Chap.7
Chap.7
授業が終わり、みんなに混ざって廊下に向かって歩き出しながら、秀がつぶやいた。
「次は…給食か」
「給食!」
ノートや教科書を抱きしめてうっとりした顔をしてみせた優に、秀が吹き出した。
「そんなに楽しみ?」
「楽しみー!メニューはなんだろう」
「献立っていうんじゃなかったっけ」
「それそれ!献立!わー懐かしい」
「牛乳がさ、瓶なんだよな」
「そうそう!キャップは紙で。爪切ったばっかりだとなかなか開けられなくて」
「そう!でさ、早目に飲んどかないと、先に飲み終わった奴らが変な顔とかして笑わせてきて、なかなか飲めない」
「そうだったねえ。…あ、給食の匂いがする!」
廊下に出ると、あの懐かしい匂いが漂っていた。温かい食べものと清潔な布巾の混ざったような匂い。恍惚となる。
「懐かしい…」
「そうだな」
「なんか泣きそう」
「給食で?マジですか七瀬サン」
「うん、なんかね、こういう食べものに飢えてる感じがする」
「カナダって食べもの不味いの?」
「失礼ね。料理するのは私だもん」
秀がニヤニヤする。
「料理できるようになったんだ」
「?普通にできるけど?」
「味噌汁蒸発させちゃった七瀬がねえ」
「……」
記憶のうんと底の方で、何かがぽん!と弾けて、そこから出た煙がゆっくりと記憶の表層部分に向かって立ち昇ってくる感じ。
味噌汁蒸発させた…?
「一年の調理実習の時」
あ!
「あれは!あれは違うもん!」
顔が真っ赤になる。
「何が違うんだよ。蒸発させたんだろ」
「だから!あれはね、分量を間違えたの!」
早口でひそひそしゅうしゅう説明する。
「いつもはあの先生、黒板に四人分の分量を書いておいて、私たちに写させてから、各自に計算させて一人分の分量を出させて、それもノートに書かせてたの。今思えば授業の時間稼ぎよね。そんなものいちいち計算させるなんて。しかも手計算だよ?馬鹿馬鹿しい」
考えると腹が立つ。本当に先生たちは(少なくとも何人かの先生たちは)せこい手を使って時間稼ぎばっかりしていた。
「なのに、あの日、男子が一緒に調理実習やった日は、最初から一人分の分量が黒板に書いてあったの。でも私はいつも通り四で割ったのを書いちゃって。で、いざ実習になったときに、お鍋に入れた水の量があんまり少なくて、『…絶対何か変だ』って思ったの。だって、40ccくらいよ?でも先生が早く始めろ、時間がないから急げ、って言ってるし、変だ、こんなはずない、って思いながらも焦ってそれを火にかけちゃったの!それに蒸発なんかさせてないもん。っていうか、そりゃちょっと蒸発しかけたけど、その前に水足したもん!大体さ、実際の生活の中でお味噌汁を作るときに、一人分、160ccのお味噌汁をお鍋で作る人なんている?!変よ、あんな授業!」
「いや、わかったから。よーくわかったから」
まくし立てる優を、秀がどうどうと宥める。
「ちょっと待って。あれ一年生の時でしょ。なんで遠野が知ってるの?!」
「そりゃまあ…ちょっと有名な話だったからさ」
「ええっ!」
「シーッ!声大きいって」
「有名?!」
「落ち着けって。ちょっとって言ったろ」
「ちょっとってどういう意味?」
「まあ…例えば俺は部活でその話をある一人の男子から聞いたんであって、学年中の噂になってて嫌でも耳に入ってきたっていうことではないって意味」
ある一人の男子。部活で。
「…それって、もしかして」
「ご想像通りかと思われます」
「……嘘ぉ」
あの調理実習の時、雅也は同じ班ではなかった。近くにもいなかった(いたら恥ずかしくて死んでしまったに違いないので——少なくとも失神したに違いないので——覚えているはず)。それなのに、雅也があのことを知っていたということは、少なくともクラスの中ではあの話が広まったということだ。
「私がお味噌汁蒸発させた、って言ったの?岡崎が?」
「うん」
愛しの君に、初めて苛立ちのようなものを覚える。
「信じられない。意外と頭悪いよね、岡崎も。あんな短時間で160ccが蒸発するわけないじゃない。しかも蒸発したのは…しかかったのは、水であってお味噌汁じゃないしね。false reportもいいとこだわ。失礼しちゃう」
