小麦粉が無性生殖する世界であたしは妹とパウンドケーキを食べる
初投稿です。
小麦粉を作るのに苦労した時代をあたしは知らない。小麦を育てて、収穫して、粉砕して、製粉して。そんなのはもう何十年も前の話。おばあちゃんは、パンを食べるときに、農家さんに感謝しなさいよと言うけれど。正直言って時代遅れだ。
今の小麦粉は無性生殖する。特別な処理をせずにおいておくと、あっという間に倍々に増える。だから、小麦粉を保管したり、使ったりするには特別な資格が必要になった。小麦粉取扱者という国家資格。おばあちゃんの時代と違って、ご家庭で気軽に扱えるものではなくなったのだ。
さて、あたしは、お父さんとお母さんが経営するパン屋の厨房に忍び込んで、その小麦粉を盗もうとしている。冷暗所に、小分けの真空パックがたくさん置いてある。一回で使い切らないと無限に増えてしまうから、小分けの袋がたくさんあるのだ。
「ねえ……やっぱりやめようよ。美羽、大丈夫だから……」
あたしの可愛い妹も、おっかなびっくりついてくる。
「あっ、じゃなくて、わたし、大丈夫だよ」
妹は、あたしの指摘を思い出して一人称を直す。それを見て、内心、ため息をつく。
「家族の前だけなら、どんな風に自分を呼んでもいいの」
妹のために良かれと思って、子どもっぽい癖を直そうとした。でも、そのあたしの指摘が美羽をますます困らせているのかもしれない。あたしは自信を無くしていた。
「わかったよ、お姉ちゃん」
中1にしては大きな身体を美羽は縮める。その様子がなんだか痛ましい。
可愛い妹は今年で中学生になった。この1年ですくすくと身長が伸びて、2学年上のあたしは急に追い付かれた。あたしも学年でそれなりに高い方なのに。妹に負けるのだけは、なんだか悔しい。そういうわけで、身長測定のときに背伸びをしたら先生に怒られた。
「学校でいじめられている」
そう美羽が告白したのは1か月ほど前。お父さんとお母さんはびっくりしていた。あたしは、やっぱりなと思った。明るかった瞳に陰が差し、いつも楽しげに上がっていた口角が下がるようになったのを、あたしが見逃すはずがなかった。
わかっていても、あたしの学校でのヒエラルキーもそんなに高くない。だからできることは少ない。昼休みにぼっちの妹を誘い出して、一緒におにぎりを食べるくらい。いじめを止めることはできないけれど、可愛い妹に惨めな思いはさせたくなかった。
あと、妹自身のいじめられる要因を取っ払ってやる必要もあるかと思った。だから、一人称を指摘した。でも、それは逆効果になりそうだから、すぐにやめた。美羽へのいじめが思っていたのよりもひどかったからだ。教科書がなくなるとか、エア葬式とか。
その原因が美羽にあると、美羽自身に思ってほしくなかった。
片手サイズの小麦粉パックを3つ、あっさりと入手した。
「思ったよりも簡単だったね。……さて、さっさとずらかろうか」
小悪党のようににやりと笑ってみる。妹がちょっと笑ってくれて、あたしは嬉しい。
外はうだるような暑さ。日本の夏特有のじめじめ感。
「暑い……ねえ、今日本当にやるの?」
背中からは妹の不安げな声。あたしは振り返る。
妹は可愛い。ストレートの茶色交じりのさらさらとした髪の毛。華奢で色白。女の子らしい丸みもある。陽の光の下で見ると、余計に輝いて見える。妹をいじめているやつらより、断然綺麗。癖っ毛でぺったんこなあたしよりも。
「今日やらなきゃいつやるのさ。今日が授業期間最後の土日なんだよ。来週からは夏休み。夏休みに学校で何かあったって、インパクトとしては弱いじゃん?」
「インパクトとかいらないよ……」
妹は気乗りしていなかった。死にたいって言うから、死ぬくらいならいっちょ復習をと、あたしが頑張っているのに。
「……にしても、この湿度、大丈夫かなあ」
湿度で腿がじっとりと湿る。スカートが鬱陶しくまとわりつく。
