第十三話 一つの神代
アドルフ・ゴットフリート・ハイドリヒという男が救いようがないのは、産まれた時からだ。
誰に教えられたでも、自ずと知っていったのでもなく。自明の理として、世界というものを超常の目で見ていた。
しかし人間性に欠けているかと問われればそうでもなく。家が抱えている魔術師が引き取った青血の少女とは所謂幼なじみという関係を築き、照り続けた太陽の始末に訪れた地では飢え渇いた狂牙を配下に置いた。
だからこそハイドリヒという人間はその社会の根を造作も無く見通した。貴族が飽食と享楽を得る一方で平民は脅威に曝され羊を案ずるばかりの日々を送る。どこを見ても必要な格差ではなく無駄に弱者を疲労させる格差ばかりだ。
彼は思考する。
その「差」を産むのは何なのか。
人種、身分、そのようなものは表層の凹凸でしかない。人種は生きる地での違いでしかなく、身分は社会が必要とし生み出された機構だ。どちらの「差」も役割が違うだけでしかなく、どちらも必要だから出来たのだ。
だが人は、己とは違うものを追いやるよう仕向けられる。
そうしているのは何だ。石を投げ、棒で打ちすえ、己こそが文化というものにおいて高次のものだと肥大することを咎めすらしないものは何だ。
…「宗教」。それが答えだ。酷く不安定で、声の大きいものが正しいと酩酊し、信じきるようになる「信仰」。それこそがこの世界におぞましく不快なものを産み出す温床となった。
それが人を救うのに違いは無い。しかし自分と違うものを恐れる弱心が他を排する悪と成った。当然だ。
「信じるものが違う限り、この愚かしさは泡の如く生まれ続ける。正されることは無い」
ならば、己が絶対的な一柱と成ろう。
確固たる自我がある限り、何ものにも呑まれない意志がある限り、この世界に不可能というものはない。
その考えは奇しくも、世界を隔てた「自分自身」と同じものだった。
………………
ハイドリヒの旅は絶望を焚べ続ける旅だった。だがハイドリヒはこれまでの人生で喰い続けた絶望を焚べても、希望は望まなかった。
それは希望が人を救うものではないと知っていたから。束の間の一助に過ぎず、一過性の幸福ほど無様なものは無い。
必要なのは叡智。これから己が力を得てからそれをどう使うべきか、どう人を導くかを知ることこそがハイドリヒの望みであった。かの大神と同じく、全てを知らねばならないと。
首を吊り、自分自身を“ヴォーダン”に捧げたハイドリヒは、真の奇跡を見た。
それは「ラインハルト・ハイドリヒ」。それが〈現世〉の己自身、死した己だと理解するのは難しくなかった。
己の周りは脆弱者ばかりだ、こちらはどうなのだとラインハルトは悲観していた。ああ、その絶望はよく分かる。意志が足りねば何も成せない。
今度こそ成そうではないか。自らの手で、何もかもを超えて、新たなるものへと変わろう。
「己自身の魂と融和する」。それを成したハイドリヒは、次に真の叡智を得た。あらゆるものを知り、そして最後に全てを視る目を得た時、ハイドリヒはこの世界を見限ることを決めた。
国をどうしようと、人をどうしようと、全てが神の支配にある限り何も変わらないと知ったのだ。それまで嫌厭していたキリスト教徒にさえ憐れみを覚えた。神の手から離れようともその信仰を絶たない限り何も変わらず変われない。人の未来をより良いものにしたいというささやかな願いは叶えられたとしてもそれはそう感じただけに過ぎず、実際を変えることは永劫不可能であると知ってしまった。
神代への挑戦権を得る。神をすべからく殺す。そのために、ただの一人も支配していない神代を再創し、己がその神と成る。神と同じ土俵に立たねば戦いにすらならないのだから、ハイドリヒは神代を創るに至る力を集めるために戦争を起こした。
その過程が実験棟の魔力水槽、そして「患者達」だ。無限の魔力、無限の軍力はその副産物に過ぎず、しかし結果それはハイドリヒの創る神代をより確実なものにしていった。
神代をより永く、より良いものにするためにハイドリヒは己に己を捧げたことで得たルーンを基に自分以外の神となる人間を選定した。確固たる自我のある者を選びルーンを与え、次代の神を育てた。次代の神は「神智二十四兵」と称し、その名を神への下地にした。神は一柱だけではいけない。神が沈黙したその時、人は罰心で満たされ保身に支配されるからだ。
例え二十四兵が死しても無駄にはならない。宿したルーンは力を得て神に近付く。ルーンは力あるルーンとなり、力あるルーンは力ある神へと成ってゆく。神智二十四兵、その頭数は大分減ってしまったが成果は憂うべくもなかった。
