1.5
四月五日未明、メルクリウス領境界渓谷(通称岩もぐらの渓谷)周辺に、魔物の異常な集中が確認された。この報せは現地観測員から発せられると、十二の駅逓所を経由し、人馬を乗り換え凡そ十時間をかけてメルクリウス領城下に届けられた。渓谷から城下への道のりが最短で約二六〇キロ余、よく手入れされた早馬を襲歩で乗り継いだにしても、それは驚異的な速度だった。
メルクリウス領領主はこの事態を重く見て、魔物の討伐隊に八百名と、捜索隊六十名の派遣を命じ、六日朝、これに輜重部隊(兵糧・武器等の軍需品を輸送・補給する部隊)を加えた九百名余の混成部隊がメルクリウス宮殿城下を出発した。
「蜂の巣をつついたような騒ぎとは、まさにこのことだ」メルクリウス領行政官ファビオ・アルミリアートは、さも愉快そうに笑った。襟から裾にかけて金糸や銀糸で花柄を織り出した絢爛たる縁飾りをあしらうビロードのジュストコール(膝丈の上衣)や、その中に着込んだシルクのベストは、誰の目から見ても上等なもので、腰に提げたサーベルさえ、当代きっての洒落者を自負するファビオにとっては胸元のコサージュと変わらない、アクセサリーの一つに過ぎないらしかった。
宮殿の中では、大理石の床に乾いた靴音を響かせて、何人もの役人や従者が忙しなく右往左往していたが、彼らが一体何のために、どこからどこへ向かっているのかはさっぱり分からなかった。
ファビオの補佐官ジュゼッペは、こういう場では形だけでも神妙に振る舞うべきだとファビオをたしなめた。
「ご学友が現地にいらっしゃるそうですが、ご心配では?」ファビオの執務室に移ると、ジュゼッペは紅茶を出しながらそう尋ねた。
「何、ドメニコ・アルベルティはあんな所でくたばるような器じゃない。どちらかといえば、彼の補佐官、マグダの方が心配さ。補佐官があんな美しい女性だったら、僕も少しは公務に精が出るんだがね」
「御冗談を。私のような口喧しいのが側におりませんと、そもそも仕事になりますまい」
ジュゼッペの抗議に、ファビオは短く笑った。ジュゼッペはその小太りで歳若い役人の、鷹揚で優雅な振る舞いに眼を細めた。
ファビオはいかにも貴族らしい貴族だった。文化と芸術を愛し、季節の移ろいと風の匂いを愛し、子どもや動物や婦人を愛する男で、ジュゼッペにはその気質が好ましかった。
「渓谷に湧いた魔物の討伐に、文化庁の役人が出る幕はないだろう」と、ファビオは柔らかな声でゆっくりと言った。「だから、私の役割は、この城内の絵や彫刻を愛でて、いかなる時も雅の心を忘れない、領民としての範を示すことさ」
「岩もぐらの渓谷に、何があるので?」とジュゼッペは尋ねた。魔物の異常な発生が看過出来ないこととはいえ、そこは耕作にも交易にも使いようのない不毛の地である。領内の過剰な緊迫感と、迅速な対応には違和感があった。
「澄んだ空気と、時の移ろいに表情を変える白い岩肌がある」
ファビオがその渓谷の景観や風物について語り出そうという構えを見せたので、ジュゼッペは「政治的には?」と質問を補足せねばならなかった。
「メルクリウス領の境界はあの渓谷に沿っている。渓谷を挟んで隣接するヤヌス領に、魔物をけしかけて侵攻するつもりだと誤解されてはたまらない」ファビオの言い方には、含みがあるようだった。ジュゼッペは、無言で話の先を促した。「という建前で、ドメニコの持ち出した神器『カドゥケイウス』を探している」
ジュゼッペは首を傾げた。「なぜ、あんなものを?」
「あれはなかなか、いい仕事のものだよ。紫檀を彫り出して、二匹の蛇と翼をあしらっているが、蛇の鱗の一枚一枚、羽毛の一本一本が、丁寧に彫り込まれている。活き活きとして、まるで今にも動き出しそうな……」
「いや、造型の話ではなくて」とジュゼッペは半ば呆れながら言った。
「ああ、分かるよ。君の言いたいことは」とファビオは言った。「『神殿の蔵の奥で、埃を被っていた骨董品』、神殿の司祭でさえそう思っていた。つまり、レプリカだと思っていたのさ。ものの真贋の分からん俗物からすれば、手の込んだ玩具の棒に過ぎなかったわけだ」
「そうでないとすれば……」ジュゼッペは後に継ぐ言葉を見つけられなかった。
「神より遣わされたとされる魔法の杖、その本物をドメニコが持ち出してしまった。あれは耳の早い男だ。彼が『神』というものを信じたか否かは定かでないが、どうも尋常でない宝物が、無造作に神殿の蔵にしまい込まれていることを知ったんだね。そうとくれば、あの口から先に生まれたような男のことだ。野卑の代名詞みたいな軍部の連中、俗物を寄せ集めた庁舎の連中を言いくるめて、ガラクタだと思われている木の棒一本持ち出すことなど造作もない。その上、彼は近くあの神器の本当の価値が露見することまで見越していた」
