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病颪《やまおろし》の吹く時  作者: 皇 凪沙
6/7

6.彼岸

 冥い空の下に、荒涼とした大地が続いていた。

 吹く風が荒い───。

 顔を上げて見渡しても山も川も見当たらず、只々続く赤茶けて固く乾いた地面には草一本の緑も見えない。そよぐものさえ無い大地の上に、風の音だけが高かった。

───寂しい所だね。

 呟いて、えんは小さく息を吐く。

 地獄の内にも様々な場所があることは知っていた。常に炎が燃え盛っているようなところもあれば、足の踏み場もないほどに刃の連なる地もある。

 恐ろしげな責め道具が据えられて、獄卒等の怒号(どごう)が響く場所などは至極地獄らしいものだが、此処(ここ)に獄卒鬼等の姿はなく、責め立てる声もない。

 罪人等が病苦に苦しめられるという地獄は、ただ打ち捨てられた様に寂しかった。

 言葉もなく薄冥闇(うすくらやみ)の空を見上げ、もう一度小さな溜め息をついて荒れた大地へと足を踏み出すと、何処からか微かに細い呻き声が聞こえた。

 えんはそっと眉根を寄せる。

 病に苦しむ罪人等の上げる声なのだろうそれは、(くら)い空の下細く弱々しく、犯した罪の報いとは言えなんとも哀しく響いていた。 

 風に吹き散らされる微かな声を頼りに、えんは進む。そうしてやがて、えんはその場所を見つけた。果ての無い地獄の淋しさに、拠り所のない罪人達が自然と寄り集まって来るのだろう。窪地になった其処(そこ)には、罪人達が淀み溜まるように集っていた。

 此処だ───と、えんは確信する。

 病人が少しでも多く集まるところに、あのおとこは居る筈だった。

 緩やかな傾斜を下り窪地の底に立つと、澱んだ腐臭が鼻をついた。其処此処(そこここ)(うずくま)る病人は、いずれもひと目で死病に取りつかれていると分かる。澱んだような腐臭は、彼らから漂う死臭なのだろうと察しが付いた。

 溜め息さえも憚られ、えんは悲しげに眉根を寄せる。

 出来る事は無い───それは、ひとの世でも此処でも同じだった。えんは蹲る罪人等の間を足早に通り抜けた。

 

 窪地の中ほど───其処に、おとこは居た。

 以前見た、医者の見本のような身形(みなり)のまま膝を着き、おとこは足元に横たわる病人を診ている。

 熱心なおとこの様子は、世に云われた仁に篤い医者の姿そのもので───それが、えんにはひどく腹立たしかった。

「───病に苦しめられてるはずじゃなかったかい。」

 えんは冷ややかに、そう声を掛ける。

「病には罹っている。」

 飄々とした顔で振り返り、おとこはそう言った。

「今の病にはもう二度ほど罹ったが、なに大して酷い病ではない。胸の痛みが強くなるまであと二刻ほど。その内立っていられなくなり、そうなってからは半日程で死に至る───そういう病だ。」

 己の身体に目を落とし、面白そうにそう言って、おとこはえんを見上げる。

「ひとの世に流行れば、たちまち一国を亡ぼすだろうが、此処の病は人から人へ感染ることはない。元々感染る病ではないのか、ひとの世とは仕組みが違うのか───どうやら後者らしいと思っているがな。」

 他人事(ひとごと)のように言うおとこを、えんはつくづくと眺めた。

「───自分の病さえ、苦しいよりも面白いが先か。呆れたもんだね、あんたは。」

 そうか───と、おとこは首を傾げる。

「自分が罹った時こそ、病を知る好機だぞ───死んだところで、どうせ直ぐに生き返るのだしな。」

 そう言うおとこの息が、苦しげに荒くなっていることに、えんは気が付いた。

 おとこが笑う。

「此処では病を治す手立ても限られるが、そもそも此処の病は治るという事が無いようだ───ならば、出来るのはどのような病か知ることぐらいだろう。」

 己の身の内にある病を愛おしんででもいるように、おとこはそう言った。

「──────。」

 言うべき言葉もなく、えんは深い溜め息をついて辺りを見回す。

 辺りには、けして治らないはずの病に苦しむ罪人達が、無数に転がっている。

「随分と大勢集めたじゃないか───治せやしないんだろうに。」

 悲しみと皮肉を込めて、えんが言う。

 なに───と、おとこは己の周囲に目を遣って言った。

「私が集めたわけではない。先に集めた者がいるのだ。多くの病を診るのには、大勢が集まっている方が都合が良い故、私も此処に落ち着いただけの事。医者と知れてからは集まる者が増えた様だがな。」