──────────
「やあ、やあ、よくぞ此処まで押し上げたものだ!」
「感心している場合か!」
神との激闘は留まりを知らなかった。光が降り注ぎ、芽吹く植物はすべからく二人を穿たんとする猛毒の杭となり、巨人の膂力が押し潰さんと拳を振り下ろす。
「感心もするだろうよ!一から地道に神を成そうなどという莫迦は世界の何処を探してもそうそう居るまいて!」
「ああそうだな!これきりにして欲しいものだ!」
壁に追い詰められ拳が迫る。テオドールはその拳を水平に二つに斬り割り、その後ろから飛来する水の矢と妖精に似た飛行兵をダライアスが散弾で撃ち落とす。
しかし致命傷となる傷を負わせても神はその体を再構築して向かってくる。特にテオドールが倒した二十四兵のルーンを宿す神はその意気凄まじく、地面が割れるのではないかと思うほど苛烈に攻め立ててくる。
魔力の供給は断ち外にいた兵士が復活する兆しはないが、こうまで復活し続けるということはこの祭祀場はまた特別なのだろう。
ならそれを利用しなければ、押し切られるのはこちら側だ。
「ダライアス!お前火は平気だな!」
「こちらのことは気にするな!手があるなら使え!」
予告がなければ為す術もないほどヤワではない──若く猛りのある声にテオドールは善しと笑う。
「《何処だ。何処だ。異教は何処だ。臭いがするぞ、そこに居よう》」
おどろおどろしくテオドールが唱える。何が起こると神が構えるが、テオドールの背後に現れた「それ」に一柱が体を竦ませる。
「《縛れ、縛れ、引き摺り出せ!異教を清めろ肉体を燃やせ!》」
大きく鎮座し現れたのは藁を足下に組み罪人を磔にする十字架だった。敵の隙を見逃すテオドールではなく、異変に気付いた他の神の間をすり抜けその女神の手首を鷲掴む。
植物を繰る女神は己を構築するルーンに残った記憶を恨んだ。そんなものがなければ竦みもしなかっただろうに、宿る記憶のせいで接近を許した。
女神の中には『魔女狩り』の記憶が色濃く、根深く残っていた。テオドールの背後に聳えるような十字架に釘で打ち付けられ、油をかけられ藁に火を付けられた。あの時、ハイドリヒが雷で教徒共を撃ち据えなければ死んでいた記憶を鮮明に思い出させる。
『無礼者、触れるでないわ!』
「おう、悪いな女神よ。お前が一番適している」
その言葉と同時にテオドールの背後から強くしなる何かが飛び出してきた。本能的に後ずさろうとしてもテオドールはびくともしない。
弾かれたように飛び出してきたのは縄だった。たっぷりと油の染み込んだ縄がたちまち女神を縛り、その背中を叩きつけるように十字架が彼女を抱擁する。
こんな容易く縛られるはずはない。女神は縄を引きちぎろうとしたが、その肌に指を食い込ませるものがあった。
『ひ、ッ──!』
人だ。老若男女問わず、しかしその肉体が等しく燃え爛れた人間が呪いの炎に身を浸している。息ができぬと喘ぎ続ける怨霊の皮下から滴る脂が白肌を伝った。
「《火を放て!『魔女裁判の十字架』》!」
怒声じみた詠唱が火を付けた。女神が──女が──『魔女』が、燃える。その炎は流れ出す怨嗟が如く溢れ出し、瞬く間に祭祀場を炎の海へと変える。憎悪の炎は神をも苦しめ悶えさせた。
「走れ!」
「ああ!」
視界が一気に開けた今こそ好機と二人は枝が燃える祭壇へ駆ける。
祭壇で佇むハイドリヒは神が二人を止めていようとも視線を外していなかったが、まるで何かを待っているようだった。
その時、祭壇に一人の男が「落ちて」きた。ざんばらな髪を振り、男はハイドリヒの前に跪く。
(あいつは──!)
「テオドール、男を殺せ!!」
ダライアスの背筋に悪寒が走る。その男が何かを構えたでも唱えたでもなく、ただ跪いていることに体が不吉を感じ取った。
させてはいけない。何が起こるかなど分からないが、その何かを成させてはならないと第六感ががなり立てる。
テオドールが男の横顔を正面に捉え、その首へ魔剣を振り翳す。
「!!」
しかし魔剣は男へ肉薄したその時、上空から突然降ってきた巨大な刃を持つ槍によって防がれた。その槍を掴んだハイドリヒは更にコンマゼロ秒の差で撃ち込まれた弾丸を斬り落とすと、眼中に無いとばかりに二人から視線を外し槍を男へ向けて構える。
「《貰おう、テュールよ》」
「テュール」と呼ばれた男は顔を上げた。その肩を掴み、ハイドリヒは迷いなく心臓に槍を突き立て貫く。その衝撃は絶雷となり、祭祀場を真白に染め上げた。