少女の名は復讐
劇中に名前のみ登場している「クスデート辺境伯領」を治める一族の名ですが、3部で「ミツトモ家」という名を出していた事を忘れてしまい、4部では「トモフミ家」と設定してしまいました。今後は後者の「トモフミ」の方に統一します。混乱させて申し訳ありません。早く登場させたい・・・。
6月11日 日本国 東京・千代田区 警視庁
日本の首都を守る唯一無二の警察機関である「警視庁」には、全部で9つの部が存在する。その中の1つである「公安部」の外事第2課第5係が位置するオフィスには、長い間空白となっている1つのデスクがあった。
「開井手先輩・・・今頃何処に居るのかなぁ」
そのデスクを見て、ため息をつく男が居る。第5係の若手刑事である長峰良佳は、海外に派遣されたまま2ヶ月近く日本へ帰って来ていない先輩刑事の事が気がかりだった。
「全く貧乏くじを引かされたものだよ。不法出国者なんて自己責任なんだから放っておけば良いのに」
長峰は、開井手が国外へ派遣される原因となった、5人の失踪邦人に対する恨み節を呟く。彼は拳銃の訓練に付き合ってくれた先輩の事を恋しく感じていた。
「おいおい、刑事ともあろうヤツが何を言っているんだ」
彼の独り言を聞いていた刑事が、長峰を諌める。
「左翼だろうが何だろうが、国民を守ることが警察官としての責務だろうが。基本を忘れるなよ」
「はーい」
先輩の忠告に、長峰は口をとがらせながら渋々頷いた。神藤たちが失踪した活動家を追い、異世界の地を西へ西へと進む中、日本国内では何時も通りの日常が流れている。しかし、何人かの者たちは、長らく日本国内を空けている彼らの帰りを、こうして待っているのである。
〜〜〜〜〜
6月12日・夕方 クロスネルヤード帝国 ノースケールト辺境伯領
日本から1万5千km以上離れた地で神藤一行を運ぶ高機動車は、地方の境を超えて「ボン辺境伯領」に隣接する地方である「ノースケールト辺境伯領」に到達していた。
「平和だねぇ〜・・・」
助手席に座る神藤は、窓の外に見渡す限り広がる荒野を見て、静かにため息をつく。ボン市を出て2日目、彼らの周りにある景色はいつまでも変わる事は無かった。その時、フロントガラスの向こうに街の姿が見えた。地図を見て場所を確認した神藤は、後ろの荷台に座る4人の方を向く。
「何とか日没前に辿り着けた! ノースケールト市が見えたぞ」
彼の言葉を聞いた利能は、前に乗り出して街の姿を視界に捉える。ようやく第2の目的地に辿り着いたのだ。
・・・
ノースケールト市 市中
一行を乗せた高機動車は、街の中を貫く通りの上を進む。市民たちの好奇の視線が、彼らの下に集中していた。この地方は日本人がまだ脚を踏み入れた事の無い土地であり、それ故ベギンテリア市やミケート・ティリス市の住民とは違い、この街の市民は自動車を見た事が無かった。
それは勿論、この街が内陸部に有る為という理由もある。だがもう1つ、この地方に日本人が寄りつかない決定的な理由があった。
「・・・あのベギンテリアって街に比べると随分田舎だな。おまけに荒んでる様に見えるぞ」
建物も人の数も、他の地方の首都と比べて疎らな上に、路上のあちこちで浮浪者がたむろしているノースケールト市の様子を見て、開井手は思ったままをつぶやいた。
この地方の首都「ノースケールト市」は内陸の乾燥地帯にある為、他大陸国家との海上貿易と豊かな地質に支えられた「ミケート騎士団領」や「ベギンテリア辺境伯領」と比較すれば人口も少なく、かなり田舎だと言った印象を受ける街だ。それに加え、今まで滞在してきた街と比べ、何処か暗い雰囲気を感じる街だった。
