第十五話 “バジリスク”
テオドールの血が雲の大地に吸い込まれていく。完全な致命傷ではないが、限りなくそれに近い傷は放っておけば彼を死に至らしめるだろう。だが、ハイドリヒに慢心は無かった。手負いの獣ほど恐ろしいものは無く、ましてや記録に残っているだけでも数千年を生きてきた魔法使いが何の手段も持たない筈がない。
何かを仕掛けてくる。言い様のない不安を肌に感じ、ハイドリヒは槍に獲得したルーンを発動させる。剣槍に刻まれたルーンは戦いのルーン。「テュール」、その神威を全て刻んだ戦のルーンだ。
嵐の野に上がってくる直前、テュール神と成ったヴェアハルトの魂を刺し貫いたことでハイドリヒはそのルーンを受け取った。その行為は正しかったと言えよう。テオドールから漏出する気配は抗いようが無く、いつかどこかで感じた悍ましさを再起させていた。神威すら退ける気迫を、その内に煮え滾る武威を戦神の魂が感じ取っている。
「……なあアドルフ。お前は大切なものが奪われた時、人が何になるかを知っているか」
『何になるか?いいや……人は、人だ。それ以上にも以下にもなりはしない』
「そうか」
テオドールが立ち上がると炎の匂いがする。
「真に大切なものを奪われた時、人は竜となる。その喪失を如何にかして、どのような手を使ってでもその孔を埋めんと苦しみ踠き、慟哭の火を吐いて形振り構わず求めるのさ。それが人の、真の面の一つだ」
炎の匂いが強くなる。
「お前は何人を竜にしたのだろうな。お前がしたのはそういう事だ。この手の説教なぞ、お前にしても無用なのだろうが。
よく見ておけ。お前が人を『竜』にする様を」
嵐の野が揺れる。テオドールの背後にある野が、それまで金の光を通していた雲が暗い闇の雲となる。
「《炎精王イフリート。原初の炎サラマンドラ。或いはそれらではないもの。破滅の炎に希う》」
テオドールの輪郭が暗雲に浮き上がる。橙に輝く炎が煌々とその光を強めていく。
『左腕が哭くか。左腕が哭くか。蛇よ、主が請うなど何ぞある』
『炎』がテオドールの首筋を撫で、後ろから包み込むように抱擁していた。その『炎』は女の姿をしている。ヘルガとの戦いで現れた時のような手の平ほどの小ささではなく、歴然たる「格」を持つ麗容の精霊がそこにいた。
「《ああ、哭いている。彼の喉笛に風穴開けられぬことが口惜しいと哭いておるのだ。故に汝、灼腕と成れ。ヴォーダンが神代を再び興すと云うのならば!己は神代を墜とし、神を引き摺り下ろそう!!》」
『良かろう』
炎の精霊が「諾」と応えた。その寸前に剣槍が降り注ぐが全て炎に燃え尽きる。かつての神話、炎の巨人の再現かと錯覚する程に強い炎が太陽の如く燃え上がる。
『宣ったならば燃やせ、総てを燃やせ!相手に不足は無し、神堕、成してみせよ!!』
炎がテオドールを巻き込み収束する。ひと触れで物質を消滅させる熱線が縦横無尽に放たれハイドリヒの髪の一端が黒く消えた。
テオドールの髪紐が弾け、蛇のように爆風に踊った。嵐の野を照らした太陽は消えたが、その炎は尚も光を放ち続けている。
(なんという──)
『人と精霊の融合』。魔法使いの領分である「奇跡」を逸脱して成立したそれは、どちらかが対象の自我を取り込むのではなく、それぞれが独立した魂として存在している。
神の眼にはそれが視えた。限りなく黒に近い灰色の魂と生身で視たならば失明しかねない程に強い熱光を放つ魂が交わることなく隣り合っている。心の底よりももっと深く、本人達の自覚すら無い所でこの魂達は互いを「別」のものと認識しているのだ。どれだけ近くに居ようと決して染まらない強烈な自我を持っている。
テオドールの左腕はマグマよりも赫く、天上の星よりも熱く燃える『火』になった。薄く開いた口から炎の吐息を零し、先端の裂けた舌がチロチロと覗く。頬から首筋に表れた暗緑色の鱗が灼腕に照らされ光を反射している。
加えて『バジリスク』の呪いが内象を侵している。テオドールの身体が蛇に近くなっているのはそのせいだ。失うことを良しとした左腕を今になって取り戻し、全ての命に害を生した怪物の力を厚顔にも振るう。
(恥の塊だな)
自分の外見が今どの程度まで蛇に近付いているか分からないが、皮肉なものだ。
「行くぞ」
大剣と剣槍がぶつかり火花が散る。先程よりももっと烈しく、暴力的な武が衝突する。
一度、二度、三度。概念を壊す衝撃が振るわれる。
四度、五度、六度。世界を壊す鋼が振るわれる。
「…………?」
十度、百度、千度。五体を砕き五感を死なせる剣戟を繰り返せど終わりが見えない。
流石のハイドリヒもこれを異変と感じ取った。明確に『何かがおかしい』と、『ありえない出来事が成立している』と理解する。
『何故、お前はこれを受け続けている?』
「──気付いたか」
ハイドリヒの手がテオドールの肩を砕いた。それと同時にテオドールの左腕がハイドリヒの腹を燃え貫く。互いに引きちぎるように手を離し、無量の応酬を再開する。
「其処まで気付いたならばもう分かるだろう!お前が己に一撃を与えた分だけ、己はお前に一撃を与え続けていると!」
『──本質を、逸らすな!貴公、これは、貴公の器で出せるものではない!……まさか。テオドール、お前は────!!』
「……嗚呼、そうさ」
蛇の眼が歪む。
「己は『因果』を知っている」
『──人の身で、そのような』
