6.
渓谷の底には太い河が流れていた。河岸は集落の崖から二十メートルほど降りたところにあり、集落沿いの崖道から比べればかなり広かったが、河面に対して岸が低く、頻繁に氾濫するものと見える。石灰岩の崖面は侵食によって大きくえぐられていて、先ほど飛び降りた集落の崖っ縁が庇のように突き出ていた。崖面にはやはりいくつもの洞穴があったが、人の気配が無いのは、雨で河が増水すると、氾濫した河の水に飲み込まれてしまうからだろう。
盗賊団の首領バルトロメオ・デッラ・ロッカは、手下どもに、しばらく剣は抜くな、しかし柄には常に小指をかけておけと命じた。ゴブリンの頭が底抜けにお粗末だということを考えれば、ひとまず目先の脅威は遠ざかったと言って良かった。ゴブリンどもには、目の前から消えた人間たちが、崖から飛び降りたのだと理解する知能がない。「不思議なことに、目の前から忽然と消えた」というのが奴らの認識だ。この近辺に掃いて捨てるほど生息していて、作物がめちゃくちゃに荒らされているにも関わらず、人間側の直接的な被害がそれほど多くないのは、奴らがドアノブを捻って扉を開けるということが出来ないからである。
幸い、この川岸に降りるまで、彼らに被害はなかった。首領バルトロメオ・デッラ・ロッカを含む八人の盗賊、行政官ドメニコ・アルベルティと補佐官マグダ・オリヴェロ、その護衛官が四人、そしてルカとかいう餓鬼を含めた七人の子どもたちは、ルカが案内役を任せたリズという女の子に従って、河沿いを移動していた。こんな小さな子どもに案内を任せて大丈夫なのかとバルトロメオは訴えたが、リズは鼻が利くし、人見知りを直すにはいい機会だからとルカは説明した。「この穴は、上からふたつめのがけのだんにつながっています」とか「ここは、おさかながいちばんよくつれます」などと、リズはランタンを掲げながら、たどたどしくも丁寧に、この河岸のことを説明した。
バルトロメオは腰袋を漁り、何か食い物が入っていないか探した。干し肉が二きれ入っていたが、幼い子どもには固すぎるだろう。部下たちに、何か飴玉でも持っている者はいないかと問いかけると、一人が干し葡萄を持っていたので、バルトロメオは干し肉と交換した。部下は若干不服そうな表情をしたが、特に文句は言わなかった。
袋から一粒干し葡萄を取り出し、リズという少女に差し出したが、リズはそれが自分に与えられいるのだと気付くのに少し時間がかかったようだった。不思議そうな顔でバルトロメオの指先を見つめると、リズは恐る恐る「みんなにも、わけていいですか」と聞いた。一粒の干し葡萄を七人の子どもで分けるつもりらしかった。バルトロメオにも、そういう経験があった。
「みんなにも、一つずつやるよ。道中は長いだろうから、少しずつだけどな」と言うと、リズは顔を真っ赤にして、「ありがとう」と小さな声で言った。
バルトロメオは子どもたちに一粒ずつ、干し葡萄を配った。ルカとかいう可愛げのない餓鬼に施しを与えるのは癪だったが、そうしなければこの子どもたちは自分に与えられたものを千切ってルカに分けるのだろうと考えると、結局ルカにも一粒渡さないわけにはいかなかった。
「マジかよ。ありがとう。ちょっと前から気付いてたけど、あんた結構いい奴だな」とルカは言った。
「おいおい、俺は盗賊だぞ。いい奴なわけがあるか。俺はてめえを初めて見た時から生意気な餓鬼だと気付いてたがな」
「いや、あんたはいい奴さ。俺たちを殺そうとしてなかった。その気になれば、いつでもそう出来たはずなのに」
「お前らを殺して、俺に何の得があるってんだ」
「ものを盗るのに邪魔だからって理由で、クモの巣を払うような気軽さで人を殺す連中なんていくらでもいる。あんただって知ってるだろ」
バルトロメオはそれには答えなかった。確かにそういう連中を、彼は知っていた。そしてその中には、彼のかつての仲間が含まれていることも。
ルカが干し葡萄を千切り始めたので、「そんなケチ臭え食い方しなくても、またあとでやるよ」とバルトロメオは言った。
「違うっつうの。チビたちに分けるんだよ」とルカは反論した。
「チビたちにも一つずつやったよ。見てただろ」
「俺たちは、小さい順からたくさん食べられるように食い物を分けるんだ。小さいヤツは死にやすいし、死んだ時、一番悲しいから」その言葉には、ただ事実としてそうなのだという以外に、どんな含みもありはしなかった。
