魔法のことば
その日、野々原昌也は最後の仕事を終えた。
とっくに片付け終えているデスクに忘れ物がないか最終確認をして、カバンを持つと静かに立ち上がる。
振り返ると、支社の社員がずらりと並んでいた。
「支店長、お仕事お疲れ様でした!」
昌也は本日、定年退職を迎える。長年勤め上げた会社の最後の勤務日なのだ。
事務主任の橋田が、代表で花束を渡してくれる。あらかじめ花屋に依頼してあったのだろう、実に立派な花束だ。
「支店長、いままでお世話になりました。御指導いただいたこと、決して忘れません。本当にありがとうございました」
長年の部下である松本が、昌也のそばに駆け寄ってきた。その声はわずかに震え、目元は涙がにじんでいる。
「こちらこそありがとう。世話になったよ」
「御礼を言うのはこちらですよ。野々原さんにどれだけ失敗をフォローしてもらったことか。野々原さんがいなかったら、オレなんてとっくにクビになってました」
「そんな君も、次期支店長に任命されたじゃないか。立派になったものだよ。おめでとう。あとを頼むよ」
「野々原さんがオレを推薦してくれたと聞きました。本当に最後の最後までお世話になりっぱなしですね。どれだけ感謝すればいいのか、わからないです」
ついに堪えられなくなったのか、松本はあふれ出す涙を手で拭い始めた。
「仕事だから当然のことをしたまでだ。松本、君と仕事の合間に雑談するのは楽しかったよ。お互い落ち着いたら酒でも飲みにいこう」
「ええ、ぜひ! お待ちしてます。今日はこのまま帰られるのですか?」
「うん。妻と食事に行くつもりなんだ。妻も長年僕を支えてくれたからね」
「はぼ毎日、愛妻弁当持参でしたものね。楽しんでらしてください」
次の支店長になることが決まっている松本を筆頭に、社員一同が花道を作り、拍手で見送ってくれた。
松本同様に、涙ぐんでいるものも少なくない。昌也が支社の社員にどれだけ慕われていたか、よくわかる光景だ。
社を出たところで、昌也は自分が勤めてきた支社を見上げた。
「満員電車に揺られて、毎朝ここに通勤することも、もうないのだな……」
本社に栄転の話も過去にあったが、部下の松本が取引先と揉め事を起こし、その責任をとる形で栄転の話は流れてしまった。
「結局支店長止まりだったが、悔いはないよ。精一杯やってきたからね。ありがとう、みんな。ありがとう、我が支社よ」
昌也は大きな花束を抱えたまま、支社に向かって頭を下げた。仕事に行くのが億劫な日も多々あったが、それでもこれで最後だと思うと、名残惜しくなるから不思議だ。
万感の思いで胸がいっぱいなったのか、昌也の視界がぼやけてくる。
「いかん、いかん。こんなところで泣いてたら変なおっさんになってしまう」
自嘲気味に笑いながら、昌也は花束を抱え込むことで、どうにか堪えた。
「さぁ、帰ろう。妻が僕の帰りを待っている」
愛する妻の顔を思い浮かべ、昌也は帰路についた。
「あなた、長年のお勤め、お疲れ様でした」
家に帰宅すると、昌也の妻である有美子が朗らかな笑顔で迎えてくれた。
「ただいま。僕もこれでようやく定年退職だ。ありがとな、有美子。僕を支えてくれて」
「お礼を言うのはこちらのほうよ。我が家の大黒柱として、長年お勤めしてくれてありがとう」
「有美子だって働いていたじゃないか」
「私はパートだもの。支店長だったあなたとは違うわ。しかも体を壊して、七年前に退職したし」
「パートでも仕事は仕事だよ。働きながら家事をこなしてくれた。おまけに毎日弁当を作ってくれて。本当にありがとう」
「あなた……」
妻の苦労を最大限に労う夫の言葉に、有美子は幸せにそうに微笑んだ。
「その立派な花束、花瓶にいけておきましょうか?」
「うん、頼むよ」
花束を有美子に渡すと、小柄な妻は花束で顔が見えなくなりそうだ。
「レストランの予約はとってあるかい? 遅れるといけないから早めに行こう」
「ええ、そうしましょう。花をいけたらすぐに支度するわね」
