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ユリに涙は似合わない

セーベ港・第11埠頭 奴隷競売船「マリー・アリーゴ」船内 大ホール


 突如船内に突入してきた警吏隊に対して、客たちがパニックを起こすホールの中を、神藤は舞台に向かって一直線に駆け抜けた。彼は走った勢いそのままに、舞台の上に飛び乗る。


「何だお前は・・・ぶっ!」

「ぐぇ・・・!」


 彼は壇上に立っていたオークショニアとアリーゴの部下を手際よく殴り倒すと、利能の方へ振り向く。先程までの怒りとは一転、神藤は安堵の表情を浮かべながら、呆然としている彼女の肩に両手を置いた。


「利能・・・良かった! もう会えなかったらどうしようかと思ったぜ!」


「神藤さん・・・何で?」


 足手纏いである筈の自分を、危険を冒してまで助けに来てくれた神藤と開井手に、利能は感謝と当惑の感情を抱いていた。

 そんな彼女の気持ちなど分かる筈もない神藤は、おもむろにスーツの上着を脱ぐと、それを彼女に手渡す。


「神藤さん、これ・・・?」


「取り敢えずそれで肌を隠しな。仮にもレディーだろ、お嬢さん?」


「・・・!」


 神藤に指摘されて初めて、利能は自身の恰好を省みる。彼女は今、古びた布きれの様な服を身につけているだけの恰好であり、脚や腹を大きく露出した状態だったのだ。

 恥ずかしさの余り顔を紅潮させた利能は、神藤から渡された上着を手に取ると、それをすぐに羽織る。


「鍵は警吏たちが探してくれている、取り敢えず安全な場所へ!」


 神藤は利能の手を取ると、彼女を舞台の下へ降ろす。船内の各所では、拉致被害者の救助に向かった警吏たちが、彼らを繋いでいる枷の鍵の捜索を行っていた。


「リリー、こっちへ来てくれ!」


 神藤は右耳に付けている小型無線機を介して、同じ空間に居る筈のリリーの名を呼んだ。


「はーい!」


 直後、彼の声に反応したリリーは、自らに掛けていた光学迷彩の魔法を解いて人々の視界に姿を現す。


「うわ!」

「こいつ、何時の間に!?」


 いきなり目の前に現れたフード姿の少女を見て、一部の客たちが騒ぎ出した。そんな彼らを余所に、リリーは素早く神藤の下へ駆け寄って彼の指示を扇ぐ。


「今、この国の警吏たちが拉致被害者を外へ誘導している。君と利能はそれに従って外へ避難しておいてくれ!」


「分かりました!」


 リリーは背筋をすっと伸ばして、神藤の命令を受け取る。その後、彼女は利能の手首を掴むと、彼女と共にホールの扉へと向かって行った。




「暴れる者は容赦なく取り押さえろ!」


 警吏たちの叫び声がホールの中にこだまする。競売場への突入から程なくして、客と見張りたちの制圧は、ほぼ完了という段階に入っていた。船の外では無力化された見張り番の男たちが一カ所に集められており、船の中で暴れていた客たちも、取り押さえられた者から順次拘束されている。

 舞台の裏では、競り落とされた拉致被害者たちが既に保護されており、順次外へ避難させられている。全ては順調に思えた。しかし、彼らは1つのミスを犯していた。


「アリーゴの姿が見えません!」


「何!?」


 ホールから連れ出される客たちの様子を見ていた分隊長のバッティスタは、部下の報告に大きく動揺する。この競売の主催者であり、全ての黒幕である大評議会議員アリーゴ=ガルティリアーノの姿を見失ってしまったのだ。


「・・・すぐ探し出せ!」


 バッティスタは大いに焦っていた。この一件の首魁であるアリーゴを捕らえなければ、出世や将来を擲ってまで敢行したこの大捕物劇が、何の意味も無くなってしまうからだ。


(・・・一体何処へ? いや・・・まだ船の中に居る筈!)


