夕暮れのレ・トロワ・ムスケテール
5月7日 リンガル市街地 宿「春秋亭」付近
間も無く日が落ちようとしている最中、長い影を引きながら、どことなく喜びを隠せない顔で帰路に着く2人の日本人の姿がある。街中での聞き込みを終えた開井手道就と神藤惹優は宿へと帰る途中だった。
当然ながら尾行の類には十二分に注意しており、現地の衣装に身を包みながら顔は成るべく露出しない様にしてある。といっても、開井手に関しては元々洋顔気味である為、服装さえ気をつければ好奇な目で見られる事はあまりなかった。更に言えば、彼が普段愛用しているトレンチコートも、現地の感覚からすれば“ちょっと変わったコート”くらいのものであり、特段に目立つ物でも無い。
(・・・まさか更に西へ向かっていたとはな、彼らの目的は何処にある?)
開井手と神藤はこの街における貿易商組合の建物へと向かい、そこである有力な証言を得ていた。失踪した5名の邦人に加え、謎の異国人を含んだ6人組が「ベギンテリア市」の場所を聞いてきたという。それが約2ヶ月前の話だった。
陸路か海路かまでは分からなかったが、ともかく彼らがここから遙か西に位置する港街・ベギンテリアに向かった事は間違い無かった。
「漸く警備局に良い報告が出来そうだな。これで明日になれば、嬢ちゃんが社長になって・・・俺たちはミケート・ティリスの日本租界に居る自衛隊に連絡を取れば万事OKだ・・・」
「失踪邦人たちがこの街に居ない以上、もうこの国に居る必要は無くなったからな、この街とも明日でお別れか・・・。いざそうなると、何だか名残惜しく感じるなァ・・・」
神藤と開井手は呑気な事を考えながら、宿に向かって歩みを進める。しかし数分後、宿の近くまで辿り着いた彼らの両目に、信じられない光景が飛び込んで来たのだ。
「あれは・・・!」
宿の前に見慣れない馬車が1台停まっている。そして2人の男が、丸められたカーペットを1つずつ荷台へ積み込もうとしていた。しかし、その端から見慣れた“靴”と“か細い手”が飛び出ているのを、彼らは見逃さなかった。
カーペットにくるまれた2人が誰なのか、直接見ずとも瞬時に察した神藤と開井手は、懐に右手を突っ込みながら、利能とブラウアーを拉致してこの場から立ち去ろうとしている男たちに向かって、強烈な怒号を上げる。
「何やってるんだ、お前ら!!」
「・・・! ヤベッ!」
彼らの怒号に気付いた男たちは、急いで2人の身柄を馬車の中へ詰め込むと、自らも馬車へ乗り込み、馬の手綱を引いて瞬く間に走り出した。開井手は懐から取り出したベレッタの銃口を馬車の車軸へと向けるものの、既に動き出した馬車の車輪を落として、攫われた2人が無事でいられる保障は無い為、引き金を引くことは出来なかった。
「くそ・・・!」
開井手は全身全力を以て走り出し、自身の前から去ろうとする馬車の後を追いかける。神藤は利能と共にブラウアーの警護をしていた筈のジョゼフ上等兵に通信を入れた。
・・・
宿「春秋亭」 廊下
『・・・しろ! おい、ジョゼフ上等兵! しっかりしろ!』
「う・・・」
右の耳から自分を覚醒させようとする聞き慣れた声が聞こえて来る。やや朦朧としながらも両の瞼を開いたジョゼフは、その音源を触りながら何とか答えようとする。
「は、はい・・・。 何でしょうか、上官?」
ジョゼフは右耳に装着していた超小型トランシーバーから聞こえてくる神藤の声に、夢現ながら答えた。
『あんたは一体何をやってたんだ!?』
「は、はい。今すぐ片づけますから・・・」
自分を叱責する声を耳にしたジョゼフは、普段の記憶と混同した用をなさない答えを返してしまう。彼の意識はアメリカでの一幕まで戻っていた。
『なに寝惚けてんだ! 嬢ちゃんと利能が宿から連れ出されてる。まんまと出し抜かれたな!』
「・・・何!?」
神藤の言葉を耳にしたジョゼフの意識はたちまち覚醒する。床の上に視線をやると、利能の愛銃である「シグ ザウエル P230JP」とハーゲマンから貰った吸いかけの葉巻が転がっていた。立ち上がって部屋の中を見れば、そこに雇い主の姿は無い。
「くそっ・・・まんまと騙された!」
ジョゼフは全ての真実と事態の深刻さを悟る。ハーゲマン=フィッツゲラルド・・・先代の頃から屋敷に仕え、勤続期間が20年を既に超えていたという彼は、“裏切り者”候補から最も遠い人物だった。その彼が、どういう理由が有るのかは分からないが、ブラウアーを始末しようとする勢力に加担している。今はこれだけが純然たる真実だ。
