5.
集落のチビたちとマルコが崖の上から投げる林檎は、次々に地面で弾け、すえた臭いと甘い果肉をそこかしこにばら撒いた。その臭いに惹きつけられて、集落には『よくない者たち』が、不気味な足音と共に近付いている。その足音は、やがて地響きへと変わるだろう。この集落は、そう遠くない将来、ルカたちの手によって災厄の渦に飲み込まれる。
「ルカ! もう、すぐそこまで群が来てる!」ピノの叫び声が聴こえた。
「分かった! 全部ばらまいて引きあげろ!」とルカは叫び返した。
ピノとマルコは大きな木箱を崖の上から蹴り落とした。一段めの崖道で、木箱は湿った音をたてて砕け(箱の材木がほとんど腐っていたためだ)、中からは残り少なくなった林檎が転がり、また落ちて砕けた。ピノとマルコはその様子を見届けると、ロープを掴み、崖を飛んだ。
首領はルカを睨むと、「役人! お前ら手を貸せ! このガキども、無茶苦茶だ!」とドメニコに向かって言った。
「ルカ、何が起きてる?」とドメニコは問い質した。
ルカは大きく息を吸い込んだ。
「ここにいるヤツは全員聴け! 今、オレの兄弟たちが、腐った林檎をばら撒いた! ゴブリンたちはこの臭いが大好きだ。さっきから、崖を飛び降りる音が聴こえるだろう。ゴブリンどもの中でも足の速いやつはもうすぐそこまでたどり着いてる。その後ろにはシャレにならねえ数のゴブリンが続いて、この集落はもうすぐゴブリンで埋め尽くされる」
「どういうつもりだ。君たちだってただでは済まないぞ」とドメニコは非難した。
「ここに契約書がある! 死にたくない奴はここに血判を押せ! 裁判でも通じる正式な書式のものだ。それが済んだヤツから抜け道を案内してやる!」
そういう間にも、ゴブリンは次々と崖から飛び降り、石灰岩の地面とその踵の肉がぶつかる鈍い音は次第に数を増していた。ゴブリンの身体は人間よりもずっと頑丈に出来ていて、崖っ縁から崖道に飛び降りるくらいの落差ではビクともしない。
「てめえらは、自慢の契約書とやらを抱えてゴブリンとでも遊んでろ。俺たちは勝手に出口を探す」と首領は言ったが、ルカは杖の先で地面をコツコツと叩きながら鼻で笑った。
「ならせいぜい頑張りな。ここにはいくらでも洞穴がある。その中から谷の外に出られるもんを探せる自信があるなら勝手にすりゃいいさ。ただ、俺たちは、それまであんたらを待つつもりは無い。ゴブリンたちが待ってくれるかどうかは、本人たちに相談すりゃいい」
実際、崖道を渡る他にもこの集落を出入りするルートはいくつかあった。マルコやチビたちが、険しい渓谷を上へ下へと自由自在に動き回れるのは、このルートを熟知しているためである。それらはいずれも洞穴を掘り進めて地上までつなげたもので、この渓谷に無数に築かれた洞窟住居と見分けがつけられて、かつ、どの洞窟が地上のどこに通じるのかということを知る者は、集落に住むルカたちをおいて他にはない。当てずっぽうで、よしんば外に通じる洞窟を引き当てたとしても、その先が魔物の群のど真ん中ということだって十分にあり得る話だ。
「くそガキが……」と首領は吐き捨てた。
そうしているうちに、ルカたちのいる集落へ、ついに一頭のゴブリンが飛び降りた。節くれだった踵が地面の岩とぶつかって、妙な重みのある嫌な音をたてた。背丈はルカとほぼ変わらないか少し大きいくらいで、膝の関節は外側にみっともなく湾曲している。ごつごつした両手には棒切れと松明を握り、誰を殴りつけるか迷っているようだった。皮膚に刻まれた無数の深い皺や、曲がった背骨、極端に大きく先の垂れた鉤鼻は老婆を彷彿とさせるが、辺りの臭いを嗅ぎ回る動作は野犬のように素早く、そうしたちぐはぐさが、その醜い生き物を、いっそう薄気味悪く見せた。それはすぐに野盗の首領によって蹴倒され、首を刎ねられたが、次の瞬間には別の一頭が、また一拍間をおいてさらに二頭が降って湧いた。
