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Chap.8

Chap.8


 教室の並びを通り過ぎ、被服室や音楽室の前をぶらぶらと歩く。この辺はずっと人が少ない。

「さっきの岬さんと坂本の話。覚えてた?」

「なんとなく。言われてみればそんなことあったっけな、って感じ。あれ、どうなったんだっけ?」

「岬さんは家出して一ヶ月くらいして戻ってきて、坂本はその二週間くらい後に学校に来るようになったの」

「結局どこにいたの?」

「それは私も知らない。噂では、さっき瀬川さんが言ってたみたいに、坂本の知り合いのところにいたって言われてたけど」

 千葉だったとか神奈川だったとか埼玉だったとか、噂は色々だった。

「付き合ってたのかな、あの二人」

「んー、少なくとも私にはそんなふうには見えなかったな。学校でも一緒にいるの見たことなかったし…あのことの前も後も」

「そうか…。坂本って、三年の時同じクラスだったじゃん。あれで少し話したりするようになったけど、悪い奴じゃなかったよ。純粋に、友達として岬のこと助けてあげたのかもな」

「私もそう思う。…ねえ、高木先生が卒業式直前に急に入院しなきゃいけなくなって、式に出られなくなったの覚えてる?」

「…ああ、そういえばそうだったな」

「卒業式の練習があって、その後の帰りのホームルームで私達にそれを話して、『だからお前達とも…今日限りなんだよね』って言ったところで、先生泣いちゃって」

 秀が懐かしそうに目を細めた。

「そうそう、そうだった…。女子はみんな泣いちゃってさ」

「男子だって泣いてた子いたよ。でね、ホームルームの後、私、日直だったから、日誌渡しに職員室の先生のところに行ったの。少し先生と話して、お別れの挨拶して、そしたら私と入れ替わりに坂本が来た。あの人、あの日の卒業式の練習の時、赤い靴下履いてて怒られたのよね。で、私が二、三歩離れた時、背後で真面目な口調でこう言ってるのが聞こえた。『先生、俺、明日からちゃんと白い靴下履いてきますから』って」

 思い出すと今でも目がうるうるしてしまう。

「いい話じゃん。……あれ、七瀬って感激屋?」

「へへ、実はそう」

 潤んだ目をしばたたかせながら首をすくめると、秀がまた懐かしそうに目を細めた。

「あの日、七瀬が泣いたの初めて見たんだよな。泣いてた顔覚えてるよ」

 顔が赤くなる。

「やあねえ。覚えてなくていいです、泣き顔なんて」

「覚えてるもんなの、そういうの、男は」

「遠野クン、ロマンティストか何か?」

「男はみんなロマンティスト」

「そうかねえ」

 ゆっくり歩きながら秀が遠い目をする。

「坂本ってさ、高木先生と殴り合いの喧嘩しただろ。覚えてる?」

「覚えてる。あれは結構すごかったよね」

 確か三年の二学期だったと思う。掃除の時間だった。黒板の前で。どうやって始まったのかはわからない。掃き掃除をしていて、物音に驚いて振り向いたら、先生と坂本君が掴み合っていて、黒板の前の床にはぽたぽたと血が落ちていた。坂本君は背が高かったから、まるで大人対大人のように見えた。先生が坂本君を黒板に押し付けたところで、男の先生たちが二、三人飛んできて坂本君を拘束した。

「あの時、俺、鈴木先生に言われて、あいつと一緒に保健室に行ったんだよ。後で自分たちも行くから、とりあえず先に坂本を保健室に連れてっといてくれ、って。正直言って…情けないけど、ちょっと緊張してた。先生と殴り合いの喧嘩なんかする奴だし、まだ興奮してるみたいだし、いきなり暴れだしたりするかもとか、もし逃げたら俺の責任になるかもしれないから気をつけないととか思って、いつでも反応できるように身体を緊張させて身構えてた。でも坂本は普通におとなしく黙って俺の隣を歩いていって、保健室の近くまで来た時、『ごめん。迷惑かけて』って言った。『いや、そんなことないよ』って言ったら、あいつさ、『女子もいたのにな。怖がらせちゃっただろうな。申し訳ない』って」