「ミスター・ジンドー! 貴方は今何処に居る!?」
『2人が乗せられて行った馬車を追って港まで来たんだが見失った・・・。今探してる! お前もすぐに港へ来い!』
神藤はジョゼフに無線を入れながら、開井手と共に2人を連れ去った馬車の後を追い続けていた。しかし、爆走する馬車を人間の足で追跡し続けられる筈もなく、表通りへ出てからしばらく追いかけたところで見失ってしまった。その後、彼らは目撃証言を拾いながら何とか港まで追跡することに成功したのだが、そこからの足取りが分からなくなってしまっていたのだ。
「分かった!」
神藤からの連絡を受けたジョゼフはすぐさま宿を後にする。遂に副社長に与する者たちとの、最後の戦いが始まろうとしていた。
・・・
数十分後 リンガル西港 とある廃倉庫の内部
リンガル港の西側に、貿易船から下ろされた積荷を一時的に保存する為の倉庫が建ち並ぶ場所がある。その一角に、今は使用されていない廃倉庫があった。そんな薄暗い廃倉庫の中で、何かがうごめく音と声がする。屋根に空いた隙間から差し込む西日が、倉庫の中に居る人影を照らしていた。
「ウッ・・・! ゲハッ・・・!」
「・・・?」
鈍い打撃音と共に短い悲鳴が断続的に響いている。その物音に気付いた少女がゆっくりと目を覚ました。
「カハッ・・・! ゲホッ・・・!」
「!!」
目を覚ましたブラウアーは言葉を失った。彼女の目の前には、大柄の男によって腹を足蹴にされ、床の上に伏している利能の姿があった。利能の手は後ろに縛られており、まともな抵抗をすることもままならない。同時にブラウアー自身も、自分の手足が縛られて自由に身動きが取れない事に気付いた。
「サクラさん・・・! 止めて!!」
「・・・!」
状況が飲み込めないブラウアーは利能への暴行を止める様に叫ぶ。彼女の声に気付いたヘパンリー=プラスミノーゲンは、足を止めてブラウアーの方を向いた。
「おや・・・目覚めましたか?」
「!?」
何処からともなく、彼女にとっては幼少期から聞き慣れた声が聞こえて来る。声がした方を向くと、フィリノーゲン家執事長でありブラウアーの専属執事である筈のハーゲマン=フィッツゲラルドの姿があった。
「夢じゃ無かった・・・!」
ブラウアーは“真実”に絶望する。耐え難い現実を前にして視界すら歪みそうになった彼女は、気を失う直前の記憶を思い返す。彼女の最後の記憶にあるのは、床の上に倒れる利能とジョゼフ、そして部屋から出て来た自分を見つめるハーゲマンの冷徹な瞳だった。その直後、気絶させられてしまったブラウアーは、利能と共に潜伏先の宿から此処まで拉致されてしまったのだ。
「この女、想像以上に凶暴でしてね・・・大人しくして頂いていた所なんです。ご安心を、勿論顔は狙いません。それで値下がりしては堪りませんからね」
ハーゲマンは利能の側にしゃがみ込むと、彼女の髪を掴み上げる。非道な暴力によって既に疲弊してしまっている利能は、自身に降りかかる粗暴な扱いに対して抵抗する術を持たない。
「ウゥ・・・」
利能は喉の奥から、消え入りそうな声を発した。確かに顔には暴行の跡は無いが、身に纏っているスーツはボロボロになっている。傷ましい利能の姿を目の当たりにしたブラウアーは、堪らず目を反らしてしまう。
「ハーゲマン・・・貴方が何故? 父の代から我が家系に仕えて来た貴方が、何故私を裏切って副社長に付いたの!?」
ブラウアーはハーゲマンに対して、裏切りの理由を問い糾した。彼は利能の髪を掴んでいた手を離すと、鼻で笑う様な表情を浮かべながら立ち上がり、ブラウアーを見下ろす。
「貴方は勘違いをしている。確かに貴方の身を狙うという目的は合致しているが、私はあの狸男に協力などするつもりはない。次の社長が誰か等どうでも良い・・・。私の目的は只一つ、『金』ですよ・・・金。国を買えるとも言われる“フィリノーゲン家の財産”だ!」
「!?」
彼の口から出て来たその“単語”は、ブラウアーに対して余りにもシビアな現実を叩き付けた。
「金・・・? 所詮、貴方もディダイマーと同じクチだった訳ね! 私から“金庫の鍵”について聞き出すつもり!? でもね、残念・・・あれは“家”の財産なの! 今は“12桁の番号”を知るのは私だけだけど・・・私が死んだら、傍系の者達が相続権を主張して来るに決まっている! 本来フィリノーゲンの姓を持たない者に、我が家の財産に関わる権利なんて無いわ。ディダイマーも貴方も考えが甘いのよ!」
