第三話 踏み入ってはならない
船はルアーブルに着港し、フランスを横断して『黒い森』に入る。フランスとドイツの国境は当然ながら国境軍同士が睨み合い、通り抜けられるような状況ではない。しかし黒い森はテオドールの住む森だと知られているようで、国境にあるにも関わらず軍隊はおろか人一人として見当たらない。
森に入る前にテオドールがざっと辺りを見回したが、本当に誰もいないようだ。遠見すらも見ていない。果たしてどのような噂が出回っているのか。おそらくそれは大体が本当にあった話なのだろう。
テオドールの先導で森を進む。テオドールは自身は森の主でもなんでもなく、ただ間借りさせてもらっているだけの魔法使いだと言っていたが、彼が踏み出すごとに草木が分かれ道が出るのは『森』と一定の信頼を築いている証に違いない。
「……」
「っ」
止まれ、とテオドールが杖で制する。ダライアスが無言で頷くとテオドールが一人で一歩先へ向かい、振り返って耳をとんとんと叩く。
ダライアスは耳の後ろに仕込んだ通信機を起動させ、気配を消す。何かがいるらしい。
音を立てないようにダライアスがテオドールの後を一定距離を保ちついて行く。テオドールの眼がしきりに視界を巡ると、軍服の裾が隙間に見えた。
「《従僕共》!」
「げっ!!」
「うわぁあっ!!」
テオドールの呼び掛けに応じたのは数多の大蛇だ。秘密警察官の背後からどこからとも無く現れた蛇達は逃げる足を尾で絡め、ぐるりと腕を拘束し胴に巻き付く。数分足らずで森への侵入者は呆気なく捕らえられた。
「外に居らんと思ったら入り込んでいたか。森には踏み入るなと言っておいた筈だがな?」
「しっ、知らない!我々はテンツラー少将のご命令でこの森を調査していただけに過ぎない!」
「テンツラー。其奴がお前達の頭か。さて如何するかな。数は十か」
拘束された十人の警官を地面に転がし頭の向きを揃えて並ばせ、その枕元にテオドールはしゃがむ。そして何かを考える素振りを見せると、「そうだな」と綺麗な笑顔を作った。
「まあ良し、今回は逃してやろう」
「!」
「そ、それは本当か!」
「ああ、嘘は吐くまい。しかしよく聞け。次この森に入り込んだなら、今この時のようにお前達を列に捕え、端から順に此奴等が一人ずつ食うようにしよう。頭が先か足が先かは此奴等の気分次第だ」
「──ッッ!!!」
警官達の顔が一気に青褪める。弱々しく声にならない声が上がるがテオドールは聞く様子も無く、今度は蛇達に語りかける。
「お前達、聞いていたな。次この匂いの人間が森に踏み入ったなら、この様に全員捕えて一列に並べ、何方からでも良い、端から順番に食うのだぞ。隣が食い終わったら次の者の番だ。分かったな?」
すると返事をしたのか蛇達が一斉にシューシューと音を出す。警官の顔色は益々悪くなり、失禁する勢いだ。
「この事、良く良く少将に伝えたら良いだろう。そら、解放だ」
テオドールが杖尻で地面を叩くと蛇達が縛りを解く。警官達は這う這うの体で逃げ出した。
「……。良し、もう良いだろう」
虚空に向かって──通信機を隔てるダライアスに向けてテオドールが声を投げる。
するとテオドールの耳が地面に飛び降りる足音を拾い、やがてその足音の主が近付いてくる。
「………」
「何だその顔」
「逆に俺が平然としているとでも思っていたのか」
通信機越しにテオドールと秘密警察官のやり取りを聞いていたダライアスは、率直に言ってドン引きしていた。
日が落ちかける頃、ようやくテオドールの住む小屋が見えてきた。細心の注意を払い、まずはテオドールが小屋に入る。どうやら秘密警察がうろついていたのは森だけだったようで、すぐに顔を出し合図を送った。
「客が来るのは何年振りだったか。流石に家に入る度胸は無かったようだからなあ、掃除の必要が無くて良い。客室なんざ無いからな、崇の部屋を使ってもらうぞ」
「ああ。感謝する」
「その代わり脚がはみ出しても文句は言うなよ。あれ以上に大きい寝台なぞ無いからな」
崇の部屋は女子の部屋というには簡素だった。戦時中ということを踏まえてもそれらしさは薄く、あるのは使い込んだ勉強机とベッドに本棚だけ。天井まで届く本棚は一分の隙間も無く本が詰められており、幼さが見えるのは窓際のテディベアのみ。
邪魔にならなければ好きにしていて良いと言い残しテオドールは一階に降りていった。一応は客人として扱われているとはいえ、ダライアスに他人の部屋を物色する趣味はない。
コートを椅子にかけ、手持ち無沙汰にベッドに腰掛ける。すると丁度正面に本棚がある配置なのだが、ある背表紙がダライアスの目に留まった。