 船の外は彼の部下たちが見張っており、彼らに見つからずに船を脱出することは不可能だった。故にまだアリーゴは船内に隠れている筈・・・バッティスタは思案を巡らせていた。

 その時・・・


「お前ら・・・よくも! 俺の興行を台無しにしてくれたな!」


「!?」


 嗄れた叫び声が何処からか聞こえて来る。ホールの中にいた警吏たちは、一様にその声がした方へ顔を向けた。その中には、利能とリリーを避難させた神藤と、警吏たちに協力して客の制圧を行っていた開井手の姿もある。

 彼らの視線の先には、これ以上無いと評せる程の怒りを携え、壇上に立っている男が居た。


「アリーゴ=ガルティリアーノだ!」


 1人の警吏が男を指差しながら彼の名を叫んだ。警吏隊の突入直後、いつの間にか姿を眩ましていたアリーゴが、舞台の上に姿を現したのである。


「お前ら・・・絶対に許さない! 此処で殺してやる!」


 怒りの余り理性を失った様子のアリーゴは、およそ議員とは思えない台詞をまき散らす。すると彼は舞台裏を隠していた布を引き千切る様にして取っ払い、そこに鎮座していたとある“秘密兵器”を警吏たちに見せつけた。


「・・・『ガトリング銃』!?」


 神藤はその秘密兵器の姿を見て、顔を青ざめる。

 多数の砲身を円状に並べ、外部の動力によってそれらを回転させながら、弾丸を連続発射する兵器、19世紀後半のアメリカ合衆国で発明されたそれが、彼らの目の前に現れたのだ。


「イスラフェア帝国から取り寄せた新兵器だ! 死ね!」


 そう言うと、アリーゴはクランクの取っ手を握る。見境を失った彼は、ガトリング銃の銃口をホールの中にいる警吏たちに向け、容赦なく放ったのだ。


「うわあああ!!」


 直後、船内に阿鼻叫喚がこだまする。一定間隔で無差別に飛ぶ弾丸が警吏たちを襲い、凶弾を受けた者は次々と床の上に倒れていく。


「総員、伏せろ!」


 間一髪、ソファの後ろに身を隠したバッティスタは、混乱する部下たちに向かって指示を出す。彼らはホールに設置されていたテーブルやソファを盾にして、床の上に身を屈めた。


「ヒィ〜! おっかない・・・、あんな物がこの世界に既に存在していたとは!」


 いち早く秘密兵器の正体を悟り、危機を察知した神藤と開井手も、テーブルを盾にすることでアリーゴの視界から身を隠していた。しかし、ガトリング銃から無差別に放たれている弾丸は、何時彼らを襲うか分からない。

 状況は明らかに此方が不利であり、そうこうしている間にも、警吏たちが次々と凶弾に倒れていた。


「・・・俺が止める」


 ガトリング銃の餌食となる警吏たちの姿を見ていられず、開井手は行動に移る。彼は横っ飛びでテーブルの後ろから飛び出すと、右手に握るベレッタの弾道を、一心不乱にガトリング銃を回すアリーゴへと向けた。


バキューン!


「ぐあッ・・・!!」


 開井手が引き金を引くと同時に、ガトリング銃の雨が止む。彼のベレッタから放たれたパラベラム弾は、アリーゴの右腕を正確に撃ち抜いたのだ。

 アリーゴは右腕を襲う痛みに顔を歪め、堪らず悶絶する。バッティスタはこの好機を逃すまいと、部下たちに向かって指示を出す。


「・・・確保!」


「!!」


 分隊長の命令を耳にした警吏たちは、ソファやテーブルの後ろから飛び出し、壇上でうずくまっているアリーゴに向かって一斉に飛び掛かった。すでに抵抗する術を失っていたアリーゴは、彼らによって難なく確保される。


「わ、私を誰だと思っている! 大評議会議員、アリーゴ=ガルティリアーノだぞ! その私にこんな事をして、許されると思っているのか!」


 取り押さえられたアリーゴは、最後の悪あがきとして警吏たちに向かって怒鳴り散らした。しかし、そんな脅し文句など、彼らの耳には入らない。その直後、警吏たちの冷徹な視線に囲まれるアリーゴの前に、バッティスタが現れる。


「それが何だ! 此処は“法が支配する国”、“世界で最も美しき共和国”『ヨハン』! アリーゴ=ガルティリアーノ、国内での拉致監禁及び不法人身売買に関与していた現行犯で、お前を逮捕する!」


「・・・なっ!?」


 バッティスタの宣告に、アリーゴは言葉を失う。その後、彼は手首に縄を掛けられると、他の客と同様に船の外へと連れ出されて行った。




セーベ港・第11埠頭


 船の外では逮捕された競売のバイヤーや見張りたちが、拘束されて一カ所に集められている。絢爛な衣装を身に纏いながら、警吏たちが向ける銃口にビクビクしている様は、まるで“人攫い”によって攫われた“奴隷”の様に見えた。


