第七話 英雄譚に非ず
軍は勝利に沸いた。とうとう最後の一手を詰めるまでに至った。“新たなるヴォーダン”の大願、その成就の時は近い。
……だが、その願いは盲目に肯定して良いものではない。
ハイドリヒは数多の未来を潰し、それでも『神の国』を──『神代』を創るという。北欧の主神オーディンの旅路を辿ることで彼はその器であると示した。人間の尺度では認識することすらできない「本物」の神性を獲得した。彼は、神代開闢の挑戦権を正しく勝ち取った存在である。それに間違いは無い。
だが、誰かが待ったをかけなければならなかったのだ。ただ神を是とする体系は神が人間から手を離した時に終わっているのに、この国はそれすら分かっていなかった。
だから、テオドールにまでその役目が回ってきた。旧すぎる人間にまで鉢を回した。
「………」
テオドールが微睡みから目を覚ます。ダライアスからの最後の通信が耳にまだ残っていた。
『日没に全て整う』
太陽が沈んでいく。テオドールは剣をとる。
『こんばんは、テオドールさん。いるかしら?』
鈴を転がすような甘い声がドアを叩いた。無言でドアを開けると女は驚いたが、すぐに蠱惑的な笑顔を浮かべる。
神智二十四兵の一人、“春”のルーンを持つ女。名はアンネリーゼ・ゲーアハルト。魅惑的な花の香りを纏う彼女だが、テオドールは眉ひとつ動かさない。
「こんばんは。ねえ、一緒に食事になさらない?私、貴方とお話したいの。凄く強くて、逞しいって──」
テオドールは息をつく。訪れた夜に心を預け、目の前の「敵」に目を向ける。
「始めるぞ」
え、と。アンネリーゼのその声は息の音でしか出せなかった。
甘ったるい声と匂いを血の臭いが塗り替える。再び抜かれた魔剣によって多量に撒き散らされた返り血を正面から浴びて、テオドールは廊下に出る。
『夜』が始まった。
アンネリーゼを尾行して来ていたのか通路の角には他の神智二十四兵が三人いた。
ローレンツ、ユリア、ルーカスの三人は、若かった。端的に言えば経験が他に比べ浅かった。だから予想外の「敵」に対して反応が遅れた。
人形のように後ろへ吹き飛んだアンネリーゼを認識した時にはテオドールが部屋から一歩を踏み出していた。テオドールは頭から血を被っていたように見えたが、そうではない。彼らは自分達から吹き上がる血の向こうにテオドールを見たから、そのように見えたのだ。
「ぐああぁあああッ!!!」
最も体格の良いルーカスが上げた断末魔が警報の引金となった。
甲高い耳障りなアラートが屋敷中に響く音で煩く騒ぐ。神智二十四兵が居住する最上等級の住居に使われるものはどれもその格に相応しいものだ。型落ちして反応が遅れることはない。
テオドールの剣が速かった、それだけだ。ひと振りで十の首を飛ばす魔剣といえど、持ち手がテオドールでなかったらこうはいかない。一瞬で斃されたとはいえ仮にもこの国の軍部中枢の最高実力集団に属する彼らでも、魔剣だけなら何の苦もなく避けてみせる。持ち主と対話する余裕すらあるだろう。
だが、その優れた将は一秒にも満たない早さで斬り捨てられた。神智二十四兵の中で、テオドールを除く四人の将は皆戦いの末に戦死した。約一年が経過したこの戦争で、神智二十四兵で欠けたのはたったの四人だけだったのだ。それなのに今、同じ数が一瞬で屠られた。格が違う、等という生温い言葉で表すことはできない。
虫の息以下だがルーカスはまだ生きていた。もっとも、数秒後には死に絶えるのが自分でも分かるのだが。ルーカスは思い上がりを全霊で恥じた。テオドールも加わった神智二十四兵に選ばれていた自分は、彼に準ずる力があると思っていたのだ。
嘆かわしい。思い上がりも甚だしい。象と蟻程の力の差がある。テオドールにとってルーカス達は、剣を振る価値はあったが、所詮そこまででしかなかったのだ。
(…嗤えよ)
嗤えよ、世界最強の魔法使い。
噂に聞いたその蛇顔で、嗤ってくれよ。神智二十四兵が呆れたものだと嗤ってくれよ。
じゃないと、無様に倒れた俺達が、まるでそうではないように見えてしまうじゃないか!!
(あれだけの力があるのに…!何故……!!)
