Chap.6
Chap.6
黒板の上にかかっている時計をちらりと見ると、授業開始から二十五分経っていた。先生はと見ると、室内の喧騒をよそに、黒板の前の大きな机のところで何か書き物をしている。呆れたものだと思うけれど、まあ、かえって好都合だ。ふと思いついて、秀に尋ねる。
「ねえ、これも遠野がコントロールしてるの?」
「え?」
「こんなふうに、みんなはがやがやしてて、先生はあんなとこで書き物してて、っていうふうに。私たちが話しやすいように」
「うーん、それはないと思うけど…」
「なんだ。わかんないの?」
秀が苦笑する。
「俺だってこんなの初めてだもの。でも少なくとも、自分が状況を都合よくコントロールできている、っていう感覚はないな。それだったらもっと簡単に、自習とかにしてると思うし、一限とか二限とかからそうしてるよ」
「そっか…。じゃあ、これが、つまりこの夢というか、この状態がいつまでもつかもわからない?」
「わからない。でも、そんなにすぐ終わるって感じはしないな」
優は祈るような気持ちで身を乗り出した。
「数日くらいこんな風にしてられる?」
「さあ…。そこまではわからないよ。でも例えばこの授業が終わったらもう夢も終わり、とか、そんなすぐではないっていうのはなんとなく感じる」
「終わりそうになったら、ちゃんと教えてね」
「了解。ま、突然ぶつっと切れたりはしないだろうから、安心してあいつ眺めてていいよ」
言われて優は思わず雅也のいる方——実験室の前の方——に目をやった。すると、なぜかこちらの方を見ていた雅也とバチッと目が合った。
どきっとする。
一瞬後、雅也はちょっと慌てたようにふいっと目を逸らせて、テーブルの上に屈みこみ、優の視界から消えた。
目が合っちゃった。こっち見てた。いやーん。
嬉しくて顔がにやける。
秀が眉を上げる。
「なに」
「目が合っちゃった」
えへっと笑って言ってから、たちまち後悔する。
しまった。
「ごめん」
「いいよ別に」
秀がくすくす笑って頬杖をつく。
「なんていうか、こういうのもさ、妙な楽しさがある。あの頃は、七瀬があいつに見惚れてたりするの見たくなかったけど、今はなんていうか…微笑ましいって感じで」
余裕のある笑顔でそんなことを言われて、顔が赤らむ。
「…それは、どうも」
「いつから好きだったの、あいつのこと」
「入学式の日」
即答すると、秀が目を丸くした。
「マジ?もしかして一目惚れってやつ?」
「そう。式の始まる前に、教室で。見た途端、あ、あの人好き、って思った」
「へええ」
秀が感心したのと呆れたのの間のような声を出す。
「じゃ、完全に見た目か。顔で好きになったんだ」
「ううん、それはね、絶対違うと思う」
きっぱり言う。
「だって、写真じゃないもの。黙って立ってたんでもない。横の黒板のところに立ってね、誰かと喋ってたの。そういうのって、顔だけじゃなくて、表情とか雰囲気とか身振りとか話し方とか姿勢とか…結構色々わかるものだと思う」
「んー、まあな、そうかもな」
照れくさいけど、この際だ。訊いてみよう。
「遠野は?いつから私が好きだったの?」
「一年の時のマラソン大会」
秀も即答した。
「マラソン大会?」
何かあったっけ。優は内心首を捻った。
「一緒にゴールのところでさ、係の仕事したじゃん」
「…ああ…」
軟骨炎になって、それがなかなか治らなかったのをいいことに、一年生の時のマラソン大会は出場しなかったのだ。それで、ゴールのところで、他のやはり出場しなかった生徒たち数人と、タイムを読み上げたり、ゴールする生徒たちに順位を書いた紙切れを渡したりする仕事をした。優はタイムを読み上げる係だった。
「あの時、二年生も三年生もいたのに、なんか七瀬が中心で仕切ってただろ。七瀬が『次、何番から来ます』とかテキパキ言うと、みんなが『はいっ』って返事して、それで七瀬がタイムを読み上げ続けて、俺たちがゴールした奴らに番号札渡して…。あの時の声もよかったんだよな。凛とした声でさ。なんかカッコよかったんだよ」