バルトロメオは奥歯を食いしばった。
悲しみは彼らの生活の一部として、常に彼らの隣にあるのだ。心が麻痺しているのではない。悲しいということを、その形のまま受け入れている、そういう者の態度だ。
部下の一人が嗚咽を漏らした。どういう訳か、バルトロメオの下には情に脆い奴が多い。「馬鹿野郎。女子供の前で泣く奴があるか。歯ぁ食いしばって男見せろ」
「親父、こいつら、俺たちの所で面倒見れねえかよ」と別の部下が言った。
「駄目だ。お前、こいつらを盗賊にするつもりか?」
「でも、こいつらだって似たようなもんだろ。ガキだけでいるよりいくらかマシさ」
他の部下も、その意見に同調した。
「お前たちが、まともになればいいだろう。いつまでも盗賊なんかでいるのが問題なんじゃないのか」盗賊たちの問答に異議を唱えたのは、ドメニコ・アルベルティとかいう行政官だった。
「おい役人、横から口挟むんじゃねえよ」バルトロメオはドメニコを睨んで吐き捨てた。この役人は盗賊団を兵に取る為に、あるいはもっと別の目的のために子どもたちを利用するつもりなのではないか、とバルトロメオは依然として疑っていた。
バルトロメオには、自分たちがならず者であるという、確固とした自覚がある。しかし、そのことについて、彼はそれほど強い恥辱を感じてはいなかった。なぜならこの世には、一たび蓋を開ければ吐き気をもよおす悪臭をそこら一面に撒き散らす不正や欺瞞が、そこかしこに転がっていることを、そしてそれらが、清廉潔白の服を着て、何食わぬ顔で街中を闊歩していることを知っているからだ。だから彼は自分が悪党であるということを放言して憚らない。そうしているうちは、人型の糞袋に厚化粧を塗りたくったような偽善者どもよりいくらか人間に近いものでいられるように思うからだ。
バルトロメオの気に食わないのは、この役人が子どもを唆そうとしていることではない。子どもを唆すような人間が、役人にしてはいくぶん飄々として人のいい、好人物のように振る舞うことである。
役人は何か反論を言いかけたが、リズが「ここです」というので機会を逸したらしかった。
「ここ」というのも石灰岩の壁面を穿った洞穴で、あちこちに同じようなものがいくらでもあって、いい加減うんざりしたし、「ここ」の洞穴と他の洞穴を区別する必要性も全く感じられなかったが、一歩中に入ると、その洞穴が他のものよりもかなり広く造られていることが分かった。
洞穴の広間には大きな木製の円卓が置かれていた。それはただ大きいというだけで、お世辞にも良い造りのものとは言えなかった。壁掛け松明のおぼろげな灯りにも、所々ささくれ立っているのが見て取れたし、肘をつくと脚の長さが均一でないせいか、変に軋んだり、がたついたりした。円卓の周りには椅子が並び、奥の二つにマルコとルカが、入り口から見て手前右手にバルトロメオが、左手に行政官と補佐官が、円卓を囲んで腰を掛けた。
一番年長の少年マルコが、「こちらで契約書に記名と押印をお願いします。記名押印は皆さん一人ずつそれぞれのお名前を頂き、お名前の最後の文字に重なるように血判を押して下さい。それからしばらくの間、ここでお待ち頂くことになります」その少年の口調や仕草は、ただ年長であるというだけでは説明の出来ない優雅さを持っていた。その振る舞いはむしろ、下手な貴族より貴族的で、バルトロメオには彼がこの辺境で食うや食わずの生活を送っているようにはとても思えなかった。
「良ければ、その前に少し話がしたいんだが」と行政官が言った。
「構いません。まだ時間はあります」とマルコは答えた。
「その時間というのは、どの程度を見てるんだ」とバルトロメオは尋ねた。
「陽が昇るまでです。ゴブリンは知能が低いので、この谷底に僕たちの存在を見つけるのは難しいでしょう。それに集落のあった崖から飛び降りれば、ゴブリンの頑丈な身体も無事では済みません。ですが、陽が昇れば、ゴブリンの血肉の臭いに惹かれて、昼行性の魔物がここに押し寄せて来ると僕たちは考えています。夜中にこそこそと動き回る必要のない、大型で強力な魔物たちです。そうなれば、逃げ惑うゴブリンや、それを追う獰猛な魔物がこの谷底までやって来るでしょう。そうなる前にここを脱出しなければなりません」
「だったら、すぐにでもここを出ればいいだろう」