「さあ、どうする! もう悩んでる時間はねえぞ!」
「分かった。契約書をくれ!」と声をあげたのはドメニコだった。
ルカはドメニコにその書面を渡し、「契約は守れよ」と念を押した。
「私は役人だからな。約束を守るとは限らないが、契約は守るさ」ドメニコは口元を引きつらせながら笑った。
「いいか、てめえら! 一匹一匹はどうってことねえ。シワくちゃの薄汚えアホ面がぞろぞろ集まる前に一匹ずつ削れ! 気合い入れろ!」首領の檄に応えて、野盗どもは周りに次々と飛び降りてくるゴブリンを一頭一頭斬って回ったが、崖の上から降ってくるゴブリンの数は増すばかりである。その内、子分の一人が痺れをきらし、「親父、これじゃあキリがねえ!」と訴えた時には、集落に降りたゴブリンの数は十や二十ではきかなくなっていた。少し遠くを見渡せば、この集落に連なる崖道にも所狭しとひしめいて、久々に見た人間の姿に興奮しながら、一心にルカたちの元を目指している。
ルカたちにはすでに崖を飛び降りる他に退路は無く、甲冑を纏った三人の騎士と、勇者と目されていた若い男(この時点ですでに、ルカは彼が勇者とされることについて懐疑的な印象を持っていた)、盗賊の手下七人が、懸命にゴブリンの侵攻を抑えていた。集落の狭い地積は、退路がすぐに絶たれてしまうという意味では不利だったが、一方で相手の戦力を絞ることが出来るという点ではいくらか有利にはたらいていた。とはいえ、この圧倒的な数差では、いずれ押し込まれるのは目に見えている。
ルカたちは、ゴブリンの習性についてもかなり詳しく把握していた。ゴブリンの目的は、人間の頭を棒切れで叩くことである。どういう理由で彼らがそのような習性を持つのかは定かでないが、彼らは腐った林檎の匂いと、人間の頭を棒切れで叩くことが好きなのだ。彼らにとって、人の生き死にということは問題にならないらしかった。頭を叩いた結果、その人間が死ぬかどうかはどちらでもいい。人の肉を食べるということもない。むしろ、死ななければ、もう一度生きた人間の頭が叩けるという点を考慮すれば、そちらの方が好ましいとさえ考えているかもしれない。しかし、今この集落に群がるゴブリンたちの数を考えれば、いくら楽観的に見ても無事にすむとは思われなかった。
「クソったれ! こっちにも寄越せ!」と首領はいよいよ顔をしかめてルカに契約書を催促した。
「武人の誇りはいいのかい?」とルカは言ったが、首領は鼻で笑って「俺たちは盗賊だぞ。ヤバくなったらケツまくるのも腕の内だ」と答え、契約書を引ったくると、くしゃくしゃに握り潰してポケットに突っ込んだ。
「言っとくが、サインと血判があるまで契約は成立しねえぞ。俺たちは別に、あんたたちがここで闘ってる間に逃げ出しったって構わないんだ」ルカは杖の先で首領のポケットを指した。
「そう業突く張りだとろくな死に方しねえぞ」と野盗の首領は呆れるように言ったが、「どの口が言うんだよ」とルカが返すと高笑いをして、その声に寄って来た一頭のゴブリンの首を一太刀で刎ね飛ばし、もう一頭を袈裟懸けに斬り捨てた。
この立ち回りに怯んだものと見え、ゴブリンたちはにわかに後退った。首領はその機を見てポケットから契約書を取り出し、中身をあらためた。
「おい、役人」首領はドメニコを呼ぶと、一足で詰め寄り、その胸ぐらを掴んだ。「てめえが糸引いてやがるのか? ガキがこんな小難しい文句を書くわけがねえ。盗賊の俺が言うのもなんだが、そうだとしたら、てめえは見下げ果てたクズだ」
ドメニコは首領の腕を払った。「私にこんなややこしい真似をする理由はない。本来、ただ名目だけここに立寄って帰るだけでよかったんだからな」
