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病颪《やまおろし》の吹く時  作者: 皇 凪沙
4/7

4.妄執

 風の音が高かった。

 澄んでいる筈の冬の空は星影も(まば)らで、高く昇った月は紅く濁っている。夜になって、吹く風は切る様な冷たさを(まと)っていた。

 えんは、冬枯れてきた細道に目を遣る。その先には、閻魔堂の明かりが、ほんのりと浮かんでいる筈だった。

 背を丸め、袖口で顔を覆って、慣れた道を俯いたまま、足下だけに目を向けて歩く。やがて、足を止めたえんが顔を上げると、其処(そこ)に閻魔堂の扉があった。

 扉の前に立ち、えんは小さく息を吐く。

 細く開いた扉の隙間から、淡い光の筋が延びている。

 えんは扉に手を掛け、細く開いた隙間からそっと堂内を覗いた───

 ゆらりと蝋燭の明かりが揺れる。

 壇上に閻魔王。

 (かたわら)倶生神(ぐしょうじん)

 左右には、赤青の獄卒鬼(ごくそつき)

 壇荼幢(だんだどう)に、(ごう)(はかり)浄玻璃(じょうはり)の鏡。

 揺らめく明かりを映して、総てが精彩を帯びてゆく───

「───えん、入れ。」

 閻魔王の声を聞いて、えんは細く開けた隙間から、その身を堂内に滑り込ませた───。


 閻魔王の眼前に、おとこが座っている。

 総髪(そうはつ)十徳(じっとく)姿。何処で見ても直ぐに医者と判るそのおとこは、珍しいものでも見る様にじっと閻魔王を見上げていた。

「なぜ此処(ここ)に居るか、それが分かるか。」

 おとこを見下ろし、閻魔王が問う。

───さて。

 おとこが笑う。

「死んだから───で、御座いましょうかな。」

 呆れたように見下ろす閻魔王に、

「日が昇って、どのぐらい持ちましたか。」

と、他人事のようにおとこが尋ねた。

「───日が、高くなり掛けた頃合いでしょう。」

 鉄札(てっさつ)に目を遣って、倶生神が静かにそう言った。

 おとこが頷く。

診立(みた)てに誤りは無かった様だが、少し長く持ったか。さて、何の薬を使ったか───。」

 そう独り言を言って、おとこは考えるように目を上に向けた。その口元に、面白そうな笑みが浮かぶ。

「───今、あんたが死んだら、町中困り果てる事だろうに。」

 悲しげな顔で、えんがそう言った。

「そうか。」

 呟くように応えるおとこの声音はうわの空で、何の感情も感じられない。

「あんた───」

 思わず言いかけるえんを制し、閻魔王はおとこを見下ろす。

「───さて。」

 思いのほか厳しい、閻魔王の声が響いた。

「己の所業を振り返れば、地獄行きの沙汰が下るのは、解っておろう───」

 驚いた顔で見上げるえんにちらりと一瞥(いちべつ)をくれて、閻魔王は倶生神を呼んだ。

「倶生神───この者の罪業を、読み上げよ。」

 はい───と肯き、倶生神が鉄札を取る。

「申し上げます。この者は長年に渡り、己の満足の為にひとの命を(もてあそ)んで参った───罪人に御座います。」

 憂いを帯びた声に、閻魔王が頷いた。

「己の興味の(おもむ)くまま、弄んだ命の数は数さえ知れぬほど。本来ならばその命の数だけ、繰り返し地獄へ()として(しか)るべき者には御座いますが、弄んだ結果救った命も多く御座いますれば───」