「取り敢えず、泊まる宿を探そう」
すでに日没が近く、神藤はこの街で夜を越す事を決める。その後、彼らは道中に見つけた宿屋の前に車を停めた。
宿「三ツ葉荘」
宿屋の脇にある空き地に高機動車を停めた一行は、車を降りて宿の中に入っていた。ロビーには他の客たちの姿もちらほらと見える。神藤は宿の主人と思しき男が立つカウンターに近づき、宿泊したい旨を伝える。
「6人なんだ、急で悪いが泊まれるかい?」
「・・・」
宿の主人は無愛想な目つきで、神藤と彼の後ろに立つ5人の姿を一瞥する。
「良いよ・・・此処に名前書きな」
彼はそう言うと、カウンターの下から宿帳を取り出した。神藤らはカウンターの上に置いてあった羽根ペンで、自身の名前を書き連ねる。最後に羽根ペンを受け取ったのは開井手だった。彼はリリーの名が記された欄の下に、見よう見まねで覚えたジュペリア大陸共通語で、自分の名前を書き込む。
「首都って言う割りに随分と荒れた街だな。ここでも中心部なんだろ?」
「・・・」
彼は羽根ペンを走らせながら、宿の主人に向かってぽつりとつぶやいた。開井手の言葉を聞いた主人は、ただでさえ無愛想だった顔がますます不機嫌そうな表情へ変わる。これは墓穴を掘ったかなと、自身の口の軽さを省みる開井手に対して、宿の主人はゆっくりと口を開く。
「1年前の・・・ニホン国との戦争でな・・・! 軍がミケート・ティリスと皇帝領で壊滅しちまって、この街は隣接地方に頼らなきゃ、治安を維持するのもままならなくなったんだ! おまけに先代の辺境伯様も、追われる様に“長”を辞めて行ったよ・・・」
「・・・!」
先程まで無感情に見えた宿の主人が、激情を露わにする姿を見て、開井手たちは思わず冷や汗を流す。この地方に大陸で活動する日本人が近寄らない理由、それはこの地に蔓延る対日感情が芳しく無い事が原因だったのだ。
「ノースケールト辺境伯領」・・・辺境伯位「ヴェルテブラ家」によって治められているこの地の先代の長は、“保守派”と呼ばれている「皇帝よりも教皇を重んじる」思想を有する派閥の一角を成していた。
故に此処は、昨年の対日戦争の中で最後までアルフォン1世に従属した地方の内の1つであり、結果として、先代の長は兵力の殆どを失い、更にはジェティス4世が率いる新政府や他地方の長たちから“反逆者”の烙印を押された為、地位を自ら退く羽目になった。今この地を治めているのは、先代の長女であるアルス=ヴェルテブラという少女らしい。
「なるほどね・・・じゃあ、気をつけなきゃな」
開井手はそう言うと、名前を書き終えた羽根ペンをインク瓶の中に戻した。宿の主人は宿帳に書かれた6人の名前を確認する。
「此処は前払いなんだ。一泊するんだろ? 6人分金出しな」
「分かりました、幾らですか?」
利能はそう言うと、腰のポケットにしまっていた巾着袋を取り出す。袋の中に入った貨幣が、チャリチャリと音を立てる。その時だった。突然、短い足音が彼女の下へ近づき、掌の上にあった巾着袋をかすめ取って行ったのだ。
「あっ!!?」
不測の事態に皆の動きが止まる。その人影は宿の出入り口から走り去って行った。どうやらロビーに入り込んでいたスリに目を付けられていた様である。
「あのガキ・・・!?」