(『Werewolf』…ドイツ語版ではないな)
人狼狩りの教本の一つとして擦り切れるほど読み込んだものと同じ装丁に手を伸ばす。
「っ……」
手に取ると夥しい数の付箋が目を引いた。しかもそれだけではない。開いて分かったが中のページが外れかけている。
これは魔力世界の生き物や怪物を学ぶための図鑑などではなく、「人狼」についてそれまでの代の知識や情報を詰め入れた専門書だ。ダライアスは勿論、人狼狩りを担う【討伐隊】の第二師団では誰もがこの本を持っている。しかしこれが流通しているのは人狼狩りに関わる者の間だけで、外で見かけることはほとんど無い。それは単純に専門知識をどれだけ身に付けたところで一介の民衆にできることは限られ、分かりきっているものだからだ。当然ながら売れ行きが良い筈もない。
しかし崇が所持しているこの本には血の滲む研鑽の痕が残っていた。この本棚は学院でも自分の部屋の本を読めるよう、遠隔でも取り出せる仕組みがしてあるものなのは本に触れた時に分かっていた。崇は学院にいる時も黒い森に戻ってきている時も、学ぶ手を緩めなかったのだろう。
ページと捲ると人狼の身体の仕組みや呪いによる細胞変異の機序、転化した人狼とどう戦い無力化するかが書いてある。本来、これは人狼を「殺す」ための知識だ。だが崇がその隙間を埋めた書き込みは全て「生かす」ためのものばかり。
これだけではない。目の前の本棚には、文字通り古今東西の本が並んでいる。中には既に発禁処分になったものまで並んでおり、一部は今なら博物館行きになる程古い書物もある。ジャンルはほとんどが「学問」で、叙事詩や歴史書もあるが本棚の大半が「魔力言語」、次に多いのが「魔法薬学」。
圧倒された。絶やすことの無い研鑽と努力は賞賛の言葉だけでは到底表しきれない。何よりその根底にあるのは心根の純粋さと善性だった。ただ調合が好きなだけ、好奇心が努力を惜しまないだけでは人狼の無力化を行う上で最も重要な薬である睡狼薬は作れない。使用対象の人狼は勿論、効力の匙加減を間違えれば自分だけでなく周りの人間を巻き込みかねない薬だ。それを作るには深い知識と経験、それを証明する許可状が必要になる。その壁は高い。
決して非凡ではない。だが、天賦の才を持っていたのでもない。教本を開けば分かる──ただ、ただひたすらに、積み上げていったのだ。常人では考えられない程の知識と研鑽をうず高く積み上げた、その痕跡がここにある全ての本に残っている。鳥肌が立った。
(──……やはり)
何を賭してでも、止めなければならない。喪われてはいけないものを枢軸は己が利とするためだけに奪い去っていった。喪わせてはいけない。未来を築く存在は不確かなものではなく、確かにここにあったのだ。
まさかその人物ではなく、その所有物に気圧されることになるとは思ってもいなかった。ダライアスがベッドに腰を下ろそうとしたその時、腰の銃が引っかかりベッドの木枠に咄嗟に手をかける。しかしその瞬間、何かが「解ける」音がした。
「…!?」
よく見ると木枠に小さな飾りボタンのような細工があるのが分かった。部屋を見回すが特に何か変わった所は見当たらない。不思議に思いつつもふと窓を見上げると、その正体が現れていた。
「おい、さっき魔法の匂いがしたが──。……」
「…蛇目、これは…」
「……いつ買っていたんだ、こんなもの」
窓枠の上に現れたのは、横長の額に納められた一枚の絵だった。
それは英雄画だった。左手に杖を持ち、右肩に大剣を担いだ旅装の男が右手前に描かれ、額に王冠を思わせる模様を持つ大蛇──否、巨蛇と対峙している。大きさを忠実に描いているものではないのだろうが、その蛇はこの世のどんな蛇よりも巨大であるように見える。だが男は不敵に笑い、目を爛と輝かせている。
名のある絵描きが描いたものでないのはダライアスにも分かる。しかしこの絵は完全に静止している光景を描いたにも関わらず、今にも戦いが始まりそうな緊張感を孕んでいた。
「何をしたら出てきたんだ、これは」
「ベッドの頭の…これに丁度手が触ったらしい。それで出てきた」
「はーん…?……成程なあ、巧く隠していたものだ」
喉の奥でくつくつと笑うとテオドールはボタンに触れる。すると絵は何かに遮られるように消えていき、元の何も無い壁になっていた。
「もう少しで飯ができる。降りてくるといい」
「……蛇目」
「何だ?」
「貴様、左腕はどこで失った」
テオドールの目がすう、と細められる。だが、殺気は無かった。
「──飯の後で話してやるよ。今は飯が不味くなる」