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Chap.5

Chap.5


 チャイムが鳴って、悟たちがそれぞれの席に帰っていった後、秀がぼそぼそっと呟いた。

「バラさないでくれてありがとう」

 律儀に頭を下げる。

「どういたしまして」

 優もにこりと頭を下げる。秀が低い声で続ける。

「ほんとに、あの時のあれは…。なんて言っていいのか…ほんとにすみませんでした」

 また顔が赤くなっている。

「いいよ、そんな。気にしないで。ああいうこと言ってみたくなる年頃だったんでしょ、きっと。子供ってそういう時期あるよね」

 手をひらひらさせて言うと、秀がちょっと笑った。

「なんか…オトナみたいな言い方するね」

 おっとしまった。

「いや、まあ、ほら、女子の方が精神年齢が上だって言うじゃない、男子より」

「まあ、そうだね」

 英語の授業は、こともなく過ぎた。突然当てられたってなんの困ることもないので、リラックスして存分に雅也を眺めることができたし、秀も栗鼠の話のおかげか大人しくなり、邪魔してこなかった。

 それにしても、大大大好きな雅也ではあるけれど、こう斜め後ろ姿ばかり眺めているのでは、やはりなんだか物足りない。

 せっかくの夢なんだから、おしゃべりしてみたいな。でもなんて話しかければいいんだろう。何を話したらいいんだろう。

 そうだ、弓道のこととか?

 大学時代に、ちょっとだけ弓道をかじったことがある。もちろん、雅也を思い出してのことだ。周りの人にも、弓道に興味を持った理由を訊かれるといつも、「中学の時好きだった人が弓道部だったので」と話していた。

 でも…弓道の何を話せばいいんだろう。いきなり『射法訓』暗唱したってしょうがないし。

 しかし、悩む必要はなかった。次は二十分休み、そしてその後の三時間目は体育だったので、女子も男子も、さっさとそれぞれの更衣室へ行ってしまって、その後男子は校庭、女子は体育館へ。

 男子が何をやっていたのかは知らないが、女子はバドミントンだった。ものすごく、ものすごーく下手になっていて、焦る。空振りが多い。身体は軽々と動くのだけれど、とにかく久しぶりのことなので、なんとか当たっても、シャトルがカキンとフレームの音をさせて明後日の方向へ飛んでいったりする。小学校の時はこれでもバドミントンクラブに所属していたのに。ペアを組んでいる三組の根本さんが心配そうに、

「七瀬さん、具合悪いの?」

 と訊いたくらいひどかった。何とも情けない。

 四時間目は理科。今日は教室ではなく実験室での授業だった。更衣室で着替え、教室に戻り、教科書ノート筆記用具一式を抱えて実験室へ急ぐ。晴美達と一緒に実験室に着いたときにはもうチャイムが鳴り始めていて、先生が黒板の前に立っており、「きりーつ!」の声でクラスが立ち上がったところだった。

 ドアを入ったところで優は青くなって立ち往生した。自分の席がわからない。確か、実験室や美術室、音楽室では、名前の順だったような…。焦って部屋を見渡す。近くに立っているクラスメイト達が怪訝そうに優を見る。

「七瀬!」

 実験室の後ろの方で、秀が手をあげた。秀の向かいの席が空いている。助かった。優は急いでみんなの間を縫ってその席に向かった。なるほど、遠野、七瀬、か。出席番号順でも隣だったっけね。

「何やってんだよ」

 礼の後、着席の騒音の中で秀が言う。

「うん、ちょっとぼーっとしちゃって。ありがと」

「もしかしてほんとに更年期なんじゃないの」

「んなわけないでしょ」

 中坊が何を言うかね、ほんとに。

 その日の授業は、実験というよりは実習だった。一つの実験テーブルごとに、土の入った浅い箱が二つ置いてあり、その中にいる虫の種類を調べるというもの。一テーブルにつき生徒は四人。隣同士(向かい合わせ)の二人でペアになって、ピンセット片手に虫を探してその種類と数を書きとめる。