 そう言って、おとこは首を捻る。

「此処の病はひとの世の病とは仕組みが違う。おそらく治す事など出来ぬものなのだとそう言うのに、それでも診てくれという者が後を断たん。多くの病を診れるのは良いが、どういうつもりか───」

 訝しげに眉根を寄せて、「───分からぬものだな」と、おとこが呟く。

「不安なのでございますよ。」

 不意に、おとこの呟きに応える声がした。驚いて振り向くと、穏やかな笑みを浮かべた男が立っている。

───誰だい。

 問うと、男は「薬屋でございます。」と、如才なくそう言って、もっとも、商売にはなりませんが───と、溜め息をついて見せた。

「薬屋───」

 疑わしげに呟くえんに笑って、薬屋だという男は言う。

「此処では病はすべてが死病───薬も医者も出番は無いようなものですが、自分の身体がどうなるのか分からないのは不安なものでしょう。」

 なるほど───と、おとこが頷く。

「けれど、知ったからといって、必ずしも安心できるとは限らぬぞ。」

 そう言って、おとこは顔を(しか)めた。

「此処へ来てから様々な病を見たが、最も酷いものは皮肉が腐り落ち、ひと月ばかり夜も日もなく苦しみ抜いて漸々(ようよう)死んだ───ひとの世ならばとっくに身の力が尽きて死んでいるところだろうが、此処では衰弱で死ぬ事は無い様だからな。お陰で、最後までどうなるものか見届けられたが。」

 今もその病に罹っている者が幾人かいるな───と、無造作にそう言って、おとこは辺りへ目を遣る。

「教えてやったところで、喜びはしないと思うが───」

 真顔でそう言うおとこに、薬屋が苦笑した。

「それをそのまま伝えるなら、正に鬼の所業でございますな。」

 まったくそうだと思いながら、えんは顔を顰める。

「───出来る事も無いのに、よくそんな有り様の病人をただ見ていられるね。」

 (むご)い様が頭に浮かぶ。

 殺してくれと泣き喚かれた───そう、おとこは迷惑そうな顔で言った。

「此処では死なせてやったところで意味が無い。苦痛に耐えかね、自ら死のうとする者もあるが、多くは死に切れんしな。稀に巧く死ねたとしても、また直ぐに生き返って同じ病に侵される───自死を戒める為だろうが、病の痛苦に耐え切れず、苦労して死んだ挙句、また初めからやり直しでは甲斐がなかろう。」

 そんな事まで───。

 どうなるか知っているという事は、止めもせずただじっと見ていたのだ。

 そう思うと、えんは胸が悪くなる思いがした。

「仕組みを知らねば、分からぬからな。」

 えんの渋面を受け流し、おとこはあっさりとそう言った。

「人の世と理が違うなら、それを知らねばならない。お陰で大分此処の仕組みが分かってきたぞ。仕組みが分かれば、病の本質が見えてくる───面白いものだ。」

 やはり、面白いが先に立つのかと、えんは深い溜め息をつく。

「呆れたものでしょう。此方(このかた)は、こうした方です。」

 薬屋が、笑ってそう言った。

「まともな人間じゃ無い事は分かってたけどね───けど、あんたはどうなんだい。」

 えんがそう言うと、薬屋は「なにがでしょう。」と、穏やかな顔で尋ねる。

「まともな薬屋なら、此処に居る道理が無いだろう。」

 ええ、確かに───と、薬屋は苦笑して頷いた。

「実を申せば私の薬に薬効などはございません。なにしろ、私は病人の弱みにつけ込んで偽薬を高値で売りつけた罪で、此処に堕ちて来たのですから。」

 えんの耳元に口を寄せ、声を(ひそ)めてその薬屋は悪びれる様子もなくそう言った。

「なんだって───」

 呆れ返ったえんが思わず声を上げると、薬屋は困った顔でしっ、と唇に指を当てる。

───己の作った偽薬と共に此処に放り込まれた時には、往生致しました。閻魔王様は、まったく意地が悪うございます───と、えんの耳にそう囁いて、薬屋は顔を(しか)めて見せた。

