのデブババアが来たの、もしかして誰かが何か言ったからなんじゃないの。嫉妬に駆られたアナタのファンが、『先生、遠野くんと七瀬さんが二人でこそこそ屋上の階段を上がっていきました』とかって。だってあの人、誰かあそこにいるってわかってるような口ぶりだったじゃない」

 秀が思い切り顔をしかめて、

「やだねえ、そういう女」

「まあまあ、中学生だから。可愛いもんじゃない。アナタを好いていればこそよ」

「そんな女に好かれたくないね。迷惑千万」

「バッサリ言うねえ」

「だってさ、好かれる側の迷惑ってもの考えたことある?」

 秀が真剣な顔で言う。

「好かれたくもないやつに好かれて、もらいたくもないのにチョコレートとかもらわなきゃいけなくて」

「なるほどねえ」

 学年一のモテ男の顔を見上げて微笑む。

「でも…、もらいたくなくても、ちゃんともらってあげたんだ。偉いね」

「そりゃまあ…。断ったりはさすがにできないだろ」

「結構いると思うよ、断っちゃう男子。『悪いけど』とか言って」

 現に、意中の人にチョコレートをもらってもらえなくて泣いていた子がいた。美術部の後輩。

「遠野はカッコいいだけじゃなくて、そうやって優しいからモテたんだね、きっと」

 目を細めて言うと、秀がちょっと赤くなった。

「なんか褒めてくれるね」

「率直な観察感想です」

 うふふと笑って、両手を後ろに組む。

 あーあ。中学の時に、遠野のことちゃんと知ってたらよかったのにな…。

 出かかったため息を押し殺す。

 ポジティブに考えよう。

 こうして、夢の中だか何だか知らないけど、遠野にまた会えてよかった。

 ちゃんと知り合いになれてよかった。

 廊下の向こう端に、顔を上気させ、ブレザーを脱いでワイシャツを肘まで捲り上げた悟と手打ち野球グループの面々が現れた。悟がこちらを認めて楽しそうに手を振る。二人も手を振り返す。

「もっと話したかったな。二十分なんてあっという間ね」

「そうだな。…泣かせてごめん」

「ううん。私こそあんな話聞かせてごめん。あ、泣いたってわかる?顔」

 秀が優の顔を眺めて微笑む。

「いや、大丈夫」

「あーメイクしてないと楽だわー」

「その言い方はちょーっとオバサンぽいかな」

「…スミマセン」


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