第十一話 災禍
小瓶はテオドールの懐から落ちたものだった。
砕ける数秒前の一瞬、走馬灯のように小瓶が落ちていくのが見える。その中は赤黒い液体で満たされており、分厚い硝子が欠片となったのが見えたのはコンマ数秒の世界だった。
不味いとテオドールは本能的に跳び退る。ヘルガに視線のひと差しも向けず、ただ保身のためだけに距離をとった。そのせいで再びヘルガに鎖されるよりも遥かに恐ろしいものだとテオドールは知っていたからだ。
小瓶の中身は崇の「血」。
最強の交渉材料として、随分前からテオドールが持っていたものだ。
『──あ、あ──』
声がした。
男のような、女のような、若い歳の頃の人間の声がした。
それと共に、総てを超える本能的な恐怖が噴き上がった。
「ッ──」
硝子が滅え落ちる。
黒い魔力が噴き荒れる。
それは総てを滅す毒。世界を蝕む災禍の力。
“魔精殺し”。
「何、故ッ──!」
『テオドール!!』
「さっさと入れ!ち、イッ……!!」
フレイミアが一目散にテオドールの胸に「入る」。炎の残滓に魔精殺しの帯が触れ、蒸発するように滅し飛ぶ。
崇の血に宿っていた『魔精殺し』は黒い帯に似た触肢となって辺りを縦横無尽に暴れ回る。触れたものを片端から滅し、内象であっても砂糖菓子よりも柔く滅し飛ばしていく。
「馬鹿、なっ……!!私の、私の内象が……!!」
ヘルガが頭を抱える。内象世界は使用者の「心」そのものであり、内象世界が消えるということは精神の消失を意味する。内象顕界は魔力を以て己の内象を顕すものである以上、崇の『魔精殺し』は情け容赦なくその精神を滅す。
大暴れする魔精殺しを避けながらテオドールは憎悪の様相に顔を歪めていた。テオドールは自身の腕を失う事件の後、大人の魔法使いでも音を上げる修行を崇に課し並大抵以上の事があろうと揺らぐことのない魔力操作能力を身に付けさせた。眠っていようが怒りに呑まれようが、意図的に行わない限り決して暴走させないために。
そしてテオドールは何よりも承知し、信じている。崇が自らの意思で何者も『魔精殺し』で殺害しないことを。
では何故崇の魔力は彼女の配置先である日本から限りなく離れたこのベルリンで暴れているのか。触肢は狂乱し、総てを滅していくのか。
それはこの「声」が教えてくれた。だからこそテオドールの中で怒りが瞳孔を開き悲憤の炎が人間への道徳心を失わせた。
『──……もう…やめろ……もう立ち上がらないでくれ……!』
『また……また……!どうして、どうして動くんだ!!』
『お願いだ…お願いだよ、守らないで……』
『私を、守らないでくれええええぇぇッッッ!!!!!』
テオドールは知らない。崇がどのように戦地に立っているかなど、どのように運用されているかなど、知りようもない。そこまでの内情を知るには至らず、その必要もない。
だが今、全てを悟った。
巫山戯るな。巫山戯るな。巫山戯るな!!!声にならない咆哮を轟かせ、只人の器に収まりきらない殺意を洩らし、深みの波動が断続的に放たれる。その魔力に反応して沸き立った魔性は波動に触れた途端に恐慌し発狂した。ただひと触れしただけの殺意に耐えられず自壊した。
「……成程な。お前達があれをどう扱えと遣ったかが、良く分かった」
内象の大半を滅されても尚、どうにかその外骨格を維持していたヘルガは突然鳴り響いた亀裂の音に顔を上げ絶望に目を見開く。
テオドールの足下が灰色になっているのが見えた。亀裂音はその灰色から鳴っていた。灰色は拡がり、無機質なものへと様を変えていく。
ヘルガは肌で「圧されている」のを感じ取った。だがそれよりも喉を絞めたのはその圧迫感がテオドールの『内象』ではないこと。忘れかけていたものが、英雄譚に刻まれた無二の銘が目前に展開していた。
「呪いの……っ……石、蛇……ッ……!」
絶望に、恐怖に、高揚に胸が震えた。ほむらの感情がヘルガを奮わせた。そうだ、自分は彼を神にするのだ。その為にこの蛇を止めるのだと。
「……」
自分はテオドールに敵として見られていない。あれほどまでに追い詰めたのは間違いないはずなのに、今や天敵とすら看做されない。
「貴様の……ッ……見解、など。知った、ことかァッ!!!」
石化の呪いが拡がっている。ヘルガの内象を圧し退けて、その呪いを喰らった男はヘルガの一番大切なものを殺しに向かう。
これが最後だ。魂を削り、ルーンの力を人の器以上に引き出しヘルガはテオドールに突撃する。
その一歩を踏み込んだ、一拍の鼓動。
テオドールがその目を剥いた。
「手前等の躯は膾切りにして野犬の餌にしてくれる」
「──ッッ!!!」
テオドールの視線がヘルガの眼を覗き込む。
ヘルガの心臓が手酷く撃たれた。それと同時にテオドールが魔剣の柄でヘルガの鳩尾に打ち込み、為す術もなく崩れ落ちる。