「だとしたら、誰がこんなもんを作ったってんだ」そう言って、首領はドメニコに契約書を叩きつけた。
──【契約書】
契約当事者甲と、契約当事者乙は、契約法の定めに従い、下記の通り約定するものとする。
1.契約当事者乙の債務
乙は、甲に対しメルクリウス領境界渓谷(いわゆる、岩もぐらの渓谷)から、近隣集落への脱出経路を選定し、その移動について案内するものとする。但し、移動先及び移動の方法については、状況に応じて、乙の判断により適宜選定、変更出来るものとする。
2.契約当事者甲の債務
甲は下記に定める通り、役務を提供するものとする。
1)メルクリウス王宮到着までの間、甲は乙に随伴し、乙に対し警護の任を負う。
2)メルクリウス王宮到着後、甲は行政官ドメニコ・アルベルティの推挙を受け、徴兵適性検査に応じるものとする。
3)甲が徴兵適性検査を通過した場合、その通知のあった時期をもって、当該契約に定める債務は消滅する。
4)甲が徴兵適性検査において不適の判断を下された場合、また、甲の責に帰するべきか否かを問わず、なんらかの理由により徴兵適性検査の受検に至らなかった場合、甲は、乙に対して期間の定めの無い兵役提供の義務を負う。
3.禁止事項
1)甲、及び乙は、当該契約に定める互いの債務について、その履行を妨げてはならない。
2)甲、及び乙は、互いの生命及び財産を侵害してはならない。なお、この定めは、当該契約における甲、及び乙の債務が消滅した後も有効に存続する。
4.その他
当該契約に定めのない事項、または当該契約の解釈について疑義を生じた場合には、その都度において甲及び乙は、信義誠実の原則をもって協議の上、これを解決するものとする。
以上の契約の締結を証するため、本書二通を作成し、甲乙それぞれ記名押印の上、各一通を保有するものとする。──
ルカは大人たちが言い争うのを尻目に、集落の崖から垂らしたロープを引き上げ、ドメニコが魔法の杖だという、木の棒を、ブランコの椅子になるよう括り付けた。ゴブリンの群はそうする間にも野盗や騎士たちの守る防衛線を徐々に押し込んで、ルカたちの足場を狭めていった。
「おい! ケンカなんかしてる場合じゃねえよ。その契約書は間違いなく俺たちの手で作ったもんだ。それより、下に降りるぞ。ここはもう限界だろ」ルカは大人たちにそう告げ、杖を括ったロープの端を、マグダとかいう女に渡した。「死んでも放すなよ。まあ、放したら死ぬわけだけども」
「え……」女が何か反論しようとしたが、ルカは聴かずに彼女を突き落とした。渓谷には女の悲鳴が響き渡った。下ではチビたちが彼女の案内をするはずだ。彼女が生きていればの話だが。
「ルカ!」とドメニコが叫んだが、次の言葉は無かった。この窮地を抜けるには他に方法がないということは、温室育ちの役人にも理解できるだろう。
岩に結び付けたロープが張るのを見て、ルカは言った。「女は無事だ。ロープの張り方で分かる」
ルカはまたロープを引き上げると、今度はその端をドメニコに渡した。
「カドゥケイウスは、かなり貴重なものなんだけどな」とドメニコは不服そうに言った。
「ああ。硬いし、ここまでブランコの椅子にぴったりな棒は、なかなかない」と、ルカは魔法の杖を誉めた。「さあ、次はあんたの番だぜ」
「私にも、ここを飛び降りろというのか?」ドメニコは顔を引きつらせた。
「別に、飛ぶかどうかは自分で決めたらいい。ゴブリンにタコ殴りにされる方がよけりゃ、無理にとは言わない」
「ロープを先に垂らしておいてだな、ゆっくり降りるというのはどうだ? 別に飛ぶ必要はないだろう」とドメニコは顔を青くしながら訴えたが、ルカは「他にもいるんだから、そんな悠長なことやってらんねえよ」と言い終わらないうちに、体当たりしてドメニコも突き落とした。態度の割に肝の小さい男だ、とルカは思った。