 そして利能を含む拉致被害者たちも、別の場所に集められており、彼らは枷が外された両手を天に掲げ、諦め掛けていた“自由”を手に出来たことに歓喜の涙を流していた。


「分隊長から通信! アリーゴを無事逮捕したそうだ!」


「オオ!!」


 バッティスタから送られて来た報告を耳にして、警吏たちは雄叫びの様な声を上げる。彼らは拳を突き上げ、捕り物の成功を心から喜んだ。


「・・・」


 リリーと共に船の外へ避難していた利能は、神藤から渡された上着をぎゅっと掴みながら、喜びの舞を繰り広げる彼らの様子を見つめていた。


 斯くして、セーベ港・第11埠頭で行われた「違法人身競売場大捕物劇」は、少なくない犠牲を払いながらも、主犯格であるアリーゴ=ガルティリアーノを逮捕し、一件を収めることに成功したのである。この一件で出た逮捕者は合計して124名、加えて警吏側の被害は死亡・負傷者合わせて23名に上った。

 救出された奴隷は17名であり、そのいずれもセーベ市街で拉致・監禁された旅行者であった。彼らと負傷した逮捕者たちについては、港湾部警吏署に連れて行かれた後、手当を受けることになる。


・・・


セーベ中心街 首都警吏隊総本部


 この街の治安を守る「首都警吏隊」の総本部の一画に、警吏隊のトップを勤める“総監”マッショウ=ロベルリータの部屋がある。

 総監の椅子に座る彼は、机の上に置かれている信念貝を眺めていた。


「遅い・・・バッティスタからの連絡はまだか」


 港湾部を管轄区域とする分隊長に、「アリーゴの機嫌を損ねない様に穏便にニホン人を返して貰え」という指令を出してから既に数時間、マッショウはバッティスタが一向に連絡を寄越さないことに苛立っていた。


(・・・まさか失敗したのか!?)


 議員の機嫌を損ねるのも悪手だが、日本人の奪還に失敗して日本政府の不興を買うのはもっと不味い。「世界最大の帝国」を下した「新進気鋭の列強国」の怒りを買うのは、何としても避けたい事態だった。


「・・・」


 鳴らない貝を前にして、嫌な予感が彼の心を覆う。

 その時、部屋の扉が勢いよく開き、マッショウの部下が血相を変えて部屋の中へ飛び込んで来た。何事かと目を白黒させる彼に対して、部下の男は息を整え、ある報告を告げる。


「さ・・・先程、港湾部署から連絡が有ったのですが・・・!」


 部下の男は姿勢を正すと、街外れの署から届けられた一報を、そのままマッショウへと伝える。

 独断で権力者が集まる競売場への家宅捜査を敢行したこと、結果として彼らの多くを現行犯として逮捕したこと、拉致されていた奴隷たちを日本人含めて全員解放したこと、そして逮捕者の中には国政議員の名もあったこと等々・・・どれもこれも、今まで警吏隊がタブーとして黙認してきた“国の闇”に触れる内容だったのだ。

 衝撃の余りマッショウは絶句し、まるで魂が抜けたかの様に、椅子の背もたれへ力無く身体を預ける。


「・・・まさか、あいつら・・・気でも触れたのか!?」


 マッショウは頭を抱えながら、バッティスタたちへの恨み節をつぶやく。他の行政庁舎でも、警吏隊が現役議員を逮捕したという一報が駆け巡り、大きな混乱が起こっていた。

 そして翌日、首都警吏隊総本部は関係各所への説明と対応に追われることとなる。その中でも、アリーゴと同じ様な悪徳議員たちからの圧力は、マッショウを大いに悩ませることとなった。


 更にこの「違法人身競売場大捕物劇」は、世界魔法逓信社へとリークされてしまい、刑法を形骸化して私腹を肥やしていた悪徳議員の存在が世界へと晒け出された。

 その後、報道を知った日本政府からヨハン共和国への圧力が高まったこともあり、悪徳議員の人攫い事業に関しては今まで沈黙を保っていた「執政部」は、とうとう重い腰を上げ、人身売買の取り締まり強化に動くこととなる。


〜〜〜〜〜


6月2日・朝 セーベ港・第12埠頭 貨客船「シール・トランプ」船内


 ヨハンの闇を暴いた捕物劇から半日後、セーベの港に新しい朝が訪れる。海鳥がさえずり、日の光が海面に乱反射して煌めいていた。穏やかなその様子は、まるで昨夜の出来事が夢であったかの様に錯覚させる。この地に来てから3度目の朝、遂にヨハン共和国を発つ日がやって来たのである。