その一撃で意識以外の全てが死んだ。体の何処かが足で押さえつけられ、テオドールが魔剣を振り下ろすのが見える。
女が事切れ、その眼がガラスでしかなくなったと分かればテオドールは感慨も無く魔剣を引き抜く。
内象はとうに解けているというのにその動きは緩慢で、覚束無いようにも見える様は蛇のよう。右手に燦と煌めく証を見つけると、またゆらりと魔剣を振り下ろす。
しかしその証が裂ける目前、炎が女の躯を焼いた。煌々と燃え上がる炎は拭うように躯を連れて行ってしまった。仕方無くテオドールは腕を下ろす。
(殺)
延々とその事ばかり考えている。
何が憎い、どう憎い、それを考えることを全て後に回し、テオドールは前に進む。そう、戦うだけでいい。戦うことが全てでそれ以外に道は無い。嗚呼、昔と同じだ。
(殺)
大切なものを奪われた時、人は■となる。その喪失を埋めんと苦しみ踠き、形振り構わず求めるようになる。
敵は何処だと縫われていた左眼が探す。敵の姿を捉えたその時、耳朶に灼熱の穴が開いた。
「ッ」
熱い。そして痛い。痛いのは癒合して久しい部分に再び穴が開いたからだ。
テオドールが付けているピアスは左右合わせて現在四つ。いずれも上部に付けているもので、耳朶には何も付けていない。
不自然に残る耳朶にはしばらく前まで上部と同じリングピアスを付けていた。そのピアスは【学院】入学が決まってから、崇に御守りとして譲ってやったのだ。
『……今の貴様にはあの子に新しく耳飾りを誂えて貰う資格も、やった耳飾りを返して貰う資格も無いわ』
必要以上に耳朶が痛む。痛みの正体はフレイミアの炎の針だ。使い魔が主人に手を上げるなど以ての外だがこの二人には通じない。フレイミアは気に入らなければテオドールであっても呵責無く燃やす。
『憎悪するのは初めてか?良いだろう、覚えておけ。だが溺れるな。真の理由は殺戮で無いのはお前が言い出した事であろう』
「…………ああ、そうだったな」
ようやっとテオドールがまともな声を出すと、テオドールの眼前に突き出されていた炎の針が消えた。床を傷付けるだけだった魔剣を鞘に収め、総統の書斎へと向かう。あれだけ粗雑に扱われていたにも関わらず魔剣はに刃こぼれの一つも無かった。
書斎の扉を無言で開け放つが中は無人だった。魔力の残滓はテオドールと入れ違いに去ってしまう。
「………………はぁ…………」
テオドールはいつもの癖で杖のように魔剣で鞘越しに床を突いた。再び閉じていた左眼をゆっくりと開き、低くその呪句を唱える。
「《我に与えられしは役目。我に与えられしは責務。我に睨まれしもの、遁逃敵わずと知れ》」
テオドールの左眼に刻まれたルーンが深青の光を放つ。テオドールの視界の下方に「A」のルーンがちかちかと主張する。
これがテオドールの持つ「G」のルーンの力だ。G、即ち「ギフト」のルーンは贈り物や愛情のルーンであるが、テオドールはそういったポジティブなものを与える側でないのは見て分かる通りだろう。
このルーンはテオドールが己に与えられた役目を果たすため、テオドールが対象に「裁決」を与えるためのもの。【警邏隊】の前身といえるものがあった時分、逃げ回る受刑者を逃さない為にこの力は与えられた。
一度テオドールに認識されたもの、この左眼に定められたものはどこにいようとテオドールから捉えられる。地球の裏側にいても、魔界や常若の国でも、神代であってもテオドールからは逃れられない。
(地下か)
最後に左眼を使ったのはいつだったか思い出せないが、かつて腐るほどやっていた隠れんぼの鬼役は体が覚えていた。何を迷うことも無く感覚に従い、戻ってきた共用階段の一階部分から「降りる」べく足を一歩踏み出す。するとカチリと仕掛けが動き、急降下するエレベーターにローブの裾が勢い良く捲れた。
派手な音を立ててエレベーターが停止する。直線の短い通路の先には空間が一つ、奥に扉が見える。
「…………」
扉はテオドールの背丈を軽く超え、小柄な巨人が通れるくらいの高さがある。だがテオドールの目を引いたのは重厚な扉ではなく、その脇に座す魔術師の死体だった。
(…此奴は、アプトじゃあないか。何故、死んでいる?)
ドイツに名高く、現在でも一子相伝の魔術形態を持つのが“アプト”だ。血脈は問わず、ただ資格ある者のみに伝えられる秘を持つ魔術師が、特に抵抗した様子も無く何故か無傷で死んでいる。その顔は満足した死に顔なのが妙だった。
(……ゲルマン、北欧神代。神話、オーディン、そして神々。……戦死者の館)
待ち構えているものが透けて見えるが歩みを止めるすべにはならない。
テオドールが扉を押し開くと、その男の姿がようやくあった。
「……ここまで来たか、朋よ」
「どうも。御機嫌麗しゅう、“黄金の獣”。人の器で神の旅を果たした巡礼者、認められしアドルフよ。
待たせたな。お前を殺しに来たぞ」