 楽な授業だなあ、先生。

 優は呆れてため息をついた。 

 何にも教えなくていいもんね。ただぶらぶらと実験室を歩き回ってればいいだけ。給料ドロボーだわ。

 大人になると、ついそういう見方をしてしまう。

 と思っていたら、ピンセットを持って同じ箱の上に屈んでいる秀がぼそっと呟いた。

「怠慢だよな、教師の」

 おお、中坊なのにちゃんと見ているではないか。意外だ。

「ほんとにそうよね」

「こんなんで、時給どれくらいだろう」

「さあ…」

 騒がしい授業だ。あちこちで、虫の苦手な女の子たちがキャーキャー言っているし、どこのテーブルも喋り放題、笑い放題。隣のペアはことにかしましい。

「やだっ!こっちに投げないでよ!」

「投げてねーよ。勝手に跳ねたんだよ」

「嘘ばっか。見てたんだからね!」

「してません!」

「した!」

 沼ちゃんこと沼田明美と徳川亮平。

 喧嘩するほど仲がいいというけれど、この二人はそういえば本当に仲が悪かったっけ。詳しい話は知らないけれど、どうも二人の間には何か「過去」があったらしく、寄ると触るとこんな調子だった(ので、いつもはお互いに避け合っていた)し、球技大会で男子のサッカーを観ていた時、亮平がトラップミスをしたのを隣にいた沼ちゃんが「ばっかじゃないのアイツ。超下手」と意地悪そうにせせら笑ったのを覚えている。

「でさ、七瀬」

 秀が低い声で言う。

「ん?」

「なんで俺に謝ったの」

 来たか。体育の授業中に、バドミントンのシャトルをあちこちに拾いにいきながら、ちゃんと考えておいた。

「あのね、よく考えたら、夢だった」

「…は?」

「あんまりはっきりした夢だったから、現実だったような気がして思わず謝っちゃったけど、落ち着いてよく考えたら、夢だったの。お騒がせしました」

 秀が呆れたように笑う。

「なんだそれ」

「そうよね、私もそう思う。ごめんね、変なこと言って」

 可愛く(そのつもり)謝って、これにて一件落着とばかりに、虫探しに集中するふりをする。しかしそうは問屋が卸さなかった。

「どんな夢?」

 やっぱりそうきたか。心の中でため息をつく。

 まあ、そう訊かれたら、ちゃんと話そうと思っていた。

「あのね、」

 やっぱりちょっと勇気がいる。ふっと息をついて気持ちを整える。

「…夢の中で、教室で友達と話してて、私が遠野のこと批判したの。モテすぎてて、本人もそれを鼻にかけてるようなところが美しくない、ああいうタイプはあんまり好きじゃない、って。そしたら遠野がそれを聞いてて、『別に好きでモテてるわけじゃない』って言い捨てて、教室から出て行っちゃったの。謝りたいって思ったんだけど、なかなかきっかけがつかめなくて、手紙で謝ろうかとも思ったんだけど、それもなんだかどう書いていいかわからなくて、そのあとずっと、その、夢の中で時間が経っても、気になってたの。それで今朝遠野に会った時、思わず謝っちゃったというわけ」

 顔を上げることができず、目の前の土と虫とピンセットを見つめたまま言った。

 少し間があってから、秀の声が聞こえた。

「そっか」

 笑みを含んだ優しい声だった。優は思わず顔を上げた。秀は左手で頬杖をつき、右手でピンセットを持って、何かを考えるような目をして土をかき回していたけれど、優と目が合うとニヤリと笑ってみせた。

「ま、しょうがないな。七瀬は()()()()みたいな、地味で素っ気なくてモテないタイプが好きなんだもんな」

 むっ。

「…そういう言い方ないでしょ」

「俺みたいなのだと、まあモテすぎて眩しすぎて、近寄りにくくて好きになれないわけだ。わかるよ、気持ちは」

 そこまで言葉を並べると、わざとおどけて言っているのがわかるから、優も苦笑して肩をすくめた。

「はいはい、その通りですよ」

「でもさ、真面目な話」

 秀が声を潜める。

「なんであいつがそんなにいいの?」

「なんでって…」

 目の前に雅也の理知的な顔が浮かんで、顔が自然にほころぶ。

「…好きだから」

 秀が苦笑する。

「何ニヤけてんだよ。答えになってないし」

「だって、好きになるのに理由なんてないもん。さては遠野、恋したことないんでしょう」

 からかうように言うと、秀はふんと鼻先で笑った。

「七瀬のだって、恋なんて言えないんじゃないの。あいつのことよく知らないじゃん。せいぜい『恋に恋してる』ってとこだろ」

 図星。優は驚いて目を丸くした。

「遠野って、意外とオトナだねえ」

 素直に感心する。

 真美子といい、秀といい、中学生なのに結構オトナだ。昔はそんなこと気づきもしなかった。もしかして昔の自分は、周りのみんなよりずっと子供っぽかったんじゃなかろうかと恥ずかしくなる。