ブラウアーは彼の目的を浅はかな目論見だとして扱き下ろした。現在のところ、直系の血筋は彼女1人であるものの、フィリノーゲンの姓を持つ者は逓信社内に数多く居る。万が一ブラウアーが死んでしまっても、フィリノーゲン家の財産は彼ら傍系が醜く分け合う事になるのが筋だ。
しかしながら、財を収めた金庫の鍵を実際に開けられるのは、その術を先代社長から継承したブラウアーだけである。故にディダイマーは、フィリノーゲン家の財産を横取りして自分1人のものとする為に、彼女から“金庫の鍵”について聞き出し、その上で彼女を暗殺しようとしていた。
だが、彼やハーゲマンが金庫を開ける術の独占に成功したところで、傍系の者達がその相続権を主張し始めることは目に見えている。そうなれば、フィリノーゲン家の血など蚊ほどにも通っていない彼らは、たちまち立場が弱くなる。
「そう・・・フィリノーゲンの血筋では無い私やディダイマーでは、金庫の開け方を知ったところで、フィリノーゲン家の財産に手を出す権利は本来ならば無い。故に、口うるさい連中に一泡吹かせる為に・・・貴方には“遺書”を書いて欲しいのです、お嬢様・・・。“万が一、自分の身に何かが起こった時には、家に属する財産を全て執事長ハーゲマン=フィッツゲラルドに譲る”と・・・!」
「・・・!?」
ハーゲマンは真の目的を語る。それを耳にしたブラウアーは、彼の心の底にある漆黒を目の当たりにした様な気持ちになった。恐怖の余り、顔を引きつらせる彼女に対して、ハーゲマンは言葉を続ける。
「周知の事実の通り、私は屋敷に仕える者の中では最古参。24年という長い月日の間、フィリノーゲン家に全身全霊で仕える事で周囲の人々から圧倒的な信頼を得てきました。それに加え、先日の幹部会議での一件によって、貴方が何者かに命を狙われているというのも明るみになっています・・・。故に・・・今の状況は、若い身空である貴方が遺書を書き記し、遺産の相続人に私を指名していても、何ら可笑しい事は無い状況だと言うことだ」
先代社長ヴォンに雇われ、今までの人生の4割をフィリノーゲン家の為に捧げて来たハーゲマンは、ヴォンやブラウアーを含む多くの人々から信頼を集めていた。それはジョゼフが彼の事を疑わなかった理由でもある。
「何も命を取ろうという訳では有りません。“世間的に”死んで貰えば十分ですからねぇ・・・。確かにこのままでは貴方を殺す他ありませんが、もし私の求めに応じて下さるなら・・・、2人仲良く奴隷市場に流してあげましょう・・・。さあ・・・金庫を開ける“12桁の番号”と“遺書”、この2つを書き記して貰いましょうか!」
ハーゲマンは鬼気とした表情で財産の受け渡しを迫る。
「・・・!」
応じなければ“死”、応じても“地獄”・・・究極の二択を迫られたブラウアーは、一筋の涙を流してしまう。信頼していた者からの裏切りと命の危機、明日16歳になるばかりの少女にとっては、到底受け入れがたい現実の筈だった。しかし、当主、そして次期社長としての才が既に芽生えていた彼女は、初めから“答え”を決めていた。ブラウアーは鋭い視線で執事の顔を見上げ、告げる。
「・・・断る!」
廃倉庫 外
2人のヒロインに危機が迫っていた時、彼女たちが捕えられている廃倉庫の外で、3人の男が身を潜めていた。すでに日は半分程が地平線の向こうに落ちて空は薄暗くなっており、彼らの姿を地面に写し出す影はますます長くなっている。
「倉庫の外、正面に見張りが2人・・・利能警部補と嬢ちゃんを運んでた奴らだな。馬車も停まっていたし、ここに間違いなさそうだ」
『頼めるか? 先輩』
「愚問だな、俺を誰だと思ってる?」
開井手は不敵な笑みを浮かべながら無線を切る。彼は今、2人の見張りの死角になる場所、倉庫から30メートル程離れた所に積まれていた木箱の裏に身を隠していた。彼の右手には出で立ちを変えたベレッタ92が握られている。そして彼の背後にはジョゼフの姿があった。
「・・・!」
サプレッサーを装着したベレッタの銃口が、積み上げられた木箱の隙間から顔を覗かせ、2人の見張りの一方を目標として捉える。その直後、掠れた様な射撃音と著しく低減された閃光と共に、2発の亜音速弾が連続して放たれた。