「・・・」


 医務室で夜を明かした利能は、ベッドの上から窓の外の様子を眺めていた。港には変わらず多くの船が並び、その様子は活気に溢れている。

 その後、彼女は自身の手首に視線を向ける。枷が外された直後には付いていた痣も、一夜を超えて綺麗に消えていた。


「・・・おはよう」


 挨拶の言葉を口にしながら、医務室に入って来たのは神藤だった。彼に続いて、開井手とリリーも部屋の中へと脚を踏み入れる。


「その様子じゃあ、大分元気になったみたいだな」


「はい・・・本当にありがとうございました、神藤さん、開井手さん・・・。一度ならず二度までも助けて頂いて・・・。

リリーも危険な役目を買って出てくれたと聞いたわ。本当にありがとう」


 利能は神藤と開井手、そしてリリーに感謝の言葉を伝える。


「いえ・・・本当に良かったです、サクラさん!」


 リリーは照れくさそうな笑みを浮かべる。他の2人も彼女を奪還出来たことを心から喜んでいた。

 しかしその一方で、エフェロイでの一件に続き、この国でも悪漢に拉致されてしまうという失態を犯してしまった利能の胸中は、決して穏やかなものではなかった。


「あの・・・怒らない・・・んですか?」


「ん?」


 利能は震え声で神藤に尋ねる。だが、その言葉の意味が掴めなかったのか、彼は相変わらずニコニコしているだけだった。

 胸の奥からこみ上げて来るものを抑えきれなくなった利能は、涙混じりの声で、抱えていた感情を爆発させる。


「だって私・・・皆さんの脚を引っ張ってばかりじゃないですか・・・! 自分の事を優秀だと思っていた今までの私がすごく恥ずかしくて・・・もう、あのまま神藤さんや開井手さんの前から、居なくなった方が良かったんじゃないかと思って・・・!」


「・・・!」


 部下の真意を知った神藤は目を丸くする。今までの利能からは考えられない弱気な言葉に、開井手も驚いている様子だった。


「・・・本気で言っているのかい?」


「・・・」


 神藤は怪訝な顔をしながら、利能に問いかける。しかし、彼女はうすら涙を浮かべるだけで、何も答えられなかった。

 部下の心境を察した神藤は、床の上にしゃがみ込むと、利能の手をとって彼女の顔を見上げる。それはまるで、幼子に何かを言い聞かせようとする父親の様な姿だった。

 彼は利能の目を見つめながら、落ち着いた優しい声色で彼女に語りかける。


「良く聞いて、利能・・・いや、咲良。俺はお前がどんなヘマをやらかしても、それでどんな迷惑を被ったとしても、お前を許せる・・・いや、許さなくちゃならないんだよ」


「何故・・・何故そんな事が言えるんですか!? 私は・・・!」


「そうさ・・・お前が“部下”で、俺が“上司”だからさ」


「・・・!」


 冷静さを失いかけた利能に対して、神藤は彼女を許す理由を告げる。利能にとってその言葉は、理解の範疇を超えたものだった。

 呆気にとられている彼女に視線を向けながら、神藤は言葉を続ける。


「地位を得た人間の中には、部下は使い捨ての駒って言い張る奴も居る。俺もそんな風に思っていた時があったよ。だが、ある人にそれは間違っていると教えられたんだ。

確かに“人材”は換えが効くだろうが、“利能咲良”という名の“命”は今此処にしか無い・・・換えは効かないんだよ。だから、消えた方が良かったなんて悲しいことは言わないでくれ、みんな悲しむ・・・。

俺も今まで色々な失敗をしてきた。だがその度に、先輩や上司に助けられてここまで来たんだ。だから此処に居る誰も、お前を役立たずなんて思っちゃいないよ」


「・・・!」


「・・・俺たちが今思っているのは、お前が無事で良かったって事だけさ。・・・な、先輩?」


「そうですよ、利能警部補」


 話を振られた開井手は、満足そうな笑みを浮かべて頷く。此処に居る者は皆、誰も利能のことを否定することは無かった。


「そんな事、考えた事もありませんでした・・・。ありがとうございます、神藤さん、開井手さん・・・そしてリリーも。こんな未熟者の私ですが・・・この先も、宜しくお願いします・・・!」


