第十話 峠越え
「賊がホーン渓谷からウィード領に入ったという証拠はないのに……なぜ、僕はその言葉に乗ってしまったのだろう?」
王子を乗せた白馬は通る道の険しさに、表情をゆがめ、口は開きっぱなしとなっていた。
「おいおい、ここはバックボーン山脈の端っこだぜ? いつかはこれ以上険しいところを通るかも知れないってのに、この程度でばてるのか?」
一方のスィンは涼しい顔をしたまま、王子の前を歩んでいた。その差が開こうとさえしている。
「ま、待ってくれ……セイムダルを休めてやりたい」
「何だよ。そのセイムダルとか言う馬と一緒に山野を駆け巡ったって言っていたのに、もう休みたいのか?」
「こ、こんな険しいところで狩りをしたことはないんだ」
スィンは肩をすくめた。
「やれやれ。分かったよ。十分だけな」
「助かる」
どっと倒れ込むようにして、馬から下りるアレックスをよそにスィンは辺りを見回した。
道の右手はブライタン島の中央を横切るバックボーン山脈。
山頂は雪が残りその高さを誇示する。もっとも暑い季節は過ぎ去ったばかりなので、あの雪は溶けることなく次の冬に降る雪と一体となる。
左手に視線を移すと、谷間に一筋の渓流。
そのせせらぎの音は、一服の涼を二人に与えていた。
いや、涼だけではない。アレックスは馬と共に川縁へと向かい、口をしめらすことに余念がなかった。
ここから先、バックボーン山脈を右手に見たまま脇を北西に向かっていくが、山脈から枝葉のように分かれた山々をいくつも越えることになる。
「今からこの調子か……俺一人で行ったら賊に追いつくんじゃねえのか?」
程なくして、アレックス達が川縁から街道に戻ってきた。
「すまない、待たせたな」
「もう良いのか? さっさと行くぜ。賊は待ってくれないんだからよ」
「ああ、大丈夫だ。しかし、君は元気だな」
「俺は歩兵だぜ。それもクレイス王立兵学校歩兵科大五十七期首席卒だ。これくらいの行軍はなんともねえよ」
「ああ、知っている。君の活躍は多く耳に入っている」
「そいつは光栄だな。王子の耳を汚すことが出来るなんてな」
「汚すなんてとんでもない。バラポラス平原での活躍を聞いたときは胸がスカッとしたよ。よくぞ、あのウィードを痛めつけてくれた、とね……ん? あれは頂上か?」
ふと先を見上げると道がない。それは即ち、あの向こうは下り坂であると言うことを意味していた。
「そうだな。一つ目の峠、の頂上な」
「な! こんな峠がいくつもあるのか?」
「ホーン渓谷までは、あと四つだ」
「何だって! ウィードは遠いな」
「引き返すのか? 止めはしないぜ。俺一人でも賊は追えるしな」
「とんでもない。この程度で音を上げて、国民を率いることが出来るものか」
最後の力を振り絞るように歯を食いしばって頂上まで駆け上っていく。
「よし、頂上だ! おう。絶景じゃないか。山野で狩りしていても見たことがない景色だ」
右の山脈は相変わらず変わらないが、目の前は起伏に富んで様々な光景を生み出し、あちらこちらに一軒家が見えた。
「こんなところにも人は住んでいるのか」
歩みを進めつつも周りを見回し初めての光景を目に焼き付けている。
「俺たちは草の民、なんて呼ばれているが、実際は草原に街を作っても、その街に水や木などの資源を供給するため、こんな山奥に住んでいる連中もいるってこったな」
「知らなかった……草の民は皆、町か村に住んでいるのかと……あそこに比較的大きな集落があるね。あそこまで行けば一休憩しても良いんじゃないか」
「……」
沈黙。これは否定の意味。
「何だ? さっき小休止したから、ダメだというのか?」
「残念だったな。あのブリスト村は今やウィード領だ」
「何だって? ここはクレイス領だろ?」
「街道沿いだけでなく、一部の村々も切り取られるようにあちこち占領されている。聞いているんだろ?」
「それは……確かに聞いていたが……。のんきなことを言っている場合じゃない! すぐに取り戻そうじゃないか!」
アレックスは手綱を引き、今にも駆け出しそうにする。
「分かってねぇな……。落ち着けよ。王子サマ。俺たち二人でどうするんだよ」
「二人だろうと、君がいれば村を占領している兵士を打ち破ることくらい出来るだろ」
「ああ、出来るね。出来るが全滅はさせられない。逃げた兵士が援軍を連れてくるのを止めることも出来ない。援軍が来るまで村を守ってやることも出来ない」
「な!」
アレックスはスィンの背中を見つめるが、振り向いてくれない。スィンは前を見たまま言葉を続ける。
「村で戦をやれば、村人にも被害が出る。俺たちがけしかけることは却って村人を苦しめるのさ」
「く! じゃあ僕たちに出来ることは……」
アレックスはうつむき、手綱が震える。
「無い。印璽の追跡を諦めてあの村を守り続けることを選ぶなら別だがね」
「君は……冷たいのだな」
「どちらが、クレイスにとって良いか、だ。一を救うために十を犠牲にするのか。十を救うために一を犠牲にするのか……。印璽を追うこととブリスト村をウィードから開放すること。どちらが一でどちらが十か、王子サマなら分かるだろ?」
答えはない。
アレックスはただ、うつむいてわき出る感情を抑えるしかなかった。
「見えてきたぜ。ほら、ウィード国旗を掲げられてらぁ」
「盾に五本の剣でWの文字……革命で成り上がった軍事政府を象徴する下品な紋章だ」
村にいるだろうウィード兵に見つからないように街道をそれて歩を進めながら、様子を眺めていた。
「は!」
「どうした?」
「あれは……少女?」
「戦だ。非戦闘民だろうが巻き込まれる……親が殺されたのだろう」
墓石の代わりなのか人の頭ほどの石を二つ並べて、その前で泣き崩れる少女の姿が、いつまでもアレックスの脳裏に残った。
「この峠が五つ目だったな。これを越えたら、ホーン渓谷で間違いないんだな」
「ああ、頂上が見えてきたぜ。あそこまで行けば、眼下にホーン渓谷が広がっている。戦の前は観光地でもあった場所だ。なかなかの絶景だぜ」
「それは是非見ておかないとな」
「悪いがお先」
速度を速めて、いち早くスィンが頂上にたどり着く。
「あ、待ってくれよ!」
「うぉー、これは予想以上の絶景だな!」
「何だ? そんなにすごいのか? 僕にも見せてく……なんだこれは!」
ホーン橋の向こう岸には三百は下らないウィード兵が立ち並んでいた。