それらは正確に、2人の見張りの頭部を撃ち抜く。彼らは叫び声を上げることも出来ず、恐らくは何が起こったのかも知らぬまま、地面の上に倒れ込んだ。
(やっぱり・・・亜音速弾を使っても、完全に射撃音を消すのは無理か)
彼が発射したのは、弾頭重量を重くして初速が音速を超えない様にしてあるタイプの「9mmパラベラム弾」だった。弾速を音速以下に抑え、衝撃波を出さない事で、サプレッサーによる減音効果を高めている。
『・・・お見事』
何時もとは違う弾丸を使用した遠距離射撃でも、全くぶれることが無い先輩刑事の射撃技術に対して、神藤は賞賛の言葉を捧げる。
「言ってる場合か、すぐに内部へ入るぞ。2人共まだ無事だと良いが・・・」
開井手は木箱の裏から姿を現すと、利能とブラウアーが捕らえられている廃倉庫へ向かって素早く駆け寄る。
(凄い腕だ・・・)
彼の後に続いてジョゼフも廃倉庫へ向かう。彼は瞬く間に2人の見張りを制圧した開井手の銃の腕前に感嘆していた。
廃倉庫 内部
手足を縛られている少女から叩き付けられた“拒否”の2文字は、ハーゲマンの心の中に子供に口答えされた時の様な軽い屈辱感を抱かせてた。
「随分肝っ玉が座った人だ、流石私が仕えたお方・・・。そこまで強情ならば仕方無い・・・」
如何なる脅迫も無駄だと悟った彼は、右手を自身の懐へと伸ばす。そこから現れたのは、この世界では最新式にあたるフリントロック式拳銃だった。
「や、止めろ・・・!」
先程まで気を失っていた筈の利能が、何時の間にか目を覚ましていた。彼女は雇い主の身を守らんと上半身を起こそうとするが、側に居たヘパンリーによって簡単に抑えられてしまう。正に手も足も出ない状況だ。その間にも、ハーゲマンは慣れた手付きで火皿に火薬を込めている。
「もう一度だけ聞きましょう、金庫を開ける“12桁の番号”と“遺書”を書いてくれませんか・・・?」
「答えは同じよ・・・フィリノーゲン家当主として、貴方の様な者に財産を渡す様な真似は出来ない!」
「全く本当に強情な方だ・・・」
ブラウアーの答えを聞いたハーゲマンは、諦めと呆れを含んだ笑みを浮かべる。彼は銃の撃鉄を起こして発射準備を整え、銃口をブラウアーの額に向ける。
「ッ・・・!」
少女を襲う死への恐怖が彼女の身体を強ばらせる。しかし、彼女の意志が変わることはない。
「・・・止めなさい! やめ・・・!」
雇い主の少女が殺されそうになっていながら手も足も出せない利能は、最後の悪あがきとしてハーゲマンに向かって叫ぶ。しかし、彼女の声は倉庫の中を空しく響くだけだった。
(お願い、助けて! ・・・神藤さん、開井手さん!)
絶望の余り、利能はこの場に居ない2人に救いを求める。
ギィィ・・・
「!?」
突如、倉庫の正面扉が軋む音が聞こえて来た。何者かの侵入を察知したハーゲマンとヘパンリーは音のした方へ振り向く。
「誰だ・・・!」
ハーゲマンはブラウアーに向けていた拳銃を、反射的に正面扉の方へ向けてしまう。その刹那、奇妙な射撃音が倉庫の中をこだましたかと思うと、彼が右手に握っていたフリントロック式拳銃が木片をまき散らして四散した。
「ぐぁ・・・!?」
ハーゲマンの右手を激痛が襲う。彼は右手を押さえながら、銃撃が飛んで来た正面扉の方を睨み付けた。今までの余裕とは一転、彼の瞳には動揺と恐怖の色が映っている。
「・・・?」
彼とヘパンリーは扉の隙間から一筋の奇妙な光が此方を覗いている事に気付く。それはわずかに開いた扉の隙間から銃口を覗かせる、ベレッタ92に取り付けられたフラッシュライトの光だった。
ギイィィ・・・
軋む音を立てながら隙間が更に開けられて行く。そして全開になった扉の向こうから、ベレッタの持ち主である開井手が姿を現し、倉庫の中へと入って来た。
「・・・開井手さん!」
日没間際、間一髪の状況でこの場に現れた年上の部下の姿を見て、利能は歓喜の声を上げた。倉庫内へと入った開井手は、床に臥している利能とブラウアーに軽く微笑み掛けると、サプレッサーとフラッシュライトが取り付けられたベレッタの銃口を、無言のままハーゲマンへと向ける。彼の眉間には深いしわが刻み込まれており、その怒りの深さを在り在りと現していた。
「大人しくしな、もうお前たちに勝ち目は無ェよ」