スリの犯人は子供だった。いち早く反応した開井手が、その後を追いかけて宿から出て行く。神藤も少し遅れて彼の後を追おうとしたが、利能に腕を掴まれて制止される。
「ちょっと・・・貴方まで行ったら誰がお金払うんですか!? 私が行きますから!」
利能はそう言うと、自らが犯した失態を取り戻す為、開井手の後を追って宿から出て行った。
「・・・ったく」
宿を出て行く利能を見送った神藤は呆れが混じったため息をつく。その後、彼は利能に代わって宿代を払おうと、宿の主人が立つカウンターに歩みを進めた。その時、神藤に話しかける声があった。
「あの・・・? もしかして貴方は・・・」
「あん? ・・・!」
神藤はその声に対して、警戒心と苛立ちが籠もった返事をする。だが、その声の主の顔立ちを見た途端に神藤の顔色が代わった。
「貴方・・・もしかして日本人ですか? 実は私もなんです、こんな所で会うなんて奇遇ですね」
その人物は神藤に少し顔を近づけて小声で話しかけてくる。衣装こそ現地に合わせているが、その顔立ちは間違い無く東アジア人のものであった。
市街地
夜闇が覆う街の通りを、スリ犯は全速力で駆け抜ける。開井手はその後を全力で追いかけていた。
足の長さの違い故か、開井手は徐々にスリ犯との距離を詰めていく。そしてあと5m程というところまで迫った時、スリ犯の子供は突如裏路地へと方向を変えた。
(・・・逃がすか!)
狭い道が入り狂う路地裏を通る事で、土地勘の無い自分を煙に巻くつもりなのだろう。開井手はそんな事を思いながら、右へ左へと逃げ惑うスリ犯を追尾し続けた。そして遂に、彼はスリ犯を行き止まりに追い詰める事に成功した。
「ほら・・・もう逃げ場は無いぞ、そいつを返して貰おうか」
壁に背中を付けて自分を睨み付ける子供に、開井手は財布を返す様に促す。とうとう観念したのか否か、スリ犯の子供は被っていたフードを脱ぎ、その素顔を開井手に晒した。
(・・・女の子!?)
開井手は驚愕する。フードの中から現れたのは、2つ結びの茶髪に凛とした顔立ちをしている少女だったのだ。先程までの逃げ足の速さからは、想像し得ない程に華奢な体つきをしている。
「・・・」
開井手は言葉が出なかった。わずかな静寂が両者の間に流れる。だがその刹那、少女は右手の親指と人差し指を口に咥え、甲高い指笛を辺り一帯に鳴り響かせたのだ。
「!?」
開井手は辺りを見渡す。すると、少女の仲間と思しき少年たちが、何時の間にか自分を取り囲んでいる事に気付いた。どうやら追い詰められていたのは彼の方だった様である。
「・・・良くやったアカシア、随分と羽振りの良さそうな奴を捕まえてこれたじゃないか」
子供たちの首領と思しき一際大きな少年が、木の棒を振り回しながら開井手の方へと近づく。他の子供たちも舌なめずりをしながら、徐々に開井手との距離を詰める。
(・・・十数人と言ったところか、まんまと嵌められたな)
少女にしてやられた不甲斐なさを感じながら、開井手はため息をつく。圧倒的に不利な状況にも関わらず、彼は極めて落ち着いた声色で口を開いた。
「・・・お前ら、悪い事は言わねェ。今すぐウチへ帰れ」
「!?」
少年たちの顔色が変わる。明らかに此方を舐めている開井手の態度が、彼らの癇に障った様だ。
「状況が分かってねェ様だな、おっさん! 死んで後悔すんじゃねェぞ!」
首領の少年は叫びながら、開井手に向かって襲いかかる。木の棒を振り上げながら走り出す彼に続いて、他の少年たちも一斉に襲いかかって来た。
その刹那、開井手は懐へ右手を伸ばす。
バキューン!!