「ひゃー、やだもう」

 慌ててポケットからハンカチを出して、溢れ出しそうになった涙を押さえる。秀が笑った。

「ほんとに感激屋だな。それともトシ?」

「失礼な。…今、どうしてるんだろうね…坂本も岬さんも。卒業してから会ったことある?」

「いや全然」

「私は双方一度ずつある。高一の時だから、はるか昔だけど。バス停でバス待ってたら、坂本が誰か知らない男子の自転車の後ろに立ち乗りして、向こうのほうからやってきたの。髪が金髪になってた。『坂本!』って手を振ったら、『お、七瀬さん!』って笑顔で手を振りかえしてくれて、そのまま通り過ぎていった。私の隣に立ってたおばさんが、私のほうを怪訝な顔して眺めて私からちょっと離れたのがおかしかったな。『この子もヤンキーの仲間なのかしら』みたいな感じで」

 五月だった。昼間の、空いたバス停。日差しがキラキラして、空気もキラキラしているような明るい爽やかな日だった。高校生活にまだ馴染みきれていなかった頃で、懐かしい顔を見て自分でも意外なくらい嬉しくて、思わず声をかけていた。中学時代はほとんど言葉を交わしたことがなかったけれど、向こうもこちらを覚えていてくれて嬉しかった。

「岬さんにはね、塾の帰りに会った。平日の夜。秋だったかな。塾の友達と少しでも長く喋っていたくて、二人してちょっと遠回りして自転車で帰ってたの。おしゃべりしながらゆっくり公園の入り口に差し掛かったら、賑やかにキャアキャア言ってるヤンキーっぽいのが三人くらいいて、わあ嫌だって思って目を合わさないように通り過ぎようとしたら、すごい大きな声で『あ、七瀬さーん!』って叫ばれて、びっくりして急停車。岬さん、ちょっと酔ってるような感じで——それともラリってるとか、そういうのかもしれなかったけど——『久しぶりー!元気ー?どうしたのこんな時間にー』って大きい声で。塾の帰りだって言ったら、『そっかー。大変だねー。偉いねー』って。暗くてよくは見えなかったけど、髪は相変わらず茶色くて、メイクして、大きなフープピアスしてた。一緒にいたのは私の知らない男子と女子だった…」

 四年生の時、一度岬さんの家に遊びにいったことがあった。確か、クラスで社会科か何かの発表を一緒にすることになり、その準備をするためだったと思う。

 いらっしゃい、とまず玄関で出迎えてくれたのは、気難しい顔をしたお母さんだった。眉間に深い皺が刻まれていて、口元が微笑んでいても目はにこりともしない。その目に値踏みされるようにじっと見つめられて、優はなんだか緊張した。

「七瀬さんね」

「はい」

「どうぞお上がりなさい」

「お邪魔します」

 脱いだ靴を床に膝をついてきちんと揃えると、お母さんは、まずは及第点、というふうに頷いた。

「お行儀がいいのね。七瀬さんは学級委員なんですって?」

「はい」

「お勉強もできるんでしょう。塾には行ってるの?」

「いいえ」

「まあそう。おうちでどんなお勉強をしてるの?」

 その頃やっていた通信教育の名前を上げる。

「そうなの…。難しくない?」

「いえ、そうでもありません」

「ピアノもやってるんですってね。どんな練習をしてるの?」

「ええと、ハノンとツェルニーとバッハとソナチネとブルグミュラーと…」

「ブルグミュラーは今何を弾いてるの?」

「『貴婦人の乗馬』です」

「まあそうなの。ちょっと弾いて聞かせてくれる?紗英ちゃん!降りてらっしゃい」

 二階から岬さんが降りてきた。

「七瀬さんにピアノを弾いてもらうから。もう『貴婦人の乗馬』を弾いてるんですってよ」

 居間に通され、ガラスケースに入ったビスクドールが上に置いてあるアップライトの前に座らされた。岬さんが、お母さんに言われて『貴婦人の乗馬』のページを開いて譜面台に載せてくれる。