「いや、別にそんなことないけど」

 秀が決まり悪そうに言ってちょっと赤くなる。優はもう一度目を丸くした。秀がこんな反応をするなんて、これまた意外だ。「だろ?」とか得意気に言ってそっくり返るかと思っていた。

 そういえば、遠野のことだってよく知らなかったんだよね。なのに、あんな批判したりして、ほんとに悪いことしたな。ごめんね。

 心の中で、ペコリと頭を下げる。

 しばらく二人黙って虫を探す。明美と亮平が声高に言い合っているのが聞こえる。

「この線から出るなって言ったでしょ」

「出てねえよ」

 しばしの沈黙。

「…こっちに虫持ってくんのやめろよ」

「持ってってなんかいません」

「してるだろ」

「持ってくってのは、持って運んでくってことでしょ。そんなことしてませんからね」

「すげえムカつく。じゃ、虫こっちに追いやるのやめろよ」

「虫が勝手にそっちに行ってるだけでしょ」

「超ムカつく」

 なんだかおかしくて笑いが込み上げる。ふと顔を上げると、秀の目も笑っていた。

「あいつらさ、」

 秀がダンゴムシをピンセットでつまみながら、うんと声を低くして言う。よく聞こえるように顔を寄せる。

「高校卒業してすぐ結婚したんだよ。知ってた?」

 びっくりだ。

「ううん、知らなかった!」

「確か子供三人だったかな。今も地元でさ。一番上の子がこの中学。もう卒業してるかな」

「ほんとに?!わー、そんなことってやっぱりあるんだ!すごーい!」

 それって、どんな気持ちなんだろうなあ…。自分たちの子供が、自分たちと同じ中学校に行くなんて……ん?

 ちょっと待て。

 顔を上げて、土の上にかがみ込んでいる秀の額を穴のあくほど見つめる。

 どういうこと?

 どうなってるの?

 何、今の話は?未来の話だよね?

 えええ??

 なんだか周囲がぐるりんと一回転したような感覚。

 だって…これは中学生の遠野のはずで…なのにどうして未来のことを知ってる?

 いや、ちょっと待って。落ち着いて。

 これはそもそも夢なんだから、奇妙奇天烈なことが起こったって別にいいはずなんだし…。

 でも、なんだか…?

 土の山をピンセットで少しずつ崩している秀の額を見つめながら、ぐるぐる回る頭で考える。

 だって…こんなに現実に忠実な夢なのに。もしかして夢じゃないんじゃないかって思えるくらい、現実的な夢だったのに。

 本当に過去に戻っちゃったんじゃないかと思い始めてたくらいなのに。

 この展開は何?どうなってるの?

 いや、待って、まさか本当に現実の過去?いや違った、現実の過去を思い出してる夢?あれ?