めちゃくちゃ照れる。
「そりゃ小学校の時から知ってたわけだけど、でもあの時、ああやっぱりこいつってカッコいいやつだなって思ったっていうか、ま、なんというか、惚れたわけ」
今、濡れた指で顔に触ったら、ジュッといいそうだ。
「…お褒めいただいて」
「いえいえ」
そんなふうに思ってくれてたのに。申し訳ないのと自己嫌悪で胸が痛い。しかも、あの場に秀がいたことすら覚えていない。覚えているのは、雅也が結構上位で——さすがにはっきりした順位まではもう覚えていないけれど——ゴールしたことと、大会後、教室に戻る前の昇降口で思い切って声をかけたことだけだ。
「お疲れ様」
「あ、どうも」
「すごいね。速いんだ」
「いや…」
それだけだったけど、ものすごく嬉しくて、家に帰ってからも何度も何度もその場面をリプレイしては部屋中をピンク色にしてポーッとなっていた。ちょっと照れたようなあの笑顔と竦めた首の角度を、今でも覚えている。
「あれが一年の三学期。そしたら二年で同じクラスになって、よし!って思ったけど、誰かさんは誰かさんしか眼中になくて」
「…スミマセン」
「で、三年になってあいつが同じクラスじゃなくなって、今度こそチャンス!って思ったのに、誰かさんは相変わらず誰かさんに夢中で。たまに部活見に来たりしてたし」
…気づかれてたか。
「冬も、寒くて暗くなってんのに、弓道場の外の桜の木の陰に隠れるみたいにして見てたり」
…そうですその通り。
「体育祭の後、なんかさりげなーくあいつのとこ行って、部活の後輩に頼まれたからとかなんとか見えすいた嘘言ってハチマキもらってたし」
ほっぺたの上で餅が焼けそうだ。
「…容赦ないね、遠野クン」
「どっちが。俺がどれだけ辛かったと思う?毎日毎日、これでもかってくらい、あいつのことが好きだって見せつけられて」
そう言うと、秀は懐かしそうな顔をして笑った。
「それでもずっと好きだったんだから、変なもんだよな。なんかマゾっぽい」
「それは私もさっき思った。こんなに好きなのに、ほとんど話もできなくて、毎日ただ後ろ姿を見てることしかできなくて、でもそのもどかしさとか切なさもひっくるめて、ある意味楽しんでたのかもなあって」
「恋に恋してるってやつな」
「遠野もそうだったんじゃないの?」
秀はニヤリと笑った。
「それもあって会いたかったんだよ。あの頃って、話したことなんてほとんどなかっただろ。あの頃あんなに好きだった七瀬ってやつは、本当はどんなやつだったのか、本当に好きだったのか、それともただの『恋に恋』だったのか、会って確かめてみたいって思ったんだ」
「で?」
思わず訊いてしまって、優は真っ赤になった。つい口が滑った。
「いや、あの、別に知りたいわけじゃなくて。会話の流れで、つい。なんか、まだちょっと日本語の会話が久しぶりで、慣れてなくって、口から勝手に言葉が」
言えば言うほど顔が熱くなって、口がうまく回らなくて舌を噛みそうになる。
秀が余裕たっぷりの笑顔でそんな優を眺めながら、
「うん、昔の自分の目に狂いはなかったと思うね。可愛いし、話してて楽しいし。結構本気で好きだったんだと思う。あの頃もこんなふうに話せたらよかったのにと思うよ」
「はは…ありがとう」
モテ男は、こういうところもさすがだ。もの慣れているというのか。自分の慌てぶりと比べてしまい、ちょっと悔しい。反撃してみたくなる。
「でもそれってさ、中学生の遠野じゃなくて、オジサンになった遠野が女子中学生の私を見て言ってるわけでしょ、可愛いって。なんかちょっとイヤラシイ」
「そういうこと言うか。せっかく褒めてんのに」
「だってそうじゃない」
「じゃ、七瀬だって同じだろ。オバサンになった七瀬が、中学生のあいつに見惚れて、目が合ったとかキャーキャー言ってんだぜ。ヘンタイ」
「オバサンじゃないもん。二十一だもん」
「は?」
思いっきり呆れた顔をされる。
「頭の中は二十一のままで止まってるの」
「ああはいはいそうですか」