 犯した罪を突きつけられ、送られる地獄の様を見せられて、泣いて己の悪行を詫びる偽薬屋(ぎやくや)に、閻魔王は意地の悪い顔で云ったのだという。

己の作った薬を持ってゆくがいい、よく効くであろう───と。

 人目を──耳を──避けるように語って、偽薬屋は笑う。

「効かぬと分かっている薬など、(どぶ)へでも放り込んでやろうかと思いましたが───何にでも使い道はあるものです。」

 病に苦しめられる者達を見かねて、偽薬屋は己の商売を思い出した───。

「どうせひとの世にあった時も、効かぬ薬を効くと言い張り、病人を誤魔化してきたのです。此処でも同じことをしてみました。」

 一度の病で一度だけ、今が一番苦しいと思う時に使えば苦痛を和らげられる───そう言って与えると、効かぬはずの薬は効いた。

「無論、効いた気になるだけでございます。それでも驚くほど、効きました。効かぬのは私ばかり───自分を騙すのは、難しゅうございます。」

 眉根を寄せてそう言って、「もっともそれが、罪の報いというものでございましょう───」と、偽薬屋は再び小声で笑った。

「本当に───呆れた話だね。」

 えんはそう言って首を振る。

「まあ、そうしてやって参ったのですが───どうやら私も年貢の納め期のようでございます。」

 ふっと真顔になって、偽薬屋が言う。

「これ迄、私の薬はどれほど配ってまわっても、不思議と減る事はなかったのですが、この所目に見えて減ってきております。」

───医者が来たから、薬屋はお役御免って事か。

 えんが呟くと、偽薬屋は頷いた。

「おそらくは、そうなのでございましょう。そろそろ交代せよと、そう言う事なのだろうとは思いますが───此方(こちら)はこの通りでございますので。」

 おとこを目で指し、偽薬屋が苦笑する。

「ものは言い様と申します───」 

 おとこに目を据えたままそう言って、偽薬屋は苦笑雑じりの溜め息をついた。

「私は、医術の心得はございませんが、詐術は心得ております───ものの言いようで、効かぬ薬も効くようになる。診立てた病も伝えようで、病人を不安にさせも安心させもするのですが───そのあたりが分かって頂けません。」

 偽薬屋が言うと、おとこが目を上げる。

「言い様を変えた所で症状は変わらぬ。」

 面倒そうに言い捨てたおとこを呆れた顔で見下ろして、偽薬屋は「───この有り様です───」と、囁くようにえんにそう言った。

「私の薬も、効かぬはずのものは効かぬとおっしゃって譲りませんので───実は今、同じ病の者等を二組に分け、片方だけに薬を渡して試しております。」

 えんは眉を顰める。

「また───非道な事を───。」

 呟くと、偽薬屋は苦々しく笑う。

「仕方がありますまい、試して見なければこの方は納得を致しませんので。」

 それに───と、偽薬屋はえんを宥めるように言った。

「此処では非道を働く者には即座に報いが返ります───この所、私に取り付く病は酷いものばかりで。」

 肩を竦めて見せる偽薬屋は、辺りの病人と比べてもとても重い病に罹っているとは見えない。えんはじろりと偽薬屋を睨んでやった。

「そうは見えないけどね───」

 えんがそう言うと、「そうでございますか。」と、偽薬屋は苦笑した。

───あながち嘘でもない。

 偽薬屋の顔をじっと見上げて、おとこが言った。

「それでも、十日ばかり肺腑(はいふ)の痛みに苦しんだ後、己の血に溺れて死ぬ様な病に罹っている。もう四日目を越えている故、既に息をするのも苦痛な筈、本来なら起きて居られるわけが無いのだが、そいつは何故だか死の間際までそうして耐える───分からぬ奴だ。」

 訝しげな顔で、おとこは首を傾げる。

「あなた様とて興味が先に立ち、苦痛などそっちのけではありませんか。」

 偽薬屋が、そう言って笑う。

「本当にそんな病に罹ってるのかい───」

 問うえんに、偽薬屋は笑みを浮かべたままで頷いた。

「命が惜しければ大人しく寝てもおりますが、どうせひとつの病で死んだとてすぐまた別の病を得て生き返る身、一々()していても仕方がございません。」

 えんの顔に悲痛な表情が浮かんだのを見て、偽薬屋は困ったような顔をした。

「ご心配下さいますな───苦痛など、止まぬものなら放っておけばよいのです。此処ではそれで命に関わることなどありません。痛いの苦しいのと言っている間に、出来る事もございましょう。」

