3.師弟
───もういい。
傍らに座る彼に、師はそう言った。
外では強い風が吹き、立て切られた板戸を鳴らしている。
「どうせ、出来る事は無い。」
もう行け───と、そう言われても、彼はその場を立つ事が出来なかった。
それほど長く共に過ごした訳では無い。
優しくして貰った覚えも無い。
師の興味が、彼自身よりもむしろ彼の抱えた病に向けられていたことも知っている。
それでも───
「朝まで、此処に居ります。」
彼がそう言うと、師は苦しい息の下で笑った。
「流行り病だ───今更経過を見届ける事もあるまい、見飽きる程に診ただろう。」
そうではない、ただあなたの最期を看取りたいのだと、そう言ったところで、師にその気持ちが通じる事は無い。だから、彼は懐から薬包をひとつ取り出す。
「この薬を───試させて頂けますか。」
そう尋ねると、師は得心がいった様に頷いた。
「どうせならば、思い切った物を使え。」
───どうせ、明日には死ぬ身だ。
他人事の様にそう言って、師は彼の差し出した薬を確かめもせず飲み下す。
「ありがとう、ございます。」
そう言って彼は、慣れた仕草で師の脈を取った。弱く早いそれは、師の死期が確実に近づいている事を告げている。近頃使われ始めたばかりの、人を深い眠りに誘う薬は、弱った師の身体に忽ちその効き目を現した。
「御不快はございませんか───」
尋ねた声に、応えは無かった。
師が穏やかな寝息を立て始めるのを待って、彼はぽつりと涙を零す。
おそらく、師が目覚める事はもう無い。
穏やかに眠る師の顔を見下ろし、彼はけして長くはなかった───けれど短いとも言えない、師との時間を思う。
名医と名高い師の元には、医者を志す者達がその技と知識を慕って数多く集ったが、師はけして弟子をとることをしなかった。学ぶ事を許されたのは、既に医者として相応の技術を持つ者ばかりで、長くとも半年ほどでここを離れて行く。
師が数年以上傍に置いたのは、ただひとり彼だけだった。
弟子、ではない───と、彼はそう思っている。
今でこそ、見様見真似で脈を取る事も出来るようになったが、ここに来た時の彼は、医術の知識どころか読み書きさえ満足に出来ないただの子供だった───。
師と初めて会った時の事を思い出し、彼は口元に笑みを浮かべる。
師と出会う事が出来たのは、幸運だったとしか言えない。出会ったその時、彼は死にかけていたのだから───
彼は、町屋の片隅に生まれて育った。
父は職人だったが、取立てて腕が良い訳でも無かったらしく、家は貧しかった。年の離れた兄は口減らしをかねて早くから修業に出され、姉は下女奉公に出されていたが、残された彼も幼い頃はいつもお腹を空かせていたように思う。そんな彼にもそろそろ奉公の話が出始めた───流行り病が彼の住む町を襲ったのは、そんな頃だった。
この度ほどのひどい流行り様ではなかったものの、罹ってしまえば同じことで、周辺には命を落とす者も出てきていた。
まだ幼いと言える年で、十分に栄養も取れていなかった彼を、病は見過ごしにはしなかった。同じ病で死んだ者がいる事を知っていた彼は、薄い布団に包まって苦しい夜を過ごしながら、死の恐怖をひしひしと感じていた。このまま死ぬのではないかという恐怖に眠る事さえ満足に出来ない夜を幾晩か過ごす内に、昼夜の別は曖昧になり、彼は一層弱っていった───。
「───死には、すまい。」
朦朧とした意識のなかで、その言葉だけがやけにはっきりと耳に残っている。弱っていく彼を診てくれたのが、その頃から誰彼構わず請われもしない病人を診て回っていた師であった。
素っ気なく言われたその言葉に、幼い彼はひどく安堵したのを覚えている。さらに彼の身体をあちこち調べて、師は「大丈夫だろう───」と、頷いた。
それよりも───と、師は彼の肩に目を留めた。彼の肩は鱗のように皮膚が捲れている。幼い頃からのもので、揶揄われることはあってもさほど気にした事はなかったが、師はささくれた皮膚に興味深そうに触れ、流行り病が治ったらこっちを診せてくれと、そう言った。
「───大事はないだろうが。」