「本当だもん。これね、三十代になる直前くらいで気づいたの」
わかって欲しくて、ピンセットを振り回しながら一所懸命説明する。
「オリンピックとかで、画面に選手の名前と一緒に年齢が映るでしょ。そこで21ってなってると、『わあ、同い年じゃん!頑張れ!』ってなるの。で、一瞬後に、『いや、違う違う。もう全然同い年じゃない』って思うんだけど、でも21っていう年齢表示を見るたびに、どうしてもそうなるの。20とか22ってなってると、『あ、年近い』って思うんだけど、21だと『おお、タメ!』って。今でもそう。そういうのない?」
秀が笑う。
「二十一とかそういうはっきりした数は出ないけど、確かに頭の中は学生の時くらいの感じで止まってるかもなあ。…ああ、そういえば…」
と、遠い目をして、
「うちの親がさ、俺が高校くらいの時だったと思うけど、誕生日の時かなんかに年齢のこと話してて、二人して——うちの親って同い年なんだけどさ——、こんな年だって実感がちっともわかない、まだ学生みたいな気がする、って言ってて、なに図々しいこと言ってんだよって兄貴と二人で笑ったんだけど。…そうか、こういうことなんだな…」
「あ」
記憶の扉がまた一つ開いた。
「それ覚えてる。遠野のお父さんとお母さんて、高校の時同級生だったんでしょ?」
秀がびっくりした顔をする。
「なんで知ってんの。俺、そんな話したっけ?」
「ううん。うちの母が言ってた。懇談会で遠野のお母さんの隣に座っておしゃべりして、その時聞いたって。アンとギルバートみたい、素敵!って言ったら、『そうなのよ』ってちょっと照れてたって」
「…そんなとこでなに話してんだか、あの人は」
「あの世代だと、結構憧れだったんだって、アンとギルバートみたいなのって」
「なんだっけ、アンとギルバートって」
「『赤毛のアン』」
「ああ…なんか聞いたことあるような。うちの親、誕生日も二日しか違わないんだよ。十一月十四日と十六日」
「ええーいいなあ、それ!」
「で、間の十五日が坂本龍馬の誕生日なんだと。二人とも龍馬のファンだから、誕生祝いはいつも十五日」
「素敵…。なんか運命的だよね」
思わず両手を握り合わせると、秀が吹き出した。
「女子ってさ、そういうの好きだよな。みんなそういう反応する」
優は眉を上げてみせた。
「そういう反応するってわかってるから、たくさんの女子に話すわけだ。なるほど」
「いや、別に、そういうわけじゃないけど」
「そういうわけなくせに」
ニヤリとして、
「婚活とかしてるの?」
秀がうんざりした顔をしてみせる。
「そんな暇ないって」
「そんなに忙しいの?循環器内科って」
「別に循環器内科だから忙しいってわけじゃないけどさ。人それぞれだよ。ま、俺はさ、ちゃんと学び続ける医者だから、勉強にも忙しいわけ」
茶目っ気たっぷりに胸を張ってみせる。なんだか眩しくて、優は我が身と比べてしゅんとしてしまった。
「…すごいね。偉いな」
湿っぽい声が出てしまって慌ててトーンを上げる。
「循環器内科っていうと、えーと、心筋梗塞とか、そういうのよね」
「そうそう」
「あれだね、右心房、右心室、で肺に行って、左心房、左心室、全身、って」
「お、よく覚えてるじゃん」
「ここに載ってるかな」
傍の教科書に手を伸ばす。
「…ああ、あった」
心臓の図解が載っている。
「どれ」
秀が覗きこむ。
「まあ、中学だったらこれくらいか…。もうちょっと詳しくてもいいんじゃないかとも思うけどな。ペースメーカー細胞って聞いたことある?」
「ううん。ペースメーカー、じゃなくて?」
「いや、ペースメーカー細胞っていうすごい奴らがこの辺にいてさ。洞結節っていって…」
虫の箱はそっちのけで、頭を教科書の上に突き合わせ、心臓についてのレクチャーとなった。
「…知らなかった。電気で動いてるなんて…」
目をまん丸にして言った優を見て、秀は得意げにニヤリとした。
「面白いだろ」
「面白い!なんでこういうこと、中学くらいでちゃんと教えてくれなかったんだろう。だって心臓だよ?誰だって興味持つと思わない?」