 秀の額を凝視したまますっかり混乱して固まっていると、秀が顔を上げた。

「なに七瀬。どしたの?」

 何気ないふうを装って尋ねているけれど、口元が懸命に笑いを堪えているように歪んでいる。

「……」

 優は口を開き、なんと言っていいのかわからなくて、また口を閉じた。

 すると秀が片手で顔を覆い、ぷーっと盛大に吹き出した。下を向いて、おかしくてたまらないというように肩を揺らして笑っている。

「…何よ」

 優は憮然とした。昔から、笑われるのは好きじゃないのだ。

「…その顔!…七瀬のそんな顔見れただけでも、…来た甲斐があったな」

 笑いながら、息も絶え絶えに秀が言う。その言葉に、優は目を見開いた。

「来た甲斐があった?『来た』って、『来た』って、どういうこと?」

「シーッ。声大きいって」

 優は慌てて辺りを見回した。幸い誰も聞いていた様子はない。声をひそめ、顔を近づけて囁く。

「『来た』ってどういうこと?これ、夢なんじゃないの?違うの?」

 笑いすぎて潤んだ目で、秀が楽しそうに優を見る。

「夢だよ、もちろん。っていうか、多分そんなようなものだと思う」

「どういう意味?なんでわかるの?」

「俺だってはっきりわかってるわけじゃないよ。でも、俺が願ってこうなったんだから、これは多分俺の夢かなんかで、七瀬はお客ってことなんだよ、きっと」

 運転手は君だ。車掌は僕だ。あとの四人が電車のお客。

「お客…」

 呆然と繰り返す優の顔を見て、頬杖をついた秀がくつくつ笑う。

「中学ん時、七瀬のそんな顔見たことなかったなあ。なんかいっつもカッコつけて澄ましてたしさ…あいつ見てるとき以外は」

 カッコつけて澄ましてた?大いに異議あり。しかし今はそれどころではない。

「ちょっと、ちゃんと説明してよ。どういうことなの?」

「だから、俺だってちゃんとわかってるわけじゃないんだって」

「でも、遠野が願ってこうなったんでしょ?どういう願い?」

「中学時代に戻ってみたいって願いだよ」

 優はどきっとした。

 昨夜のことを思い出す。

「私も…昨日の夜ね、TMの曲とかものすごく久々に聴いて、中学時代のことあれこれ思い出してたの。だから今朝目が覚めて…つまり、夢の中で目が覚めた時に中学時代に戻ってたのは、そのせいだって思ってたんだけど」

「TMか、懐かしいな。俺もそういえば氷室とか最近聴いてなかったな」

 秀が懐かしい目をして言うのを遮る。

「どうしてこれが遠野の夢だってわかるの?」

「だって願ったんだもの」

「私の夢かもしれないじゃない?」

 秀がニヤリと笑った。

「七瀬のは『懐かしく思い出した』って程度だろ。俺はほんとに心から願ったんだもの。中二の時に戻りたいって」

「……」

「七瀬さ、これ、自分の夢って感じする?夢を見てる感じする?」

「…しない」

「だろ?俺は、これが自分の夢…というか、まあなんなのかははっきりとはわからないけど、自分に属するものっていうか、自分のものだって感じるし、自分が願ったからこうなってるんだって確信あるもの」

「でも…でも…」

「でも?」

 優は一所懸命考えた。

「だって、遠野の夢なのに、どうして私が、つまり現実の、大人の私がここにいるの?」

「俺が願ったからだろ。今の七瀬に会いたいって。だからゲスト出演って感じで呼ばれたんだよ、きっと」

「どうして?なんで私?」

 秀が眉を上げてちょっと笑った。

「大人だろ。察してよ」

「えっ。…ああ。ええー…」

 びっくりだ。まるで正真正銘の中学生の女の子のように頬が染まる。

「…そうだったの?」

「そう」

「…知らなかった」

「そりゃそうだろ」

 秀が笑う。

「誰かさんに夢中だったもんな。他は全く眼中になし」

「…ごめん」

「んなことで謝んなくていいよ」

 怖かったけれど訊かずにいられなかった。

「…三年の時もそうだったの?」

「そ」

 優は思わず目を閉じて額を両手に埋めた。

 なんてひどいことをしたんだろう。

 自分があんな目に遭ったら、きっと絶対に立ち直れない。雅也が自分のことを「ああいうやつは好きじゃない」なんて言っているのを聞いてしまったら…。想像するだけで太い槍がぐっさりと胸に突き刺さる。