 まったく───と、えんは呟き、天を仰いで小さな溜め息をついた。

「病そっちのけで、何をやろうって言うんだい。此処を、何処だと思ってるんだか───」

 呆れるえんに、偽薬屋は悪戯げな顔で笑って見せる。

「確かに此処は、地獄でございますが───ただ病に負けていたのでは面白くありません。」

 そう言って、偽薬屋はおとこに目をやる。

「此方は此処へ来られてからもう、片っ端から他人を診ております。最近は、だいぶ分かってきたとおっしゃられて、同病の者を一纏(ひとまと)めにされたり、さらに病の進み具合で分けたりと───まあ、様々な事をなさいます。」

 それを見ているのは、面白うございます───と、偽薬屋は言った。

「病人を、弄んでるんじゃないか───生きてる時と同じだろう。」

 ええ、まあ───と、偽薬屋は肯く。

「───今のところ、興味が先に立たれているのは間違いございません。けれど、なさっていることは面白い。患者等を分けるのは悪くない考えだと思います。せっかく分けて頂きましたので、先日から私が音頭を取って、まだ病が進んでおらぬ者には看護をお願いしております。」

「───此処に、他人のために働く奴が居るのかい。」

 私など、人々の為に病を押して働いておりますが───と、軽口を叩き、偽薬屋はにやりと笑う。

「そこはものの持って行きようでございます。此処が地獄であればこそ、いずれにせよ明日は我が身───他人の為に働いておかねば、己が捨て置かれるだけです。」

 えんは苦笑する。

「結局は、自分の為か───」

───当然でございます。

 と、偽薬屋が言った。

「己に何の益も無い事をする者など、この世にはおりません。他人の為に尽くすという方は、それが己にとっても喜ばしい事だからこそ、そうするのでしょう。」

 まあ、そうか───と、えんは不承不承肯く。言いたい事が無いでもなかったが、突き詰めてみればそれは真実だろう。

「己に返ると思えばこそ、他人を(おろそ)かには出来なくなります、それに───」

───する事がある者は、多かれ少なかれ病苦を忘れるものの様です。

 声を顰めてそう言って、偽薬屋は笑った。

「なるほどね───そうやって、他人を誤魔化しているわけか。」

 苦笑するよりないえんに、ええ───と、肯き、偽薬屋は何故だか穏やかな顔で言った。

「───ですから、私はもう覚悟しております。生きている内も、死んでからも───同じ様にこうして、他人を騙して過ごしてきましたので。」

───何を覚悟してるんだい。

 そう問うと、彼は笑った。

「いずれおそらくは、まだ下の地獄へでも送られて罪を責められる事になるのではないかと───舌でも抜かれる事になるかもしれません。」

 (たわむ)れのように言った言葉とは裏腹に、静かに前に向けられたその顔には、真実の覚悟が見て取れた。えんは小さく溜め息をつく。

「それでも、今さら自分のやってる事を止める気はないんだろう。」

 ええ、もちろんでございます───と、笑顔で頷き、「それに───」と言って偽薬屋はもう一度、おとこを見る。

此方(こちら)には、もう少しひとの気持ちというものを分かって頂かねばなりません。それまでは、此処でお付き合いいたします。」

 くすりと、えんは笑った。

「それは───大分時が掛かりそうだね。」

 偽薬屋は首を傾げる。

「それほど難しいことではないでしょう。此方(このかた)は面白いと思えば懸命になる方です。ひとの気持ちは面白いのだと、それが分かって頂ければよいのです。」

 現に───と、偽薬屋はにやりと笑う。

「私がなぜ寝込まないのかと問われますので気の持ち様だとお答えしたら、興味を持たれたのでしょう随分と首を捻って居られました。」

───ものは言い様、使い様です。

 そう言って面白そうにおとこを眺め、偽薬屋は言った。

「この様に使いでのある方を、少しばかり瑕疵(きず)があるからと捨てて置いては勿体無い───十分に、働いて頂かねばなりません。」

 そうか───と、えんは頷く。この男なら、やるのかも知れない。

 己の野望を形にして、満足気に此処を去る───そんな姿が、えんの脳裏にちらりと浮かんだ。

