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Chap.1

Chap.1


 某音楽ストリーミングサービスで大江千里を見つけた。

「わーウッソ!」

 思わず日本語が出る。大きなテーブルの斜め向かいに座ってスマホをいじっていた夫がちらりとこちらを見る。

「なに?」

「ううん、なんでもない」

 夫は無言でワインを一口飲むとまたスマホに戻った。ゆうもMacBookの画面に戻った。

 夫はもちろん大江千里なんて知らない。何年か前だったら説明して一緒に聴いただろう。優はため息を押し殺した。

 ちらりと時計を見る。日本は今土曜のお昼だ。梨香子にLINEを送る。

「○○で千ちゃん見つけちゃった!」

 すぐに返事が来た。

「千ちゃん?」

「大江千里」

「懐かしいー!みさっちゃんは?」

 検索してみる。渡辺美里。

「あった!」

 じゃあTMNもあるかな…。検索していると、

「TMは?」

「今調べた。あったよ!」

「懐かしいねえ」

「ほんと。中学時代だ」

「私は高校の時も聞いてた」

「高校の時は洋楽にいっちゃったんだよね、私」

「そうかー。さすが英語好き」

「今お昼ご飯?」

「うん、もうすぐ。今日は男子が料理担当。洋介がヒロとジュンとパンケーキ作ってるの」

「いいねー!梨香子は味見役?」

「監督」

「(笑)楽しそう」

 想像して優はうふふと笑った。

 明るい小さなキッチンに、優しい目の男の人と小さな男の子が二人。テーブルに肘をついて笑って見ている梨香子。 

「そっちは?大丈夫?」

「大丈夫。今日は喧嘩してないし、泣いてない」

「そっか。一人で泣いちゃだめだよ!いつでも電話して」

「ありがとう。じゃ、またね。Enjoy your lunch」

「Thanks」

 可愛いスタンプを送り合って、海を超えた文字のやり取りが終わる。梨香子と話している間に、夫はワインを飲み干して立ち上がり、二階へ上がってしまっていた。

 ここ数ヶ月寝室は別にしているから、遅くなっても夫の睡眠の邪魔をすることはない。好きなだけここにいて、懐かしい歌を聞きながら絵を描くことにした。

 この大きなダイニングテーブルは十分なスペースがあって、二階の自分の部屋のデスクよりも快適だ。夫が嫌がったので、以前はダイニングテーブルで絵を描くことはしなかったけれど、今はいつでもここで絵を描く。夫ももう文句は言わない。向こうも多分、もう少しの辛抱だと思って諦めているのだろう。

 描きかけの色鉛筆画をテーブルに拡げ、ワイヤレスヘッドフォンをつけ、まず大江千里のアルバム『Olympic』を選んだ。

 懐かしい…!あまりの郷愁に、優はしばらくは色鉛筆に触れることもできず、歌に聴き入ってしまった。

 音楽と記憶の関係というのは非常に密接だと言われているけれど、本当にその通りだ。

 頭の奥の方にある扉が、一気に開く。

 実家のあの頃の自分の部屋。あの頃の物思い。

 心が、中学生だった日々に引き戻されていく。

 好きだった人。仲の良かった友達。クラスメイト達。部活。嫌いだった先生。体育祭。文化祭。委員会。嬉しかったこと。楽しかったこと。おかしかったこと。失敗。後悔していること。思い出すのも恥ずかしいこと。

 『Olympic』の後は、渡辺美里の『ribbon』を選ぶ。

 絵の方はさっぱり捗らなかった。知人に頼まれた、この地域の教会のチャリティオークションのための絵なのだけれど、中学生の頃に戻った浮き浮きした心で、お城の庭園をそぞろ歩いている気取った貴婦人を描き続けるのは難しい。      

 『恋したっていいじゃない』のあたりでその絵は諦めて、優は中学時代好きだった人の肖像画を描き始めた。

 岡崎雅也。一年、二年と同じクラスだった。弓道部。成績優秀。背の高さはまあまあ。カオもまあまあ(もちろん優自身は世界一素敵だと思っていたけれど、友人達には「うーん…まあまあだけどねえ。なんていうか…地味だよね」と言われていた)。走るのはあまり速くなかった。水泳はイマイチだった(溺れているラッコみたいな背泳ぎを見て慌てて目を逸らせたけれど、あの姿はくっきりと記憶に焼き付いている)。絵がとてもうまかった。字がすごく綺麗で、書初めではいつも学年代表に選ばれていた。一年生の時一緒に学級委員をやった。

 コクハクというやつはしなかったけれど、優が雅也のことを好きだということはかなり早いうちから何故か学年中に知れ渡っていたので、雅也も十分承知していたはずだ。雅也の方も優が好きらしい、という噂はあったけれど、結局なんの進展もなく高校で別れ別れになってそのまま終わった。

 中学卒業以来、一度も会っていない。道でばったり、なんていうこともなかった。同じ町に住んでいたのに。同窓会なんて——少なくとも優が日本にいた頃は——なかったし、成人式にも優は行かなかった。「あんなくだらないものに出る暇ないわ」というのが鼻っ柱の強かったあの頃の優が両親に言った理由だったけれど、実は雅也に会うのがなんとなく怖かったからだというのは自分がよく知っている。変なチャラチャラした人になってしまっていたら?背が伸びていなかったら?太ったり猫背になったりしていたら?…昔よりもさらに素敵になっていて、カノジョと一緒に来ていたら?