鼻を鳴らすと、秀が苦笑した。
「まあまあ。もう昔のことだしさ」
のんびり言われて余計カッカしてしまう。
「そういうふうに思われてたわけ?私って。『味噌汁蒸発させちゃう女』みたいな」
「別にそんなことないだろ。そういうことがあった、ってだけでさ。…ま、インパクトある肩書きではあるなあ。『味噌汁蒸発させた女』って」
おかしそうにくつくつ笑う秀を、優は睨みつけた。
「ほんっと失礼ね」
「うーん、俺が中学の時に好きになったのは『味噌汁蒸発させちゃった女』…」
「させてません!…あっ」
なんと向こうに見えるのは、家庭科の教師ではないか。
「睨むな睨むな」
「昔から好きじゃなかったんだけど、一層腹立つわ。ね、これって遠野の夢なんでしょう?」
「多分な」
「じゃ、先生のとこ行って、『授業中のくだらない時間稼ぎはやめて、もっとちゃんと役に立つ授業をしたらどうなんですか!』って言ってもいい?『給料ドロボーで訴えますよ!』って」
「そりゃいいけど。でも時間もったいなくない?」
「……そうだよね」
常識的な大人の意見に、すうっと怒りが鎮静して、今度は恥ずかしくて顔が赤らむ。
「……ごめん、なんか騒がしくして。大人気ない」
「いやいや、楽しいよ」
秀がにこにこする。
「こんなふうにさ、昔も喋れればよかったのにな」
「ほんとね。ね、今度現実でも会おう?日本帰ったら」
「帰ってくんの?」
「うん。まだいつかは決めてないけど、そのうち。千葉のどこ?」
「千葉市」
そう言って、秀はため息をついた。
「…覚えてられるのかな、このこと」
「え」
「七瀬、夢覚えてるほう?」
「……あんまり」
「俺も」
優は心臓が爪先くらいまで落っこちたような気持ちになった。
覚えてられないの?これを?
忘れちゃうの?
「…やだそんなの。忘れたくない」
頭の中がぐらりとして、急に周囲のざわめきが大きくなったような気がした。
たくさんの話し声。たくさんの笑い声。たくさんの足音。
懐かしい給食の匂い。
床の色。上履きの色。制服の色。
「…まあそれは、コントロールできることじゃないから、仕方ないな」
すぐ隣で聞こえる秀の声。
嫌だ、とぐるぐる回る頭の中で、自分でも驚くほど強く思った。
絶対嫌。忘れたくない。絶対に忘れたくない。
何かにすがりつきたいような気持ちになって、授業道具一式をぎゅっと抱きしめた時、秀の声が明るいトーンを帯びて響いた。
「覚えてられなくても構わないって思えるくらい楽しめばいい」
ふうっと五感の焦点がまた戻ったような気がした。
覚えてられなくても構わないって思えるくらい楽しむ…。
柔らかく力が抜ける。
「…そんなふうに考えたことなかった。でも、そうだね。ほんとにそうだね」
秀を見上げる。
「遠野、いいこと言うね。さすが」
秀がちょっと照れた顔をする。
「いや、それほどでも」
その照れた笑顔に、なんだか妙に温かい気持ちになって微笑む。
「ね、でも覚えてられたら、会おうね!」
「おう。Facebookとかやってる?」
「うん。書いたりはもう全然してないけど、アカウントはある。遠野は?」
「俺も。覚えてたら探すよ。あ、苗字は?」
「元のままにしてある」
ふと気づいておかしくなる。
「ここにいるみんなは、Facebookなんて知らないんだよね。Twitterもインスタも」
秀も笑う。
「そうだなあ。ネットもメールもスマホも知らないわけだ」
「歌の歌詞がわからなかったり、『あの俳優の名前なんてったっけ』って時も、この時代だと調べられなかったのよね」
「そうそう!気になってしょうがなくても、どうしても思い出せないし、誰に訊いてもわからないし、調べようもないし」
「ほんとに色々なことが変わったよね…」
階段を上り始め、踊り場の方をちらりと見上げると、ちょうどそこにいた雅也と、またばっちり目があってしまった。踊り場の窓からの光が眩しかったのもあって、今度は優が慌てて目を逸らす。
「遠野、今日部活あるの?」
「今日は…火曜か。どうだったかな」
ニヤリと笑う。
「なに、久々に誰かさんの弓道着姿が見たいわけ?」