 もしも───と、だからえんは、偽薬屋に問う。

「───いつか生まれ変われるなら。あんたはやっぱり薬屋になるかい。」

 偽薬屋は笑って首を捻る。

「さて───今度はもう少しましな薬を安値で売る薬屋になりましょうか。医者には掛かれぬような者達の、気休めとなるような。」

 くすりと、えんは少し皮肉げに笑う。

「───ひとを騙すのは、やめるかい。」

 揶揄(からか)うように問うと、「いえ、まあ───」と、偽薬屋は歯切れ悪く言って苦笑する。

「阿漕な真似はやめますが、この商売に適度な嘘は欠かせません。上手な嘘は効かぬ薬を効かせもします───やはりまた、ひとを騙して生きることになるでしょう。」

 ふっと笑って、えんは偽薬屋を見上げる。

「やっぱりあんたは、地獄へ堕ちる覚悟がいるね。」

 そう言ってやると偽薬屋は、ええ、まったくでございます───と、小さな溜め息をついて笑った。

 

 

 さて───あんたに聞きたい事があったんだ。

 偽薬屋に背を向けて、えんはおとこに尋ねる。

「あんたみたいな奴が───なぜ弟子を取ったんだい。」 

 おとこは病人を診ていた手元から目を上げると、眉根を寄せてえんを見上げ、ああ───と呟いた。

「弟子を取ったつもりはないが、あれを連れ歩くのは面白かったのでな。」

 そう言っておとこは思い出した様に笑った。

「九分九厘助からぬ様な病人に、あれは大丈夫だと、そう言うのだ───診立て方を知らぬ所為かと、病の診方を教えてみたのだが、一向に改まらぬ。」

 幼い子を抱える母親、一家を支える大黒柱、弟妹の面倒を見る長兄───どれも助からぬと診立てた病人だった。口から出まかせと、そう思った───。

 くつと、おとこは笑う。

「何故か、あれが大丈夫だとそう言った病人は、助かる事がある。もっとも、助かるのは一割か、良くて二割。診立て違いとも思えなかった故、私とは違う何かを見ているのかと、随分とあちこち連れ歩いたし、色々と試してもみた。だが───解らなかったな。」

 そう言っておとこは首を傾げる。

「今も───解らないかい。」

───さて。

 おとこは首を捻ると、偽薬屋を見上げた。

「そういった事は、此奴が得意だ。」

 偽薬屋が、ええ───と、首肯く。

「私には、よく解ります。そして───あなたにも、その内きっと分かるようになって頂きます。」

 そう言う偽薬屋におとこは渋い顔を向け、それでも何も言わずに手元に目を戻した。

「あれは───どうしている。」

 手元から目も上げず、おとこが問う。

 あんたの供養をしていたよ───と、そう言ったところで、無駄なことをすると言われるのが落ちだろう。そう思ってえんは苦笑いを浮かべる。

「あんたが死んでから、流行り病を収めるのに奔走していたよ。」

 おとこがしていたと同じように、労を惜しまず、上下の別なく、町の隅々まで目を配って───

 えんは小さく溜め息をつく。

「流行り病が落ち着いた今は、診療所を残そうと頑張ってるようだよ。あんたの法要で資金は随分集まったそうだ───。」

 そう言うと、おとこは怪訝な顔で首を捻った。

「まあ───好きにすればいい。町医をするのに困らぬ程度の腕は既にある筈だ。私が教えたからな。」

 そのようだね───と、えんは首肯く。

「あんたがどういうつもりだったにせよ、弟子は立派に育ったようだ。」

 黙ったまま、おとこはえんを見上げる。

 病を診るのに都合がいい───それ以上の意味を診療所に見出だした事は無かった。病についての知識を世に残そうと思った事もない。けれど、己が積み上げたものが残るのも、そう悪い事ではないのかも知れない───。

 そうか───と素っ気ない返事を返し、おとこは手元へ目を戻す。

 偽薬屋がそっと苦笑した。

 えんはふっと小さく息を吐く。

 顔を上げると、澱む腐臭が鼻をついた。

 去り際、えんはおとこの顔に目を遣る。そこには、どこか満足気な表情が、僅かに浮かんでいた───。

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