鋭い銃声が夜の路地裏に響き渡った。同時に、首領の少年が握っていた木の棒が天高く飛ばされて行く。少年は突如として右手を襲った鈍い衝撃に顔を歪め、地面にうずくまっていた。他の少年たちも足を止め、何が起こったのか分からないといった感じの表情をしている。
開井手の方を見れば、彼の右手に握られているベレッタ92の銃口から、硝煙の香りが漂っていた。事此処に至って、少年たちは何が起こったのか理解する。
ドン! ドン!
開井手は地面に向かって2発の弾丸を放った。少年たちはまるで海岸の磯虫の様に、彼の周りから後ずさりしていく。
その後、彼は地面にうずくまったままの首領の少年に近づく。恐怖に満ちた顔色で此方を見上げて来る彼に対して、開井手は淡々と言い放った。
「おっさん舐めんじゃねぇぞ。仕事はスマートにやるもんだぜ、小僧!」
「・・・ひいっ!」
首領の少年は先程までの威勢が嘘の様な情けない悲鳴を上げる。彼はすぐさま地面から立ち上がり、路地裏の向こう側へと逃げて行った。他の少年たちもボスの後を追って、開井手の前から逃げていく。
「さてと・・・もう仲間は居ないぞ。さあ・・・そいつを返して貰おうか」
彼らの後ろ姿を見送った開井手は、1人この場に残されたスリ実行犯の少女の方を向いた。身構える彼女に対して、彼は再び利能の財布を返す様に促しながら、ジリジリと距離を詰める。少女の方も観念したのか、利能から奪った巾着袋をポケットから取り出した。その時だった。少女はその巾着袋を、開井手の顔目がけて投げつけて来たのだ。
「うおっと!?」
間一髪、顔面に当たる寸前のところで、彼は巾着袋をキャッチする。だが同時に足元のバランスを崩し、尻餅を付いてしまった。
その刹那、巾着袋を投げた少女は懐からナイフを取り出し、後方へ倒れる開井手に向けてそれを突きつけて来たのだ。
「何をする!?」
一瞬の虚を突かれ、ナイフの切っ先を向けられながら少女に見下ろされる恰好となった開井手は、彼女の行動の意味が分からなかった。
「貴方・・・ニホン人でしょう!?」
「・・・!」
少女は開井手の問いかけに答えず、逆に彼が日本人か否かを問うた。その憎悪に満ちた声と表情に、開井手は思わず生唾を飲む。少女はおよそ少女として似つかわしくない鋭い眼光を、彼に向けていた。
「何の事だか分からないな、俺はしがない旅人さ」
「嘘! ごまかされはしない!」
少女は声を昂ぶらせて、開井手の嘘を否定する。どうやら日本人である事が完全にばれてしまった様だ。
(くそ・・・拳銃を使ったのが悪かったか。こういう時、神藤なら上手く誤魔化せるんだろうが・・・)
あの場を収める為に仕方無かったとは言え、この世界にはまだ存在しない自動拳銃を使ってしまった事を、開井手は後悔していた。気の利いた言い訳が思い浮かばす、彼は思わず目を反らしてしまう。
明らかに動揺している開井手の様子を見て、いよいよ彼が日本人であると確信した少女は、心の奥底に蹲っていた憎しみをはき出した。
「・・・私の父はノースケールト軍の准士官としてミケート・ティリスへ出征したのよ。そこでニホン軍に殺された・・・!」
「・・・ミケート・ティリス?」
聞き覚えのある地名を聞いて、開井手は片眉を吊り上げる。そこは「クロスネルヤード戦役」で、日米の軍勢が大規模な上陸作戦を行った場所だった。
彼女は自分の名を「アカシア=ウルトリクス」と名乗った。平民階級で在りながら、軍の准士官という地位に居たアカシアの父は、日本との戦争が勃発した際に、数多の兵士と共に遠き東の地である「ミケート・ティリス」へ派遣されたという。
