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病颪《やまおろし》の吹く時  作者: 皇 凪沙
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5.此岸

 春の始まりを感じさせるような、穏やかな風が吹いている。

 冬の初めに始まった病の流行は、三月ほどの間猛威を振るい、春の訪れと共に終息した。

 春めいてきた今日、おとこの後を引き継いだ若い弟子が施主(せしゅ)となり、高名な医者だったおとこの葬儀と、流行り病で命を落とした者達の供養が行われると聞き、えんは町で一番の古刹(こさつ)であるこの寺に来ている。

 あの後、病の蔓延(はびこ)る町を支え続けたのは、この若い弟子だった。町の隅々まで歩いてまめに人々を診て歩き、流行り病の収束に努めた彼を賞賛する声は、えんの耳にも届いていた。

 同類でなきゃ良いが───。

 聞く者のない呟きをそっと洩らして、えんは石段を上がる。

 誰もが参列を許された法要の場は、多くの人々でごった返していた。

「───お久しぶりでございます。」

 人混みを避けて脇へまわった途端に声を掛けられ振り向くと、十三、四ばかりの小坊主が立っていた。

「来てたのかい。」

問うと、小坊主はにっこり笑って頷いた。

「今日は、和尚様とお手伝いに参りました。私は雑事のお手伝いをしております。」

 まだまだ子供らしい様子に微笑みながら、えんは頷く。

 縁あって、この寺の管主(かんしゅ)の元へ通う様になってもう二年程になる筈だった。どうやら、上手く行っているようだと、えんは少しほっとしながらそう思う。

「随分と、盛大な法要だねえ。」

 えんがそう言うと小坊主は、ええ───と、目を見開いて頷いた。

「準備のお手伝いに、幾度も此方(こちら)へ通いました。」

 それは大変だったねと、えんは笑った。

 ええ、でも───と、小坊主は楽しげに言う。

「此方の管主様はとてもお優しい方ですので、和尚様のように御叱りにはなりません。」

 くすくすと笑って、こっちの方が良くなったかい───と、えんが揶揄(からか)うと、

「叱られないのも張り合いがありません、それに───」

 と、小坊主はいつか見たような大人びた笑みを浮かべて言った。

「私の帰るところは、あの寺と決まっております。」

 そうか───と、頷くえんに、はいと答えて、小坊主はにっこりと笑った。

「それにしても、奇特な方だね。師匠ばかりか流行り病で亡くなった人すべてを供養しようなんて。」

 ええ、本当に───と頷いて、小坊主は声を(ひそ)める。

「───もっとも、亡くなったお医者様は、貴賎の隔てなく患者を診ていらしたそうで、様々なところから法要の為の寄進があったようです。」

 その中には、この際名を売ろうという者も含まれているのだろう。

「ある所からは出してもらえばいいさ───寺も診療所も助かるだろう。」

 にやりと笑ってえんはそう言う。

 はい、ありがたいことでございます───と、小坊主が澄まし顔で両手を合わせた。

 明るい笑顔を見せるようになった小坊主と一頻(ひとしき)り笑い合い、ところで───と、えんは尋ねる。

「そのご奇特な施主様は、何処にいらっしゃるんだい。」

 小坊主はえんの後ろにちらりと目を遣り、にこりと笑った。

「今、出ていらっしゃいます。」

 小坊主が指す方を見ると、本堂から若い男が丁度出て来るところだった。

 ああ───。

 呟いて目を細め、えんは男を見る。

 あの、忘れられたような隔離小屋で見た男に間違いない。医者らしく整えられた身形(みなり)が板についていないのは、その仕草が何処か遠慮がちに見える所為だろう。師匠とは違って、威厳があるとは言えないが、頼ってもいいのだと他人に思わせる親しみ易さが感じられた。

 彼は幾人かに頭を下げながら此方へ向かって歩いて来る。

 そうしてやがて二人の前まで来ると足を止め、小坊主に向かって丁寧に頭を下げた。

「この度は、ありがとうございました。」

 口先だけではないと思わせる口調でそう言われ、小坊主が慌てる。

「私など、何のお役にも───」

 口ごもる小坊主の襷掛(たすきが)けの姿を指し、男は微笑んだ。

「そのような事はございません。そうして、お骨折り下されていらっしゃいます。」

 己の姿に目を遣って、

 ───ありがとうございます。

と、はにかんだようにそう言うと、小坊主は頭をひとつ下げて、庫裡(くり)の方へと駆けていった。

 その後ろ姿を笑って見送り、えんは改めて彼に向き合う。

「此の度は流行り病の最中のご不幸で大変だったでしょうに、ご奇特な事で。」

 そう言うと、穏やかな男の顔に僅かに苦いものが浮かんだ。

「───師は正に鬼神のような方でした。生きていれば、もっと早くに流行り病を止められたかも知れません。」

 確かに、そうかも知れないが───。

 静かにそう言ったえんを、彼は驚いたような顔で見る。

「訳あって、あなたのお師匠を知ってるんですよ───ひとよりも、病に興味のある人だった。」

───違うかい。

 そう言ってやると、彼は苦い顔のまま師を懐かしむように遠くへ目を遣り、ふっと小さな溜息を吐いた。

「師をご存知でしたか───」

 囁くような声で呟く彼に、えんは頷く。

「私が会ったあなたの師匠は、よく分からない人だった。病を治すのは病を知るための手立てのひとつに過ぎないと───。なら、他の手立てはどんなだったんだろうと、その時少し怖くなったよ。」