「そうだよな」
「ね、じゃあ心筋梗塞は、どうして起こるの?血管が詰まるとかじゃなかったっけ?」
「その通り。冠動脈っていうのがあって、それが大雑把に描くとこういう感じで心臓を覆っていて…」
秀が心臓の図解の上に鉛筆で冠動脈を描いていると、
「ここの二人は何してるのかな」
上から声が降ってきて、優は飛び上がらんばかりに驚いた。いつの間にか先生が優のすぐ横に立っていた。ちょっとつき出たセーターのお腹のあたりの毛玉がよく見える。
「…すみません」
「お、心臓だねえ」
「はい」
洞結節とかプルキンエ繊維とか、秀の字で——いかにも物慣れた大人の字で——書き込んである教科書を覗き込んだ先生は、
「プル…キンエ。プルキンエ…繊維?それは何?」
「心筋細胞です」
秀が言うと、先生はメガネの奥のしょぼしょぼした目を丸くした。
「シンキン細胞?そんな細胞があるの?知らないなあ。どうしてそんなこと知ってるの」
「えっと、この前テレビでやってて」
「へええ。よく覚えてるねえ」
「うちの祖父がこの前心筋梗塞で亡くなったので、心臓のことに興味があって」
「ああそう…。ま、ちょっと虫の方もちゃんとやって。あと五分で提出してもらうからね」
「はい」
先生が行ってしまうと、優はほっと胸を撫で下ろした。叱られるかと思った。大人になっているとはいえ、やっぱりどきどきする。
「お祖父さんが心筋梗塞で亡くなったから、心臓のこと勉強しようって思ったの?」
そっと訊くと、秀が笑った。
「まさか。今のは口から出まかせ」
「じゃ、どうして循環器内科を選んだの?」
「一番面白いって思ったから」
優は深く頷いた。今ちょっと話を聞いただけだけれど、本当に心臓って面白い。
もっと早く知ってたらな…。
そう思ってから心の中で苦笑する。
知ってたら?自分も医学部に行って循環器内科医になったのに、とでも?
とんでもない。自分が医者になんてなれるタイプの人間じゃないのはよくわかっている。怖がりで、心配性で、すぐパニックになる。緊急時に冷静沈着に適切な判断を下せる人間じゃない。こんなのが医者になんかなってしまったら、患者さんはいい迷惑だ。
高校三年生の時、お父さんに一度冗談めかして訊かれたっけ。
「やっぱり医学部は受けないの」
「まっさかあ」
笑っただけで終わったけど、でも、お父さんが亡くなったあと、お母さんが言ってた。
「うちは智君も優ちゃんも医学部に行かなかったから…、お父さん、やっぱりちょっと残念だったみたいよ」
あれを言われた時は、なぜかものすごくこたえた。ものすごく。
「何、どした?」
「えっ、ううん。遠野が立派なお医者さんになったのかあ…って。すごいなあ」
「はは。立派かどうかはわかんないけどな。そういや、七瀬は?なんか仕事してるの」
ちぇっ。訊かれちゃったか。
「してるよ。フルタイムで」
「へえ、どんな仕事?」
「良い妻」
秀が笑って首を振る。
「それなあ。ほんっと意外なんだけど。七瀬がねえ」
優も笑って首を竦める。
「まあね。たまに翻訳のバイトくらいはするけど、でもそれだけ」
「絵は?まだ描いてんの?」
「描いてる。趣味でだけどね」
「あのレベルで趣味とはね。美大とか行かなかったんだっけ?」
「まさか。平凡に文学部英文学科」
「そうか。…俺、七瀬の絵好きだったよ。すっげえなあって思ってた。なんであんなふうに描けるんだろうって。あの階段のとこの絵もそうだけど、授業で描いてた絵もさ。肖像画とか」
「肖像画…」
自分の顔が赤くなったのがわかった。秀もニヤリとする。
「覚えてる?」
「…覚えてる」
「ズバッと言っちゃったよな。聞いてて『うわ、言った!』って思った」
「だから、あれは口が滑ってというか、ほんとに悪気は全く、全然、これっぽっちもなかったの!それに集中して描いてる時だったんだもの。考える方がお留守になってたっていうか」
「だから本当のことを言っちゃったってわけだ」
「…いや、うーん……」