だが数ヶ月に及ぶ行軍の末に彼らを待っていたのは、海上から現れた日本軍による壮絶な奇襲攻撃だった。都市部の周りに形成されたキャンプ地で寝泊まりしていた彼女の父親は、空爆によって命を落としたのだという。
「戦いに殉じて死ぬのは名誉だと言う人も居るけれど・・・、ミケート・ティリスで行われたのは“戦い”じゃない、一方的な“虐殺”よ! ニホン軍は姿も見せず、安全な場所から爆弾と弾丸の雨を降らせただけ・・・、父は自分たちに何が起こっているのかも分からずに死んだのよ・・・。私はニホンが許せなかった・・・!」
一家の稼ぎ手である父親を失ったアカシアの家庭は程なくして崩壊し、母親も死んだ父親を追う様にして謎の失踪を遂げたという。13歳という身空で親と家を無くした彼女は、その後、同じ様な境遇に遭った浮浪児たちと共に、日銭稼ぎと盗みを重ねて今日まで生きてきたのだ。
アカシアは両目から大粒の涙を浮かび上がらせている。父親を奪った憎き国の民を目の当たりにして、彼女は感情を抑えきれないでいた。ナイフの切っ先が少しずつ開井手の喉元に近づく。
「そりゃあ・・・ご愁傷様だが、生憎俺は軍人じゃない。ただの民間人さ」
ようやく事情を知った開井手は、日本への憎しみを吐露するアカシアに大嘘を告げる。落ち着き払った様子を見せる彼の態度が、ますます彼女の感情を逆撫でしていく。
「・・・そんなの、関係無い!」
アカシアはナイフを持つ右手を大きく振り上げると、それを開井手に目がけて一気に振り下ろした。
「んな無茶な・・・うわっと!」
弁明の余地無く降りかかってきた攻撃を、彼は再び間一髪のところで受け止める。開井手に掴まれたアカシアの右手は、刃を彼に届かせる事無く空中に止まった。開井手は彼女のもう片方の腕も掴むと、巴投げの要領でアカシアの身体を後方に投げ飛ばした。
「でぇりゃあぁ!」
「キャアアッ!」
突如宙を舞い、背中から地面に落下したアカシアは、その衝撃でナイフを手から離してしまう。その隙に開井手は立ち上がり、地面に落ちたナイフを更に遠くへ蹴飛ばした。
彼は呆気にとられながら夜空を見つめるアカシアの顔を覗き込む。
「悪いがこんな所で命獲られる訳にはいかねェんでね。それと・・・確かに巾着袋は返して貰ったよ」
「くっ・・・!」
開井手はそう言うと、一度ポケットに仕舞っていた利能の巾着袋を、見せつける様に取り出した。
その後、地面の上に仰向けに倒れたままのアカシアを尻目に、彼はその場から立ち去って行く。その後ろ姿を眺めながら、彼女は悔しそうな表情を浮かべていた。
その時、突然開井手が立ち止まる。動きを止めた彼の様子を見て、アカシアは何事かと身体をびくつかせた。警戒心を露わにする彼女に対して、開井手は背中を向けたまま口を開く。
「1つだけ言っておく。その若さと美貌なら、強盗やスリみてぇなアンダーグラウンドに身を堕とすのは、時期尚早だと思うぜ・・・。人生棒に振るにはまだ早ェぞ。まあ、日本人である俺に言われたところでって感じだろうがな」
「・・・え」
罠に嵌めた相手から告げられた予想外の言葉に、アカシアは目を丸くする。きょとんとした顔をする彼女に対して、開井手はそれ以上何も語らず、そのまま彼女の視界から姿を消した。アカシアはしばしの間、彼が去って行った路地の先を呆然と眺めていた。
裏路地を抜けて表の通りへ出た開井手の前に、息を切らした利能が現れる。彼女は呼吸を整えると開井手に向かって口を開いた。
「やっと見つけましたよ、開井手巡査部長。・・・で、スられた財布は?」
「勿論、バッチリ取り戻しましたよ」
開井手はそう言うと懐から巾着袋を取り出した。その後、2人は神藤が待つ宿へと戻る。