 彼は足元に目を落とし、小さく肯いた。

「幸い、師の興味は病を治す方へと向かっておりましたので、それ程非道な事をする事はなかったと思っていますが───本当のところは私にも分かりません。」

 そう言って彼はそっと唇を噛む。

「師の亡き後、その跡を引き継いでみると、師の病に対する恐ろしい程の執着が見えました。師の執着が、病を治すというその一点のみに向かっていた事を、今は願っております。」

 そうか───と、えんは頷いた。

「盛大な供養をお願いしたとて、易々と極楽往生なされる方ではありません。元より本人がそれを望みはしないでしょう───」

 師は、そうした方なのです───と、そう言って、彼はその顔に苦悩を滲ませながら懐かしげに目を細めた。

 じゃあ───と、えんは尋ねる。

「どうしてこんなに盛大な供養をするんだい───費用だって馬鹿にならないだろうに。」

 えんの物言いに怒るでもなく、彼は頬に小さな笑みを浮かべた。

「けじめ───で、ございます。師はもう居りませぬが、跡を引き継ぎ、今まで通り病を治す為に努力していく決意を新たにし、それを人々にも知っていただく為───。流行り病で亡くなった方々の供養を共にさせて頂けば、近しい方を亡くされた方々のけじめともなりましょう。」

 それに───と、彼は声を顰めた。

「流行り病で底をついた診療所の資金を集めねばなりません。この度の法要では、師の評判もあって思ったよりも多くの金額が集まりました───それらは、今後の診療所の運営に使わせて頂くつもりです。」

───しっかりしてるね。

 呆れ顔に笑みを浮かべ、えんは云う。

「あんたが居るなら───安心だろうよ。」

 男の顔に困ったような笑みが浮かんだ。

「医者としての腕はまだまだです───いえ、医者としての勉強などしてきたつもりはなかったのです───」

 けれど───と、戸惑うように彼は言う。

「───どうやら、診療所に身を寄せて下さっている先生方に言わせると、私は医者が基本として学ぶべき事は既に身につけているそうなのです。」

 

 ───充分に医者として一人立ち出来ましょうに。

 師が亡くなって(あわただ)しく人員を割り振る中、何も分かりませんので───と、ひとりでは患者を診ることをしなかった彼に、診療所に残る医師等はそう言った。

「見様見真似でございます、師の様には───」

 そう言いかける彼を、医師は笑った。

「当然でしょう。あなたの師は、日の本に幾人かという名医でございます───(はばか)りながら此処で学ぶ事を許された私たちとて、国に帰ればそれぞれに医者として名を知られております。」

 自信をお持ちなさい───と、そう言って医師は少し苦い笑みを浮かべる。

「あなたはお若いながら、おそらく此処にいる誰より多くの症例を見て居られる───これだけ医者が揃っていながら、あの方が常に傍に置かれたのは、あなたです。」

 

「そう言われて、思い出しました───。」

 藩主から非人まで───様々な人間の、様々な病を診る師の傍らに自分がいたことを。

 師は興味深げに診立てを語り、嬉々としてその対処法を語った。

 これを見てみろ───時に興奮した顔でそう言って、何も分からなかった筈の彼に患者を診せた───。

「何故、私だったのでしょう。」

 微かな笑みを浮かべ、彼は言った。

───さあね。

 えんはそう応える。

「私は、師とは違います───」

 師の影を追うように、彼は法要が終わったばかりの本堂を振り返った。

「師の行いが───素直に称賛できるものではなかった事を私は知っています。師と同じ道へ踏み込んではならない、とも思っています。けれど───師の、あの迷いの無さを、羨ましく思うこともあるのです。」

 師がひとりでわけもなくこなしていた仕事は、診療所の医師等が三人程で掛かっても補い切れなかった───。

「正に───鬼神の如き方でした。師と比べれば、私はあまりに微力です。」

 そう言って、彼は静かに項垂れる。

「いいだろうさ───」

 彼を見上げて、えんは言う。

「鬼神のような力じゃなくとも、人にはひとの力がある。それに結局、人を救うのは鬼神じゃなく、ひとだろうよ。」

 顔を上げた彼の目が、えんを見る。

 探るように見返すえんの目をしばらく見つめて、

 ええ───そうですね。と、彼は頷いた。

「師はおひとりであの診療所をつくられました───けれど、私ひとりの力では今後診療所を支えて行く事はできません。」

 ですから───と、彼は落ち着いた眼差しで、穏やかな春の空を見上げて言った。

「私は師とは違うやり方で、診療所を守って行きます。」

 師と共に暮らした場所で、病に苦しむ人をひとりでも多く救いたい───きっと師には、この思いは分からないだろうけれども。

「当面私は裏方に徹しますが、いずれ運営が落ち着いたら、以前診療所で師に学ばれた方を頼って、今度は私が医術を学ばせて頂く話が進んでおります───これをこの度だけのこととせず、仕組みとして残したいのです。」

 そう言って彼は微笑む。

「診療所を中心に各地の医師と縁を結び、皆様の力をお借りして相互に医術を学ぶ仕組みが作れたら───」 

 ひと一人の力など僅かなもの、とても鬼神に(かな)いはしない───けれど。

「ひとりひとりの医師の経験を皆が共有できれば、知識は幾倍にもなりましょう。」

 人はひとのやり方で、鬼神を越える───。

「それが───今の私の夢でございます。」

───いい夢だね。

 そう、えんは呟いた。

───腕の良し悪しなんか分からないけど、いい人だ。

 そう言った女の顔が頭に浮かぶ。

 くすりと笑って彼を見上げ、えんは言った。

「あんたは、師匠とは違う力でひとを惹き付ける───だからきっとそんな事も、出来るだろうさ。」

───ありがとうございます。

 そう言ってにこりと微笑み、若い医者は頭を下げた。

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