 思案気な顔で、倶生神が閻魔王を見上げる。閻魔王は眉を(しか)めて、溜息を吐くと、おとこを見下ろして云った。

「───と、したところで、この度の地獄行きは免れまい。」

 はい───と、応えて、倶生神は眉根を寄せる。悲しげに向けられたその眼差しの先で、おとこは飄々(ひょうひょう)とした顔で座っていた。

「仰せの通り、その先はともかく、この度の地獄行きは免れざる処───なれば、相応の御処断(ごしょだん)を下されますよう申し上げます。」

 そう言上(ごんじょう)し、倶生神が畏まる。

「───どう云う事だい。」

 そっと倶生神を見上げ、えんはそう呟いた。

「そう云う事だ───。」

 苦々しげにそう言って、閻魔王は厳しい顔でおとこを見下ろす。

「この者は、命を救うためにひとを診ていたのでは無い。むしろその命を弄んでおったのだ。」

 断ずる閻魔王を、おとこは感情の窺えない目で見上げている。寸の間、沈黙が満ちた。

「けど───」

 沈黙に堪え兼ね、えんは閻魔王を見上げて言った。

「この人は───寝る間も惜しんで、病人を診てたんだろう? 」

 閻魔王が頷く。

「藩主を診たこともある医者が、治療代も碌々(ろくろく)払えない連中ばかりか、非人等さえも診ていたと───。確かめたが、嘘じゃなかった。」

 言い募るえんを宥めるように、閻魔王が言った。

「確かにそれは、本当の事だ。」

 そうだろう───と、えんが頷く。

「この人しか診てくれる医者は居ないと、神様か仏様みたいに思ってる連中もたくさんいるんだ。死んだ事を知ったらどれだけ嘆くか知れないよ───」

───まだ、流行り病は収まる気配がないのに……。

 えんの呟きを遮るように堂内に笑い声が響いた。

 驚いて顔を上げると、おとこが笑っている。一頻(ひとしき)り笑うと、おとこは面白そうにえんを見上げた。

「何が───|可笑しいんだい。」

 呆気にとられた顔で、えんが問う。

「なるほどと、思ったのだ───なるほど、他人は私をその様に思うておったのかと、そう思ったら可笑しくなってな。」

 許せ───と、そう言って、おとこはまたくつくつと笑った。

「命を救いたいんじゃないんなら、なぜ、誰彼構わず寝る間も惜しんで病人を診るような事をしたんだい───」

 わけのわからないままに、えんが問う。

「病というモノは面白いからな───」

 愉快そうに、おとこはそう答えた。

 閻魔王が顔を顰める。

「その者は、病人を診ていたのではない。ただ病を見るのが面白くて仕方がなかっただけの事。身分もなにも構わずに病人を診るのは、病でさえあれば誰であろうと同じだったからだ。」

 眉根を寄せたまま、閻魔王が吐き捨てる様にそう云った。

「そうでも御座いませんぞ。」

 苦々しげに見下ろす閻魔王に頓着せず、おとこは楽しげに言う。

「藩主であろうと非人であろうと、その命には変わりない。けれど、暮らし向きが変われば、病の進みは違います。また、人により、薬の合う合わぬもある。ある病に強くとも、別の病には弱い者もある。男、女、子供、年寄、仕事、習慣、貧富。その他、違いは幾らでもある。だから、多くの者を見るのです。多く見れば見るほどに───病とは面白いものですぞ。」

 死にかけた非人に、薬を───

 えんは、そんな噂を思い出す。非人等の集落でその話を聞いたとき、命の分け隔てをしない、立派な医者だと───その話をえんにした者はそう言った。

───けれど。

「あんたは、ひとを助けるために病を治していたわけじゃなく、ただそれが面白かっただけなのか───」

 えんの問いに、おとこは首を捻る。 

「人を助けているつもりは無かったが、治すのが面白いというのもまた少し違うな。私は病を知りたかったのだ───治すのは、病を知る手立てのひとつ、か。」

 ならば、他の手立ては何なのか───ふと、そう考えて、えんは背筋が寒くなった。

「あんたを、神様みたいに思ってる人達がいるっていうのに───」

 遣り切れない思いで、えんが呟く。

 倶生神が小さな溜め息をついて、そっと首を振った。

「その者には、そうしたひとの想いは届きますまい。他人の想いを受ける器が(そな)わっていないのです。」

 そう言って、倶生神はおとこに悲しげな目を向ける。

「この者には、既に多くの供養が届いております。此の後、さらに多くの追善も届くでしょう。しかし、本人にそれを受ける心が無くては、詮なき事に御座います───」

 閻魔王が、憂い顔で頷く。

「残念だが、そういう事だ。結果どれだけの人間を救おうと、己の勝手で命を弄べば、ゆくべきところは地獄より他に無い───その罪は軽くは無いからな。」

 おとこが、閻魔王を見上げる。その目に怯えの色は無かった。

 閻魔王が、小さく吐息を漏らす。

「───いいだろう。お前には、相応しき場所を用意してやる。」

 そう言って、閻魔王は改めておとこを睨み下ろした。

「地獄の内には、重きから軽きまで、人の世の病の総てが集められた場所がある。当分はそこで己が身に病を得る苦しみを味わうがいい。もっとも───お前には仕置きに成らぬかも知れぬがな。」

 閻魔王の顔とは裏腹に、おとこはその顔に憂いの影さえ浮かべぬままに頷いた。

「この身にて直に病を知れるなら、むしろ有難き事に御座います。地獄であれば、容易に死ぬこともありますまい。じっくりと、調べる事ができましょう。」

 閻魔王が、再び眉根を寄せる。

 倶生神が哀れむ様な目をおとこに向けた。

「もうよい───」

 そう言って、閻魔王は獄卒鬼等を呼ぶ。

 声に応えて赤青の獄卒鬼が、揃って檀下に膝をついた。

「───この者を連れて行け。」

 はっ、と頷き、獄卒鬼等はおとこを引き立てて行く。

 明かりの届かぬ暗がりにその姿が消えるのを見届けて、えんはそっと息を吐いた。

───分かったか。

 閻魔王がえんを見下ろし、そう言った。

 えんは呆れたように項垂れた首を振る。

「───解りゃしないよ。」

 そう言うと、閻魔王は、そうであろうな───と、頷いた。 

 