宿「三ツ葉荘」
程なくして、利能と開井手は宿へ帰って来た。彼らはロビーで自分たちの帰りを待っていた神藤を見つける。だが、神藤の方は2人が帰って来ていることに気付かない。彼はリリーとエスルーグ、そして崔川二曹と共に、1人の見慣れない男と談笑していた。
「あ、ああ! お帰り!」
利能と開井手がある程度近づいて来たところで、神藤らは2人の存在に気付く。利能と開井手は神藤と話していた男に視線を向けた。
「ああ・・・この人は小田川基一さん。三波商事の海外派遣員だそうだ」
神藤は宿のロビーで偶然出会った男を2人に紹介する。小田川という男は利能と開井手に向かって会釈をした。彼は自分が勤めている会社がノースケールト市へ商業進出を行う足がかりとして、現地調査を命ぜられてこの街に派遣された商社マンであったのだ。
「・・・しかし、護衛も付けずに未踏の地へ職員を派遣するとは、随分危険なことをさせる会社があったもんですね」
利能は呆れ顔で呟いた。小田川が所属している“三波商事”とは大手企業グループの一角を成す大企業の名前であり、これで彼の身に何かがあればマスコミの恰好の餌食となるだろう。事実、転移したばかりの頃には、日本政府の忠告を無視して、日本国の影響が及ばない地域に足を踏み入れ、何らかのトラブルに巻き込まれる民間人が少なくなかった。
「ハハ・・・! まあ、此処はお互いに見て見ぬ振りをするということで・・・って言っても、そちらさんは国の許可を得ているみたいですね」
小田川は苦笑いを浮かべながら、自衛隊員である崔川の方を向いた。彼の言葉を聞いた開井手は怪訝な表情で神藤に耳打ちをする。
(“お互い”ってどういうことだ?)
(・・・俺たちも民間の企業員ってことになっている。それも政府の許可を得て、自衛隊員の護衛も付けた状態で現地調査をしているって具合にね。勿論、リリーとルーグには口裏を合わせておく様に頼んだ。先輩たちも話を合わせてくれ)
神藤らの素性は一般人に明かせるものではない。それは同行者であるリリーとエスルーグに対しても同様であり、彼らには人捜しをしているということだけを伝えていた。そして小田川に対しては、自分たちを大手企業の派遣員だと偽っていたのである。
(・・・成る程ね)
事情を知った開井手は小さく頷いた。その後、小田川と別れた一行はチェックインした部屋へと入る。
〜〜〜〜〜
6月13日・午前1時頃 ノースケールト市 宿「三ツ葉荘」
既にかがり火の明かりも消され、ノースケールト市は暗闇の中に包まれている。朧気な明かりがちらほらと灯る優しい夜景を、窓のサッシに座りながら眺めている1人の男が居た。
「・・・フゥ」
開井手の呼吸に伴って、咥えている煙草の火が蛍火の様に点いたり消えたりを繰り返している。彼は先程出会った浮浪児の少女の事が、心の何処かで気に掛かっていたのだ。
(・・・まあ、俺には関係無い話だ)
開井手は心の中でつぶやく。その後、彼は吸い終わった煙草の火を摺り消すと、部屋の中を朧気に照らしていたランプの灯も消し、明日の出発に備えてベッドへ横になった。
同時刻 ノースケールト市街 とある路地裏の一画
対日戦争の中で正規軍が壊滅した為、隣接地方に治安維持を委託しなければならない程に荒廃してしまったノースケールト市、その街の中でもさらに危険と言われる路地裏の一画に、集まっている浮浪児の少年たちが居た。
「お前・・・! よくもあんな化け物を連れてきやがったな!」
深夜の街中に凄まじい怒気を含んだ叫び声が響き渡る。少年たちの首領であるウェルターは、握り締めた右拳を1人の少女目がけて振り下ろした。殴られた少女は堪らず地面の上に倒れる。