熱が上がるようなら飲ませるようにと、師が去り際に母に渡した薬包を開くことも無く彼は流行り病を生き延び、やがて師の望みでその手元に引き取られた。
穏やかに眠る師の顔を見つめる彼の目に、薄く涙が浮かぶ。
師があの時母に渡した薬包が、驚くほど高直なものであった事を今の彼は知っている。
引き換えに師が求めたのは、彼ではない。
師の興味を引いたのは、彼が患うごく稀な病の方だった。
───けれども。
何が気に入ったのだろう、と、彼は今もそう思う。
いつのまにか、師は彼を何処へでも連れ歩くようになった。何の知識も無い子供だった彼に病の診立てを語り、対処法を語る師の上気した顔を思い出し、彼は溜め息とともに小さな笑みを浮かべる。
誰でも良かったのだろうに───
どうせ語るのなら、学びに来ている医者達に語れば、どれ程喜んだことかと思う。しかし師がそうした顔を見せるのは、何も分からない彼にだけだった。寧ろ、何の知識も無かったからこそ、師は彼を傍に置いたのかも知れない。
そういう人だ───。
十二で引き取られてから十年足らず。医術を学ぶには、時が足りなかったが、師という人間を知るには十分な時間だった。薬籠を抱え、何時でも、何処へでも、その後をついて歩いたおかげで、彼は師という人間を知っている。
師が、けして世間で言われているような人物ではない事も、よく───
彼の顔に浮かぶ笑みが、僅かに苦くなる。
あれは、非人等の集落での事だった───。
「───これを、飲んでみるか。」
茶でも進める様な言葉と共に、師は丁寧に包んだ散薬を差し出した。
喉から手が出る程に欲しいその薬に手を伸ばすことが出来ず、女はじっと師を見つめる。彼は、その様子をじっと見ていた。
死に掛けている亭主も女自身も、生まれながらの非人であるらしかった。普通、町医は非人を診る事はない。無論、金を積めば診てくれる医者も居ないではないが、夫婦にそんな金があるとは思えない。医者に診てもらう事など思いもよらぬ事、望外の幸運だったのだろう。
まして、薬など───
貧しい家に生まれた彼には、無造作に薬包を差し出す師をじっと見上げたままの女の気持ちが、手に取るように分かる。
薬は高直なものだ。この薬を受け取ったとして、その代価をどうするのか。生まれた時から非人の帳に載っている彼女には、身売りさえままならないだろう。
「どうした。」
薬包を見つめたままじっと動かない女に、師は言った。
「もう、ここまで病が進んでは治ると言い切る事は出来ぬが、まだ見込みはあるぞ───薬の強さに身体が耐えられればだがな。」
師の言葉に、女は荒い息を吐く亭主に目を遣る。そのまま、石になってしまった様に動けずにいる女の手に、師は薬包を握らせた。
「代なら要らぬ。先日、藩主を診た時の残りだからな。」
事もなげにそう言う師を見上げて、女が息を飲む。
「藩主、さまの───」
その唇から、掠れた声が漏れた。
師が頷く。
「そう多くある病では無い。このまま取って置いたところで、恐らく次の病人が出る頃には、薬効が無くなってしまうだろう。」
だから───と、そう言って、師は女に眼差しを向けた。
「どぶに捨てる様な事をするよりも、病の者に飲ませた方が良い。薬効が分かれば次に同じ病を診る時の足しになる。」
揺るぎない師の眼差しを受け、女の瞳から涙が零れ落ちる。
───ありがとう、ございます。
呟くようにそう言って、女は堰を切ったように泣き出した。
「泣いている隙は無いぞ。」
きっぱりと言う師に、女は涙を拭いて肯いた。彼に手伝わせ、師は自ら手際良く病人に薬を飲ませる。やがて薬が効いたらしく病人の様子が落ち着いてゆくのを、彼はほっとした思いで見つめた。師は容態の落ち着いた病人を丁寧にひと通り診ると、満足げに頷いて立ち上がった。
「一先ずは、落ち着いた様だ。」
幾度も幾度も頭を下げて礼を言う女を制し、容体が変わったら直ぐに報せる様にとそう言って、師は傾きかけた戸口を出る。小走りに師を追って振り返ると、迷いの無い足取りで歩み去る師の背を、女が拝むように見送っていた。
───さてあの薬が、どう効くか……。
思案するように呟く師の声を聞いたのは、彼だけだった───。
あの時───女は、きっと師を神仏のように思っただろう。
