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Chap.3

Chap.3


 優はちょっと緊張して家を出た。

 こんなにはっきりした夢の中で、もうすぐ雅也に会うのだ。なんだかドキドキする。夢の中とはいえ、雅也の前でヘマはしたくない。

 ああ神様。どうかどうか授業中当てられませんように。小テストなんかがありませんように。今日は数学がある。

 それにしても懐かしい風景だ。優は早足で歩きながら、辺りを見回して深く息をついた。私の町。私の生まれ育った町。

 お気に入りだった、蔦に覆われてひっそりと佇んでいる古い洋館。

 かわいい柴犬がいつも門の向こうから覗いている小さな家。

 よく手入れされたバラがいつも綺麗に咲いているお屋敷。

 小さい頃よくお使いに行かされた和菓子屋さん。

 夫婦でやっている小さな和菓子屋さんだった。包みを受け取るとき、おばさんにニコニコして「いつもありがとうね」と言われて、なんて答えていいかわからなくて困ったのを覚えている。だって、美味しいお団子やお餅をいただいて帰るのは自分なのに。

 ああ、あの柏餅が食べたい。今が五月だったらよかったのに…などと考えていると、後ろからバタバタと走ってくる足音が近づいてきて、名前を呼ばれた。驚いて振り返る。

「ひどぉい、優!なんで先に行っちゃうの!」

 神田真美子。小学生の時からの仲良しだ。家が近いのでいつも一緒に登校していたけれど、中学時代は一年生の時しか同じクラスにならなかった。

「だって、今日クラス合唱の朝練だから…」

「うちのクラスも朝練って言ったじゃん!」

 しまった。そういうこともあったっけ。

「ごめん!忘れてた」

「もぉう」

 真美子が頬を膨らます。

「ごめん」

 もう一度謝る。

「なんか今朝ちょっとぼーっとしちゃってて」

「何、お肌のタ・イ・テ・キの寝不足?」

 ツヤツヤほっぺの中学生が何を言うやら。おかしくて口元が緩みそうになるのを堪えて、神妙に答える。

「んーそうかも。ほんとごめんね」

「いいよ!こうして追いついたし。いい運動だ」

 真美子はさばさばしている。かなり辛辣なこともズバッと言ってのけるので、女子の中には真美子を敬遠している子達もいたけれど、優は真美子と気が合った。高校は別々だったけれど、最初の一年間くらいはたまに一緒に出かけたりしていた。会わなくなって随分になる。

 昔はSNSどころかメールもなかったから、繋がりが切れてしまうことが多かったのだなと改めて思う。目が覚めたら、Facebookで真美子を探してみようかな。

「今日は髪縛ってないんだ。可愛いじゃん」

「えっ」

 優は慌てて髪に手をやる。そうか。いつもは縛ってたんだっけ。

「いや、たまには違うのもいいかなって思って」

 真美子はふっふっふっと笑って、

「岡崎がどっきりするよ。『おお、七瀬サン、今日は一段と美しいではありまセンカ!もしかしてその美しさはこのボクのため?!』」

 真美子は演劇部員だ。優は吹き出す。

「なんじゃそりゃ」

「岡崎が指揮なんでしょ、四組」

 ああ、そういえばそうだった!

「うん」

 思い出して頬が緩む。

 歌い手はもちろん指揮者をじっと見ていなくてはいけない。よそ見をしてはいけないのだ。だからもちろんじっと見る。ごくごくたまに目がちらっと合ったりした。あれは最高に幸せな時間だった。

 真剣な雅也の眼差し。

「何にやけてんの」

 真美子に笑われて赤くなる。

「にやけてなんてないもん」

 真美子がますますおかしそうに笑う。

「今度は赤くなった。正直だねえ、優の顔は」

 優はがっくりうなだれる。そうなのだ。大人になっても変わらない。

「ポーカーのできない顔なの」

「ポーカー?ああ、ポーカーフェイスか」

「これでも隠してるつもりなんだけどなあ。一所懸命」

 真美子が吹き出す。

「バレバレだよ。だからみんなにバレてるんじゃないの、岡崎のことも」

「えっ、そうなの?!」

 優はぎょっとなる。それは初耳だ。私の顔が原因だったの?!