それでも気が収まらないのか、ウェルターは鼻息を荒くしながら地の上に臥す彼女を血走った目で睨み付けていた。
「おい・・・止めとけ! あまり騒ぐと憲兵に見つかるぞ!」
「アカシアもわざとやった訳じゃ無いんだ、特に怪我も無かったんだから、もう良いだろ?」
更なる暴力を振るおうとする彼を、他の仲間たちが制止する。腑に落ちないながらも一先ず落ち着いたウェルターは、彼らの手を振り払うと、口の中から血を垂らして此方を見上げているアカシアを一瞥しながら、自身の場所としている丈夫な木箱の上に座った。
「しかし・・・今日も収穫ゼロか。このままだと不味いな」
1人の少年が集まっていた全員に向かって口を開く。彼らはある死活問題に直面していたのだ。少年たちは一様に顔を俯けている。
突如家族を失い、現状として収入を得る術が無い彼らが食べていくには、“貰う”か“盗む”かのどちらかしかない。ウェルターの一団では、争いごとが出来ない幼い者たちは前者を、年長者たちは後者を担当する事で、何とか全員分の 食い口を繋いできた。
だがここ最近、治安維持協力の為に隣接地方の「ボン辺境伯領」から派遣された、彼の地の憲兵団による巡回が厳しくなり、盗みや乞食がし辛くなった為に、蓄えていた食糧がどんどん減っていたのである。
「このままじゃあ飢え死にだ。何か良い手立ては無いのかよ」
ウェルターは子分たちに向かって問いかけた。
「隣接地方のボン辺境伯領軍が・・・“長の屋敷”の近くにある建物に、食い物をわんさか持ち込んでるって話だ」
1人の少年が口を開く。彼の言葉にその場にいた全員が目を見開いた。
「軍の食糧に手を出すのか!? あいつらに捕まったチンピラがどういう目に遭わされていたか・・・!」
ある少年は、軍の食糧庫に手を出した事がばれて、人目のある中で厳しい折檻を受ける羽目となった浮浪者たちの姿を思い出し、震え上がっていた。
「だが・・・もうそれしか手は無いぞ」
「いや、駄目だ! 危険すぎる!」
「だがこのままじゃあ、チビたちから参っちまうぜ?」
「だからって命まで獲られちゃたまらねェよ!」
少年たちは次々と口を開く。その紛糾する様子を、幼子たちが心配そうな表情で遠巻きに見つめていた。論争は平行線を辿り、十数分経っても着地点が見えない。すると、その様子を何も言わずに見ていた首領のウェルターが突如立ち上がり、意を決した表情で子分たちを見下ろした。
「・・・やろう!」
「!!」
ボスが告げた鶴の一声で、彼らの進むべき道は決まる。納得出来ようが出来まいが、首領の言うことは絶対・・・それが彼らのルールなのだ。
「決行は今・・・俺たちは中心部にある奴らの食糧庫に向かい、その窓から侵入する。その間、アカシア・・・お前は扉の警備をしている憲兵たちに近づいて奴らの注意を惹くんだ、良いな」
ウェルターは団のメンバーに指示を出していく。団の主力である少年たちはいそいそと準備を始めた。だが、囮として名指しされたアカシアは違った。彼女は口内の傷から垂れている血を拭うと、首領であるウェルターに鋭い視線を向ける。
「・・・出来ない」
「・・・あん? 今何て言った?」
子分である少女の口から告げられた拒否の言葉に対し、ウェルターは片眉を吊り上げて怪訝な表情を浮かべる。他のメンバーたちも、突如流れた不穏な空気に緊張を感じていた。沈黙が周りを支配する中、アカシアは再び口を開く。
「私・・・この一味を抜けるよ。今まで世話になった」
「アカシア・・・お前、俺たちを裏切るって言うのか!?」