「ううん。…いや、正直に言えば、それもちょっと気になるけど、でも、部活ないんだったら、遠野と放課後もっと話せないかなって思って。せっかく会えたんだし。だっていつ夢が終わっちゃうかわからないんでしょ?」
秀はちょっと驚いたように目を見開いた後、嬉しそうにふわりと笑った。その笑顔に優は思わずどきりとした。
「いいよ、部活なんて。俺が会いたかったのは七瀬だから」
これが本当に中学生の時だったら、『好きな人』というタイトルが、雅也の頭上から秀の頭上へ移っていたかもしれなかった。
その日の給食の献立は、コーンクリームシチューとミルクパンとサラダとフルーツゼリーだった。給食は机を動かして、四人または六人の班になって食べる。おかげで残念なことに秀と二人の内緒話はできなそうだけれど、それはそれで、本当に中学生に戻ったような気持ちになれて楽しい。放送委員のチョイスによる音楽がスピーカーから流れていて、それらも涙が出そうなくらい懐かしい。
トレイを持って配膳台のところに並ぶ。白衣と帽子をつけた給食当番の面々。何人か前に並んでいる上野紀之が、
「えー少ないよ。もうちょっとちょうだい」
「もうちょっと、もうちょっと」
と、コーンクリームシチューのところでねばっている。
隣に並んでいる秀と目を見合わせて、二人して笑いを堪える。
そういえばよくあったなあ、こういうの。
中学生になってからはずいぶんマシにはなったが、小学校高学年時代においては、給食当番の時、何かをよそう係になるのは恐怖と言ってもいいくらいだった。
パンだのゼリーだのトマトだのバナナだのならいい。誰も文句は言わない。各自一つずつだ。でも、運悪く、シチューだのカレーだのスープだのフルーツヨーグルトだのの係になってしまうと、一部の男子に「もうちょっとよそって」とねだられたり「少なすぎる」と文句を言われたりするので心の底から嫌だった。
本当に、一部の男子達のあの食べ物に対する執着心というのはすごかった。育ち盛りだからなのか、家でろくなものを食べさせてもらっていないのか、それともただ単に競争心からなのかわからないが、少しでも他の子より多くよそってもらおうとするし、お代わりにかける情熱もものすごい。先生が「お代わりしたい人はどうぞ」と言うのを、目を爛々とさせ、椅子の端に座って身体を配膳台の方に向け、今か今かと待っている。そして先生が口を開くなり、猛ダッシュで配膳台のところへすっ飛んでいく。気をつけていないと、いや気をつけていても、教室の後ろの方の席から走ってくる男子の腕だの肘だのが頭に当たったりする。
誰かお休みの人がいてゼリーだのプリンだのが余るとじゃんけんによる争奪戦になるが、はたから見ていると、賞品はアラジンの魔法のランプ?それともドラえもんの四次元ポケット?と思うくらいの真剣さだ。
まあ、本当に飢えていて…というよりは、おそらくゲーム的な要素が強かったのだろうとは思う。とはいえ、
「山ちゃんのほうが、俺より多いじゃないかよお」
なんて言ってカレーうどんを前においおい泣いた阿部君や、お代わりにありつけなくて癇癪を起こして配膳台を蹴飛ばして足の指を骨折した後藤君は、奇天烈な人として優の記憶の中にくっきり残っており、折に触れては、今頃どんな大人になっているだろう、立派な社会人になって、良夫賢父になっているかしら、などと考えてくすくす笑ってしまうのだった。
「いただきます」の挨拶の後、まず懐かしの牛乳瓶を手に取る。赤いテープを取り、薄紫色のセロファンを取り、紙のキャップのふちに爪を立てる。昔はちっとも気にならなかったけれど、大人になった今となっては、ここで手がきれいじゃないと絶対にだめだなと思ったりする。飲み口の辺りをベタベタ触ってしまうわけだから。
蓋を開けたところで、向かいに座っている秀と目が合った。
再会に乾杯。
二人してちょっと牛乳瓶を上げてみせて、瓶に口をつける。懐かしい、丸い感触。
空になった牛乳瓶を口の周りに密着させて、息を吸いこんで持ち上げたりする男子がいたっけ。そうすると口の周りが赤くなって変な顔になるのだ。思い出して笑いそうになる。
ワクワクしながらコーンクリームシチューを口に運ぶ。
ああこの味!