開井手は銃口をハーゲマンに向けたまま、じりじりと距離を詰める。その時、ハーゲマンの左後ろに居たヘパンリーが何処からかナイフを取り出し、それを床の上に臥す利能の首筋に近づけた。
「お・・おい、止まれ! これが見えガッ・・・!」
稚拙な脅し文句は、後方から響いた銃声と共に突如として終わりを迎える。頭を撃ち抜かれたヘパンリーはナイフを床の上に落とすと、そのまま前に向かって倒れ込んだ。
「!?」
銃声が聞こえた方を見れば、開井手が入って来た扉とは反対側の、倉庫の後方に設置されていた窓のサッシに座る神藤の姿があった。
「大人しくしろっつってんだろうが・・・」
彼の右手には硝煙の香りを漂わせるコルト・ローマンが握られている。前方には開井手、後方には神藤・・・完全に前後を挟まれてしまったハーゲマンは、頭を撃ち抜かれたヘパンリーの死体を見て、ガタガタと震えだした。
「・・・た、頼む。たすけてくれ!」
恐怖の余り、ハーゲマンは膝から崩れ落ち、情けない声を発しながら命乞いをする。しかし開井手は容赦無く、彼の額に銃口を擦りつけた。その後ろを見れば、M4カービンを持って立つジョゼフの姿がある。一寸先に差し迫った死を実感したハーゲマンは更に大きく震え出した。神藤と開井手、そしてジョゼフは静かな怒りを以てその醜い姿を見つめていた。
「ボス・・・どうしますか? 我々は貴方の判断に従います」
ジョゼフはブラウアーの手足を縛っていた縄を解くと、彼女にハーゲマンの処遇を尋ねる。彼を此処で生かすべきか殺すべきかは、雇い主である彼女に委ねるのが筋だろう。ブラウアーは立ち上がると、床の上に跪いていたハーゲマンの下へ近づき、恐怖に引き攣るその顔を見下ろしながら、彼に対する処分を宣告した。
「貴方を共和国憲兵隊に引き渡します。そこで裁きを受けなさい」
「!!」
宣告を受けたハーゲマンは、涙を流しながら額を地に付ける。醜い裏切り者から発せられる嗚咽の声が、廃倉庫の中に響き渡った。
(賢い子だな・・・俺の方が幾分ガキだった)
神藤は感情に流されること無く聡明な判断を下した少女の姿を見て、その姿勢に感心すると同時に、射殺命令を心の何処かで期待していた事を自省する。斯くして、フィリノーゲン家執事長による当主誘拐事件は、これにて状況を終了することとなった。
・・・
首都リンガル 市街地
すっかり日は落ち、街の至る所に朧気な明かりが灯っている。ミケート・ティリスやノスペディといった大都市に比べれば活気は劣るものの、仕事を終えた人々が酒場に集まり、語らいに興じる様は、何処か暖かさを感じさせる風景であった。
その雑踏の中を、神藤と開井手、ジョゼフの3人が歩いている。彼らの背にはそれぞれブラウアーと利能が負ぶられていた。気が抜けてしまったのか、利能に至っては開井手の背中ですやすやと眠っている。
「申し訳ない・・・、私の不注意の所為で怖い思いをさせてしまった・・・」
ジョゼフ上等兵は自身の背中に身体を預けるブラウアーに対して謝罪の言葉を伝えた。執事長の裏切りという誰も予期すらしなかった事態が起こった為とは言え、主を拉致されるという護衛として許されざる失態を犯してしまったからだ。
「いえ・・・助けてくれてありがとう。やっぱり貴方が、いや・・・貴方達が居なかったら・・・2日前、いや貴方に出会った時点で私はもう駄目だった。貴方たちには本当に感謝しているの」
ブラウアーはジョゼフに感謝の意を伝える。同時に彼女は神藤に会った時の事を思い返していた。副社長に雇われたチンピラたちから逃げ出した先で、夕飯を買おうとしていた神藤に出会った。良く考えればあの時、引き連れていた護衛から簡単に引き離されてしまったのは、ハーゲマンの企みが介在していたからだったのかも知れない。
「礼ならミスター・ジンドーに言ってくれ。あの人が居なかったらヤバかった・・・」
ジョゼフはブラウアーに対して神藤に礼を言う様に促す。彼女はジョゼフの左隣を歩く彼の方へ視線を向け、“ありがとう”と告げた。神藤は微笑みながら“どういたしまして”と返す。直後、彼は利能を背負う開井手の顔へ視線を向けた。
「まあ、それは良いよ。・・・俺たちはあと何日も無いうちにこの国を発つからね」
「・・・ああ、そうだな」
開井手は神藤の言葉を聞いて頷く。
「・・・行くべき場所が決まったの?」
2人の会話をジョゼフの背中で聞いていたブラウアーは、小首を傾げながら神藤に問いかける。その表情はどことなく物寂しさを湛えている様だった。