三年生の時だった。何月だったかは覚えていないが、夏服の時期だった。
美術の時間に、水彩で『友達の肖像画』を描かされた。出席番号順で座っている座席の前後の生徒でペアになる。時間を決めて——先生が「はい、交代してー」と号令をかけた——代わりばんこにモデルになったり描き手になったりするわけだ。優は前の座席の津川悦子とペアになった。
悦子は背が低くて少し太めで、オカちゃんとかオカメとかカメとか呼ばれていた。小学校の頃からのあだ名らしく、悦子とは違う小学校だった優はあだ名の由来など知る由もなかったが、みんなと同じようにオカちゃんと呼んでいた。キンキン声でよく喋る騒がしい子で、みんなに——特に男子に——敬遠されていたけれど、優はまあ普通に仲良くしていた。
「ねえ、優ちゃん」
鉛筆で下描きを描いている優に、背筋を伸ばして座っている悦子が言った。
「…んー?」
「私って、どうしてオカメって言われるのかなあ」
悦子のぷっくりした顔と画用紙を交互に睨みつつ、忙しく鉛筆を走らせながら優は答えた。
「…んー、オカメさんに似てるからじゃないの?」
「……」
悦子は黙ってしまい、優は集中して肖像画を描き続けた。
休み時間になって悦子が席を外すが早いか——美術は二時間続きの授業だった——、優の隣の席の新田恭平がくすくす笑いながら、
「七瀬…今のはちょっとキツかったんでない?」
優はきょとんとした。
「何が?」
「『オカメさんに似てるからじゃないの?』」
恭平が優の口調を真似る。
「よくあんなほんとのことはっきり言うよな。すげえ」
ようやく自分の言ったことに気がついて、優は真っ赤になった。
「だって…だって…オカメって呼ばれてるし…それはやっぱり、オカメさんに似てるからじゃないかって思うのは当然じゃない」
「だからってなあ。普通面と向かってあんなはっきり言わないよ」
ニヤニヤしている恭平を睨む。
「男子なんてもっとひどいこと言ってるじゃない」
ブスとかひでえ顔とか気持ち悪いとか机に触られたくないとか。
「でも俺たちは面と向かっては言わないもん、な」
こちらを向いて座っている前の席の秀に、恭平が相槌を求める。
「…だって…私があんなあだ名つけたわけじゃないし…」
「どうする?今頃トイレで泣いてたりして。恨まれるぞー七瀬」
恭平の言葉に、優はぞっとした。「恨まれるぞー」のほうではなくて、「トイレで泣いてたりして」のほうにだ。
「…どうしよう」
傷つけちゃっただろうか。こういうのも『いじめ』とかいうことになっちゃうんだろうか。そんなつもりじゃ全然なかったのに。
すると秀が鼻で笑って、
「そんな気にしなくていいんじゃないの。あんなこと訊く方がバカだよ」
恭平もくるりと態度を変えて頷く。
「そうそう。鏡見りゃわかることじゃんな」
「そんな…」
あの時の気持ちを思い出して、優は身体全体でため息をついた。
「なんか、私って、失言ばっかりしてたのね…」
「ばっかりって、俺のと合わせて二回だろ。それくらい誰だってしてるよ」
あの時も、結局悦子には謝れなかった。なんて言って謝ろう、でも謝ったりしたら余計に「オカメさんに似てる」ということが強調されてしまうような気がするし…と考えているところへ悦子が戻ってきて、何事もなかったかのように賑やかに喋りだしたので、そのままになってしまった。
「傷つけちゃったよね、きっと」
秀があの時と同じように鼻で笑った。
「自業自得だろ。あんなこと訊かなきゃいいんだよ」
「…男子ってさ、容赦ないよね。中学くらいの頃って特に」
ちょっと恨みがましく言うと、秀が眉を上げる。
「つまりある種の女子に対して、ってこと?」
「そう。すごかったじゃない、彼女に対してだって。そりゃ本人の目の前ではやってなかったかもしれないけど、でも彼女絶対気づいてたと思うよ。机に触ったとか言って、オカメ菌がついたとかなんとか大騒ぎして、それをなすりつけ合ったりとか…」
