第六十三話 ブラン村
夜が明けて、一行は入村許可を得て集落へと足を運んだ。
郊外に広がる農村地帯で働く人々と、彼らのために商売をする人々。彼らが交わる中心部にて、スィンが突然別行動をとる旨を言いだした。
「悪いがちょっと小用があるから、スネイプ、後は任せた」
「あ、ちょっと待ちなさいよ!」
クルラが引き留めるより一瞬早く、スィンは酒屋へと駆け込んだ。
「もう! 朝っぱらから!」
「情報収集じゃないのか? 酒場は基本だろ?」
アレックスが首をかしげるが、クルラは言下に否定した。
「それは夜になってからでしょ? この時間はみんな農作業よ。普通に聞き込みするしかないわ。でもアレックス、本当に印璽はブラン村にあるの?」
「確かに、森の長はそう言っていた。どこまで信じられるかはわからないけど」
「その件から時間が経っている。既に移動してしまったことも念頭に聞き込みだ。いいな?」
スネイプの言葉に皆がうなずき、三々五々別れて行った。
それはあまりにありふれた一農村の一酒場だった。
農夫さえ飲むことができればいい。観光客なんていやしない。たまに行商の連中も来るが、そいつらも同類だ。
木造のきしんだ扉がスィンにそれを伝えていた。
扉の音が呼び出し音になっていると言わんばかりに禿げてひげの生えたやせ親父が眠たそうにあくびをしながら奥から出てきた。
「なんだい? こんな朝早くから。またデリーズかい? あんたのおかみさんから朝と昼は酒を売るなと言われているんだか……」
「残念だが、デリーズって名前じゃない。今朝この村に着いたばかりの旅人さ」
スィンは椅子に腰かけて店の親父に相対した。
「要件はさっさと済ませたい口でね。単刀直入に言う。この村の1228年物のワイン、一樽いただこうか」
言うと同時カウンターの上に金貨を3枚転がした。
普通のワインの相場からすれば30倍であるが、1228年物であるなら別である。
「お前さん通だね。ブラン村の1228年物を知っているなんざ……」
1228年……ブライタン島のブドウというブドウは悲劇にまみれた。
ボトリティス・シネレアと呼ばれる菌が猛威をふるいあちらこちらの地方で大被害を受けた。だがブラン村のブドウだけは違っていた。
偶然なのか、それをブラン村の住人が知っていたのか、外部の者には知る由はないが、ブラン村のブドウは確かにこの菌に感染したが、それは却ってブドウの糖度を高める作用をもたらした。貴腐ブドウと呼ばれる状態である。
このブドウから生み出されたワインは大変甘口でかつ美味であると評判になったが、いかんせん他の地方のブドウが全滅なのである。
価格はいやがおうにも高まり、とうとう王自らが訪問し一瓶求めた、との逸話が残るほど有名である。
だが次の年からは同じようなブドウが生み出されることはなく他の地方と変わらない、いやそれどころか低品質のものしかできなかった。
そうして14年の歳月が経ち、1228年物は既に残っていないと囁かれている。ゆえに現在そのワインが飲めるとしたら30倍の価格は相応しい。
「そしてその相場も知っている。良いお客さんだが……残念だったな。もう売り切れてしまった。この世にブラン村1228年物はない」
スィンは黙って、金貨1枚を追加した。
「そうだなぁ1228年物ほどじゃないが1235年物もなかなかいい出来だ。そっちでならどうだい?」
さらに黙って金貨1枚を追加した。
「お客さん。いくら積まれてもないものは……」
突然奥の扉が大きな音を立ててでっぷりと太ったおばさんがやってきた。
「何言ってんだい、あんた。地下倉庫に後一樽だけ残っているだろう?」
「ば……あれは……?」
「いやぁすみませんね。お客さん。うちの主人がバカで勘違いしてて」
おばさんは手をモミモミしながらにこにこと近づき、親父にひじ打ちをした。
「おい、お前。あれは、今度の村祭りに使う予定で……」
おばさんは素早く腕を親父の首にまわすとカウンターの陰に隠れてスィンに聞こえないように囁いた。
「ばっか。自分たちで飲むのと、金貨5枚で売れるの、どっちがいいんだい?」
「だったらもう少し値がつりあがるのを待っても……」
「だからあんたは商売が下手なんだよ。あまりしつこくないない言ってたら本当にないと思われるか値段を釣り上げていると思われたらおしまいだよ。ある程度で手打ちにしないと」
「わ、分かったから首が締まる……」
再びスィンの方を向いてにこやかな顔で手もみした。
「お客さん、それじゃぁ持ってくるからお待ちくださいね」
「ああ、それから……」
もう1枚金貨を積み上げると、おかみさんも親父も目を見張った。
「荷車も一台くれ。山道もものともしないような頑丈な奴をな」