マリーだけは
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マリーをストランド侯爵家の馬車まで送り届けた。
だが、どこをどう歩いて馬車寄せまでたどり着いたのか覚えていない。その間マリーとは話をしただろうか、それとも無言のままだっただろうか。
まさか自分がこんな大胆な行動に出るなんて……。
気が付いたらマリーに手を伸ばしていた。他の誰かに触らせたくなかった。自分の腕の中にマリーがいる。それがたまらなく嬉しかった。
僕のマリー……。
弟のラインハルトが生まれたのは、僕が3歳の時だ。兄になったのが嬉しくて、とにかく良く面倒をみた。そんな僕の後ろをちょこまかとついて来る弟は本当に可愛かった。現国王と王妃である、父と母も、僕たち兄弟に惜しみない愛情を注いでくれた。何不自由なく満ち足りた毎日を過ごしていた、そう、あの時までは……。
10歳の誕生日。
父と母が、宰相を伴ってやって来た。これから大聖堂に行くという。皆どことなく緊張した面持ちであった。そういえばこのところ、父も母もいつもとは違う感じだった。10歳になるという今日に、何か特別な意味があるのだろうか。皆の顔つきが僕を不安にさせる。
そのまま馬車に乗せられて大聖堂に向かう。ラインハルトは一緒ではないのですかと向かいの席に座る父に尋ねると、そうだと短く頷いて押し黙った。隣の席の母が気遣うように、ラインハルトなら大丈夫よと僕の肩にそっと手を置いた。
大聖堂の正面に寄せられた馬車から降りた僕は、これから待ち受ける何かを見極めるかのように、大聖堂を見上げた。
王都中央にある大聖堂。その荘厳な外観には何回来ても圧倒される。
聖堂の前で僕たちを出迎えたのは教皇様だった。後続の馬車から宰相が降りて来るのを確認すると、教皇様は慇懃に頭を下げて、こちらになりますと聖堂の奥へ僕たちを案内した。
王家が訪れた際に通される貴賓室に入る。その部屋の脇に小さな扉があった。
ここは前にも来たことのある部屋だったが、そんな扉あっただろうか。
僕の疑問をよそに教皇様は懐から取り出した鍵で扉を開けると、その先の階段を降りて行く。
父を先頭に僕たちも後に続いた。狭い階段だが両脇の壁には魔道具のランプが等間隔に並んでいて、その明かりのおかけで躓くことなく先に進んでいく。
どれぐらい下っただろうか、少し開けた広間に出た。奥にはその先への侵入を拒むかのように1枚の重厚な扉があった。教皇様は小さく呪文を唱えて、その扉に手をかざす。
ギィーー
開かれた扉の先は白い大理石で覆われた部屋だった。まるでそれ自体が発光しているかのように明るい。部屋の中央には噴水があり、キラキラとした水が湧き出している。
「本日、アーサー殿下10歳の日を迎えあそばしたこと、ファティマ国教皇としても誠に嬉しく存じます。この後でございますが、まず、アーサー殿下以外の方々に聖水を飲んでいただきます。それが済みましたら、最後に殿下がお飲みになり終了となります」
僕たちは皆、黙って頷いた。
教皇様は噴水の脇に備えられた小さな杯を手渡していく。それからガラス瓶を手に取ると、噴水の水を汲み上げた。
ガラス瓶の中の水はキラキラと光り輝いている。
教皇様はその水を全員の杯に注ぐと、それではお飲み下さいと声をかけた。皆、粛々と杯を飲み干す。
皆が飲み終わると教皇様は僕に杯を渡してきて、同じようにガラス瓶からその水を注いだ。
いよいよ、僕が飲む番だ。
僕は杯の中の水をそっと眺める。キラキラとしてはいるが、ただそれだけだ。
僕はぐっとその水を飲んだ。
特に味もしなければ、香りもなかった。この水に何の意味があるのだろうか。
ふと視線を上げると、周囲の大人たちは、皆、僕に注目していた。
居心地の悪さを感じる。
「飲み終わりました」
僕が淡々と告げた一言を合図にしたかのように、僕を見ていた大人たちの目が一斉に残念そうな憐れんだようなものに変わった。
「どうやらアーサー殿下ではないようでございますな」
漸く発せられた教皇様の言葉に、そうだなと小さく答えた父上の顔は、どこか他人のようであった。母上もそっと目を伏せている。
その時、僕は悟った。あぁ、きっと僕は彼らのお眼鏡には適わなかったのだろうと。今まで自分が手にしていたものが零れ落ちていくように感じた。
全員から杯を回収した教皇様より、ファティマ国にまつわる話を聞かされた。
建国の祖となる当時の王が精霊の加護を受けたこと。それ以降、聖なる水を飲み妖精になることが出来たものだけが王となってきたこと。そして、その妖精を見ることが出来るのは、ただ一人、王妃となる者だけだということ。
「妖精となることが出来るのは王族の血を引く者のみですが、しかし、必ず王の子供がその資格を有するものではございません。ですから、ゆくゆくはアーサー殿下のお子様が王になられるかもしれないのですよ。王の血筋というのは尊いものなのです」
教皇様は僕に優しく声をかけて締めくくった。
僕の子供が王になるかもしれない?
それが何だっていうのだろう。僕はこれまで何時かはこの国を治めるべき時がくるかもしれないと、絶えず自分を律してきた。それなのに、ただ妖精の姿になれるかどうかだけで判断されるのか。
その日を境に、陛下と王妃の関心は弟のラインハルトに移っていった。もちろん表立って彼らの行動が変わったわけじゃないし、別に虐げられているわけでもない。
でも、以前とは明らかに違う何かがそこにはあった。もしかしたら僕の心の在り様が、そう見させているだけなのかもしれないが……。
唯一の救いは僕にとって弟が可愛い存在のままであったことだ。だけど徐々に心は浸食されていく。僕の中に生まれたこのどろりとした感情を何と名付けたらいいのか、僕は戸惑いを隠せずにいた。
マリーに会ったのはそんな感情から逃れるため、隣国ネーデルランにある帝国学院に進むことを決めた頃だった。
僕はその夏、側近候補だった辺境伯子息の領地を訪れていた。辺境伯の領地の背後に広がる北の森。隣国との天然要塞ともいえる危険な森ではあるが、それ故に手付かずの自然が残る美しい森でもあった。
僕はこの前見つけた泉に向かっていた。
ん? 水の音がする。
歩みを進めた先で僕はマリーを見つけた。
水で作られた鳥の羽ばたきに合わせて落ちるキラキラとした雫。一面に咲く白い花。泉の淵には銀糸のような艶やかな髪を広げて横たわる天使。
その天使こそ、マリーだった。
僕が何者かどうかではなく、僕自身に向けてくれる彼女の純粋な心。その心が生み出す濁りのない魔法。彼女と過ごした時間、僕の心は何物にも囚われることなく輝いていられた。
まさに夢のようだった。こんな風に過ごせる日がまた来るとは思ってもいなかった。
僕が心の奥に押しやって蓋をしていた感情を溶かし、僕の心を開放してくれたのは、マリーだった。
王城の回廊でマリーに触れるライを見た時、僕は漸く自覚した。僕がどれほど彼女を欲していたのかを……。
絶対に彼女を手放したりしない。
ライ、お前にはやらない。
いつもお読みいただきありがとうございます。
そろそろキーワードに溺愛を追加すべきか……
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