「…まあ、あれはなんていうか…ガキだったなと思うし、やりすぎだったと思うけど。でも俺たちだって、可愛くないからってだけで嫌ってたわけじゃないよ。あいつ、すげえ性格悪かったじゃん」
「ああ…まあねえ」
「青木のこととかさ。覚えてる?」
「あったねえ」
一年の秋。学芸発表会の少し前だった。
悦子が想いを寄せていたらしい青木君という男子が和田さんという女子に告白した。付き合ってくださいと言った青木君に和田さんがOKし、放課後の教室で二人はツーショットの写真を撮っていた。(今の中学生が聞いたら「???」だろうが、あの頃は二人で写真に収まるなんて、ものすごく特別なことだったのだ。)
その現場を目の当たりにした悦子が、テレビドラマさながらに泣きじゃくりながら廊下を走っていった姿が何人もの生徒に目撃され、階段下で追いついた友人の胸に倒れ込んで、
「あんな人のどこがいいの?!私がこんなに好きなのに!私の方がずっと可愛いのに!」
とメロドラマティックに叫んで泣き崩れたことはあっという間に学年中、いや学校中の知るところとなった。
そして次の日——日曜日だったが——悦子が青木君の家まで行って、和田さんはあなたが思っているような人じゃないとか、男たらしだとか、嘘つきだとか、大人しそうな外見に騙されてはいけないとか、散々和田さんの悪口を言ったのだそうだ、という話も、怒り心頭に発した和田さんから学校中に広まった。
その後も悦子の二人への嫌がらせは続き——教室のゴミ箱から、くしゃくしゃに丸められた青木君から悦子に宛てた抗議の手紙が見つかったことから、数々の嫌がらせの内容が明らかになったのだ——、ついには和田さんの名前を書いた藁人形もどきが和田さんの机の中から見つかったことで(釘ならぬマチ針がが刺してあったそうだ)、担任の先生と、なぜか学級委員二人と、青木君、和田さん、悦子とで放課後に会議がもたれ、悦子が青木君と和田さんに謝り、もう嫌がらせはしませんと約束して、事件は一応落着した。
「あれはドラマだったね…。中学生ってすごいことするよね」
「まったくな。大人じゃないから、あそこまでできるんだろうな」
「私、目撃者の一人だったのよ。美術室から渡り廊下渡って教室の近くまで戻ってきたら、目の前をびゅっ!って彼女が走っていったの。泣きながら。どうしたんだろうと思って立ち止まって彼女の背中を目で追ってたら、確か、岩間さんだったかな、彼女の後を追っていった。で、廊下のはずれ辺りで彼女に追いついて、彼女が泣き叫んで何か言って。なんて言ったかは私は聞こえなかったけど」
「俺は一年の時同じクラスだったからさ、あいつらと。まあ色々と醜い場面を見せてもらったよ。一度、帰りのホームルームの時間に青木があの女のこと糾弾したんだよな。クラス全員の前でさ。いい加減にしてくれ、って。そうしたらあの女、自分はそんなことやってないの一点張り」
秀は苦々しい表情で鉛筆を振った。
「やってもいないことをやったと言われている自分の方こそが被害者だ、みたいなこと言って。それをまた、演劇かなんかのセリフみたいに、大袈裟な抑揚と身振りをつけて言うわけ。涙拭きながら。あの時俺は思ったね。ああ、こういうの嫌だって。女ってわけわかんないし、女と付き合おうとしたばっかりにそんなことに巻き込まれて困ってる青木も、なんだかバカみたいに見えた。俺は絶対に恋愛だとかそういう面倒なことは、まあ少なくとも今はすまい、そんなことは大人になってからすりゃいい、って思ったのに」
優を見やってニヤリとする。
「かっこいい私に惚れちゃったわけね」
「そういうわけ」
「うふふ。青春だねえ」
「まったくだ」
二人でくすくす笑う。
「はい、じゃあそろそろ時間なのでね、観察の結果をきちんとプリントに書き入れて提出してください…」
先生が黒板の前に立って言った。
急いで二人して偽の観察結果をでっち上げる。
「ダンゴムシ七匹なんて、多すぎない?」
「五匹くらいにしとくか」
ひそひそ話しながら、ふと視線を感じたような気がして顔を上げると、雅也がさっと目を逸らせたところだった。