2.無常
山おろしのからっ風が、吹き下ろしている。
この季節に山おろしの風が吹くのは、例年のことで何の不思議もなかったが、ひゅうひゅうと吹くその風はしかし、今年に限って、身の内に病を含んで吹き荒れていた。
最初の病人が出たのは、風が吹き下ろし始めてから、間も無くのことだった。風の悪気に当たったのだろうと甘く見ているうちに、病人はたちまちに増えた。そのうちに、子供や年寄りが死に始め、ついには大の大人にも死人が出た。そうなると人々には為す術がなく、町は今、戦々恐々として、流行り病が去るのをただじっと息を殺して待っている───。
外へ目を遣り、えんは小さな溜め息をつく。
幸い、病も此岸と彼岸の境は心得ているようで、えんはひとまず無事に過ごしていたが、日々市中の人々が病に倒れ死んでゆくさまを見かねて、このところは夜毎閻魔堂を訪れていた。
「悪い風だねえ」
病で命を落とした幼い子どもを見送って、えんが遣り切れなげに呟く。
「酷いことだが、なんともしようがない。」
閻魔王が、苦虫を噛み潰したような顔で応えた。
このところの閻魔堂には日々老若男女を問わず、流行り病に命を落とした者たちがやって来る。殊に体力の無い幼子や年寄り、食うや食わずの貧しい者達の数が多く、お仕置になった罪人とはまた違い、その死はなんとも哀しかった。
「ひとの世に起こる事は、我々にはどうする事も出来ませぬ───」
倶生神が、哀しげに眉根を寄せる。
獄卒鬼等さえ、悄然とした様子で立ち尽くすのを見て、えんはまた、小さく溜め息をついた。
───えん。
閻魔王が呼ぶ。
「なんだい?」
問うと、閻魔王は渋い顔でえんを見下ろした。
「近々───ひとり死人がある。」
そう言って、閻魔王は眉を顰める。
「死人なんぞ、ない日の方が近頃は珍しいくらいじゃないか。」
えんがそう言うと、閻魔王は一層苦々しい顔をした。
「───この度死ぬのは医者だ。」
そう言って、閻魔王はこの辺りでは高名なひとりの医師の名を告げた。
その名を聞いて、えんは絶句する。
請われて藩主を診る事もありながら藩医の座を断り、町医者として市井の者達を診つづけていると評判の医師だ。時にはこっそりと非人等さえも診てやるらしく、どこまでが本当かは知らないが、死にかけた非人に調合の難しい薬を与えて、命を救ってやった事さえあるらしい。今この時には、もっとも死んで欲しくない人間だった。
「なんとか───ならないのかい?」
どうにもならないと分かっていながら、えんはそっと閻魔王にそう問う。
閻魔王は難しい顔で首を横に振った。
「ひとの世の事はどうにも出来ぬ。それに───」
と、閻魔王は少しばかり険しい表情を見せる。
「───そのおとこが、云われる通りの者とは限らぬ。」
訝しげに見上げるえんに、閻魔王はひとつ小さな溜息をついて見せる。
「ともかく、そういう事だ。心しておけ。」
そう言って、閻魔王は口を噤む。
えんは仕方なく、頷いた───。
次の日───
えんは久方ぶりに小さな橋を渡った。
いつもなら賑やかな筈の町も、今は橋の向こう側と大差がない程に静まり返って、吹く風だけがひょうひょうと音を立てている。
病人は町役等の指示で繁華な場所から離れた仮小屋に移され、子供や年寄りは寺ヘ預けられているらしい。生活に余裕のある者は、知り人や親類を頼って町を離れ、町を離れられない者達の多くは病を怖れて家に引き篭もっているのだろう。通りには、碌に人影も無い。
無理もないね───。
呟いてえんは通りから目を逸らした。最初の死人が出てから既に一月半程が過ぎ、死者の数も両手の指の三、四人分は優に超え、向こう三軒両隣から一人も病人が出ていないところは無いという有様では、為す術の無い者達はただじっと病が過ぎて行くのを待つしかない。
ひとの無力さに、えんは悔しげに眉根を寄せる。
流行り病で死んで行くのは、多くが為す術の無い者達だった。十分な休養と十分な栄養がとれる者達は、病に伏しても簡単に命を取られる事はない。それが分かっていても、多くの者が死んで行くのを止められないのが、ひとの世だ───。
遣り切れない思いで、えんは歩みを進める。
町を抜けてしばらく進むと、病人を集めた仮小屋らしい建物が幾つか目に付いた。急拵えの建物は、遠目にも取り敢えず立っているだけの掘っ建て小屋と分かる。
医者など、廻って来るのだろうか───と、えんは痛ましい思いで、粗末な小屋を見つめた。ここいらに集められているのは、病を得てもただ横になって病が去るか、死ぬのを待つしかない者達なのだろう。治療の為の場所というよりは、これ以上病人を増やさない為の隔離小屋、病人の捨場のような場所だった。
あの医者は、こうした場所へも足繁く顔を出して病人を診ているらしいが、この有様ではその噂も疑わしいものだと、えんはそっと溜め息をつく。
さて───
どうしようというあてもなかったが、何とはなしに立ち去り難くえんは小屋のひとつに近づいた。半分彼岸の住人のようなものではあっても、この世のものであるからには、えんとて病に取りつかれないとは限らない。恐る恐る様子を窺うと、奥で病人の咳き込むらしい音がする。思わず怯み掛けた時、女がひとり丁度良く小屋から出て来た。
えんが声を掛けると、女は怪訝そうに足を止める。側に寄ると、薬草でも煎じていたらしい匂いがした。診てくれる者はいるのかと聞くと、女は「ああ───」と頷き、あの医者の名を上げた。
「けれど───」
ここ数日姿を見ていないと、女は顔を曇らせる。
「あたしも早いうちに病に罹ったんだが、お薬を頂いてなんとか元気になったのさ。けど、まだ家族の者が伏せっていてね───。」
そう言って、女は心配そうに眉根を寄せた。
「こんな所に来てくださるのは、あの方ぐらいだからね。」
見棄てられたら、死ぬのを待つしかないんだよ───と、女は溜め息をついた。
奥から、女を呼ぶ弱々しげな声がする。病人がいつまでも戻らない女に痺れを切らしたのだろう。
すまないね───と、戻って行く女に、頑張ってと声を掛け、えんは小屋を離れる。女が去り際に見せた心細げな顔が切なかった。
帰りがけ、ふと気になってえんは、あの医者が病人を診ている筈の診療所の近くへ足を向けた。藩主の病を治した見返りに許しを得て建てられたという診療所は、簡素ではあったがそれなりに大きな構えの建物で、近くに寄ってみると濃く澱んだ薬の匂いがした。
奥には病人を預かる離れがあるらしく、医者や看護人が慌しく行き交っている。これだけの人間がいながら、日々あれほどの人びとが病に倒れて行くのを止められないものかと、えんはどうにも遣り切れない思いで深い溜め息をついた。
行き交う者達の中に、それらしい医者の姿は見えない。恐らくは既に床に臥しているのだろう。人々の僅かな希望であった筈のその命さえも、もう間も無く失われるのかと思うと居たたまれず、えんはそっとその場を離れた。
歩き出した通りを切り裂く様な山おろしの風が吹き過ぎ、舞い上がる砂埃に辺りが黄色に染まる。袖で顔を覆う様にして見上げると、空は埃の色にくすんで、黄色く濁った太陽がぼんやりと不気味な光を放っている。
───いつまで続くんだろうね。
呟いて、えんは眉を顰めた。