「有り得るんだよ、これが!!」
『因果』。それは、本来ならば時を巡り廻ってくるものであり、また一個人が知覚するものでもない。そう感じるのはそれが訪れた時のみであり、自ら言い放つなど賢者の真似事をする愚者の行いに他ならない。
だがどうしてか──人間として原始的なものが欠落しているからなのか──気の遠くなるような時を生きた報酬なのか、理由は定かではないがテオドール・ギフトという人間が知るものに関しては「本物」だった。
どのようにすればどの因果が巡ってくるのか。どの程度の行いならどの程度の因果が起こるのか。テオドールの不文律による妄執の結果でしか無いのかもしれないが、テオドールは戦闘行動という極度に短い期間でもその『因果』を見るようになっていた。
相手が何であろうと関係無く、ただ等しくあれと。与えられたなら与えられただけ、憎まれたら憎まれただけ、攻撃されたなら攻撃されただけ、等しく返さん。
その行いと過程は結果、テオドールに力を与えた。どんな相手でも対等に戦えるだけの力を与え、どんな戦いでも必ずそれに等しい因果を巡らせる。
これこそがテオドールがあらゆる戦いを経ても生き延びてきた所以。いかなる相手とも等しく戦い、等しく因果をもたらす。
それは英雄と呼ばれるに相応しい戦果を挙げておきながら英雄などとは呼ばれようもない男の持つ、まさしく『運命的』な力だった。
雷撃が迸る。嵐が肉体を切り裂いていく。
嗚呼、なんと素晴らしいことだ。これ以上にない程にこの戦いに相応しく、その魂の欠片に至るまで独占したいと欲が湧き出す。
『もっと私に応えてくれ。もっと私を殺してくれ。私も貴公に応えよう、貴公以上に貴公を殺そう!!』
「嬉しくねえが気分は悪く無い。良いぜ」
黄金と黒が競り合っている。互いを殺し呑み滅ぼさんとまだらにその模様が描かれる。
多幸感と絶頂がハイドリヒを満たし飢えさせた。彼以上の人間は居るまい──思わず、言葉が零れた。
『お前こそが私の──私の、「運命」だ』
「は──」
だがその言葉に、テオドールの瞳孔が見て分かる程に開いた。
「知った様な口を利いてんじゃねえぞ生まれたて。てめぇの言う様な己の『運命』は、とっくの昔に平和ボケして死んだわ!!!」
「怒った」。黒い怒りを持ってはいても感情的になることなど無かったテオドールが明確な怒りを表した。神の傲慢も大概にしろと怒りの感情が灼腕をより燃やす。
ハイドリヒは「竜」となったテオドールの逆鱗に触れた。しかしテオドールが怒声を放ってもなおハイドリヒは釈然としない面持ちのままその灼腕を受ける。
「何を怒る」、と。そう訊ねようとしたその時、テオドールが杖を向けるように剣をハイドリヒに向けた。
「……執着したな、“ヴォーダン”。たかが人間如きにお前は執着している。お前の目的は己なんぞでは無いにも関わらず、その他全てを放棄してでも己に執着しようとしたな。大莫迦者が!」
『──ッ!』
「覇を征くなら己を、己達を踏み潰して征け。現生するもの総てを滅ぼして征け。お前がそうするならば己達はそのように抗する。そうでなくてはならない!!
間違えるな。己は人だ。只の、碌でもなく長く生きただけの人だ。本来ならば此処に立つべきは勇者だったのだろう。だが勇者は生まれず、己は己の弟子を憂い無く連れ戻す為だけに此処に立った。それが死の際にある現生人類の選んだ『運命』だと言うならばまだ受け容れられるが、『神』の運命なぞ真ッ平御免だ。
認識しろよ。己はお前の『運命』などでは無い。己はお前の為に死んでやる気も、お前の道筋に従じてやる気も無いからだ。己の運命はとうの昔に死に、お前の運命は現れなかった。この戦いはそういうものだ。言ったろう、『己はお前を殺しに来た』と。そしてお前は己達を踏み潰して征くと示し、開闢を宣言した」
『──……。……そう、か。やはり…………そうだったのか。……ならば……』
ハイドリヒの眼帯が弾け飛びその右眼が顕になる。右の眼窩には何も無く、ただ金色の輝きがあった。その輝きは次の瞬間吹き上がり、黄金の嵐がハイドリヒの内側から流出する。
同時に嵐の野が暴風と共に輝いた。テオドールの足元を除いた雲の大地が、吹き付ける雨が、皮膚を切り裂く風までもが金色に輝く。
今までただの内象でしかなかった“嵐の野”が、ハイドリヒの内象から顕界し神代となった“黄金を抱きし第三神国”の一部へと成ったのだ。全ての始まりとなる地が、それに相応しいものになるための「覚悟」を得たのだろう。ハイドリヒの内に眠っていた切望、それを埋める代償行為の否定。それでも得られたものを知ったからこそ野は黄金に輝いた。
『──手を煩わせた。朋よ』
「何だ、それでもまだ朋と呼ぶのか」
『例え私の運命がついぞ現れなかったとしても、貴公を朋と呼ぶのを止める理由にはならない。
……だからこそ、テオドールよ。「人」よ。貴公らとの戦いはここで終わりにしよう』
ハイドリヒが剣槍をテオドールに向ける。
『私は全てを終わらせる。神を終わらせ、新たな世界を生む。その為に死んでくれ』
「嫌だね、死ぬのは誰だって嫌だよ。己もまだ死ねん理由が出来てしまった。あれを生きて迎えなければいけないから」
どちらも譲れぬ。
どちらも退けぬ。
その重みには天地の差があれど、その価値は等しくある。
ならば。
『「──この一幕で、終わりとしようぞ」』