 そんなことを考える自分に内心顔をしかめ、その頃付き合っていた他大学の男子に申し訳ないなとちょっと思ったのを覚えている。

 渡辺美里の後は、中学時代多分一番よく聴いていたTM。

 迷ったけれど今回は四番目のアルバム「Self Control」を選ぶ。

 どの曲も十年以上もの長い間聴くことがなかったのに、歌詞をほとんど間違えずに歌える自分に驚く。イントロを聴いて、なんだっけこの曲?全然覚えてない、と思っても、歌が始まると口が勝手に動き始めて歌詞を口ずさむのは、なんだか不思議な感覚だった。

 肖像画は結局あまりうまく描けなかった。

「んー、やっぱり中学時代の記憶だけじゃねえ…遠すぎたか」

 ウツの声に聴き入りながら、なんだかかなり美化されてしまった、かつての麗しの君の顔を眺める。

 写真があればよかったな。

 遠い日々の写真達はみんな実家のクローゼットの中だ。

「あんなに好きだったのにな…。忘れちゃうもんだね」

 プルシアンブルーでそこここに陰影を入れながらつぶやく。 

 席が隣同士になったことは残念ながら一度もなかったけれど、同じ班になったことはあった。

 高校や大学のように男女が二人きりでおしゃべりを楽しめるような環境ではなかったから(もちろん禁止されているわけではなかったけれど、そんなことをすると周囲に冷やかされたり、陰口をたたかれたり、相合傘が描かれたりするので、なかなかできることではなかった)、せめて席が近くだったり、班が一緒だったり、委員会が一緒だったりすると、話をする「正当な理由」ができて最高に幸せだった。

 ニキビができたり、髪がはねたり、髪を結ぶのがうまくいかなかったりすると、いっそこの世が終わってしまえばいいと思うくらい不幸だったし、体育祭のフォークダンスの練習で初めて手と手が触れた時なんて、もう天にも昇る心地だった。誇張でなく、本当に本当に「超」幸せだった。思い出すと今でも頬が緩むくらいに。

「たかがフォークダンスなのにね。フォークダンスよ、フォークダンス」

 画用紙の上の雅也の顔に小声で話しかける。

「ワルツとかじゃない。指の先がちょっと触れるだけなのに」

 それにしても中学生にフォークダンスをさせるなんて、いつ誰がどうして決めたのだろう。小説でも読んだことがあるし、両親も中学でやったと言っていた。

 高校でも大学でも好きな人はできたし彼氏もできた。でも、未だにたまに夢に現れるのは雅也だけだ。目が覚めるたびに「なんで?」と思う。やっぱり初恋だったからなのか。中学時代という思春期真っ盛りの時期に三年間ずっと好きだった人だからなのか。

「実らなかった恋だから、かもねえ。不完全燃焼というのか」

 存分に話ができたわけでもない。だからよく考えてみれば、優は雅也のことをよくは知らない。

 例えば雅也の将来の夢が何かは知っていたけれど、それは一年生の時の担任が、クラス全員に将来の夢をイラスト入りで書かせて、冊子にして全員に配ったからだ。

 ちなみに雅也の夢というのは、「できるだけいい高校、できるだけいい大学に行って、一流企業に就職すること」で、あれにはちょっと「うーん…」と思ったものだった。友人達に「なにあの岡崎の夢!つまんない夢だよねえ」と批判されて、言葉に詰まったあと、「…現実的なのよ」と苦しい弁護をしたのを覚えている。

「現実的なのよ、か…」

 くすくす笑ってしまう。十二歳の時のことだ。もう二十年以上も前のことだけれど、その言葉を口にした時の感じを今も覚えている。高速で頭を回転させて、必死に言葉を探して、えーとえーとこれだ!と捕まえた言葉。

「ちょっと現実的すぎるよね、それにしても。十三歳になりたての少年の夢にしてはさ」

 雅也の誕生日は四月十七日。クラスでは一番年上だった。

 雅也の誕生日といえば、ものすごく恥ずかしい思い出がある。

 二年生の一学期だった。数学の授業の導入で、先生がクラス全員に好きな数字を思い浮かべるように言った。それに何を足して、何を掛けて…とやっていき、最後に出た答えから、即座に最初に思い浮かべた数を当てることができるトリック、というような話だった。優はもちろん最初の数を417にし、先生に言われる通り、ふむふむと計算していった。終わったところで先生が言った。

「はい、みんなできたかあ。じゃ、何人かに出た答えを言ってもらおうかな…」

 ぎょっ。

 先生は名簿だか座席表だかに目を落として、

「…七瀬優」

 ああー…。

 咄嗟に全く違う数字を答えようかとも思ったが、それもできず(計算の過程を述べるように言われたらどうするのだ)、優は仕方なく出た答えを言った。先生はふんふんと暗算し、

「最初の数字は417。合ってる?」

「…はい」

 その時の優の席は前から二番目あたりで、雅也の席よりも前だった。後ろの方にいる雅也を意識してしまい、恥ずかしくて恥ずかしくて、穴があったら入りたかった。しかしこれで終わりではなかった。先生はにやにやして言ったのだ。

「七瀬、どうしてこの数字を選んだの?」

 なんでそんなことを訊くのだ!