「…本当にごめんなさい」

「いや、いいって、そんな」

 秀が慌てたように手を振る。

「大昔のことだしさ。それより」

 大真面目な顔をして頭を下げた。

「俺も、改めて。五年の時のこと、本当にごめん」

「え?ああ」

 栗鼠の話だ。

「いいったら、あんなこと。きっとよくある話だよ…」

 言いさして優は笑い出した。

 あの話には、実は続きがあるのだ。

 注意深く辺りを見回してから、内緒声で言う。

「あのね、あの日、家に帰って母に訊いたの。『ねえお母さん、クリトリスって何?』」

「えっ」

 秀が音をたててピンセットを取り落とす。

「母は眉をしかめて私を見て、『どうしてそんなこと訊くの』。私は言いました。『今日学校で遠野が…』」

「嘘?!」

「ほんと」

 秀はうめき声をあげてテーブルに突っ伏した。

「ごめえん」

 くすくす笑いながら言うと、秀が赤い顔を上げた。

「頼むから、冗談だって言って」

「ううん。ほんと」

「…俺、七瀬のお母さんと顔見知りだったし…中学の時だって、会えば挨拶してたのに…。なんて思われてたか…」

 赤い顔をして恨めしそうに言う秀に、優はふふんと笑ってみせた。

「真面目なカワイイ女の子に、あんな言葉を言わせようとするからよ。自業自得」

「…ごもっともです」

 目を合わせて笑う。 

 急に懐かしさが込み上げて、しみじみと秀を眺める。

「…元気?」

「おう。七瀬は?」

「うん、元気。どこにいるの?」

「千葉。そっちは?」

「カナダ」

 秀が眉を上げる。

「ほんとだったんだ」

「え?」

「何年か前にプチ同窓会みたいなのがあってさ。あんまり集まらなかったけど。その時に、そういう噂があるらしいって聞いた」 

「そう」

 どういう経路で伝わるんだろう。誰とも連絡を取り合っていないのに。

「なんでカナダ?いつから?」

「二十三の時。結婚したから」

 なんとなく恥ずかしくて、ピンセットの先を見つめながら答える。ちらりと見上げると、秀が目をむいて絶句していた。

「…うっそ」

「ほんと」

「二十三⁈」

 顔が赤くなる。

「わかってる。早すぎるって言いたいんでしょ。私だってそう思うよ、今はね」

 秀が頬杖をついて嘆息する。

「…あの七瀬がねえ」

「どういう意味よ」

「男蹴散らして、バリバリのキャリアウーマンになる!って感じじゃなかった?昔さ」

 苦笑いが浮かぶ。

「まあねえ…」

 両親が——というよりも母が——優にそういうキャラクターになるよう希望していた。お手本は、母の従姉の娘の冴子ちゃん。優より十歳年上の秀才で、それこそバリバリのキャリアウーマンになった人だ。母は「誰々のようになりなさい」と優に言うのが好きだったけれど、冴子ちゃんの名前が一番多かった。中学の頃は、優自身もまだ、自分がそういうキャラクターだと思い込んでいて、そのように振る舞っていた。

「で、ダンナ、何やってる人?」

「?」

「ダンナの仕事で行ったんだろ?カナダ」

「ううん。留学先で知り合ったカナダ人と結婚しただけ」

「…国際結婚か」

 また秀がしみじみとため息をついて優を眺めた。目を細める。

「…ま、そこはなんとなく、七瀬って感じするかもなあ」

「そう?」

「うん、なんか人と違うことやりそうな、っていうかさ」

「ただ違う国の人と結婚したってだけだよ」

 考えなしの愚か者だよ。

 ため息は心の中だけにして、にこりとしてみせた。

「遠野は?結婚」

「はは。残念ながらまだ」

 ものすごく意外だ。

「そうなの?モテモテなのに?」

 秀が肩をすくめてみせる。

「女がわんさか寄ってきたって、その中にこっちが好きになれる女がいなきゃしょうがないだろ」

「言うねえ。さすが」

「冗談だよ。忙しくてそれどころじゃないってのがほんとのところ」

「そうなんだ。何してるの?仕事」

「医者」

 優は目を見張った。

「うっそ?!」

 秀が苦笑する。

「何その反応」

「だって…」

 雅也ならともかく。

 でもそういえば、確かに、秀も成績は悪くなかった。常に学年5番以内に入っていた雅也ほどではないにしても、10番台、20番台をうろちょろしている感じだった。優と同じように。

「そうか、医者になったんだ…」

 私はなれなかったのに。私は何にもなれなかったのに。

「すごいね」

 ため息と共に心から言った。秀が笑う。

「別にすごかないけど」

「何科?」

「循環器内科」

「心臓か…すごいね」

 またため息が出る。遠野が医者になったのか…。

「そういえば、七瀬のお父さんも医者って聞いたことがあった気がするような、しないような」

「そう。脳外科。もう亡くなったんだけどね」

「えっ」

「九年前」

「…それは……ずいぶん若かったんじゃない?」

「五十八。若いよね、結構」

「すごい若いよ」

「しかもなんの病気だったと思う?脳腫瘍だったんだから。ironicだよね」

 秀が沈痛な面持ちで深いため息をつく。

「…辛かっただろうなあ、それは」

 優も頬杖をついてため息をついた。

「そうだよね…。辛かったよね…」

 崩していた土の山から現れた、なんだかわからない虫の蛹のようなものをピンセットで脇にのける。

「帰ってきたの?カナダから。その時」

「うん、脳腫瘍だって伝えられてすぐね。その時の電話で、私、帰ろうか?って言ったの。母に。そうしたら母は、まだ大丈夫だからいいわよ、って言ったの。『今のところ大して症状もないし、普通に生活できてるから』って。そうしたら、二十分後くらいにもう一度電話がきて、『お父さんが、できるだけ早く帰って欲しいって言ってるから、すぐ帰ってらっしゃい』って言われて。それで急いで帰ったの。次の日くらいだったかな」

 中学の制服を着て、外見は中学生で中身は大人で医者の秀に、理科実験室の喧騒の中、数時間前に一緒に朝食をとった父の九年前の死について話している。なんだかくらくらする。むちゃくちゃシュールだ。