学校をどかんと爆発させてやるには、湿度が高すぎるかもしれない。小麦粉を教室いっぱいに撒いたところで、ライターを投げ込んでやる計画だった。いわゆる粉塵爆発だ。
「延ばしたところでいいことはないし、今日やろう」
自分に言い聞かせるつもりで言った。美羽は弱々しく笑った。
お父さんも、お母さんも、大嫌いだ。小麦粉取扱者は大卒しかとれない。このクソ田舎に大卒は珍しいため、エリートと持ち上げられている。
ふたりとも、仕事にかまけてばかりで、美羽のことを見てくれない。美羽がいじめられているというのに、なにもしてくれない。――あたしのことも、きっとどうでもいい。
だからあたしが親の代わりに美羽の担任に掛け合った。先生はクラスのみんなにいじめアンケートを取った。それで、先生が言うには、いじめはなかったらしい。お花は美羽の机にたまたま活けただけ。たまたま菊の花だっただけ。そうですか。
だから、美羽の教室の一角を吹っ飛ばしてやるのだ。両親の商売道具で、ニュースになるようなことを、学校でやってやる。これは大人に対する復讐だった。
坂の上にある学校に、ひいこら言いながら向かう。昔と同じように、妹の手を引いた。手と手が触れ合うところがじっとりと湿る。気持ち悪い。小さいとき、こんなのを我慢してたっけ。
妹はにこっと笑う。
「お姉ちゃんと手をつなぐの、本当に久しぶり」
「さいですか」
そう言われてしまうと、手を離せない。
さて、美羽の教室に着いた。1年生は三階。廊下はひんやりとしていて、そこで少し涼む。
「はーー、あっつかったよぉ」
妹はぱたぱたとスカートで自分を仰ぐ。細く青い太ももが顕わになる。
妹は、女の子としての振る舞い方をまだ知らない。そういうところも、女の子に目を付けられる原因じゃないのか。
「お姉ちゃんもこっちおいで」
サービスよく、あたしのことも仰いでくれる。
「……あんがと」
毒気を抜かれて、指摘できなくなってしまう。
「あんた、少し楽しそうじゃん」
「えへへ、みんながいない学校って、なんだかわくわくするね。学校って、怖いものだと思ってたけど」
妹の気持ちも、ちょっとわかる。学校独特の匂い。こういうのはあたしも好きだ。
箱自体は嫌いじゃない。嫌いなのは、箱の中にいる人間。それから、箱の外の両親。だから、学校の一角を燃やすのは少し悪い気もした。
でも、妹の教室に入ったとき、妹の机だけ新品ピカピカなのを見て、罪悪感は吹っ飛んだ。交換前、何が書かれていたのだろう。
小麦粉の真空パックを開く。そして、床に撒く。空気にたっぷり触れさせると、分裂の速度が上がるのだ。
一時間ほど待った。そのあいだ、妹とアルプス一万尺をして遊んだ。時々、なんか知らないけど異様にアルプス一万尺が速い女子がいる。妹がそれだった。あたしはすぐ飽きた。
床に生えたカビ程度の量しかなかった小麦粉は、見る見るうちに床を覆った。
あとはこれをまきあげて、マッチを投げ込むのみ。教室の隅にある大きめの扇風機のプラグをコンセントに刺した。想像と違って、うまい具合に舞い上がらない。風に当たると地面を移動するだけ。あたしの頭の中では、この空間一面まっ白になるはずだったのに。
妹の視線を感じる。なんだか、妹はほっとしていた。
「上手くいってない?」
「そんなはずないよ。これでいいはず」
あたしは少し焦っていた。妹の手前、華麗に爆発させたかった。
「……うん、大丈夫!」
教室を出て、あたしは満足げに言う。床にあたしの足跡がびっちりついている。なにかの犯人みたい。でも、小麦粉は舞い上がっていない。でも、行けるはず。爆発するはず。……多分。
「本当?」
「本当ったら本当だよ。マッチ投げ込むよ、見てなさい」
廊下と教室を隔てる小窓から、火をつけたマッチをしゅぽんと投げ入れる。
……おかしい。爆発しない。
「……爆発しないね」
「今のはたまたまうまくいかなかっただけ。次は大丈夫だから」
二本目。マッチは床の小麦粉をお気持ち程度に焦がして終わった。
「なんで、なんで!」