「ああ・・・迎えが来たらこの国ともお別れだ」
神藤が答える。素っ気ない彼の態度とは相反して、ブラウアーの頬には一筋の涙がきらりと光っていた。
その後、彼らは中心街にあるフィリノーゲン家の屋敷へと戻る。自分の足で寝床に辿り着いたブラウアーは、ベッドの上に身体を投げだし、泥の様に深い眠りに付いた。神藤と開井手、ジョゼフの3人はその後も夜通し起き続け、侵入者への警戒を緩めなかったが、特に何かが起きる事は無く夜は明け、この国に来てから7回目の朝を迎える事となった。
〜〜〜〜〜
5月8日 総本部 講堂
翌朝、この日のブラウアーは早くから出社していた。正装に身を包み、化粧を施された彼女が居るのは、逓信社総本部の講堂だ。来賓や数多の社員たちが所狭しと並べられた椅子の上に着席し、主役が舞台の上に登場するのを今か今かと待っている。ブラウアーはそんな彼らの様子を舞台袖から覗いていた。壇上に設置された演説台では、進行役が聴衆に向かって挨拶をしている。
尚、本来なら副社長が座すべき椅子にディダイマー=ワルファリンの姿は無かった。噂によれば、昨晩、何かから逃げ出す様に失踪したらしい。
『先代の急逝により長らく空席となっていた社長の座ですが、今回・・・先代社長唯一のご息女であられるブラウアー・ステュアート=フィリノーゲン様が、ご成人に伴い、晴れて新社長に就任される運びとなりました。それではお集まりの皆様、願わくば拍手でお迎えください・・・!』
ワアァァ・・・!
進行役の男はそう言うと、舞台の下手を指し示した。けたたましい拍手が沸き起こると同時に、16歳の少女が舞台袖から姿を現す。彼女は進行役と入れ替わる形で演説台に立ち、大きく息を吸い込んだ。その一挙動一挙動に聴衆の注目が集まる。耳を傾ける彼らに対して、ブラウアーは第一声を放った。
『ご紹介に与りました、ブラウアー・ステュアート=フィリノーゲンと申します。此度、先代社長の遺言を以て第5代社長に就任することになりました。16歳という若輩の身でありながら、社長と言う大役を引き受け、身の引き締まる思いです。現在、世界は大きな転換点を迎えています。西と東で台頭した新列強によって世界の均衡は大きく揺らぎ、加えて東の新列強からもたらされる影響は、着実に世界を変えつつあります。この混沌とした世界の中で、我が社は如何なる舵取りをすべきか・・・私はその答えとして、ニホン国内に存在する企業との提携を推し進めたいと考えています!
未知なる者との提携、それには皆様の力と頭脳が不可欠です。私も全身全霊を賭けて、5代続いたこの社と7万人の社員を守って行く所存です。皆様、是非ともご協力をお願いします。これを以て、就任の挨拶とさせていただきます。本日はお集まり頂きありがとうございました』
ワアァァ・・・!
スピーチを終えたブラウアーは500人近い聴衆に向かって一礼すると、演説台から降り、舞台袖へと戻って行く。新社長の就任演説に対して、講堂を揺り動かす盛大な拍手が贈られた。
「お疲れ、良〜いスピーチだったよ」
舞台袖に控えていた神藤は、就任式を終えたブラウアーにささやかな拍手を捧げる。彼の側には開井手とジョゼフ、そして頭に包帯を巻いた利能の姿もあった。
「ありがとう。でも・・・これで貴方達ともお別れね」
「・・・!」
ブラウアーは微笑んではいたが、その表情は明らかに寂しさを抱いているものだった。その心情を察した利能と開井手は、彼女と同じく少し寂しげな表情をしてしまう。
「最後にあと1つ、付き合ってくれないかしら? “金庫”・・・開けてみましょうか」
「!」
ブラウアーは神藤たちに最後の頼みを告げる。その後、ジョゼフを含む4人は彼女の案内を受けながら、フィリノーゲン家の大金庫が眠る逓信社の地下へと誘われた。
総本部 地下2F・金庫室
ブラウアーの案内の下、地下へ足を踏み入れた神藤と開井手、利能、ジョゼフの前に現れたのは巨大な金庫の扉だった。部屋の中央には金庫を開ける為の操作盤と思しき黒のモノリスが鎮座している。近づいて見たところ、それには4個のダイアルが取り付けられていた。
「じゃあ、開けるわよ・・・」
ブラウアーは1番左側のダイアルへ手を伸ばす。神藤たちは生唾を飲み込みながらこくりと頷いた。
「721 359 654 082・・・」