ルーカスが絶命するのとほぼ同じタイミングでアラートを聞きつけた親衛隊員や神智二十四兵の将校が前進するテオドールと鉢合わせる。親衛隊員は先のルーカス達と同様一瞬で壊滅したが、流石、神智二十四兵はテオドールを見ても怯む素振りはなかった。
「H」のルーンを持つヴィンフリートがその力を解放する詠唱を開始するが、それを聴き取ったテオドールによって上顎と下顎がすっぱりと泣き別れる。
仲間の命と引き換えにテオドールの背後をとったマルクスとナターリエがそれぞれのルーンを解放し、マルクスは巨人の杭を据えた武器を振り上げナターリエは必中のサーベルを抜く。しかし完全に無防備だと思われた背中から、ローブの隙間から最初からそこに入っていたように二頭の大蛇が顔を出した。
大蛇は毒息を吹き出しマルクスは顔にまともにそれを喰らい悶絶し、ナターリエもそれを吸ってしまったことに気付いたがサーベルを握る腕に力を込め無理やり振り抜く。マルクスもナターリエも一気に体を大蛇に絡め取られ、全身の骨を砕かれ内臓破裂を起こしたが、ナターリエの決死の一撃はテオドールの右肩を斬り裂いた。
次にテオドールは、血の臭いの中から「時間」の魔力を嗅ぎつけた。具体的にどうなるかは分からないが、時間に干渉するということは減らした神智二十四兵を再起させる可能性がある。「D」のルーンを持つ神智二十四兵をテオドールは左眼の人工魔眼で見つけ出し、テオドールの後方に潜んでいたエリーアスの首を撥ねた。
「テオドール・ギフト!!」
「ッ…まさか……まさか、どうしてこんなに…!!」
前進を再開したテオドールと、ベルント、マルガレーテ、ニコラウス、それと「L」のルーンを持つ少年、クラウスが向き合う。
「やろう。私達で終わりにする」
「「はっ!」」
大人三人がテオドールに向かってくる。クラウスは青い魔力を放出し何かを念じているが、それをテオドールが妨害するのを見越し大人達がテオドールを止める。
テオドールの魔剣の斬撃を止めたのはベルントだった。手を交差して組むだけで斬撃を己の身ひとつで防いだ彼はクラウスに迫らせまいと拳を突き出す。それを回避したテオドールの頭を狙って、マルガレーテの尋常でない勢いの蹴りが繰り出された。自身に宿る蛇の能力を使い、どうにか身体を捻り避けたが顳顬に掠っただけで脳震盪のような衝撃が伝わる。
ここで初めてテオドールは後退した。猛撃を仕切り直すためテオドールは防護壁の魔法を唱えたが、壁が出来上がった途端何かを大きく弾く音が鳴り壁は粉々に砕け散る。
まるで経年劣化した壁を取り壊すように砕ける魔法。それを実現可能な魔術師は一人だけ。「J」…「年」のルーンを持つ、ニコラウス・ジーゲルトだけだ。
略式詠唱とはいえテオドールの魔法を容易く劣化させるニコラウス、スタイルは全く異なるが見事な連携でテオドールに隙を与えず攻めこむベルントとマルガレーテ。手練であるのは紛れもない事実。だが、その動きは一種の「潔さ」があるからできる戦い方だとテオドールが気付いた時には、三人の表情には「覚悟の笑み」があった。
「《穿て…切り裂け…飲み込め…!私は全てを捧げる!!全ての暴虐を以て応えよ!!『数多を切り裂く波濤』》!!!!!」
クラウスが絶叫したのと同時に、鉄砲水が如き「渦」がテオドールを襲った。「渦」はその水流一本一本が人を切り裂く波濤の刃となる。クラウスを守るように果敢に戦った彼らをも巻き添えにした刃はテオドールを切り裂かんと唸り声を上げる。
「はぁ……はぁ……」
クラウスは立つ力すら失って水と血が混じり合う床に尻をついた。心の中にあった感情が、テオドールに対して抱いていたもの全てが流れ出した喪失感が酷い。何か別のもので心を埋めようと自分を促すが、クラウスは目の前の大渦から目が離せない。
どうして。敬愛するハイドリヒの目の前で言葉を交わしていた彼が、何故、裏切ったのか、そればかりが反響する。クラウスはテオドールを好きになれなかったが、同じ仲間だと当然のように思っていた。ハイドリヒが間違えるなどありえないのだから。心は皆同じ、それは絶対的な真実なのだから。
本当に分かり合えないものだったのだろうか。同じゲルマンでも、世代が異なれば理解の難度は深まるとハイドリヒは常々そう言っていた。
けれど、最も旧いと言われるテオドールが加わった時、それは絶対ではないとクラウスは知れたと思っていた。本当に嬉しかった。
それ、な、の、に。
「──!!」
思考を両断するが如く、渦が割れた。水が溢れ、血と混ざり合い、溶け出した血がぼやけたまだらを作り出す。
全身に傷を負いながらもテオドールは生きていた。立っていた。傷口からシュウシュウと小さく煙を吹き上げながら、その傷を魔法で癒している。その魔法を止められるひとは、いない。
クラウスは終わりを悟った。もう魔力は残っていない。全てを波濤に込めて、一滴残らず捧げてしまった。時間を作るために真っ向から立ち向かい、巻き添えになると分かった上で極限まで追い詰めるために戦った仲間に、大願を成す力と理想を持った主に捧げてしまった。
「……“迅雹”ヴィンフリート・ライトマイヤー」
“逃さずの剣”ナターリエ・ラッツィンガー、“ヤールングレイプル”ベルント・ミュラー、“蹄”マルガレーテ・ヴァイス、“流れを知る者”ニコラウス・ジーゲルト。
「“清らなる水の声”クラウス・グラーフ・フォン・リーフェンシュタール」
テオドールは名前を呼ぶ。一人の戦士として、例えその決着が一瞬でついていた相手だとしても、明確に互いの「正義」に命を賭けた魂に敬意を示す。
これがテオドールの、クラウスの声無き問いへの答えだった。最初からテオドールと神智二十四兵の「正義」は異なり、相容れることは無かったが、認めるに足りうる戦士は対等とするに相応しいものだった。ただ、「正義」が違っていただけ。それだけだ。
「見事だ」
静かに言祝いでテオドールはクラウスの心臓に剣を突き立てる。大渦の刃で濡れた廊下に、また赤が広がった。
「……」
…静かに、しかし明確な嚇怒を携えた足音が近付いてくる。通り過ぎたものを全て凍てつかせ、その女は声も震わせず冷徹な視線を向ける。
「……よくも、ここまで堂々と裏切ってくれたな。“蛇目”」
第三神国大将、ヘルガ・シュテファニエ・グロースクロイツ。
“新たなるヴォーダン”の右腕が、冷獄への門を開きにやって来た。