「自分じゃ気づかないんだろうけど、結構露骨だよ」

 さすが真美子。ズバッと指摘する。

「ほんと?!」

「うん。かなり露骨」

「ええー!どんなとこが?」

「どんなとこって…あちこち全部だよ。岡崎と話してる時とか、岡崎が教室に入ってきた時とか、岡崎と廊下ですれ違う時とか、もう目がキラキラしちゃって。岡崎が他の女子と話してる時なんて、目が嫉妬で緑色に…」

「ええー、うそっ」

「ははっ、最後のは嘘だけど。でも、いいじゃん、別に。岡崎だって好かれて嬉しいと思うよ」

 さばさばと真美子が言う。

「そうかなあ」

「そうそう。美人に好かれて嫌がる男はいないでしょ」

 優はまじまじと真美子を見つめた。

「マミって…マミって…」

「何よ」

「オトナだねえ」

 そのさらっと贈ってくれるお世辞の上手さ。中学生とは思えない。

「そう?」

「…あのさ、もしかして、中身は大人なんじゃないの?中身は大人のまま、未来から戻ってきたんじゃない?」

 自分がそうだから、70%くらい本気で言ってじいっと真美子の反応を窺う。

「何それ。SF?」

 一笑に付されてしまった。


 学校に着く。まだ早いので昇降口は空いている。

「あ」

 思わず足が止まってしまった。二年四組の下駄箱にいる人影は、紛れもなく雅也その人だ。真美子が笑い出す。

「だからバレバレだっていうの。そういう反応するから」

「…気をつけます」

「じゃね」

「うん」

 真美子は二年一組だ。一組の下駄箱は四組の下駄箱の裏側になる。二十秒間くらいの別れ。

 雅也はまだ下駄箱のところにいる。足を速めれば、もしかしたら「おはよう」と言えるタイミング。歩調を緩めれば、優が下駄箱に着く前に雅也は去る。しかしこのままの速度だと、優が下駄箱に着くちょうどその時に雅也が去るという、もっとも忌むべきタイミングだ。

 どうしよう。

 一瞬迷ったあと、優はえいっとばかりに足を速めた。下駄箱に着く。雅也が振り向く。目が合う。

「おはよう」

「おはよう」

 きゃー。

 ああ、今絶対に顔が真っ赤になっている、と優は確信した。頬が熱い。胸もドキドキする。

 たかがおはよう。されどおはよう。

 こんなにこんなに好きだったんだ…。

 ジーンとなった次の瞬間、ハッとした。

 そんな気持ちに浸っている場合じゃない。自分の下駄箱がどこかわからないではないか。

 幸い雅也はそのまま行ってしまったので、優は靴を持ったまま、あたふたと自分の下駄箱を探した。ちょうど腰の高さあたりに「七瀬」と踵のところに書いてある上履きがあった。

 これ、下駄箱に扉がないのは正解だなあ、と靴を上履きに履き替えながら考える。確かに扉がついている方が昇降口の見てくれはいいに決まっているけれど、絶対に中はバクテリアの温床になってしまう。

 それにしても、外国暮らしが長くなってしまったからなのか、こんなところで靴下になってそれぞれが靴を履き替えるというのがなんだかちょっと気持ち悪い。人の靴(しかも決してきれいな状態のものばかりではない)というのがこんなふうにずらーっと陳列されているふうなのも、妙に気恥ずかしい。

 昔は平気だったのに。

 思った以上に外国暮らしに毒されているんだなと気づき、優は嫌な気分になった。

 私は日本人なのに。日本で生まれ育ったのに。

 外国なんか行くんじゃなかった。ずっと日本にいればよかった。

 そんなことを考えてしょんぼりした優を、下駄箱の向こうで真美子が待っていてくれた。

「本当になんだかスローモーだね今日は」

 廊下を歩き出しながら、何やら感心した口調で言う。

「ごめんごめん」

「でもちゃんと挨拶できてたじゃん」

 にやりとして優を肘で小突く。

「うん、できた」

 へへっと笑って応える。

「それにしても、毎日会ってるのにそんなに赤くなるなんてね」

「だって久しぶりに…」

 見たんだもんあの顔、と言いかけて、慌てて言い直す。

「朝ああいうふうに会ったのは久しぶりだったんだもん」

 階段を上り始める。

 一年生は一階。二年生は三階。三年生が二階だ。

 二階には職員室や進路指導室がある。だから三年生が二階なのだろう。でもなぜ一年生が一階なのか。まだ身体が小さくて、重い鞄を持って階段を上るのが大変だから?まだガキンチョで階段の手すりを滑って遊んだりしてしまうから?よくわからない。

 「今日も残って描いてくんでしょ?」

 真美子に訊かれて、優は一瞬なんのことかわからなかった。

「美術部」

「あ、ああ、うん、そうそう」

 そういえば学芸発表会が近いはずだ。展示作品の準備がある。

「今日何日だっけ」

「今日は…25日かな」

「学芸発表会は?」

「来月16日と17日。合唱コンクールが18日」

「わあ、すぐじゃない」

 真美子が苦笑する。

「他人事みたいに言うねえ」

「マミも演劇の練習でしょ、今日」

「そう。時間が合ったら一緒に帰ろ」

「うん!」

 こういうのは本当に久しぶりだった。友達とこんなふうに日本語でおしゃべりするのも、「一緒に帰ろう」なんて言われるのも。嬉しくて楽しくて、どうしてもにこにこしてしまう。