 

 

 

 

 ひゅうひゅうと風が鳴いている。吹き下ろす風に散らされる髪を押さえて、えんは顔を上げた。

 おとこの死から数日が過ぎ、その死は既に町中に伝わっていた。

 流行り病に倒れて死んでゆく者は、病を広げないよう通夜を執り行う事も許されず、そのまま荼毘(だび)に付される。本来ならば立派な葬儀が行われる筈のおとこもそれは例外ではなく、その日の内に小さな壺に納められた遺骨は、今は町一番の古刹(こさつ)である寺院に預けられているらしかった。

 噂では当初、その死を知った多くの者達が診療所ヘ押し掛けたが、流行り病が落ち着くまでは、寄り集まってはならないと医師等に諭され、涙ながらに散って行ったという。

 飄々(ひようひょう)としたおとこの顔を思い出し、えんは腹立たしい思いで唇を噛んだ。

 未だ流行り病が猛威を振う中、おとこを失った町は不安に騒めいている。町中に漂う絶望や諦念は、時が過ぎるほどに人々の心を蝕んでゆくだろう。

 町を覆う不安が、やがて新たな不幸を呼ぶ事にならねば良いが───と、えんは不穏な気配が(こご)ったような赤茶の空を見上げてそう思う。

 目の前の通りは相変わらず人気もなく、人々の不安を映したようにじっと静まり返っていた。

 あんな奴───。

 えんはそう苦い顔で呟く。

 人の為に、という気持ちがすっぽりと抜け落ちたあんなおとこでも、今この時は必要な人間だった。本人の真意が何処にあったにせよ、貴賤上下を問わず大勢の者達を診ていた事に違いはなく、おとこを最後の希望としていた人々も少なくはない。

 これから町は、どうなるのか───

 溜め息をついたところで、えんにできる事はない。それでも───

 火の消えたような町を、えんは足早に通り抜ける。

 取りあえず、この間の小屋まで行ってみるつもりだった。


 小屋の前に、この間の女がいた。

 (しき)りに頭を下げて見送っているのは、どうやら医者らしいと知って、えんは少しばかり驚いて立ち止まる。足早に去って行くその姿は、随分と若いように見えた。

「様子はどうだい───」

 えんが声を掛けると、女は振り向いた。やつれてはいるが先日よりも表情が明るい。恐らくは病人の容態が恢復(かいふく)してきているのだろうと、えんは少しだけほっとする思いがした。

「───良かったら、使っておくれ。」

 そう言って渡した米は、閻魔堂に時折供えられる供物の中から少しばかり取り分けてきたものだ。刑場の供物ではよい気持ちがしないかも知れないと、出所は言わずに置いた。

「助かるよ、すまないね。」

 それでも女は、そう言って押し頂くようにそれを受け取った。

「おかげさまでね、うちのはもち直したんだ───死んだ人も多いけど。」

 後半は囁くようにそう言って、女はえんを見る。この間来た時には、他に数人の病人がいたらしいが、今ここにいるのは女の家族だけのようだった。

「さっきのは、お医者様かい。」

 尋ねると、女が頷く。

「───あの方のお弟子さんさ。まだ随分と若いひとだよ。」

 そう言って、女はその医者が去った方へ目を遣る。

「私らなんかには、腕の良し悪しは分からないけれど───いい人だ。」

 女の話では、今、診療所を預かっているのは彼らしかった。あのおとこが死んだ後、すぐにやって来て重篤な者を診療所ヘ移し、移す事も出来ないほどに衰弱していた者は最期を看取ったという。

 これからも、診てくれると約束してくれたんだ───と、そう言って、女は明るい笑みを浮かべる。

「良かった───。」 

 瞬時に頭に浮かんだ疑念を押し殺して、えんはそう言った。

 女が嬉しげな顔で頷く。

「診療所には別のお医者様もいらっしゃるし、少なくとも流行り病が落ち着くまでは金が無くとも診て下さるそうだ。」

 病の種を残さぬために───と、その若い医者はそう言ったらしい。

 一人でも病の者が残っていれば、またその者から病が広がるかも知れない。だから金の事など気にせず診せに来るように、いや(むし)ろ診せて貰いたいのだと言って、その若い医者は女に頭を下げた。

「困っちまってね。わかりましたと答えるよりなかったよ。」

 女はそう言って笑い、急に神妙な顔になって、有り難いね───と、涙を溢した。

 病人が呼ぶ声がした。女は顔を上げる。

 奥から聞こえたその声は、先日よりも(しっか)りしている。

 あのおとこの弟子という若い医者の思惑がどこに在ろうと、今はどうでも良い───

「───良かったね。」

 と、えんはもう一度そう言った。

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