ブラウアーは左側から順次ダイアルを回して行く。そして最後の数字を合わせた直後、モノリスの中から突然、謎の駆動音が聞こえて来た。よく見れば、ちょうどダイアルの真下に当たる場所に、先程まで無かった筈の“切れ込み”が走っていた。
「!」
自分たちの予想を遙かに超える現象を前にして、神藤たちは警戒心を露わにする。しかし、モノリスに刻まれた切れ込みの中から現れたのは、またもや彼らの想像を超えるものだった。
「・・・ピアノ? これが“第2のセキュリティー”・・・?」
利能は思わず間の抜けた声を出す。モノリスの中から現れたのは、白と黒の鍵盤が20個ほど並ぶ板状の物体だった。それは正に、おもちゃの「ピアノ」そのものだったのである。これが12桁の番号を合わせた後に現れるという“第2のロック”の正体だと言うのだろうか。
「・・・なあ、心当たりはあるか?」
「・・・いえ」
神藤はブラウアーに対して、“ピアノ”に思い当たる節が無いかを尋ねる。しかし、当の彼女もきょとんとした表情で頭を左右に振るだけだった。
「でも・・・もしかしたら」
何かを思いついた様子のブラウアーは、モノリスから現れたピアノ鍵盤に指を伸ばし、そしてある曲を弾き始めた。
(あれ、これは・・・)
モノリスから発せられるそのメロディに聞き覚えがあった神藤は、はっとした表情を浮かべる。それは3日前、すなわち、ハーゲマンの手引きを受けたヘパンリーたちが屋敷に侵入した次の日に、ブラウアーが神藤に聞かせていた歌だった。母親から教わったという思い出の歌、ブラウアーにとってその歌は、今は亡き母親との繋がりを示す唯一の証明の様なものだ。
「・・・」
程なくして、小さな演奏会は終わりを迎える。利能は一曲を弾き切った彼女にささやかな拍手を浴びせた。彼女の両手が合わさる音だけが金庫室の中に響き、何が起こる気配は無い。モノリスが発していた駆動音も何時の間にか消えていた。
「・・・何だ!?」
その時、開井手が叫ぶ。だが、彼らが驚くのも無理は無い。目映い輝きと共に、金庫室の床に巨大な魔方陣が浮かび上がったのだ。
「おい、あれ!」
ジョゼフが指差す方向へ視線を向けると、金庫の扉が真っ二つに分かれて行く様子が見えた。その隙間から金色の光が顔を覗かせている。そして金庫の扉が全開になった時、半世紀に渡って積み上げられてきたという“フィリノーゲン家の財産”の全容が、遂に彼らの前に姿を現した。
「・・・うわ!」
開井手はため息を漏らす。金庫扉の向こう側に現れたのは文字通りの“金銀財宝の山”、国の1つや2つ買えると称されていても何ら不思議は無いレベルの世界が、そこには広がっていた。
「・・・何しているの? こっちへいらっしゃい!」
呆然としていた神藤たちの意識を、現実へ呼び戻す声がする。前を見れば、既に金庫の中へ足を踏み入れているブラウアーの姿があった。3人は彼女の呼びかけに従って、金庫の中へと入って行く。
「・・・」
視線を左右に振り動かしながら、神藤たちは目映い金色の世界を進む。程なくして彼らは、小山の様に積み上げられている金貨の前に辿り着く。それはクロスネルヤード帝国、延いてはジュペリア大陸で使用されている貯蓄用貨幣の中で最高額を誇る「ユロウ金貨」だった。
世界最大の金含有率を誇るその金貨は、たった1枚で日本円にして30万円に相当する価値を持つとされている。それが小さな山の形を成している様を目の当たりにした神藤と開井手は、思わず生唾を飲み込んだ。ブラウアーは小山の中から10枚のユロウ金貨を無造作に選び、それをジョゼフ上等兵に差し出した。
「はい、これが“ボディガード”の報酬10ユロウ(300万円)。しっかりと収めなさい」
「は、はい!」
彼はおっかなびっくりな様子で報酬を受け取る。その様子を見て笑みを浮かべる神藤に、ブラウアーは別のユロウ金貨を差し出した。
「これは責めてものお礼・・・受け取ってくれると嬉しいわ」
「いや・・・俺たちは」
神藤は報酬の受け取りを拒否しようとする。だが、ブラウアーはそんな彼の言葉を遮った。
「分かっているわよ、何か訳ありなことくらい。でもこれくらい貰っても罰は当たらないでしょう?」
「・・・分かった。じゃあ、遠慮無く頂くよ。ありがとう」