「おめかししておいで。久しぶりに有美子のキレイな姿が見たいよ」
「やぁね、あなたったら」
有美子は花束を抱えたまま、照れくさそうに笑うと、花をいけるべく洗面台へと向かった。
昌也と有美子は、今でこそ穏やかに笑い合う日々だが、若い頃は不仲な時期もあったのだ。
「よっこらしょ」
昌也はテレビがあるリビングのソファーに腰を下ろすと、軽くため息をついた。ぱたぱたと走り回る、有美子の軽快な足音を聞きながら、昌也は過去のことに思いを馳せる。
「子どもたちは立派に成長して巣立っていった。有美子ともいろんなことを乗り越えてきたな……」
昌也は静かに目をつむり、互いに若かった頃のことを思い出し始めた。
※※※
「昌也さん、いい加減にしてよ!」
背中に赤ん坊の娘を背負い、妻の有美子が怒りをあらわにしていた。三歳になったばかりの息子達哉が、泣きそうな顔で有美子の体にしがみついている。
「なんだよ、突然どうしたんだ」
久しぶりの日曜休みの午後、新聞から顔をあげた昌也は、突如怒鳴り始めた妻に困惑していた。
「突然じゃないわよ、前から話してたでしょ、会社の人たちと飲みに行くときは早めに連絡してって。昨日だって夕食作って待っていたのに、結局帰ってきたのは真夜中だった」
「仕方ないだろ、男にはいろいろ付き合いがあるんだ」
「そうやって、仕事をいいわけにするのね」
「だって実際そうだから……」
「今日だって達哉との約束を忘れてるわ。それも仕事のせいにするの?」
「達哉と約束なんてしたっけ?……あっ」
有美子にしがみつく達哉の顔をちらりと見た瞬間、昌也の脳裏に先週息子と話したことが思い浮かぶ。食事の席で達哉と動物園に行く約束をしていたことを。数日前までは確かに覚えていたのだが、昨夜遅くまで飲んでいたため、二日酔いもあって、すっかり忘れてしまったのだ。
「そ、そういえば……」
ようやく約束を思い出してくれた父を、達哉は恨めしそうに見つめている。
「今から準備するよ。それならいいだろ?」
「もうじき三時よ。約束していた動物園の閉園は五時。間に合わないわ」
「そうか……すまん……」
「まったく、もう!」
いたたまれなくなった昌也が素直に謝ったため、有美子もそれ以上追及はしてこなかった。しかし妻が苛立っていることは、荒々しいその仕草から容易に想像できた。
(有美子のやつ、最近怒りっぽいんだよなぁ……。子育てで大変なのはわかるけど)
妻の有美子とは、お見合いを通じての結婚だった。穏やかに微笑む有美子に惹かれ、結婚を決めた。結婚してしばらくは円満な家庭を築いていたが、子どもが生まれた頃から少しずつ不協和音が生じ始めていた。有美子が小さなことで苛立つようになり、昌也に怒りをぶつけることが多くなっていたのだ。
(お見合いのとき、穏やかに微笑んでいたのは幻影だったのかな……)
苛つく妻から逃げるように、昌也は仕事に没頭した。営業活動に力を入れ、寒い冬でも暑い夏でも取引先やお客様へのあいさつ回りを欠かさなかった。勤めていた会社で昌也は少しずつ能力を評価されるようになっていった頃、とある印象的な人と出会った。
「野々原さん、来てくれてありがとう。暑かったろう?」
真夏のある日、昌也は取引先のひとつである、小さな町工場を訪問した。うす汚れた作業着姿の工場長が笑顔で挨拶をしてくれた。
「お世話になっております。山田社長」
いつ訪問しても汚れた作業着を着ている工場長の山田が、その町工場の社長だと知った時は少し驚いてしまった。社長の山田は相手が誰であれ、感謝の言葉と笑顔を欠かさない。工場に勤め始めた若い従業員にも、「ありがとう」と言っている姿を見たのが印象的だった。
取引先とはいえ、この町工場を訪れるのは昌也の小さな楽しみだった。お得意様だからと横柄な態度とる客も多い中、山田は昌也にも笑顔で接してくれるし、些細なことにも、「ありがとう」と言ってくれるからだ。
(でも山田社長はどうしてみんなに、「ありがとう」って言うんだろう?)