 罪悪感、抑圧、過剰な責任感・・・そういった負の感情が、利能の心の中から消え去っていく。彼女はまるで、憑き物が落ちた様な屈託の無い笑みと嬉し涙を浮かべていた。




 数十分後、話を終えた神藤は医務室を退出していく。開井手とリリーの2人も、利能に向かって会釈をしながら、彼に続いて部屋を後にした。

 その後、神藤と開井手はリリーと分かれ、船内に設けられている喫煙室に向かう。神藤は船内の通路を歩きながら、右隣を歩く開井手に話しかけた。


「しかし・・・誘拐事件に出くわしたのは、警察官になってから2度目の経験だよ。いや・・・エフェロイでの一件も加えたら3度目か」


 船内の廊下を歩きながら、神藤は過去の記憶を思い返していた。


「じゃあ最初の1度目は日本国内でって事だよな。キャリアの公安警察なのに、誘拐事件を担当した事が有るのか? 何か組織的な拉致事件とか・・・?」


 開井手は頭上に疑問符を浮かべる。一般に誘拐事件を捜査するのは、頻繁にドラマなどで扱われる捜査一課をはじめとした「刑事警察」の仕事であり、何か特別な事情があるならともかく、神藤の様な警察庁勤務の「公安警察官」が、それを行うとは通常は考えられなかったからだ。


「いや、まだ見習いだった頃の話さ・・・。警察大学校の初任幹部科を出たばっかりの頃、江東区での交番勤務の時に1度、都内で女子高生の誘拐事件が起きた事があったんだ。被害者は・・・結構大きな会社の社長令嬢で、犯人たちの動機は身代金と、自分たちを解雇した社長への復讐だった」


 神藤は自らの過去を語り出す。それは8年前、まだ日本がこの世界へ転移する前の話だった。

 国家公務員総合職試験に合格し、警察庁に入庁してから1年ほど経った時のこと、見習いとして警察署に出向していた神藤は、江東区内のとある交番に勤務していたのである。

 そんなある日、事件が起こった。当時高校2年生の女子生徒が、帰宅途中に誘拐されるという事件が発生したのだ。犯人を名乗る人物は少女の父親に対し、身代金として8,000万円を要求、父親はその金額を用意することが出来たのだが、ここで更なる悲劇が起こる。


「金を用意した少女の父親は、犯人に指定された場所で身代金の引き渡しを行うことになった。だが本庁の刑事が張っていたことが犯人側にばれて、身代金の引き渡しには失敗した。

その後、捜査本部は犯人の行方を見失ったらしく、引き渡し現場だった江東区内の各交番に捜索へ参加せよと命令が下ったんだ。台風が近づいてて凄まじい土砂降りだったから、あの日の事は良く覚えている」


「で、お前もそれに参加した訳か・・・」


 その誘拐事件が起こった日は、台風が関東地方に接近して海が大時化となっていた時だった。だが、命令を受けた交番の警官たちは、危険を顧みず少女の捜索に向かったのである。


「あの日ほど、街の中を走り回った日は無い。でも、総員での捜索にも関わらず、中々発見出来なくてね、とうとう夜になっちまった。それこそ捜査本部はお通夜みたいな雰囲気になっていたらしい。だが俺は、港で犯人と被害者の少女を見つけ出したんだ。

それは良かったんだけど、彼女を救出して犯人2人を拘束する過程で、正当防衛とは言え被害者のすぐ側で発砲しちまってね・・・お褒めの言葉は一応頂いたが、その後大目玉を食らったよ」


 事件の顛末を語る神藤は、苦笑いを浮かべながらその時のことを思い返していた。

 尚、その時の上司から発砲に関して叱られはしたものの、捜査本部が逃した犯人と被害者を発見し、事実上1人で事件を解決した彼に対しては、後日、正式に賞詞が贈られることとなった。


(・・・まさかその時の女子高生が、キャリアの警察官僚として目の前に現れるとは思いもしなかったがな)


 喫煙室に着いた神藤は、感慨にふけりながら、口に咥えた煙草に火を付ける。部屋の外を見れば、間近に迫った出航に向けて、船乗りたちが慌ただしく動く様が見えた。


 その後、「シール・トランプ」はセーベ港を離れ、最終目的地である「ベギンテリア市」へ向けて舵を取る。日本の影響が及ぶ西限の地で、彼ら4人を待つものは何なのか。彼らの期待と不安を乗せ、船は西へと進むのだった。


次々回の章は開井手メインの話になります。

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