 もう仕上げの段階に入っていてよかったと思いながら、それでもかなり緊張して『貴婦人の乗馬』を一応大きなミスなく弾き終えると、お母さんが岬さんに向かって言った。

「ね。同い年なのに七瀬さんはもうこんなに弾けるのよ。紗英ちゃんももっと練習しないとね」

 それから優にさっきよりも大きく微笑んで——眉間の皺のせいか、なんだか般若のような恐ろしい微笑みに見えた——、

「ありがとうね七瀬さん。これからも紗栄子にいろいろ教えてあげてね」

「はい」

 と返事をしながらも、でも今までも岬さんに何かを教えたことなんてないんだけどなあ…と思い、なんだか受けたつもりもない試験に合格したような、自由に通っていいはずの門を「通ってよし」と言われたような、妙な気持ちになったのを覚えている。

 「岬さんのお母さんて、一度しか会ったことないんだけど、すごい教育ママだったの。ちょっと異常なくらいだったと思う。だからあの頃は…岬さんがいきなりあんなふうになっちゃったの、わかるなあって思ってた」

「我慢も限度、ってやつかな。抑えつけすぎるのはよくないよな」

「うん…。でもね、実はちょっと、馬鹿なことするなあとも思ってたの。いくら親に反抗したいからって、あんなふうに自分の人生に…なんていうか、傷をつけちゃったりして。彼女、成績だってそう悪い方でもなかったのに、確か高校も受験しなかったと思うし。塾の帰りに会った後も、あーあ、あんなになっちゃって…って思った。人生台無しにしちゃって、って」

 秀が眉を上げる。

「今はそう思わない?」

「うーん…」

 宙を見上げる。廊下の突き当たりの窓の向こうに、まるで額縁に入った絵のように、黄色いイチョウの梢と四角く切り取られた十月の澄んだ青空が浮かんでいる。

「さっき、久しぶりに、多分大人になって初めて彼女のことを思い出して…、感じ方が違ったの。馬鹿だなあとは思わなかった。勇気あるなあって思った」

「勇気ね…」

 そう言って秀がちょっと笑った。

「でもさ、こういうとあれかもしれないけど、所詮中学生の家出だよ。決行したからって、大したアウトカムが待ってるわけじゃない。働けないんだから、結局大人が面倒見てくれるんだし、遅かれ早かれ連れ戻される。家に帰った後も、親に衣食住与えてもらって、義務教育も受けられて、そのまま暮らす。仕事がなくて家賃も払えなくてホームレスになる、なんてことはない。どうやって暮らしを立てていこうなんて考えなくていいどころか、料理も掃除も洗濯も親がやってくれる」

「じゃ、髪を茶色くしたりとか、ヤンキーみたいになったりとか、勉強を真面目にやるのをやめたりするのは?」

「そんなの…。勇気じゃなくてただの気まぐれっていうか、やめようと思えばいつでもやめられるだろ。いつでも元の真面目な自分に戻れる」

「うん…そうなんだけど、なんていうのかな…」

 二人して、自然に屋上に続く階段の方へ足を向けながら、優は言葉を探した。

「…彼女は多分、それまでのおとなしい、真面目な、親の言いなりのいい子ちゃんだった自分が嫌になった。変わりたかった。そう思う人はたくさんいると思うの。『変わりたい』って。でも実行できる人はなかなかいないと思わない?」

「髪の色変えるとか?そんなの誰だってできるだろ」

「あの頃の中学生だよ?しかもあんな気難しそうな、独裁者みたいなお母さんがいるのに、髪を脱色するだのパーマかけるだの、って、そんな簡単にできることじゃないと思う。あのお母さんがどんな反応したか、想像するだけでゾッとしちゃうよ。しかも外見だけじゃなくて、交際する人間たちも変えて、真面目に勉強するのもやめて…」