あたしは一心不乱にマッチを投げ込む。燃えカスばっかりが床に転がって行った。あたしは床にへたり込んだ。妹のための復讐だったのに。
涙目で妹を見上げると、それはそれは嬉しそうに笑っていた。久々に見る晴れやかな笑顔。
「嬉しいの?」
あたしは不思議に思って聞く。
「嬉しいよ。お姉ちゃんがこんなに頑張ってくれたの、初めてだったから」
妹の嘘偽りのない笑顔。失敗したと思っていたのに、これで良かったのか。
そういえば、担任に相談したこと、妹には言ってなかった。うまくいかなかったときに、期待させちゃ悪いかと思って、秘密裏に進めてきた。担任に相談したことは大失敗で、美羽に言わなくて良かったと思っていた。
でも、一番肝心な、あたしが美羽の味方だって言ってやるのを忘れていたのだ。
美羽は今、本当に嬉しそう。あたしはなんだか泣けてきた。妹の目もはばからずわんわん泣いた。気づくと美羽も泣いていた。姉妹二人、抱き合って泣いた。
燃えカスを回収して、帰路につく。美羽は憑き物が落ちたような顔をしていた。
「パウンドケーキ作ろっか」
あたしはそう言った。服についた小麦粉はまた増え始めている。集めて一旦袋に入れた。すぐにいっぱいになるだろう。お父さんとお母さんには禁止されていた製菓作り。正確には、家庭の禁止事項じゃなくて法律違反なんだけど。
パンじゃなくてパウンドケーキを選んだのは、こねたり発酵したりする時間がなかったから。両親が帰ってくる前に作ってしまわないと、面倒くさいことになる。
「いいね、作ろう、作ろう!」
美羽は楽しげに頷いた。
おばあちゃんの部屋にあったレシピ集を勝手に借りてきた。おばあちゃんが物持ちが良くてよかった。レシピは、小麦粉が無性生殖しない時代に発行されたもの。現代は小麦粉を扱える人間が限られているから、そう簡単にパウンドケーキのレシピを入手できないのだ。
さっくりと混ぜて型に入れ、オーブンに突っ込む。膨れ上がっていくパウンドケーキを、わくわくしながら妹と眺める。
「なんだか、膨れ上がりすぎじゃない?」
「いやいや、このレシピ通りにやったはずなんだけど。……でも、変だね。何か間違えたかも」
あたしはあっさりと間違えたかもしれないことを認める。心当たりはないけれど、現に、型から溢れ出しているんだもん。認めざるを得ない。
規定時間焼いて、オーブンから取り出す。
「いっただっきまーす!」
鉄板の上まで溢れ出しているけれど、いい匂いがしているから気にしない。二人で元気良く手を合わせて食べてみる。
……これは。まさか。
「……不味い」
「うん、不味い」
姉妹の感想が一致した。二人で頑張って作ったこれは、不味いのだ。
バターの風味がしない。甘味が少ない。代わりに、強烈な小麦粉の味。
「小麦粉、増えたね」
妹が呟く。多分そうだ。パウンドケーキの語源は、バターと砂糖と小麦粉がそれぞれ一ポンドずつであることから。つまり、質量比1対1対1じゃないといけない。そのどれか一つの材料が多ければ、美味しくなくなるのは当然だ。なんという初歩的ミス。
妹が噴き出す。あたしも笑った。二人で笑い転げた。こんなに楽しいのは、本当に久しぶりだった。
学校を爆発するなんて、背伸びしたことを考えなくても、大丈夫だったのかもしれない。
そんなこんなで、学校に撒いた小麦粉のことを、あたしはすっかり忘れていた。
翌々日の登校日、学校から連絡があった。今日は休校らしい。なんでも、学校が小麦粉で満たされて、授業が不可能だと。
「……あ」
あたしと妹は顔を見合わせる。
まあ、思っていた通り、あっさりと、家だとばれた。この町で小麦粉を扱えるところなんてごく少数だし、当たり前ではある。
警察には、未成年ということで、厳重注意だけで許してもらった。学校の先生、両親は小麦粉の処理に奔走しているらしい。大それた事件なんて起こせなかった。復讐はダサい形で終わったけれど、妹が元気になってくれたからまあいいやと思えた。