「それは、後ほどご案内する、脱出の経路についての事情です。ここを無事に脱出するには、陽の光がなくては難しいのです」
マルコの返答の中に「これ以上詳しい事情を話す気はない」という響きを聴き分け、バルトロメオは追及の手を止めた。谷からの脱出経路に関する情報は、この子どもたちの生命線だ。彼らはその情報を独占することによって、細い命を辛うじて繋いでいる。
ここにいる役人がもう少し横柄だったら、ここにいる護衛官がもう少し乱暴だったら、ここにいる盗賊たちがもう少し残忍だったら、この子どもたちはもうここにはいなかっただろう。
「おい、盗賊」と、行政官がバルトロメオに向かって言った。「彼らと話したいと言ったのは私だぞ。横から口を挟むな」この役人は、先ほどバルトロメオから受けた扱いを根に持っているらしい。ケツの穴の小さい奴だとバルトロメオは鼻で笑った。
行政官は、自分が刑吏ではなく、子どもたちの不法行為について、これを告発したり、逮捕拘留する権限はないし、そのつもりもないと前置きした上で、彼らの生活や資質についていくつも質問をした。
バルトロメオも驚いたことだが、子どもたちが寄越した契約書というのは、本当にこのマルコという少年が書いたものだった。
必要な知識や情報は街の図書館や、あらゆる施設に忍び入り、そこで覗き込んだ資料や盗み出した書物から得たのだという。そういった街での活動を容易にするため、彼らは衣料の入手に食糧と同等の優先度を置く。街で盗みを働くには、当たり前の町民の子供に見えることがかなり有利に働くのだ。
この集落でのマルコの主な役割は、知識を蓄え、それを子どもたちに普及することだった。だから、ここの子どもたちは程度の差こそあれ、皆読み書きが出来る。渓谷への来訪者の対応も、基本的にはマルコがする。しかし、交渉や最終的な決定の権限は、ルカに与えられるということだった。
バルトロメオは、先ほどの干し葡萄のやりとりを思い出した。彼らは小さい子どもを生き残らせることに最も重きを置いて行動し、そのための細かなルールも、ほとんどがルカによって定められる。
彼らの食糧は主に、この渓谷の底で釣る魚と、近隣の集落からくすねた野菜だが、街でパンや干し肉、調味料などを盗むこともある。塩は何年か前まで街で盗む以外に入手する方法がなかったが、マルコが海水を煮詰めて塩を得る方法を学び、それからは、何ヶ月かに一度、海に出て塩を得る。この渓谷から海へ出るには五十キロの道のりを移動しなければならないが、彼らにはそのために秘密の移動手段があるらしかった。
また、何らかの事情で金が必要になる場合は詐術を用いる。マルコが契約行為を詳しく学んだのはそのためだ。
こうした情報は、バルトロメオにとっても耳新しいことだった。バルトロメオたちの生業はいたって単純である。襲って、奪って、逃げる。盗賊たちはみな元傭兵で、腕力にものを言わせたやり方が得意だったし、それ以外の方法はほとんど知らなかった。
その点において、子どもたちは生活の糧を得るために、バルトロメオたちよりもよほど多くの手段と技術を持っていた。このことには行政官も大いに驚かされたらしかった。
行政官は、そういう質問を子どもたちにしながら、しきりに目頭を揉んだ。バルトロメオは、それが日頃から書類と睨めっこをする屋内労働者らしい態度だと思ったが、こういった僻地に赴く職務にも、眼精疲労は蓄積するものなのだろうかと疑問に思った。
行政官はひとしきり彼らの生活について質問を終えると、今度は突然、妙なことを聞いた。
「君たちの中に、魔法使いはいないか?」
バルトロメオは、こめかみに引き攣れが起こるのを感じた。好ましくない響きだ。
「僕たちの中にはいませんが、なぜですか?」とマルコが質問を返した。
「ここにいる我々の護衛官のうち、三人が崖道を来る途中で滑落している。落ちればまず助からない高さからだ。しかし、ご覧の通り彼らは生きている。先ほど事情を聞いたが、どうも助かった理由が分からない。私はもちろん、彼ら自身にもだ。三人は三人とも、谷底に叩きつけられることを覚悟した途端に身体が浮いたと話している」
「それが、魔法の力によるものだと、そうお考えなのですね」マルコが言った。子どもたちの表情がにわかに曇ったことを、バルトロメオは見逃さなかった。
「他に考えようがない。それと、これを確認したい理由は他にもある」と行政官は言った。