「うーん!」
とグルメ番組のリポーターよろしく盛大に唸りたいのを我慢する。
どうして、どうしてこんなに懐かしいんだろう!
とびきり美味しいとか、そういうのとはちょっと違う。刺激されているのは、味覚よりも、心と頭が交差する奥のほうのどこかだ。
大人じゃなかった頃の味。保険だの税金だの収入だの老後だのなんて関係ない世界の住人だった頃の味。
また秀と目が合って微笑み合う。なんの変哲もない給食を食べてこんなふうに満面の笑みを浮かべて、側から見たらさぞ怪しく見えるだろうなとちらりと思ったけれど、どうしても笑みを抑えることができなかった。
「あ、ねえ、そういえばさ、ここだけの話なんだけど、坂本と岬さん、ほんとに一緒にいなくなったらしいよ」
パンをちぎりながら、同じ班の瀬川麗奈がひそひそ言った。麗奈の向かいに座っている伊藤宏樹は
「えっ、マジ?!」
と誠に適切なタイミングで適切な反応をしたけれど、秀は一拍遅れて、
「…ほおー?」
と間延びした声を上げ、優はやはり一拍遅れて
「…ああー!」
いかにも「ああ、あのことね!」と言わんばかりの反応をしたので、麗奈はちょっと変な顔をした。優は慌てて、
「どうしてわかったの?誰かが目撃したの?」
と続けた。
岬さんは優と同じ小学校だった。三、四年生の時同じクラスだったのだけれど、おとなしやかで目立たない、静かな感じの子だった。可愛い柴犬の絵のついた筆箱を持っていて、優がそれを褒めると、今はお母さんがだめだというから犬が飼えないけれど、大人になったら柴犬を二匹飼うんだとはにかんだような笑顔で話してくれた。
その岬さんが、中二の二学期からいきなり髪を茶色く脱色して、しかもパーマをかけてきた。制服のスカートも校則で決められている膝下よりも短くし、話し方も前よりずっと賑やかになり、休み時間や放課後も、『ヤンキー』と呼ばれているような生徒達と一緒にけたたましい笑い声を上げるようになった。
そして十月の初め頃だっただろうか、岬さんは学校に来なくなり、どうも家出をしたらしいという噂が広まった。そして更に、『ヤンキー』の坂本君もこのところずっと学校に来ていない、もしかして岬さんと一緒なんじゃなかろうか、という憶測が学年中を飛び回っていたのだ。
坂本君は、一年生の二学期の半ばという中途半端な時期に、隣町の悪名高い中学校から転入してきた。背の高い、髪の毛をツンツンに立てた子で、眉を剃って、太いズボンを履いて、ネクタイの芯を抜いて細くしていた。転入初日に黒いベンツに乗ってきたとか、父親がヤクザだとか、その辺が本当かはわからないが、学校近くの新しい大きな家の駐車場には、ベンツをはじめとした高級車が四台くらい並んでおり、若い継母と、まだ小さい半分血の繋がった弟と妹がいた。
特に悪い態度をとるわけでもなく、誰かをいじめたりするわけでもなく、怖い見かけによらず割とフレンドリーな子だった。三年生の時に、一度担任の先生と殴り合いの喧嘩になったことと、英語の先生の脚を蹴って怪我をさせたことの他には、大して騒ぎも起こさなかったが、そうそう、この家出事件があった。
「ううん、昨日田村に聞いたの」
田村君というのは『ヤンキー』仲間の一人だ。運動部でもないのになぜだかいつも日焼けしていて、女子に結構人気があった。
麗奈は声を低めて、三人に重々しく言い渡した。
「田村が誰にも言うなって言ってたから、絶対他の人に言っちゃダメだよ」
こうやって、「誰にも言うな」と言われた秘密はどんどん拡がっていく。