団幹部の1人であるセフランは、離脱を宣言した彼女の言動に狼狽し、怒りを露わにする。
「違う、だた私は真っ当に生きたいだけで・・・!」
アカシアは首を左右に振る。だが、周りの少年たちは納得いかない表情をしていた。彼らにとって、団を抜けるという事は裏切りも同義だったからだ。
その中で最も深い怒りを覚えていたのは、他ならぬ首領のウェルターだった。彼は唇を震わせながら、およそ少年には相応しくない深いしわを眉間に刻む。
「さてはお前・・・俺たちの知らぬ内に、何処ぞの金持ちにでも取り入っていたんだろう! まさか・・・あの“化け物”か!? あいつも大分羽振りが良さそうだったからな! この尻軽女!」
根拠も無く罵詈雑言を浴びせてくるウェルターを見て、アカシアは顔を歪める。勿論、彼女にそんな伝手など有る訳が無い。彼女がこんな行動に出たのは、謎の旅人から告げられた言葉が切っ掛けとなって、心の中に何時かは盗みに頼る暮らしから抜け出さなければならないという危機感が生まれたからだ。
だが、少年たちがそんな事を知る由も無い。不信感や怒りを湛えた表情で此方を見る彼らの目を、アカシアは毅然とした目つきで見つめ返していた。
ノースケールト市 辺境伯ヴェルテブラ家の屋敷
街の中心にある辺境伯の屋敷の一画で、1人の少女が月の光を見上げている。その少女は何処か物憂げな表情を浮かべていた。彼女の名はアルス=ヴェルテブラ、現皇帝であるジェティス4世に反旗を翻した逆賊となり、辺境伯の地位を自ら退く羽目になった先代の代わりとして長に就任した、現ノースケールト辺境伯である。
「・・・」
アルスは月光に照らされながら窓に寄りかかっている。彼女はかつての幸せな日々を思い返していた。ほんの1年前まで、優しい父親と幼い弟と共に暮らしていた日々・・・それは、彼女にとってかけがえのないものであったのだ。
だが、日本国と手を組んだジェティスが即位した後、アルフォンに与した彼女の父は辺境伯の地位をほとんど追放とされる形で退き、今は何処に居るのかも分からない。弟は長を継ぐに相応しい年齢に成長するまで、親戚筋の下で育てられることになっている。“繋ぎの長”に過ぎないアルスに、親族一同が下した決定を拒否する権利は無かった。
(・・・父上、私には荷が重すぎます)
アルスは心の中で寂しく呟いた。その後、彼女は窓際から離れ、寝室の奥にある本棚へ移動する。本棚には彼女が幼少の頃に父親から読んで貰っていた数多くの児童文学が並んでいた。
実はその大きな本棚は簡単に動かせる仕組みになっており、アルスが本棚を横にスライドさせると小さな隠し扉が現れた。扉を開けると地下へ降りる階段に続いている。アルスは地の底に続いているのかの様なその階段を躊躇無く降りて行った。
階段の先には人の背丈ほどの金庫がある。ダイアル式の鍵によってロックされており、アルスもその中に入っているものが何なのか最近まで知らなかった。だが、彼女の父がこの地方の長の地位を退く時、この中に入っている“ある物”について初めて聞かされていたのである。
「申し訳ありません・・・父上。空しく生き続けることを拒み、仮初めの幸せに手を出す私を許してください・・・」
アルスは父への謝罪を口にすると、開かれた金庫の中へ手を伸ばす。そこには“1冊の本”が収められていた。
「・・・!」
彼女は意を決した表情を浮かべると、何も書かれていないその表紙をめくった。その瞬間、目映い光と旋風が本の中から溢れ出し、アルスの身体は光の中へ消えて行く。屋敷の使用人たちが異変に気付いた時には既に、屋敷そのものが光の中へ取り込まれようとしていた。




