2-1
◆
炎、炎、炎。
少年が今居るのは大広間だ。しかし、襖で仕切られた四方の壁は、全て激しく燃え上がり、逃げ道は見つからない。
目の前には、黒く歪んだ異形の怪物が居た。人の数倍ある巨体で、一歩一歩ゆっくりと、畳に鍵爪を食い込ませながら、こちらへと歩いてくる。
「く、来るなっ!」
叫んだつもりの声は、しかし喉から掠れた吐息となって漏れて消えてしまう。刻一刻と迫る運命に、少年の膝はガクガクと震え、ついにはペタリと座り込んでしまった。
「…………」
「……え?」
突然、何かに呼ばれた気がして下を見ると、いつからそうしていたのだろう、少年は一人の少女を抱いている事に気付く。
少女の瞳は閉じられ、顔に生気は無い。もしかしたら、既に少女の命は失われているのかもしれない。
「八葉! 八葉っ!」
それでも、必死に少女に声をかけ肩を揺する。
この命まで奪われてはダメだと、心が叫び続け、涙が後から後から溢れて頬を伝う。
だが、当然のように、少女は応えなかった。
少女を見つめる少年の、その歪んだ視界の端、ミシリと床を軋ませ異形の爪先が現れる。
もうダメだ……そう思ったその時、突然謎の声が響きわたった。
『さあ、答えろ、小僧……今が選択の時だ』
◆
新が瞳を開けると、目の前には見慣れた天井が見えた。頬を伝う涙を両手で擦り、上体を起こす。部屋は暗く、カーテンの向こうも、まだまだ夜明けには遠そうだ。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。涙を拭い、夢だとわかった今でも、べったりと心に張り付いた哀しみは、簡単には拭えそうになかった。
「……ふむ、起きたか、新よ」
新のすぐそば、見慣れたウサギの着ぐるみ姿で、布団の枕元にちょこんと座った八葉が微笑む。さっきまで扇いでいたのだろう、手には団扇が握られていた。
「八葉か……悪いな、起こしたか?」
「ああ。だが、気にするな。それより、だいぶうなされていたな……また、あの時の夢でも見ていたのか?」
「ああ、そうだよ。あ〜……最近は見る回数も減ったと思ってたのにな……」
「……よいか、新」
俯く新の頭を、八葉の団扇がポンと優しく打つ。
「過去を振り返り学ぶことは、決して悪いことでは無い。だが、後悔の鎖を身にまとい、過去に囚われ立ち止まり続ける生には、新たな発見も進歩も無いぞ」
「ん〜……そりゃあまあ、そうなんだろうけどな。人には、立ち止まって感傷に浸りたい時もあるんだよ、八葉」
新が頭の上の団扇をそっと振り払う。しかし、その顔には笑顔が浮かんでいた。
「……だけど、お前なりに励ましてくれてるのは伝わった……ありがとうな、八葉」
「ふふん、励ます? 何の事を言っているかはわからんが……」
団扇で口元を隠し、八葉がニヤリと笑う。
「落ち着いたなら、寝直すといい。まだ起きるには早過ぎるからな……なに、これ以上、新の頭へ悪い夢が入り込まぬように、私がここで見張っておいてやろう」
「いや、いいよ……俺も寝るから、八葉ももう寝ていいぞ」
そう言って、新が再び布団に潜り込むが、八葉は動こうとはしない。
枕元に座ったまま、何も言わずゆったりと団扇で仰ぎ、どこか嬉しそうに新の顔を見下ろしている。
その視線が何だかむず痒く、新は顔を背け目線を逸らした。
「……気が済んだら寝ろよ、八葉。おやすみ」
「ああ、ゆっくり休むといい。新よ」
八葉の返事を聞き、新が目を閉じると、すぐに睡魔が訪れる。暗闇の中、近くに八葉の存在を感じながら、新はどんどん深い眠りの中へと落ちていく。
……不思議と夢は何も見なかった。
◆
「新さん、これを……」
朝食を済ませ、身支度をしていると、律が新に厚めの茶封筒を差し出してきた。
「お、無理言ってすまないな、律」
新が笑顔で茶封筒を受け取り、中身を確認する。
「そりゃあ……まあ、新さんのためですし……」
そんな新の姿を見ながら、律が唇を尖らせた。上目遣いで物欲しげな様子の律に苦笑しながら、新は律の頭を優しく撫でる。
「いつも感謝してるって。だから、機嫌直してくれよ、律」
そっと撫でる、ただそれだけで律の表情がどんどんとろけていった。
「いいんです、新さん。新さんにこうしてもらうだけで、私は幸せです」
頬を染め抱きつく律に、新の動きが止まる。抱きしめ返す事も、突き放す事も出来ない新を横目に八葉が愉快そうに笑った。
「ふふ、これがいわゆる、ドツボにハマる……というやつなのだろうな、新よ」
「うるさいぞ、八葉。よ、よし、そろそろ行くとするか。留守番頼むぞ、律!」
半ば強引に、名残惜しそうな律を引き剥がすと、八葉を連れて新は玄関へ向かう。
「いってらっしゃい、新さん、八葉さん。……あ、あの……た、多聞さんにもよろしく伝えておいてください」
「ああ、伝えておくさ。それじゃあ、行ってくる」
見送る律に片手を挙げて応えると、新と八葉は家を後にした。