「あのね、岬さんが家出したいって言ったんだって。家出したいけど、でも行くとこがないって。自分の親戚のところになんて行ったら、親にすぐ連れ戻されちゃうし。それで坂本が自分の知り合いに頼んであげるって言って、一緒に行くことになったんだって」
優の記憶が正しければ、確か岬さんは一ヶ月くらいして戻ってきた。坂本君はその後さらに二週間くらいして学校に顔を出すようになった。何があったのか優は何も知らない。ただ、二人は——少なくとも学校では——特に親しくしているようなところを目撃されることはほとんどなかった。
「…それさ、親とか先生とかにちゃんと言ったほうがいいんでないの」
宏樹が至極もっともなことを言った。
「うん、私も田村にそう言ったんだけどね。でも坂本に絶対言うなって言われてるからって」
麗奈が優を見る。
「優ちゃん、岬さんと小学校同じだったよね」
「うん。三、四年で同じクラスだった」
「小学校の時ってどんなだった?岬さん」
「おとなしくて目立たない感じだったよ。どっちかっていうとお嬢さんぽくって」
「そうだよねえ。私もさ、去年同じクラスで、おとなしい子って思ってたから、びっくりしたよ。髪あんなにしちゃってさ。喋り方まで変わっちゃって…。何があったんだろうね」
「坂本の知り合いっていったら、やっぱりやばい人たちなんだろうな。ヤーさん関係の」
宏樹が言う。
「そうとも限らないんじゃないの。親戚とかさ」
秀が言うと、宏樹が素直に頷く。
「ああー田舎のおばあちゃんとかね。なるほどね。それなら安全かも」
「でも、そんなとこに行ったら、すぐ家に連絡がいって見つかっちゃうんじゃない?」
と麗奈。
「いや、ほら、」
宏樹が声を落として、
「…坂本のさ、本当のお母さんの方の親戚とかだったら、もうあんまり繋がりがないかもしれないじゃん」
「ああ、そうか、そうだね。なんかドラマみたい!ねえ、坂本の本当のお母さんて、生きてるのかな」
麗奈が言うと、宏樹が物知らずの子供を見る大人のような顔をした。
「んなわけないじゃん。だって継母がいるんだろ?本当のお母さんが、その、死んじゃったからじゃん、継母が来るのはさ」
「離婚したのかもしれないじゃない」
「……」
宏樹が口を開けたまま黙り込み、他の三人の視線が宏樹に集まった。宏樹の目がだんだん丸くなっていく。「目から鱗」の表情。
「…ああ……そうか…。俺、継母って、本当のお母さんが死んじゃったからくるもんだとばっかり……。離婚でもくるのか…。そっか。そりゃそうだよな…」
優は秀と目を合わせてちょっと笑った。
こうしてみんな少しずつ大人になっていくんだよね。
「まあ、昔のお話はみんなそうだもんね。本当のお母さんが死んじゃったから、継母がくるんだよね。シンデレラとか白雪姫とか」
まだ呆然としている宏樹に優がそう声を掛けると、宏樹は勢いこんでうんうんと頷いた。
「そうそう、そうだよね。鉢かつぎ姫とかさ」
「鉢かづき、ね」
優が訂正すると、
「鉢かぶり姫のこと?」
と秀。
「何それ?」
と麗奈。
宏樹が口を尖らせる。
「鉢かつぎ、でしょ?だって鉢を頭に担いでたんだからさ」
「ああ、それはね、『かづく』っていう言葉があって、被服の被っていう字で『被く』、で、頭に被るって意味なんだって。だから『鉢かづき姫』。もう少し現代風にタイトルを変えたのが『鉢かぶり姫』」
宏樹が目を丸くする。
「へええ。よく知ってるねえ、七瀬」
「古文の時間に、いや、あれは日本史の時だったかな、先生が言ってたの」
「?」
妙な沈黙にハッとなる。しまった!