「契約に乗るなら、あんたらも降りてきてくれ。先に降りるけど、長くは待たない」と大人たちに告げ、ルカはロープを掴んで崖を飛んだ。
ルカは崖を飛ぶのが好きだ。風が下から上へと吹き抜ける時、彼は重力を克服したような気分になる。身体は陰気な石灰岩の壁や床から解き放たれ、握ったロープ一本の他に、彼の身体と魂を、この世界に繋ぎ留めるものはない。それすらも、彼の意志一つで手放すことができるのだ。この瞬間だけ、ルカはこの世界の誰よりも自由だと感じることができる。この世界のあらゆるものが彼の手から離れ、また彼を手放す。ルカは仰向けになって空を仰いだ。月は渓谷の向こうのどこか知らない場所へと去っていた。ただ真っ黒な夜が、どこまでも遠くへ続いている。ルカはこの渓谷の集落で死んでいった者たちの魂について考える。
ルカとマルコがこの集落にたどり着いたのは、ルカが五歳の時だった。その時、何を根拠に彼が五歳だとされていたのかは、ルカ自身にも分からない。とにかく、彼は五歳で、マルコが八歳だった。ルカの記憶は、孤児院の硬い床と冷たい壁の中から始まる。その施設というのは彼らにとって、どう贔屓目に見ても居心地のいい場所とは言えなかった。そこは力が支配する狭い世界で、身体の大きい者はそうでない者を、徹底的に痛めつけるには絶好の場所だったし、事実その通りのことが行われた。夜は歯の根も噛み合わぬほど寒く、硬い石造りの床に寝るせいで、朝は身体中の関節が軋むように痛かった。彼らはそこで生きるために必要なことを、実際的な方法で学んだ。
毎日の食事だけは保証されていた分、あの施設が今いる集落よりましだったのかどうかは、今でもルカにはよく分からない。しかし、なんにせよ、裸でマルコに覆い被さろうとした施設の職員を、作業用のナイフで刺したルカには、もうそこに戻ることは出来なかったし、そのつもりもなかった。
施設を抜け出したルカとマルコは、それからいくつもの夜を、盗み、奪い、騙しながら逃げ抜いた。そうしてたどり着いたのが、この渓谷の集落である。この洞窟住居に住まう者たちはすでに、ならず者ですらなかった。皆酒や阿片に狂い、何処から誰が来ようとさして気にもとめなかった。彼らは腹が空いてもそのまま飢え死にするのを黙って待つような連中で、実際月に一人くらいは人が死んだ。そして不思議なことに、一人人が死ぬたびに、何処からか一人似たような者がやって来て、そこに居つく。そうして補填される住人の中には、時々赤ん坊や子どもも含まれていた。そしてそのほとんどがすぐに死んだ。
そんな時も、ルカとマルコは泣かなかった。ただ、鬱蒼とした夜の森に迷い込んだ時と同じ気持ちになっただけだ。ルカとマルコが初めて泣いたのは、一歳くらいで捨てられ弱り切ったピノが、意識を取り戻した時だった。ルカとマルコは、その日一晩中泣いた。ピノもそれを見て泣いた。彼らは泣き疲れると、三人で抱き合って眠った。ルカとマルコはそれから、捨てられた子どもたちを育てるために、盗み、奪い、人を騙した。それでもそこに捨てられた子どもたちは、ほとんどが死に、彼らが救い得た子どもたちはわずか五人だけだった。ある時を境にこの渓谷の集落へ子どもが捨てられることはめっきりなくなった(これは、飢饉が終わったためだとマルコは言った)が、ルカは今でも、救えなかった子どもたちのことを考える。
この集落では、何人もの命を集めなければ生きてはいけない。死んでいった者たちは、ルカやマルコ、そして生き残ったチビたちに、命を託していったのだ。
彼らの魂は、この夜空のずっと向こうで、ルカたちを見ている。
ルカはロープを強く握った。ロープはまた、ルカの命を世界に繋ぎとめた。