序
まだ朝日も上っていないというのに、やけに窓の外が明るい。その色は朝の眩いまでの白ではなく、赤黒く忌まわしい炎のもの。
けれども、そんなことは後回し。
私は早く身支度を整えて、招かれざる客人とやらを迎えねばならないのだから。
ドレッサーの前で髪型を整え、後れ毛を手で撫でつける。金の髪を上品にまとめ、白い薔薇の髪飾りで留める。深い緑色の双眸と相まって、我ながらよくできたと満足する。
屋敷のあちこちから、怒号や悲鳴が聞こえている。
でも今はそれさえも遠い――次に災いが降りかかってくるのは、自分の身の上だと分かっていた。
貴族たるもの、いつだって毅然として、誇り高く振る舞わねばならない。たとえ、破滅と隣り合わせだったとしても。
この屋敷に残された、フォンダイル家の生き残りは私ただ一人。
私は首から下げたペンダントを握りしめた。陶製のペンダントトップはロケットになっている。その中に小さな家族の肖像画が入れてあった。
笑顔の家族はもういない。
今この瞬間、フォンダイル家は消え行く運命にあるのだから――。
皇太子位を巡る、第一皇子と第五皇子の争い。
それは、第一皇子の敗北という形で幕を閉じた。
第一皇子を支持していたフォンダイル家は、追いやられ、破滅の道をたどることになる。
第一皇子の婚約者であった私――エレイン・フォンダイルもまた、政権争いに巻き込まれ、貴族としての終焉を迎えようとしていた。
父は第一皇子を皇太子位に据えるため、暗殺を企てたと告発され、処刑された。
母は父と同時に囚われ、辺境の地へ流刑。塔に幽閉されてしまった。
兄は爵位を剥奪され、従軍するよう言い渡されたが、それに耐えきれず自害した。
私はベッドの上に投げかけてある使用人服と、サイドテーブルの上の小瓶を交互に見つめた。
一つは生きるためのもの、もう一つは死ぬためのもの。
甲冑と剣の耳障りな音が近づいてきている。囚われの身になるのも時間の問題。
父は私に二つの道を示してくれた。
使用人服を纏い、エレイン・フォンダイルの名を捨て、逃げること。あるいは、小瓶の毒薬をあおり、フォンダイル家の名を抱いたまま、貴族としての生に幕を閉じること。
でも……私はどちらの道も選べなかった。
貴族としての生活を送ってきた私が自由の身になったところで、どのように暮らしていけばいいの?
だからといって、死を選ぶのは恐ろしくて、震える手では小瓶を持つことさえできそうにない。
住み慣れた自室を隅々まで眺め、私は思う。
百合の刺繍が施されたカウチ、初めて舞踏会に着ていった若草色のドレス、誕生日に贈られた絹のスカーフ。どれもがきらびやかで――大切な思い出。
だからこそやはり私は「エレイン・フォンダイル」としてしか生きられないのだと。
――バンッ!
扉が大きく開け放たれ、どっと軍の兵がなだれ込んできた。
なんだかそれがとても可笑しくて、私の心から恐怖は吹き飛んでしまった。
お気に入りの黒レースの扇を広げ、口元を隠して……優雅に笑い飛ばしてやるわ。
騎士団の長らしき兵が一歩前に進み出てきた。
硬そうな赤毛、琥珀の瞳。大柄な体は筋肉質で、重そうな黒鉄の甲冑を軽々と纏っている。
何か言いたげに口を開きかけたのを、私は見逃さなかった。だからそれよりも前に、私はその兵に問うてやった。
「皆様、ようこそお集まりくださいました。エレイン・フォンダイルをお探しでしょうか?」
赤毛の男は一瞬ひるんだように見えた。
「私が――フォンダイル家最後の一人、エレイン・フォンダイルですわ」
私は男の琥珀の目から視線を逸らさず、睨みつける。
美しいフォンダイル邸を土足で踏みにじった男。
この家を破滅に追い込み、すべてを奪った男。
絶対に許さない。
必ず討ち取って、無念を晴らしてみせる――!
赤毛の男はゆっくり歩み寄り、私の前で礼をした。真紅のマントを翻し、音もなく跪く。
「私は騎士団長レナルド・アズガルド。皇帝の勅命により、御身の身柄を拘束いたします。フォンダイル侯爵令嬢、おとなしくしていてくだされば危害は加えません」
「今さら――私は逃げも隠れも致しません。さぁ、案内なさい」
心細さと不安に押しつぶされそうになりながら、私は強く言い放つ。
貴族らしく、誇り高く。それは、精一杯の虚勢だった。
*
それがあたしとレナルドの出会い。
まだ「あたし」が「私」だった頃――十五の時の話だ。
その時のあたしは何も知らなかった。
争いも、政治も、策謀も、そして――恋さえも。