 優はしどろもどろに答えた。

「え、えーと、別に…、理由はないですけど…、その、なんていうか、す、好きな数字を、順に、並べてみただけ、です…」

 すると先生は更ににやにやっと目を細め、優をからかうような目で見て、変な間を入れながら、

「…ふうーん、……そう!」

 と言った。

 今思い出しても顔が熱くなる。優はひとり苦笑して片頬に手を当てた。

 あのときは、授業中のことでもあったし、茹で蛸のようになりながら、何?なんで?どういうこと?と独り思っただけで終わったけれど、二学期になってすぐ、更なる恥ずかしい出来事があった。

 図書委員の仕事で遅くまで残っていた時のことだ。

 新しい本のラベル貼りを、一つの大きなテーブルに集まって、女子数人プラス担当の若い女の先生でやっていた。その時に、誰かがニキビのできる位置で「思い、思われ、振り、振られ、両思い」がわかるという話を持ち出した。そこから先生も一緒になってひとしきり、何々先輩がモテるとか、誰々は誰々が好きらしいという噂だとかそういう話をしたあと、今度は本を棚に収める作業になったので、みんなが図書室のあちこちに散った。

 その時、先生がすっと優のそばに寄って来て、

「七瀬さんは、岡崎君でしょ」

 うふふと笑いながら内緒声で言ったのだ。

 まだ二十代の国語の先生で、一年生の時の担任だった先生だ。学級委員をしていたこともあって、先生とは割と話す機会も多かったけれど、こんな個人的な打ち解けた話をしたことは一度もなかったので、これは完全な不意打ちだった。

 咄嗟に嘘がつけない性分なのか、マジメちゃんだったからなのか、優は素直にうなずいてしまった。

「は、はい…」

 ごくりと唾を飲み込んで、

「…どうして知ってるんですか」

 思い切って訊いてみた。

 先生はまたうふふと笑って、

「職員室でも有名な話だもん」

「えっ」

「私はね、きっと両思いだと思うなあ。頑張って」

 もう一度うふふといたずらっぽく笑って、先生は優から離れていった。

 あの時の気持ちも、昨日のことのように覚えている。嬉し恥ずかしという言葉を百倍くらいに濃縮したような気持ち。

 先生に「両思いだと思う」なんて言われてすっかり舞い上がってしまって、一体なぜ自分が雅也を好きなのが「職員室でも有名な話」なのか、訊くのをすっかり忘れてしまったのが悔やまれたが、でもこれであの時の数学の先生のニヤニヤ顔の謎が解けた、と思い、本を並べながら優はひとり赤くなったものだった。

 ほんとに嬉し恥ずかしだったなあ、あれは。強烈だった。

 苦笑して色鉛筆を置き、吐息をついた。ブルー系でまとめた、あまり似ていない肖像画を眺める。

 入学式の日に一目惚れした。式が始まる前の教室で、教室の廊下側の小黒板の脇に立って、友人らしき男子生徒と喋っている雅也の横顔を見て、あ、あの人好き、と思った。

 小学校の時好きだった子も頭のいい子だった。その子とも一緒に学級委員をしたことがある。

 入学式の日には雅也がどんな人か知らなかったのに、一目惚れしたらやっぱり頭のいい人で、好ましい性格の人で、一緒に学級委員をやるような人だったことに密かに驚いた。一目見ただけでちゃんとわかるものなんだ、と十二歳の優は感心したし安心もした。私は人を見る目があるんだ、勘がはたらくんだ、自分好みの頭も性格もいいきちんとした人かどうか、ぱっと見ただけでちゃんとわかるんだ、と思ったのだ。以来ずっとそう思ってきた。誰かを好きになって後悔したことなどなかった。

 今回以外は。

 色鉛筆を片づけながら優は自嘲した。

 こんなことをする人だと見抜けなかったのは相手が日本人じゃなかったからか。

 それとも恋愛と結婚はやっぱり違うからなのか。

「まあ、実はアナタのことだって、そんなによくは知らなかったんだものね。親しくなってたら、案外好きじゃなくなってたかもしれないよね」

 呟きながら、絵の右下に今日の日付とサインを小さく書き入れる。

「もっと色々話せたらよかったのにな。ちゃんと知り合いになりたかった」

 そう最後に言って、優はそっとスケッチブックを閉じた。

 アルバムの最後の曲『Here, there and everywhere(冬の神話)』が流れている。好きな曲だった。

 ——オリオンは、アルテミスに射たれて死ぬのよ。

 ——そうなの?…そうか。なんか切ないね。

 この曲の歌詞について、男子とそんな会話を交わしたのがふと思い出された。

 雅也ではない。誰だっただろう。




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