 言いたいことがなかなかうまく言えなくてもどかしい。

「なんていうか…、今まで私の周りにいた人で、変身っていうものをあれほどはっきり見せてくれた人って、他にいないんだよね。具体的な方法はどうあれ、とにかく彼女は変わりたいと思い、本当に変わった。あのまま我慢してれば、まあ安楽な、というか、少なくとも平和な生活が続いて、いい子ちゃんのままでいられて、普通に高校行って大学行って…っていういわゆる正統派な人生を生きられたのに、それを投げ捨てちゃった。もうこんな自分はやめたい!って思って、本当にスパッとやめちゃった。そこがね、勇気あるなあって。いい悪いは別にして。賢い選択だったか愚かな選択だったかも置いといて。その後どうなるかわからないのに、今持ってるものを捨てて知らない世界に踏み出すっていうのは、やっぱり勇気がないとできないと思う。……まあ、でも、そこは中学生だから、ただの考えなしだったっていう可能性もあるかもしれないけど」

 最後にそう付け加えて、肩をすくめてちょっと笑った。

 確かに、その可能性は否定できない。もうどうにも我慢できなくて、若い性急さでとにかく手当たり次第自分のできることをやっただけなのかもしれない。

 でも、その行動力を羨ましいと思った。

 彼女は、本当にやってのけた。

 屋上のドアの前で足を止めて、秀は優をじっと見た。

「七瀬…なんかあったのか?」

「え」

「変わりたいとか思ってんの?」

「あ、ううん、別にそういうわけでもないけど」

 心の中を見透かされたようで焦る。

「まあほら、なんていうか、よくあるあれよ、あれ、えーとほら、なんてったっけ、なんとかいう、えー…ミッドライフクライシス!そう、ミッドライフクライシスだ。ああいうようなのはちょっとあるかもね。トシもトシだし。いや、ちょっと早いかもしれないけど、でも、ほら、自分の人生、こんなことでいいのか!みたいなの。何か変えなきゃ!みたいな。」

 早口で思いつくままに言葉を並べた。ミッドライフクライシスどころか結婚に失敗して離婚寸前だなんて、絶対に知られたくない。

「…そうか」

 頷いて、秀は屋上のドアに手をかけた。

「あれ。開かない」

「そりゃそうよ。いつも鍵かかってたじゃない。自殺防止か何か知らないけど」

「そうだっけ。どうする?」

 優は階段に腰を下ろした。

「ここで話せるよ」

「誰か階段下に来たら、聞かれるぞ」

「小さい声で話せば大丈夫。普通の声で話したり笑ったりすると、階段下からでも声は聞こえるから、誰かいるなっていうのはわかるけど、ここね、反響するから、声は聞こえても、何言ってるかは全然わからないの」

 秀が苦笑しながら一段上に腰を下ろす。

「なんでそんなこと知ってるのかは、聞かないでおこう」

 優も首をすくめて笑う。

「まあ、色々あったから」

「…何があったの?」

「聞かないでおこうって言ったじゃない」

「そういう言い方されると気になるだろ。色々あったって何?」

「大したことじゃないよ…いや、割と大したことだったか」

 思い出すと笑ってしまう。

「あのね、一年生の時、香織が——大林香織ね——好きだった三年の高野先輩に、三組の福田さんが告白して、こっそり付き合い始めたの。抜け駆けしないって約束して、二人で高野先輩のファンやってたのに。香織はカンカン。福田さんは、そんなことしてない、付き合ってなんかない、って言い張ってた。で、ある日、二人が屋上の階段のとこで昼休みに会ってるっていう情報をキャッチした私達は、そうっと階段下までやってきて、二人の会話を盗み聞きしようとした…というよりは、まあ、時間になって二人が降りてきた時に、福田さんを糾弾する目的で、待っておりました。だから、ここでの会話が階段下ではどんなふうに聞こえるか知ってるというわけ」