確かに、並の人間には出来る事ではない。だから、それはある意味では正しいのだ。
神のような人───彼は師をそう思っている。
それも、鬼神のような。時には生け贄さえも求めるような、そんな───神。
彼は痛みを堪えるような顔で、死を前にした師を見つめる。
あの時の言葉の意味を、今の彼は正しく知っている。師の眼差しが向かっていた場所も、知っている。師が、言われているような慈悲に溢れた人間ではなかった事を、彼は知っている。それでも───
「───朝まで、お付き合い致します。」
目元に僅かな涙を浮かべたまま、彼は微かに微笑んでそう呟いた───。
朝の光が静かに差し、山の端を離れた太陽が空へと昇りかける頃、師はゆっくりと息をするのを止めた。脈を確かめ、息を確かめ、開かれた瞳孔を確かめると、彼は深い息を吐いて目を閉じる。
───やる事は同じ……。
心の内で呟いて、彼は目を開けた。
隣室へ続く板戸を開けて忙しく立ち働く下働きの者をひとり呼び止め、一同を集めるようにと伝える。師の横たわる奥の部屋ヘちらりと目を遣り、男は悲痛な顔で立って行った。
程なく集まった者達の前に立ち、彼は一同を静かに見渡した。
「先ほど───亡くなられました。」
師の死を告げると、彼方こちらから悲嘆の溜め息が上がる。
「まだ、流行り病の勢いは収まらないというのに……どうしたら───」
一同の心中を代弁する様に発せられた問いに、彼はそっと唇に指を当てて応えた。すぐ隣の部屋には、生死の境を彷徨う大勢の患者がいる。不安を与えれば、それだけで気力を失い死ぬ者が増える事を、彼は経験で知っていた。
「師がいらっしゃろうと、いらっしゃらなかろうと───やる事は同じで御座います。」
彼の言葉に、一同から不安を訴える吐息が漏れる。
元々弟子を取らない師のこと、診療所に残る人間は少ない。病が流行り始めると半数が去り、師が床に着くとさらに残った内の半数が去った。今、診療所で診療に当たっているのは僅かに数名、雑務をこなす者たちを含めても、十人にも満たない。不安は当然の事だった。
「大丈夫です。」
宥めるように一座を見渡し、彼は努めて明るくそう言った。
「分からない病ではない、幾度も診て来た病です。治療の手順は決まっております。」
───あとは、患者の力が病に勝るかどうか……
「医者は難しくとも、手伝いの手はいずれ増やします。ともかく、今は変わらず治療を続けて下さい───皆様が頼りで御座います。」
そう言って、彼は深々と頭を下げた。
座に、落ち着きが戻る。
「師の、御葬儀は───」
問う声に、彼はゆっくりと首を振った。
「他の方々同様、早急に荼毘に付し、御葬儀は病が落ち着いた後と致します。きっと師は、お怒りにはなりますまい。」
幾人かが、目元を拭う。
師は、怒りはしない。なにより、死者には興味のない人だ。それは近くにいた彼が一番分かっていた。
「師の今後につきましては、私が手配を致します。皆様は、お別れを済ませて頂きましたら、お仕事にお戻り下さい。」
そう言って、彼は隣室の戸を引き開ける。横たわる師の周りに集まった一同から啜り泣きの声が上がるのを横目に、彼は小さな息を吐いた。
今は何とかこの診療所を支えなければならない───。
師が亡くなった今も、この診療所が流行り病にさらされた町の者達の希望である事に変わりはなかった。たとえ医術の心得も碌に無い若輩者でも、師に一番近かった彼の他にこの場を取り仕切れる者はいない。
───往診にも回らなければ。
町中では、まだ病に罹る者が増え続けている。そちらをどうにかしなければ、流行り病は収束しないだろう。
新たな病人を隔離し、隔離小屋の者達を診察し、症状が重篤な者を診療所ヘ移す───これを続けなくてはならない。
その他にも、師が密かに診ていた非人等もいる。その集落には、他の者を行かせるわけにはいかない───。
彼の唇に淡い笑みが浮かぶ。
思いは如何あれ師は、ひとりでどれだけの事をしていたのか。
───本当に鬼神のような人だ。
そう呟いて、彼は師との別れを済ませ、それぞれに戻っていく者達を見渡しながら、どこに誰をあてるべきかを思案する。
途方に暮れるわけには、いかなかった───。