「さすが、ファビオ様と首席の座を争ったご学友ということですか」ジュゼッペがそう言うと、ファビオはこの日初めて、少し不服そうな顔をした。
「別に僕は争ってなんかいないよ。当たり前に日々を過ごしていたら、いつのまにかそういう地位にいたってだけさ。だから、首席の座は彼に譲ったんだ」
「そういうことにしておきましょう」とジュゼッペは笑った。「それで、結局彼はその杖を何に使うつもりなのでしょう」
「一つは身の安全を担保するためだろう。彼はなかなか難しい立場にいるからね。今回の件を見ればよく分かる。大規模な災害に見舞われたような場合、とりあえずは身柄を探してもらえるし、場合によっては取引の材料になるかもしれない。それと恐らく、神器そのものにも何らかの使い道があるんだろうが、それは僕にも分からない」
ドメニコ・アルベルティとはどういう男なのか、ジュゼッペは関心を強くした。領内の誰よりも早く、神器というものの価値を見出し、この宮殿内を騒然とさせている男は、それまでジュゼッペが聞いていた、優秀な、しかし多くの古い官僚にとって鼻持ちならない、典型的な出来る若者以上の何かがあるのかもしれない、と思った。例えば、目の前のファビオという人物のように。
「どういう方なんですか? ドメニコ・アルベルティ様という方は」
「控えめに言っても、かなりの変人だね。何をやり出すか分からない」ファビオはそこにいないドメニコを、からかうように言った。
「ファビオ様が仰るなら、余程のものでしょうな」
「あっちはあっちで、僕のことを変人だと思っているんだよ」ファビオは口を尖らせたが、眼には親友を懐かしむ、親しみの光を見て取ることができた。
ジュゼッペは声をあげて笑った。「これは面白い。それで友だち付き合いが続くものですか」
「向いてる方向がてんで違うんだ。それがかえって良かったのかもしれない」
「というと?」
「例えばそうだな、学生時代のことだけど、僕たちの通っていた大学の近くに、菓子屋が新しく出来たって話を女の子から聞いたんだ。そこでは干した果物に砂糖をまぶしたやつだとか、焼き菓子の小さいのとか、そういうのを量り売りしてるわけ。女の子ってそういうの好きじゃない。小さくて可愛いの。女の子の小さな口でも一口で食べられる大きさに作ってるんだね。だからテーブルにこぼれないし、片手間に食べられるっていうので、結構評判になったんだって。
その話を聞いたらさ、ドメニコのやつ、その足で菓子屋まで出向いて、いろんな種類の菓子の袋を両手いっぱいに提げて帰って来た。弁証法の講義をサボって。それで、大学で余った紙で紙箱を作って、それにいろんな種類の菓子を少しずつ詰めて売り始めたんだ」
「それは、商魂たくましいですな」
「そういうことを、いきなりやりだすんだよ。後で聞いたんだけど、菓子屋には、店が混まない時間に大量に買うから値引きしろって交渉したんだって。それで、店で売るより単価は少し高く売るわけ。でも、いろんな種類のお菓子が少しずつ入って飽きないし、彩りもいいから、これが結構売れたんだ」
「なるほど。なぜ役人をやってらっしゃるのか不思議なくらいです」
「いやいや、これはまだ序の口というか、布石に過ぎなかったんだ」
「その時点で大分儲けたでしょう」
「だろうね。箱詰めの作業のために、他の学生を雇ってたくらいだから。でも、ドメニコの目的はその後にあった。例の菓子屋の客が段々と減り出したんだ。なにせ一番近くにある大学の客が、ドメニコに流れてるんだからね。その分はもちろん彼が安く買ってるわけだから、販売個数は変わらないけど、売上は減る。菓子屋からすれば、買い叩かれただけだ。
そのことに気付くか気付かないかというタイミングで、ドメニコは切り出すわけ。
『君の作った菓子を、君の店より高く売り切っている、この私のアイデアを買わないか?』
本当、悪どいよ。でも、結局その菓子屋は以前より繁盛することになったし、苦学生は講義の合間にそこで働くようになったみたいだから、最終的には誰も損はしていない。ただ、一番儲けたのはドメニコだ」
「そのアイデアというものには仕入れ値がありませんからな」
「そう、その上在庫の心配もない。ドメニコにとってそれはとても大事なことなんだそうだよ。『ものを持たない商売』っていうのが。最初の転売は、あくまでその呼び水なんだ。ちゃっかりそこでも利益を出してるのが憎たらしいけど。
変なやつだろ? 貴族のくせに、妙に商売っ気があって、とにかく頭がキレる。でも、そのくせ周りの空気とかには疎くて、その時も大学から厳重に注意された」
「それはそうでしょう。たしかに、ファビオ様とはタイプが全然違いますな」