神藤はそう言うとブラウアーが差し出した5枚のユロウ金貨を受け取った。その後、彼女は来た道を戻る様にして金庫の出口へと足を進める。開井手と利能、ジョゼフもその後に付いて行く。だが、彼女たちに足並みを揃える事無く、1人ぽつんと立ち竦んでいた神藤は、再び周りを見渡しながら、屋敷の中で最古参の執事が主人への裏切りを呈した理由について考えていた。
(ハーゲマンは・・・この景色を見たんだろうか? 金は・・・人の心を狂わせる、か・・・)
金銀財宝に囲まれ、金色に輝き続けるその景色は、何時まで見ていても飽きることは無く、見る者によってはその心に魔を生み出してしまうであろうことは容易に想像出来る。
「おい、神藤! お前、何かくすねるつもりじゃないだろうな!?」
「・・・!」
開井手の怒号が聞こえて来る。声のした方を見れば、彼と利能、ジョゼフ、そしてブラウアーの4人は既に金庫の外へ出ていた。
「悪い悪い! 今すぐそっち行くよ!」
扉を閉められては堪らないと、神藤は急いで金庫を後にする。その後、フィリノーゲン家の金庫は再び閉じられ、人々の心を弄んだ金色の世界は扉の向こう側に封じられることとなった。
人が持ち得る醜い感情を内外に晒した「世界魔法逓信社」の継承争いは、執事長ハーゲマンの裏切りという不測の事態を出しながらも、最終的に“副社長”ディダイマー=ワルファリンの失踪という形で、多くの人がその真実を知らぬまま幕を下ろした。世界最大の民間組織にて執り行われた世代交代は、大きく変動する時代の象徴として、人々の記憶に残ることとなる。
〜〜〜〜〜
5月10日 リンガル市街 馬車駅
ミケート・ティリスにある日本租界と連絡を取り合った神藤一行は、その後しばらくの間、彼の地から来る迎えを待つ事になった。謎の水先案内人と共にベギンテリアに向かったという失踪邦人の足取りについては、神藤の口から警察庁警備局にも伝えられ、彼らを海外へ派遣した張本人である警備局長の江崎は驚きを露わにした。
そして神藤たちは今、租界からの迎えが来るというリンガル郊外の“馬車駅”へ来ている。彼らは旅人たちが相乗り馬車に乗って旅立つ様子を眺めながら、迎えが来るまでの時間を無為に過ごしていた。
「良い子だったなあ・・・」
開井手はわずかな時を共に過ごした逓信社新社長との別れを、名残惜しむ様な台詞をつぶやいた。
「フリーの傭兵にでも転職するか?」
感傷的になっている部下に対して、神藤は冗談交じりに問いかける。
「馬鹿なこと言ってんじゃないよ」
開井手は鼻で笑いながら神藤の提案を否定する。
「貴方方にはとても助けられた、礼を言っても言い切れない」
神藤らの見送りに来ていたジョゼフが、改めて彼らにお礼の言葉を贈る。
「いや・・・俺たちも不本意とはいえ、米軍さんと一緒に仕事することになったのは面白かったよ。だた・・・俺たちと此処で会った事は、“これ”・・・ね」
神藤は唇の前に人差し指を立て、“内緒”のジェスチャーをしながら、自分たちの存在を秘密にしておく様に伝える。ジョゼフは神妙な顔つきでゆっくりと頷いた。その時、駅を出入りする馬車に混じって陸上自衛隊の「高機動車」が現れる。それは数多の人々から浴びせられる好奇の視線など気にも留めずに神藤らの前で停まった。そして運転席側のドアが開き、中から若い隊員が降りて来る。その隊員は神藤たちに向かって敬礼をし、自らの素性を述べる。
「お疲れ様です。陸上自衛隊ミケート・ティリス租界派遣部隊所属一等陸士、寺杉喜三郎と申します。皆さんをミケート・ティリスまで連れ帰るように仰せつかっております」
「・・・警視庁警備局国際テロリズム対策課所属警視、神藤惹優です。宜しくお願いします」
神藤、そして開井手と利能は、自分たちを迎えに来た若い隊員に対して答礼を行う。その後、彼らは寺杉がハンドルを握る高機動車に乗り込み、リンガルの街を後にする。ジョゼフは敬礼を以て、リンガルの街を去る彼らを見送った。
・・・
世界魔法逓信社総本部4F 社長室
世界中の情報が一同に会す“世界情報の総本山”、その頂点に立つ者の部屋に16歳になったばかりの少女の姿がある。在日アメリカ軍から派遣された傭兵、そして謎の日本人たちの活躍よって幾多の魔の手を潜り抜け、目出度く第5代社長の座に就いたブラウアー・ステュアート=フィリノーゲンは、部屋の窓から馬車駅のある方向を眺めていた。
「さようなら、私のトロア・マスケティア・・・」
誰も居ない部屋の中で少女はぽつりとつぶやく。彼女の左目には一筋の涙が光っていたのだった。