ささやかな疑問だったが、社長なら答えてくれそうな気がした。
山田との雑談中、昌也は気になっていたことを聞いてみた。
「あの山田社長、ちょっとお聞きしてもよろしいですか?」
「なんだい?」
「社長はいつも、『ありがとう』という言葉を欠かしませんよね。先ほどだって、わたしがこちらに訪問しただけで、『ありがとう』と仰ってくれましたし」
「うん、そうだね」
「社長の御立場なら、わたしごときに感謝の言葉を伝える必要なんて特にないと思うのですが……」
「『ありがとう』は魔法のことばだからね」
「魔法のことば?」
昌也が聞き返すと、山田はお茶をすすりながら教えてくれた。
「とある寺の坊さんが教えてくれたんだ。『ありがとう』という感謝の気持ちと言葉を忘れていませんか? 『ありがとう』は魔法のことばですよ、ってな。はっとしたよ。その頃はこの工場を親父から引き継いだばかりでね。社長の立場は親から与えらえたものだし、感謝なんて全くしていなかった。周囲にあるものはあたりまえにあるものじゃない。親父だって俺に期待してくれたから、この工場を俺に継がせてくれたんだ。身内や工場の従業員に、「ありがとう」を伝え始めた頃から、だんだんとみんなの顔が笑顔になった。そしたら俺も笑顔になれた。まさに魔法のことばだったよ」
山田は昔を懐かしむように笑顔を見せる。
「魔法のことば、ですか……」
山田が嘘を言っているとは思えない。しかし、「ありがとう」という言葉ひとつでそれほど人生が変わるとは思えなかった。
「疑ってるだろ、野々原さん。顔に出てるよ」
「す、すみません……」
「かまわんさ。信じる、信じないは君の自由だからな」
穏やかな笑顔を見せた山田は怒ることもなく、お茶をすすっている。
(嘘か本当はともかく、僕の素朴な疑問に山田社長は丁寧に答えてくれた。そのことは感謝しないと)
「お答えいただき、ありがとうございます。山田社長」
「できたじゃないか」
「え?」
山田は湯のみをテーブルに置くと、にかっと笑った。
「君は今、『ありがとう』って俺に言ったろ? それは感謝の気持ちから出た言葉だ。それでいいんだよ」
「感謝の気持ち……なるほど。最初は身近なところからでいいんですね」
「人の人生には様々なことが起こる。でも『ありがとう』って感謝する気持ちだけは忘れないようにしたいよな」
「本当にそうですね。その御言葉、肝に銘じます」
「ははっ、そこまでかた苦しく考えんでもいいよ。野々原さんはまじめだなぁ」
「よく堅物って言われます」
「それだけまじめな人間ってことだよ。これからもよろしく頼むよ、野々原さん」
「はいっ!」
町工場の社長から聞いた言葉は、昌也の人生を少しずつ変えていくことになる。
「身近なところから感謝していくことか。となると、まずは妻の有美子や会社の連中になるかな」
営業車の中で、昌也はひとり呟いた。
同じ会社で働く職場の人たちには、社会人としての御礼ぐらいは忘れないようにしている。しかし常日頃から感謝の気持ちをもっているかと問われれば、確かに忘れている時もある気がした。
「そういえば有美子に、『ありがとう』って言ったの、いつだったっけ……?」
妻は夫に従うもの、という封建的な家庭で育った昌也にとって、自分の妻にいちいち感謝の気持ちをもつことなどなかった気がした。
「料理や子育ては妻の仕事で、それがあたりまえだと思っていた。でも僕は家事や育児なんて全くできないし、有美子がやってくれるから、僕も毎朝仕事に行けるんだよなぁ……」
出会った頃の有美子の穏やかな笑顔が頭に浮かぶ。
「まずは有美子に、『ありがとう』って言ってみるかな」