「それは、オレにあの魔法の杖を使ってみろとか言った理由と同じか?」とルカが尋ねた。
「そういうことだ」
バルトロメオは懐からナイフを抜き出し、音を立てて円卓の天板に突き刺した。その音は石灰岩の洞穴の中に反響して、その後には耳に痛いほどの沈黙だけが残った。
護衛官は剣の柄に手をあて、子どもたちはあっけにとられて口を開けた。
「お互いの腹のうちを探り合うような問答はうんざりだ。腹を割って話そうじゃないか」しばらくの沈黙を味わった後で、バルトロメオは言った。
懐のナイフをテーブルに刺すのは、盗賊の交渉において、騙し討ちはしないという意思表示だと、手下の一人が説明した。子どもたちが怯えないようにと気を遣ったらしかった。
バルトロメオは椅子の背もたれに体重を預け、円卓に脚を乗せた。「役人、お前の言う通り、俺たちは傭兵あがりのならず者だ。ではなぜ、俺たちは傭兵をやめてこんな商売に身をやつしているのか。戦争が終わって食いっぱぐれたから? それとも、戦地の集落で略奪に味をしめたから? 違う。先の戦争で、俺たちが最前線のど真ん中、腹わたと土くれの区別もつかねえ激戦の真っ最中に、バカでけえ火の玉をくれやがったのが、味方のはずのメルクリウス軍だったからだよ。百人長だった俺の部隊はあれで壊滅、残ったのは俺と、ここにいるバカどもの八人だけだ。
俺たちに目的なんてもんがあるとするなら、あの戦いで味方もろとも戦場を焼き払った、クソったれの魔術士をぶっ殺して、その首を、あの戦場で散った兵隊どもの弔いに捧げることだ。敵も味方も関係ねえ。あの戦場の亡霊たちが、クソったれの首を持って来いと、俺たちを生臭え戦場の土の下から呼び起こしたのさ。
さあ、俺たちは俺たちの目的を喋ったぞ。次は役人、てめえの番だ。俺は悪党の流儀に従って、懐のナイフをこの円卓に突き刺した。てめえらが交渉に応じる限り、このナイフはてめえを刺さねえ。しかし、そうでないなら、俺たちはてめえの首を刎ねるまでだ。ゴブリンの大群? バカでけえ魔物? そんなもん、知ったこっちゃねえんだよ。俺たちはてめえがひき肉になるまで叩きまくる。それで魔物の群に食いちぎられようとも、あの戦で死んだ連中は、最期まで刃を剥いて戦った俺たちの魂を、喜んで迎え入れるだろうさ。
さあ質問だ。てめえらは一体、何をする気だ?」
護衛官の一人が剣を抜き払い、「魔物の牙にかかる前に、我らの刃にかかることを案ずるべきだったな」とバルトロメオの鼻先へ触れぬばかりにその切っ先を向けた。
盗賊稼業は度胸が無ければ成り立たない。バルトロメオは身じろぎ一つすることなく、護衛官を睨みつけた。「いいか三下。俺はそこの役人と話してんだ。外野は引っ込んでろ」
護衛官と盗賊は互いに睨み合った。バルトロメオに向けられた切っ先が、その鼻の皮を一枚裂けば、たちまちここは血の海に変わる。そういう針の上のような均衡を破ったのは、両手でテーブルを叩いたルカだった。円卓に両脚を乗せていたバルトロメオは、その拍子に護衛官の剣に鼻先を触れ、鼻頭から小さな血の雫が垂れる生暖かい感触を覚えた。盗賊たちはこれに反応し、一人残らず剣を抜き払った。
「あんたら、ここで斬り合いをやるなら先に言え。そうすりゃオレたちは、心おきなくあんたらを置いてここを出る。後は殺し合うなり罵り合うなり好きにしな。こんなところで殺し合いをやるようなバカに、契約なんて土台無理な話だったと諦めもつくさ」
「鼻、切れちまっただろうが」とバルトロメオはルカに不平を言った。部下の一人が絆創膏を差し出したので、バルトロメオはその鼻先に貼った。「ダサくない?」とバルトロメオが聞くと、「親父、カッコいいす」と絆創膏を差し出した一番若い手下が言った。
行政官が「剣を引いてくれ。私はこんなところで盗賊一味と共倒れになるのは御免なんでね」と言うと、護衛官は渋々剣を納めた。バルトロメオも片手を挙げ、手下どもに剣を引くよう合図した。
バルトロメオは腰に提げた水筒から酒を一口あおった。灼けるようなアルコールの匂いが、鼻の奥を抜けた。彼は悪党である。必要があれば人も殺す。外からは、ゴブリンたちの足音や息遣いが聴こえる。バルトロメオは紙巻煙草を咥え、マッチを擦り、その赤い炎をぼんやりと眺めながら、せめて、この先子どもなんぞを殺す必要がなければありがたいものだ、と思った。