「女子ってなあ…」

 秀は呆れた顔をしてみせてから、

「で、どうなったの?」

「修羅場でしたよ、それはもう。チャイムが鳴って、まず先輩が降りてきた。私たちを見て怪訝な顔をしたけど、そのまま二階に続く階段へ。そこへ福田さんが降りてきて、香織と口論になった。私と祥子は離れたところで見ていたから、二階へ降りていく先輩のことも見えたんだけど、先輩、階段の中ほどで一度立ち止まって、ちょっと耳を澄まして、…そしてそのまま行ってしまいました」

「あーあ。だめだねそれは」

「でしょ」

「抜け駆けするような女とお似合いだな」

 我が意を得たり。

「そう!私もそう思ったの、あの時。香織と福田さんは、掴み合いの喧嘩になっちゃって、香織は福田さんのほっぺたを引っ叩いて、二人とも泣いちゃって…。祥子と二人で、先輩が福田さんを庇おうともしないでさっさと行っちゃったことを話して、一所懸命香織を慰めた。それを福田さんの前でやったわけだから、私たちもものすごく意地が悪いよね。福田さん、どんな気がしただろうなあ…」

 テキのこととはいえ、大人になった今となっては、気の毒でため息が出てしまう。可哀想に。せっかく憧れの先輩の彼女になれて、パラダイスのような数日間だったろうに。

「ま、元はと言えば、その女が抜け駆けしたのが悪いんだし。まさに因果応報ってやつじゃない」

「ほんとにね。悪いことはするもんじゃないね」

「そいつら、どうなったのその後」

「別れちゃったみたいだったよ、やっぱり」

「そうだろうなあ」

 それにしても中学生っていうのは…やることが野蛮で容赦ない。

 自分も含めて。

 そこでがらんとした空間にチャイムが鳴り響いて、優はびっくりした。

「ええっ。もう昼休み終わり?」

「いや、今昼休みが始まったとこだろ」

「…ああ、そうか。今までは給食の時間の続きだったのね」

 ほっとする。それに嬉しい。昼休みは確か二十分あったはずだ。

「ねえ、遠野はいつからこの夢見てたの?やっぱり今朝から?」

「そう。今朝実家の自分の部屋で目が覚めたところから」

「どうして中二のこの時期を選んだの?学芸発表会前だから?」

「別に、特にこの時期を選んだってわけじゃなくて、ただ単に、七瀬と隣の席だった頃に戻ってみたかったんだよ。出席番号順でも隣で、教室でも隣で。いつも隣にいられた。でも、」