「なんだか今日はやたらと笑顔で可愛いじゃん、優。どうしちゃったの?」

「えっ。いや、どうもしないけど…」

 思わず頬に手がいく。

「マミといるのが嬉しくって、それが顔に出ちゃってるんだよきっと」

 素直に言うと、真美子はすかさず演劇モードになって

「いやー照れますねえ、お嬢さん。はっはっは。しかしワタクシには妻が」

 と太い声で言った。

「マミってさ、男役似合いそう」

「でしょ?!やりたいんだ、男役!」

 真美子は背が高い。どちらかというとがっしりした身体つきで肩幅もある。一年生の時はバレー部と演劇部を掛け持ちしていた。

「女子校に行って、男役やりたいな」

「いいね、それ」

 真美子は都立高校に行った。確か演劇も続けなかったと記憶している。

「優は高校でも絵を続けてさ、美大に行ったらいいよ」

「ええーまさか」

 優は苦笑した。

「美大に行く人達ってすごいんだよ。みんな高校の時から美術予備校なんてとこに行って準備するんだって聞いた。私の絵はただの趣味だから」

「そうなの?でも私は優の絵、すごく好きだけどな」

 そう言いながら真美子が二階の踊り場で足を止めた。そこに展示してある油絵を見て、優も足を止めた。

 三点展示してあるうちの左側が優の作品だった。月夜の海辺。葉を落とした奇妙にうねる枝を持つ大木が立っていて、その幹にドアがついている。ドアはほんの少し開いていて、そこから浜辺に光が溢れている。

 そういえば描いたなあ、と懐かしさと愛しさと少しの恥ずかしさの混ざった思いで、優は絵を眺めた。油絵を始めたのは中一の時だから、まだまだ未熟な感じが否めないけれど、好きな作品だった。今も実家のどこかにあるはずだ。

 美大に行って絵を、か…。

 そんなことを目指せるような雰囲気の家庭ではなかった。祖父や父が医者だったし、学歴を重視する一族なので、真っ当な、地に足のついた、よりアカデミックな職業を目指すように、小さい頃からなんとなく誘導されていた。だから友達が、女優になりたいとか、歌手になりたいとか、オリンピックの選手になりたいとかいうのを、不思議な思いで聞いていたものだ。

 羨ましいな、と今になって思う。カラフルな、自由な夢。もちろん、本当にその夢を実現させることができるのはほんのひと握りの人たちだろう。でも少なくとも、彼らはそういう夢を見ることができた。女優や歌手やオリンピック選手になった自分を思い描くことができたのだ。それはどんなに楽しい心踊ることだろう。

 今なら。今、本当に中学生に戻れるのなら。

 美大を目指してみたいなあ、と思う。

 ああ、本当にもし戻れるのなら。


 真美子と別れ、二年四組に入る。すでに机が後方に下げられて、合唱の練習のためのスペースが作られている。入り口でハッとした。自分の席がどこだかわからない。どうする?

「あ、優ちゃんおはようー」

 窓際の方に固まっている女子数人が手を振る。懐かしい顔に思わず目を細める。

「おはよう」

 手を上げてとりあえずそちらに向かって歩く。教卓の前を通り過ぎたとき、その上にあるものが目に入った。座席表!二、三歩戻って首を曲げ、自分の名前を探す。七瀬…七瀬…あった!廊下から三かわ目の右側。前から三番目。

「どうしたの?」

 美術部でも一緒の竹下晴美が近づいてきた。

「ううん、なんでもない」

「四巻、持ってきたよー。はいっ」

 ジャジャーン、という感じで、晴美が漫画本をさし出す。

「わー!」

 懐かしいー!と言いそうになって、慌てて言葉を飲み込む。『レイン』。この頃女子の間で流行っていた漫画だ。散々すれ違ったり邪魔されたりした後、ようやく恋人になれる両思いの二人の高校生の話。切なくて人気だったけれど、短気な優は、どちらかというと苛々しながら読んでいた。

 お互いの気持ちがわかっているのに、周りの人たちに遠慮して付き合わないなんて!友達が自分と同じ人を好きだからなんだというのだ。向こうが自分を好きだと言ってきたのだから、こっちも自分の気持ちを素直に告白して、友達にはごめんねと言って、付き合えばいいじゃないか。友達だって、うじうじネチネチしないで、さっさと諦めりゃいいのだ。相手に好かれてないんだから。

 そんなふうに思っていた中学二年生だった。

「ありがとう!」

 後で授業中に読んじゃおうかな。優はほくそ笑んだ。昔なら考えもしなかったことだけど、今ならそれくらい平気でできると思う。大人になると、かつてのマジメのマジ子ちゃんでも心臓に毛が生えるのだ。

 浮き浮きしながら後ろの方に下げられている自分の机の上に鞄を置き、振り返ったところで、一人の男子と鉢合わせした。

「あっ、ごめん…」

 言いかけて相手の顔を見て、心臓が止まりそうになった。

 涼しげな目元。綺麗に通った鼻筋。格好良くしまった口元。

 遠野 しゅう


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