感謝の気持ちをもつようにするとはいえ、いきなり態度から変えられるものではない。まずは「ありがとう」という言葉から始めるのは、理にかなっている気がした。
仕事を終えた昌也は、家族への手土産にとドーナッツ屋へ寄った。言い慣れない言葉を妻に言うのは、少々気恥しく、何か持参するものが欲しかったのだ。
「た、ただいま~」
なぜか緊張してきた昌也は、帰宅の挨拶さえ、どもってしまった。
「おかえりなさい」
有美子は赤子の娘を背負いながら、こちらを振り返ることもなく、台所に立っている。その背中からは、妻の今の機嫌を知ることはできなかった。
「あのさ、ドーナッツが美味しそうだったから買ってきたんだ。良かったら食べてよ。そ、それとね。いつも伝えるのを忘れてたんだけど、今日もお弁当を作ってくれて、ありがとう。美味しかったよ」
「え……?」
有美子が驚いたような声をあげ、こちらを振り返った。
「美味しかった? それ、本当?」
「う、うん。特に卵焼きがふわふわで美味しかった。いつもありがとう」
「あなた……何か変なものでも食べてきたの? あなたが私に、『ありがとう』って言うなんて、新婚の時だけだもの」
まさかそう返されるとは思わなかった。自分がどれだけ妻に感謝の言葉を言ってこなかったか、思い知らされた気がした。
「変なものなんて食べてないよ。身近な人への感謝の気持ちを忘れないようにしたいって、改めて思ったから」
「ふぅん……。それ、いつまで続くのかしら」
懐疑的な目で見られ、さすがに昌也も少々傷ついてしまった。文句を言いたい気持ちに駆られたが、山田社長の笑顔を思い浮かべ、どうにか堪えた。
「これからできるだけ伝えるようにするよ」
「そう。続くといいわね。達哉〜! お父さんがドーナッツ買ってきてくれたわよ。晩御飯の後で食べましょ」
素直に喜ぶ息子の頭を撫でながら、昌也はあたりまえの言葉を伝える難しさを知った気がした。
その後、昌也はできるだけ毎日、「ありがとう」という言葉を伝えるようにした。最初は有美子同様に怪訝な顔をされ、もう二度と言うもんか、と思うこともあったが、続けるうちに少しずつ変わっていった。
まず妻の有美子が少しずつ笑顔を見せるようになったのだ。
初めこそ昌也の気持ちを疑っていた有美子だったが、「ありがとう」を続けるうちに確実に笑顔が増えていった。昌也も「ありがとう」ということで、自分が恵まれた環境にあることを認識できる気がした。
笑顔が増えると、自然と夫婦の会話も増えてくる。やがて有美子は子育てで秘かに悩んでいることがあるの、と話してくれた。
「達哉ね、3歳になるのに言葉も遅くて、食べ物の好き嫌いも多いの。いろんな本を読んだり、相談したりしてるけど、なかなかうまくいかなくて……」
「僕も早く帰れた日は、できるだけ達哉と一緒に過ごすようにするよ。有美子、話してくれてありがとな」
「私こそ話を聞いてくれてありがとう、あなた」
有美子は穏やかな微笑みを浮かべている。
妻の悩みを聞くようになると、彼女もまた様々な葛藤を抱え、苦しんでいることがわかってきた。有美子はずっと家庭にいるし、外で働く自分よりずっと楽だと思い込んでいた。
(有美子が家の中で苛ついていたのは、僕の無関心のせいでもあったのかもしれないな……)
その気付きもまた、「ありがとう」という言葉から知ったことだった。
「ねぇ、昌也さん。最近のあなたって、笑顔が増えたわね。一緒にいて私も嬉しいわ」
それはまさに自分が感じていたことだと思い、思わず笑ってしまった昌也だった。