 苦笑して秀はため息をついた。

「不幸なことに、教室ではあいつがすぐ近くの席で、七瀬の注意はあいつに向きっぱなし。ああ、やっぱり世の中そううまくいくもんじゃないんだなって学んだ時だったね」

 重ね重ね、知らなかったこととはいえ申し訳ない。

「…辛かった?」

「少しは。でもまあそこは不屈の中坊だからさ、今に絶対振り向かせてやる!って思ってたよ。自信過剰だっての、まったく」

 自嘲するように小さく笑った秀の顔を見て、優は微笑んだ。

 そりゃ自信過剰にもなるよね。こんなイイ顔してるんじゃ。

 そう思った途端、心の中で赤くなる。理科実験室で秀が言った言葉が蘇る。オバサンが中学生の男子をカッコいいとか思うなんて…醜悪だ。

「そういえば、七瀬さ、ほんとにいいの?大っぴらに俺と一緒にいて」

「え?」

「付き合ってるとか噂されるぞ」

「全然構わないよ。楽しいもん」

 笑って本心から言うと、秀が眉を上げた。

「あいつにもそう思われるんだぞ。いいのか」

 優は肩をすくめてみせた。

「構わないよ」

「強がり」

「そんなことないよ。それに、ほんとの岡崎がここにいるわけじゃないんだもの。夢の中の登場人物っていうだけでしょ。遠野と私はほんとの遠野とほんとの私だけど」

 秀がからかうような流し目で見る。

「もしさ、ほんとの岡崎のこともこの夢に呼べるとしたら、呼んでほしい?」

「えっ」

 目を見開いて、うん!ぜひ呼んでほしい!と言おうと思ったけれど、妙なことに心が反応してこない。心が弾まない。

 変だな。なんだろう、この感覚。

「う…う…ん。そうでもない」

「またまた。ま、呼ぼうったって呼べないだろうけど。…やり方わかんないし」

「呼ばなくっていいよ。遠野と二人でいるのとっても楽しいもの」

 言った途端、なんだか花が開くように嬉しくなって頬が大きく緩んだ。

 本当だ。遠野と二人でいるの、とっても楽しい。

「ちぇっ」

 秀が楽しそうに笑って両手を頭の後ろに組み、宙を見上げた。

「なんで中学の時にこうならなかったかな。ほんっと人生ってうまくいかない」

「そうだね…」

 ジンセイッテ、ウマクイカナイ。

 ため息を押し殺して秀を見上げると、秀は両手を頭の後ろに組んだまま、ぼんやりと宙を見つめていた。

「a penny for your thoughts」

「え?」

「何考えてるの?って意味」

 秀はうっすら赤くなって小さく笑った。

「…中学の時にこうなってたら、どうだったんだろうなってちょっと考えてただけ」

「そうねえ」

 優もうふふと笑って宙を見上げた。

「学校から毎日一緒に帰って…、たまに一緒に勉強したりして…、遠野が部活で遅くなる時は私は図書室で勉強かなんかして待ってて…、私が部活で遅くなる時は遠野は…何して待つ?」

「まあ図書室で勉強だろうな」

「ええー意外!」

「なんでだよ」

「なんかそういうイメージじゃない。大島とかと無駄話してそう」

「勉強しますよ、ちゃんと」

「わかった。じゃあ、私が部活で遅くなる時は遠野は図書室で勉強して待ってて…、授業中、二人でウォークマンをイヤフォン半分こして聴いてるのを先生に見つかって怒られたりとか…」

「なんだそりゃ」

「遠野、授業中にウォークマン聴いてたことあったでしょ。ブレザーの内ポケットにウォークマン入れて、イヤフォンを袖の中に通して」

「ああー、やってたやってた!」

「あれ見て、私も真似してみたことあるのよ」

 秀が目を細める。

「あいつのことだけじゃなくて、俺のこともちょっとは見てたんだ」

「へへ、まあね。あとは、そうだなあ、修学旅行ではバスだの新幹線だのでもちろん隣の席に座って…、ツーショットの写真もいっぱい撮って…、夜は先生たちの監視を潜り抜けて二人で外に出かけちゃったり…」

 秀が目を丸くする。

「そんなことするか?」

「誰かしなかったっけ?…いや、あれは高校だったか。それやったカップルがいてね。戻ってきたところを先生に見つかっちゃって、大目玉だったのよ」

 先生が大騒ぎだった。我が校の名誉に傷をつけたとかなんとか。みんなで馬鹿馬鹿しいって笑ったっけ。

「中学じゃやっぱりちょっと無理かもね。じゃあ、夜デートはなしだけど、自由時間はもちろん一緒にお寺とか廻って、一緒にお団子食べてアイスクリームも食べて…、そうそう、お土産屋さんでお揃いのキーホルダー買ったりもするの。体育祭ではもちろんハチマキ交換して…、卒業式でもネクタイ交換して…、高校は同じところに行って…、デートは、そうだなあ、ディズニーランドとか水族館とか行ったり…、映画なんかは絶対行かないの。せっかく一緒にいられる時間がもったいないから」