「着いたのは夜だったの。父は居間のソファに座ってて…。昔っからいつも家で着てた、毛玉だらけのカーディガンを羽織って…。ちっとも病気になんか見えなかった。なのに、私を座らせて、私の手を握って、遺言みたいなことを言って…。正直、心の中で、なんて気が早いんだろうって苦笑してた。お父さんらしいなって。でも、病気の進行がものすごく速くて…。次の日からてんかん発作が出始めて、それで二週間くらい入院して、戻ってきたらもう意思の疎通が少し難しくなってた」

 秀は真剣な顔をして聴いている。専門家の目だ。

「退院してきた次の日の朝、ヨーグルトがわからなくなってて、びっくりした。なんだかお腹の調子が良くない、って言いながらキッチンに入ってきたから、『今日、ヨーグルト食べた?』って訊いたの。父はいつもお腹の健康に気を遣ってて、昔からナントカ菌が入ってるってヨーグルトを毎日食べてたから。そうしたら、私の顔をまじまじと見て、『ヨーグルト?』って訊き返した。あ、もしかしてわかってない、って思って、冷蔵庫からいつものヨーグルトを取り出して、父に見せた。『そう。これ』って。父はそれを受け取って、矯めつ眇めつ眺めてから、『これを食べるの?』『そう。お腹にいいのよ』って言って、急いでスプーンを持ってきて、父の手からヨーグルトを取って、蓋を開けて、スプーンを入れて、『はい』って差し出したら、不思議そうな顔して受け取って、不思議そうな顔したまま一口食べて、『ふうん…』ってつぶやいて、首を傾げて、また一口食べながら、キッチンを出ていった」

 優は小さくため息をついて、ピンセットでそっと土をかき回した。

 あの頃のことは、今思い出しても、一体本当にあった出来事なのか、信じられないような奇妙な感じがする。

「もうその後は、どんどん悪くなっていって。物の単位…例えばグラムとキログラムが混ざっちゃったり、本人は『四時』って言ってるつもりらしいのに、口から出てくる言葉は『四月』だったり。小鳥を植物の名前で呼んだり。あっという間に言葉が通じなくなっていった。あれは…」

 魂の底からため息が出る。

「すごい日々だったよ」

 ショックを受けたり、悲しみに沈んだりということは一度もなかった。そんな暇はなかった。どんどん変わっていく父の症状に、父を傷つけないように、父に自分が的外れなことを言っていると気づかせないように、対応していくだけで精一杯だった。

「…脳腫瘍って種類がいっぱいあるだろ」

「膠芽腫」

 最も悪性。

「…そうか」

「しかもかなり中心の辺り、海馬の辺りだったから、なす術なしで。初めて身体症状が出たのが四月。亡くなったのは七月。むちゃくちゃ速いよね、進行が」

「…そうだな」

「日本に帰ってきたその日に遺言なんかされちゃって、なんて気が早いって思ったけど、でも父はあんまり時間が残されてないってわかってたのかもね」

「…うん…そうだったんだろうな…」

 秀が深いため息をついたので、優は首をすくめてちょっと笑った。

「ごめん。なんかいっぱい話しちゃった」

 あの時期のことを、こんなふうに誰かに話したのは初めてだった。 

「いや。最期は病院?」

「ううん、ホスピス」

「そう。よかったな」

「うん。私、大学四年の時にホスピスに興味があった時期があって、本読んだり、ホスピスに見学に行かせてもらったりしてたの。それですぐ探せて」

 秀が微笑んだ。

「親孝行できたんだ」

「ちょっとだけね。でね、不思議な話なんだけど…。その大学四年のときね、友達が、私があちこちホスピスの見学に行ってるっていうのを聞いて、興味を持って、『今度行く時私も連れていって』って言うから、一緒に行ったの。そしたら、卒業後一年もしないうちに、彼女のお父さんが癌になって、彼女と一緒に見学に行ったホスピスに入って、そこで亡くなったの。そして今度はうちの父。違うホスピスだったけど。父が亡くなった後、彼女がメールをくれて、あの時二人で一緒にホスピス見学に行ったのも、何か、前から用意されていたのかもしれないね、って」

「そうか…」

 秀が考え深げな目をして頷いた。

「そうだな、不思議なことって、あるもんだよな」

 優はにこりとした。

「たとえばこの夢とかね」

「まったくだ」

 秀も笑う。そして深々とため息をついて頬杖をつき、

「…まったくだ」

 もう一度言った。




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