兄リチャード
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本当は学園から直接戻ってくるつもりでいたのだが、皇太子殿下が皇女殿下のところに寄るというので貴賓室に顔を出すことにした。
俺が見ている限り皇太子殿下は表面的には取り繕っているが、妹に関心を持ったことがない。まぁ、ネーデルランの皇族なんてそんなものかもしれないが。だから寄って行くと言われた時は、人並みに妹を思う気持ちがあったのかと驚いた。
確かに皇女殿下一人にファティマ国の対応を任せてしまったこともあり、情報交換と気を利かせた事に対する労いもあったのかもしれない。
俺の後ろから入室した皇太子殿下の姿を視界に入れた皇女殿下は、あまりに上機嫌な兄の様子に驚いていた。彼女曰く、ここ何年もこんなに機嫌のいいお兄様を見たことはない、だそうだ。
俺としては不気味なだけだが……。
その後皇女殿下の話は終始アーサー様のことばかりで、さすがに辟易した皇太子殿下が「じゃ、頑張ってね、ヘティ」と彼女の頭を撫でて貴賓室を後にした。
ようやく離宮に戻ってきた俺と皇太子殿下。
学園に行ってから既に結構な時間が経っていた。
「マクシミリアン様、ミゲル枢機卿がお越しになりました」
「あぁ、通してくれ」
お忍びのクリストファー皇太子殿下がファティマ国について早々、ミゲル枢機卿から訪問したい旨の伺いが来ていてた。
俺はミゲル枢機卿のあまりにも早い動きに驚きを隠せないでいた。
「さっそくお出ましだね」
長椅子で寝そべっている皇太子殿下はのんびりした口調で、さも何でもないことのように言う。
ファティマ国の宰相でさえ、皇太子殿下がお忍びで来ていることに気が付いていないというのに。
そう言えば、先ほどマリアンヌ嬢には気付かれてしまったんだったか……。
その時のマリアンヌ嬢の慌てふためく様子を思い出した俺は内心苦笑する。まあ、あれは本人と直接対面しているのだから、半分は皇太子殿下の責任でもあるだろう。
問題は、当然のようにやってくるミゲル枢機卿の方だ。
それの意味するところは、ネーデルランからミゲル枢機卿に情報が渡っているということだ。
皇太子殿下は何を狙っている?
「失礼いたします。ミゲルでございます」
「あぁ、その辺に座って」
「恐れ入りましてございます」
でっぷりしたミゲル枢機卿は空いているソファーを見つけると、嬉しそうに腰掛けた。
この場の応対は全て皇太子殿下がすることになっている。俺は皇太子殿下の表情を探るが、何も語り掛けてはこない。
「それで?」
「ご冗談を。呼ばれましたのは私の方だと思っておりますが」
何をどうしたらそんなに汗が出るのか分からないが、先ほどからミゲル枢機卿は額に浮かぶ汗を丹念に拭っている。
「あぁ、そうだっけ? それより、うちのマークに寄付金集めさせたみたいだね。くっくっくっ。よくやるよね」
顔を青ざめさせたミゲル枢機卿はそれでも何食わぬ顔をして答えた。
「ジェズ教会の者がちょうど侯爵家の誕生日会に出向くつもりだったようでして」
「どの侯爵家?」
「ポワティエ侯爵家のソフィー様の誕生日会でございます」
「ソフィー嬢か」
さすがよくご存じですねと褒めちぎるミゲル枢機卿に、続けて皇太子殿下が問う。
「誕生日会は途中でお開きになったって聞いたよ。何があったのかなぁ」
俺は背筋が凍るのを感じた。
実はマリー嬢が賊に襲われそうになったものの、自ら撃退した話はしていなかった。
……皇太子殿下はどこまで情報を得ている?
「いや、あのぉ。天候不順で、突然の雷雨に見舞われまして」
「ふーん、雷雨ねぇ。今度ソフィー嬢にそれは大変だったねと声をかけないとね」
「…………」
ミゲル枢機卿は押し黙ってしまう。
「そうそう、まだ一つ言わなきゃいけないことがあったんだった」
「…………なんでございましょうか」
「ロートシルト公爵家は必要ないかなぁ」
「!!」
ロートシルト公爵家!?
なんだそれは?
何に関係してくる?
だが、ミゲル枢機卿の様子は尋常じゃない。
「随分好き勝手なことしてくれてるみたいだけどさぁ。優先順位を間違えないようにしないとね。命は一つしかないって知ってるよね」
「…………」
「用件はそれだけだよ」
皇太子殿下は言いたいだけ言うと、興味を無くしたようにミゲル枢機卿から視線を外した。
顔面蒼白のミゲル枢機卿は傍から見ても分かるほどがくがくと震える足を何とか立たせると、よろめきながら逃げるように退出していった。
「ねぇ、マーク。お前はリチャードみたいに私の側からいなくならないでね」
リチャード、それは皇太子殿下の元側近――俺の兄だった人の名前だ。
兄が死んでもう5年になるか…………。
その一報がカポー公爵家に届いたのは日付が変わって間もなくの頃だった。
皇城からの使者が早馬でやってきて告げた内容は、兄上が事故に遭って重体というものだった。
執事長が現場に、父上が皇城へと向かった。
空も白み始める頃、ようやくかき集められた情報を一つ一つ繋ぎ合わせてわかったのは、国内最大の魔石採掘現場の視察中に落盤事故があり皇太子殿下をかばわれた兄上が下敷きとなった、ということだった。
幸いにして皇太子殿下に一切のお怪我はなかったとの確認がとれた時は、カポー公爵家一同胸を撫で下ろした。
だがそれも、執事長に付き添われてなんかと公爵家に戻ってくることができた意識不明の兄の姿を見るまでのことだった。
それぐらい兄は酷い状態だった。
いつ死んでもおかしくはなかった。
兄が意識を取り戻したと聞かされたが、俺は優しかった兄がこんな姿になってしまったことを受け入れられず、見舞いに行くことに躊躇いを感じていた。
それでも誰もいない時間を狙って、俺は兄の元を訪れた。
「…………だれ、だ?」
「兄上…………」
「マーク、か。…………おいで」
「…………」
「こ…………れを」
兄は呼吸すら苦しそうなのにも関わらず、唯一動かせた右手をなんとか伸ばして俺の手を握った。俺の手には布切れのような物が置かれていた。
何かから破り取ったようなその布には細かい刺繍が施された部分があった。
俺がそれを眺めていると兄は消え入りそうな声でこう言った。
『気を付けろ』
その一言を最後に、兄の手は力なく落ちていった。
「兄上、兄上!」
力の限り叫んだが、兄の意識が戻ることはなかった。
「マーク? そろそろ晩餐会の支度をした方がいいんじゃない?」
「あぁ、そうですね。遅れないように気を付けますよ」
俺が兄から受け取った布切れにあった刺繍の紋様は、今皇太子殿下が着ているジャケットに施されている紋様と一緒だ。
あぁ、そんなことはとっくに分かってたさ。
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