「そうなんだよ。ドメニコはいつもそんなことばかり考えていて、一体何が楽しいのか僕にはさっぱり理解出来なかった。一方ドメニコは僕について、『花が咲いたとか鳥が鳴いたとかいうことを有難がるっていうのがよく理解出来ない』っ言ってたよ。ただ、やっぱり共通する部分もあって、僕たちはお互いの性質が理解出来なかったけれど、その理解出来ない部分に興味を持った。そして、どちらも自分が官僚の家柄に生まれながら、それぞれの理由で役人が嫌いだった」
「羨ましいですな」とジュゼッペは言った。「世の中を変えるのはいつも、才能に溢れ、空気を読まない若者です」
「ああ、ドメニコは確かにそんな感じだな」とファビオは頷いた。
「いえ、それは貴方もです」ジュゼッペは紅茶を啜った。
数年前まで、この辺りは都市国家同士の小競り合いが続いていた。盟主ユピテル帝国の傘下に入っていたメルクリウス領も、急速に台頭してきた諸侯の増長を抑えこむために手痛い代償を支払っていた。いくつもの村や町が戦場となり、その中のいくつかは再起不能なまでに叩き潰され、あるいは焼き払われた。深刻なのは、それが必ずしも敵の手によってされたことではなかったということだ。
メルクリウス領を含めた帝国側が、勢いのある振興勢力に対抗するには、その物量を活かした長期戦に頼る他無かった。そのために有効な戦略としてとられたのが、いわゆる『焦土作戦』である。
結果、補給が断たれて勢いを失った新勢力を押し潰し、紛争は一応の終息をみせたが、この結末は国内外に大きな禍根を残し、領内の生産力は大幅に低下した。その上、この紛争で滅ぼされた村や町の焼け跡には、魔物どもが跋扈するようになり、皮肉にも、魔物の増加が人同士の戦争を押さえ込んでいるという有様だった。
旧態依然とした王政の官僚機構は、その問題を解決する力を持っていなかった。そればかりか、古い官僚たちは、国家存亡の危機よりも、ドメニコやファビオといった若い才能が、自らの地位を脅かすことを恐れた。ドメニコが事実上の左遷に追い込まれ、ファビオが文化庁などという閑職についているのも、本質的にはそのためである。
古参の行政補佐官であるジュゼッペから見ても、この領内に必要なのは、若い才能による官僚機構の大規模な改革であることは明らかだった。少なくとも、ファビオ・アルミリアートという官僚には、その力がある。ジュゼッペはそう見込んでいる。時が来れば、彼はこの国の舵取りにおいて、重要な役割を果たすだろうという予感があった。平民の出でありながら、過去何度も行政官登用の声が掛かっていたジュゼッペが、それを固辞して補佐官の座に留まっていたのは、ひとえにそうした若い才能を埋もれさせてはならないという想いからだった。
ファビオは窓の外を眺めながら、鼻歌を歌った。
「楽しそうですな」ジュゼッペはすっかり白くなった顎髭を撫ぜながら言った。
「そうだね。楽しみだ。あの男はきっと、何か面白いものを持ち帰って来るぞ」
「そうなれば、今よりお仕事にもご精がでますかな」
「ジュゼッペ、『働き蟻の法則』って知っているかい?」
「百匹の蟻の内、二十匹はよく働き、六十匹は普通に働き、残りの二十匹は全く働かないというやつですか」
「そう。よく働く個体を取り出して、優秀なものだけの集団を作っても、同じ割合で働くものと働かないものが出てしまう。では、働かない個体が急にやる気を出したら、どうなると思う?」
「さあ、それは存じません」とジュゼッペは言った。
「世界が滅茶苦茶になるのさ。世の中がひっくり返る。僕はそうならないように、こうやって大人しく執務室にこもってるってわけ」
「それは有難い。今日という日も、ファビオ様がこうしてお部屋にこもっておられたお陰で迎えられたということですか」とジュゼッペは苦笑いをした。「ただ、この老いぼれの眼にも、この世の中は少々ひっくり返った方が宜しかろうと見えますが」
「さすがジュゼッペ。分かってる!」ファビオは声を上げると、執務室のガラス窓を力一杯開け放った。すると、よく晴れた高い空から一羽の隼が、滑るように部屋の中へと舞い込んだ。隼は甲高い鳴き声を一声あげると、けたたましい羽音で何度か羽ばたき、執務室の机の上の、とまり木に落ち着いた。脚には、小さな筒が紐で結え付けられていた。ファビオはいつの間に用意していたものか、肉の切れ端を与えて隼をねぎらうと、筒の蓋を開け中の紙片を取り出して、それに目を通した。
「まさか、ドメニコ様からですか?」
ファビオは快活に笑うと、「さあ、準備だ!」と朗らかに言った。
「何を致しましょう」とジュゼッペが問うと、ファビオはその丸々とした体躯に似合わぬ機敏な動作で身を翻し、ジュストコールの裾をなびかせた。
「世の中を、ひっくり返すのさ」