 にこりとして秀を見上げる。

「でもその辺りで倦怠期になって、お互い部活とか勉強とかで忙しくなって、大学は結局別々のとこ行って、なんとなく自然消滅、とかなったのかもしれないね」 

 秀が大袈裟にがっくりして呻き声をあげる。

「せっかく幸せな想像だったのに…、なんでそうやって台無しにするかな」

「だって、人生はうまくいかないから」

「うまくいってないの?」

「遠野が言ったのよ、さっき。『人生ってうまくいかない』って」

 真面目な顔をして秀を見る。

「何かうまくいってないことあるの?」

 秀が微笑する。

「そうでもないよ。好きな仕事してるし、勉強するのも楽しい。稼いでる類の医者に比べたら無茶苦茶薄給だけど、自分一人だけだから別に困らない。ただ…、まあこんな俺でも、そろそろ『妻』とか『子供』とかいうものに対する憧れみたいなものが少ーし出てきてて、でもそっちの方はどうもそう簡単にはいかなそうだなとは思ってるけど」

 優は目を丸くした。

「簡単にはいかなそうなの?どうして?」

 イケメンの医者なんて、引く手あまた、というか、奪い合いになりそうだけど。

 秀は深いため息をついてみせた。

「七瀬のせいに決まってんだろ」

「えっ」

「トラウマ」

「…」

「正直に言うけど…結構さ、あれ、きつかったわけよ、やっぱり」

「…」

「あれ以来、ろくな恋愛できてないし」

「…」

 なんと言っていいか言葉も出ないで俯く優から顔を背けるようにして、秀は続けた。

「あんな昔のことで…って自分でも情けないけど、まあ心理的なことっていうのは急ぐのもよくないし」

 秀が唐突に言葉を切ったので、はっとして優が顔を上げたのと、秀が笑い出したのは同時だった。

「あーだめだ、こういうの」

「……」

 強張った表情で固まっている優を見て、新たに吹き出す。

「嘘嘘。ごめん」

「……」

「悪い。本気にした?」  

「したよ」

 憮然として言うと、秀はちょっと表情を改めた。

「ごめん。嘘だよ。トラウマになんかなってないから。大丈夫だから」

「ほんとに?」

「ほんとに」

 安心させるように頷く秀を見上げた。じっと目を見る。本当のことを知りたい。

「私だったら…あんな目に遭ったら絶対トラウマになるよ。立ち直れない」

「立ち直れるよ」

 秀が片目をつぶらんばかりの爽やかさでにこりとする。

「人間って結構丈夫にできてる。そりゃショックなことがあったり、傷ついたり、生きてれば色んなことがあるけど、意外とさっさと立ち直れる」

「そう?」

「そう。引きずるか引きずらないかは、各自の選択。引きずらないって決めてその通り実行すれば、ちゃんと立ち直れるもんだよ」

 胸がちくりと痛む。

 各自の選択。

 引きずらないって決めてその通り実行。

「…引きずらないっていうのは、忘れるってこと?」

「それとはちょっと違う。忘れるってのは無理だろ。脳は優秀。そう簡単に忘れさせてなんかくれない。記憶はちゃんと残ってる。要はその記憶にどれだけ力を…支配力を与えるか。そこは自分次第だね。嫌な記憶に振り回されるのは、自分がそれを許しちゃってるからだろ」

「…そうだね」

 優は小さく笑った。

 秀の言う通りだ。

 自分次第。私次第。引きずってしまった自分が悪い。振り回されてしまった私が悪い。よくわかっている。

 でも、努力はしたのだ。引きずらないように。振り回されないように。

 ただ、それがなんのためだったのか、もうわからなくなってしまったのだ。

「で?」

 秀が頬杖をついて優を見る。

「え?」

「何があった」

「えっううん、何も…」

 何もないよ。っていうかまあちょっとしたこと。大したことないし、ま、こんなことたくさんの人が経験することだと思うから。

 続けようとしたそれらの言葉は、口の中どころか喉にも届かないで消えてしまった。代わりに深いため息が出る。

「うーん、トシだねえ」

 とりあえず笑って言ってみた。

「強がり言うには、若いパワーが要るらしい」



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