「以前、世話になってる人から教わったんだ。『ありがとうは魔法のことば』って。最初聞いたときは嘘だと思ったけど、今は本当だって思ってる。人間生きてればいろんなことがあって、『ありがとう』なんて言葉じゃ済まないこともある。でもさ、それでも『ありがとう』って言える人生でありたいよね」
待ち望んでいた本社栄転が、部下の松本が起こした揉め事のせいで話が流れてしまった時は、さすがの昌也も部下と人生を恨んだ。
それでも感謝する気持ちを忘れないようにすることで、松本だけでなく支社の社員全員が一丸となって働くようになり、支社の営業成績は本社より勝ったのだ。
「そうね。私も忘れないようにしたいわ」
有美子が穏やかに微笑んだ。その笑顔は出会った頃の、若くて美しい妻の顔だった。
※※※
「あなた、あなた……昌也さん……」
ソファーに座る昌也は、遠くから聞こえる有美子の声を聞いていた。
ゆっくりと目を開けると、すっかり頭髪が白くなった有美子が、心配そうに昌也を見ていた。
「有美子……? 自慢の黒髪はどうしたの?」
目の前にいる有美子は、確かに自分の妻だったが、その顔にはくっきりとした皺があり、髪の色も白かった。昌也の肩におく有美子の手も、皺がよっている。その顔は変わらず美しいと思ったが、今の有美子はどう見ても老婆だ。
「あなたこそ、髪の毛はもう真っ白よ。『夫婦仲良く共白髪で生きていこう』って言ったのは、昌也さんだもの」
「え……」
驚いた昌也は、自分の手を見てみた。その手は有美子と同じく皺がよっていて、老人の手そのものだった。皺とシミがある自らの手を見た昌也は、やっと気が付いた。
「ああ、僕はまた、定年退職した日に記憶が戻っていたんだね……」
有美子が哀しげな微笑みを浮かべた。
七十歳をとっくに超えた昌也は、少しずつ記憶が曖昧になり始めていた。昌也にとって定年退職した日は忘れられない最良の日であり、時折そこに記憶が戻っていってしまっていた。
定年退職した日と同じように花束を抱え、「僕もこれでようやく定年退職だ」と笑いながら家の中に入ってくる。抱えているものは、自分が買ってきた花束であったり、家の中にあった花瓶であったり、庭にある植木鉢だったりしたが、昌也にとっては、長年勤めてきた会社からもらった花束そのものだった。
有美子は老いた夫の行動を責めることなく、できる範囲で夫の行動につき合った。
「あなた、長年のお勤め、お疲れ様でした」
その言葉を何度、夫に言ったかわからない有美子だった。
「認知症の僕に、付き合ってくれてありがとう、有美子」
白い髪を揺らしながら、妻が穏やかな微笑みを浮かべる。
「あなたはちょっとだけ記憶のお散歩に行ってたのよ。私だって、最近は物忘れが多くなってる。お互いさまよ」
「そうか……」
有美子と話すうちに、少しずつ現在のことを思い出してきた昌也だった。
成人した息子は海外勤務でなかなか日本に帰ってこれないし、娘は遠方に嫁いでいった。二人の子供を心配をかけないように、昌也と有美子は近いうちに住宅型の老人ホームに移り住むことになっていた。
認知症と診断された昌也は、少しずつ記憶が定まらなくなっていた。妻の有美子も足腰が弱くなりつつある。
「なぁ、有美子」
「なぁに? あなた」
有美子が昌也の隣に座り、穏やかな微笑みを浮かべる。
「僕と出会ってくれてありがとう。僕と共に生きてくれてありがとう。いつまで生きられるかわからないから、今ここで伝えておくよ」
「あなた……。私こそ、ありがとう。あなたに出会えて本当に幸せだったわ」
昌也は有美子の皺だらけの手を、ぎゅっと握りしめる。
最後の日も笑顔で、「ありがとう」と言えるなら、平凡でもきっと悪い人生ではないな、と思うのだった。
了