「あ、っと、んっと、ネットで、じゃなくて、えーと、なんだっけ、そう、youtube、いや違う、えーとえーと、そう、テレビ!テレビの、えーあれはなんていうんだっけ、そうだ、教育テレビの番組でそういうのがあってね」
手をバタバタさせながら汗をかきかき説明すると、
「ああ、『古文の時間』ってやつね。もう終わっちゃって、ビデオ出てるシリーズじゃなかったっけ?うちの親が見てたような気がする」
秀が笑いを堪えながらフォローしてくれる。
「そ、そうそう。うちのお父さんも見てて。同じシリーズで日本史の授業みたいのもあって、面白かったからちょっと一緒に見たの」
「へえーそうなんだ。優ちゃん勉強家だねえ」
麗奈が素直に感心したように言った。
「ねえ、それでその鉢かづき姫ってどんな話?」
宏樹の説明に秀と二人で時折補足や訂正を入れたりしながら、優は不意に胸がいっぱいになった。
食べかけの給食。牛乳の半分入った牛乳瓶。明るい教室。クラスメイトたちの声。窓の向こうに見える空。黒板の上のスピーカーから流れてくるプリプリ。
信じられない。
もうここから何十年も遠くに来てしまったなんて。
もう本当はここにいないなんて。
「いただきます」はクラス全員でするけれど、「ごちそうさま」は各自だ。食べ終わった者から、食器を返してプレ昼休み。
「なんだよ、さっきの」
二人で食器やトレイを配膳台の上に返しながら、秀がくすくす笑う。
「何よ」
「七瀬ってさ、パニックになるのな」
「…そうなのよ」
赤くなってため息をつく。
「ほんとにだめなの、ああいうシチュエイション。落ち着いてすらりと状況を修正できないんだよね。慌てちゃうの。だから医者には向かないわけ」
なんとなくそのまま二人で廊下に出て、並んで窓の手すりに寄りかかる。水が入ったままのプールが見える。毎年冬には鴨の夫婦がやってくる。
「医者になりたかったの?」
「ううん、まさか。なれるような人間だったらよかったなあってちょっと思ったことがあるだけ」
「あのぉ」
後ろから遠慮がちな声がかかった。悟が立っていた。
「お邪魔して悪いんだけど…、遠野、今日はパス?」
派手なピンクの小さなボールを掲げてみせる。
「ああ…、うん、そうだな、悪い。そうさせて」
「オッケーオッケー。んじゃっ」
90%の冷やかしと10%の戸惑いが混ざったニヤニヤ顔で片手をあげると、悟はちょっと離れたところに立っていた何人かの男子達と一緒に急ぎ足で立ち去った。
「いいの?なんかのゲームなんでしょ?」
「手打ち野球だな。いいんだよ、俺は七瀬といたいんだから」
直球ストレート。
「そんなふうに言われると、くらっとくるよ」
「はは。中学の時にそうしてみるんだったな」
ちらりと視線を動かした秀が声をひそめる。
「七瀬こそいいの?女子といなくて」
「ん?」
振り返ると、教室の中からこちらを窺うように見ていた晴美と祥子と目が合った。にっこりしてちょっと手を振ると、二人も戸惑ったような笑みを浮かべて、おずおずと手を振り返した。
「いいのよ。私も遠野と話したいもの。でも、ここだと結構話聞かれちゃいそうだね」
「校内散歩に行くか」
「そうだね」
寄りかかっていた手すりから身を起こし、ぶらぶらと歩き出す。あちこちから遠慮のない視線が飛んでくる。特に女子からの視線が痛い、ような気がする。
「うーん、学年一のモテ男と噂されるっていうのは、怖いね。靴に画鋲入れられたりとかするのかな」
秀が目を丸くする。
「そんなことすんの?女子って」
「実際にしたとかされたとかっていうのは知らないけど、漫画か何かに出てきたような」
「怖えー」
「実際に聞いたことあるのは、もっとシンプルに、上履き捨てられたとか隠されたとか、鞄につけてたキーホルダー壊されたとか、鞄に傷つけられたとか、教科書破られたとか、置き傘壊されたとか」
「…女子ってインケンだよな」
「でも男子だってそういうことしない?イジメで」
「ああ…まあな。確かにそういう話は聞いたことある。でも、誰かがモテる女子と一緒に歩いてたからとか、そういう理由ではさ、男はしないよ、そういうこと」
「そういう時、男子はどうするの?自分が好きな女子とか憧れてる女子が、ある男子と仲良くしてたら」
秀は笑って肩をすくめた。
「なんもしないだろ。ただ腹ん中で『くっそー』って思うだけだと思うよ」
「『だと思うよ』ってことは、遠野はそういう経験ないんだ」
「ないね。…ま、例えば七瀬がアイツと付き合いだしたりしてたら、なんかしちゃってたかもな。弓道部だし。事故を装って…」
矢を射るジェスチュアをする。
「まさかあ」
笑いながら、優はふと思い出した。
——オリオンは、アルテミスに射たれて死ぬのよ。
——そうなの?…そうか。なんか切ないね。
あの会話を交わしたのは、秀とだった。