3.
子どもたちの用意した風呂というのは、大方想像していた通りのもので、やはり石灰岩をくり抜いて湯船にし、その土台は薪をくべるかまどと一体になっているというものだった。意外だったのはこれがなかなか快適だということで、浴槽の底に渡した木板が一仕事しているものと見えて湯加減は絶妙だったし、この石造りの風呂釜からなにがしかの成分が滲み出ているものか、肌はこの旅程に発つ前よりも滑らかで艶の増したようにさえ思える。
マグダ・オリヴェロは、ランプの光に自分の身体を晒し、その肌の具合を点検した。彼女の上司であるドメニコ・アルベルティを始め、男というものはどうして三日も四日も風呂に入らず平気でいられるのか、マグダにはさっぱり理解出来なかった。どうも彼らは風呂というものについて、「行けたら行く」といった程度の意識しか持ち合わせていないらしい。冗談じゃない。これは人間としての尊厳の問題であって、あまり親しくない知人から誘われた宴会と同じ地平で論じられるべき問題ではないのである。実際、「今日一日は我慢しようじゃないか」というドメニコの言葉を聞いた時、彼女はこの上司の頭蓋を叩き割って、中身がライ麦のパンか何かとすり替えられていないか確かめた方がいいのではないかと真剣に考えた。
この集落に着くまで、魔物や野盗との遭遇を避けるために全速力で馬を走らせ、その蹄のたてる土埃を浴び、あるいは土塊を頬にかすめ、夜は天幕で雨風を凌ぎ、焚火の煙を髪の毛にしみこませながら三日間を過ごしたのだ。そこに来てこの四日目、「今日一日は」などとはよく言えたものだ。数の勘定さえままならなくなっては、そろそろこの上司も潮時か、とも思えたが、彼は彼で、マグダにとってはなかなか捨てがたいところのある上司だった。
ドメニコの生家、アルベルティ家というのは、代々官吏を勤めてきたそこそこの家柄で、彼の父は宮内で時の財政長官まで登りつめた男である。その末子であるドメニコが行政官となるのにどういう経緯があったかは知らない(おそらく、これといって何もなかったのだろうと推察する)が、とにかく、彼もその父と同じくして官吏の道を歩き始めた。
このドメニコというのは貴族の役人としては少々変わった男で、こういう立場の人物に特有の傲慢さがほとんどなく、部下や女に対してはおろか、子どもや領内の賎民に対してさえも、尊大な態度をとることがなかったし、むしろ貴族や役人のそういった気質を──傲慢で尊大であるということのみならず、真面目で忠誠心が高いといった一般的に肯定されるべき資質でさえも──どこか毛嫌いしているようにさえ感じられた。マグダがドメニコの元へ補佐官として迎え入れられた時、彼は徴税の任を負って各地を廻っていたが、その徴税のやり方一つとっても彼は異質だった。
まずドメニコは、その土地土地の住民に取り入ると、その土地の財産、収穫の状況、商売の損益について目録や帳簿を提出させる。その上で、自ら地方を巡って得た栽培の知識や交易に関わる人脈を活用し、住民に助言を与える。必要ならば交易の仲介もするし、その土地に合った農法に詳しい農夫を招致する段取りをつけたりもした。そして翌年の歳入を試算し、歳入増を見込んだ納税額を算出して徴税するのだ。事実ドメニコが徴税を請け負った土地は、多くの場合歳入増を達成し、ドメニコ・アルベルティの名は交易を通じて領内の農民や商人の間に浸透していた。
この手法でドメニコは、ただ怒鳴って脅すだけの徴税官には到底不可能と思われる額の徴税を果たし、またそのうちの幾らかを懐に入れていた。
ドメニコが商人ではなく官吏の家に生まれたことは、彼にとって最大の不幸だとマグダは考える。彼のこうしたやり方は、領民にとっても領主にとっても多大な利益をもたらしたが、ただ他の官僚にとっては著しく不快なものであり、官僚の社会というものはそうした不快感に対して寛容ではなかった。
官僚たちのそうした鬱憤は、ドメニコの結婚という形で如実に現れた。役人たちが当てがった彼の妻は、ドメニコの父ディエゴ・アルベルティの後任に仕える財政副官の遠縁の娘だったが、この女が既に宮仕えの高官と肉体的に通じていることは、近しい者なら皆知っていることだった。
この結婚には、役人たちが貞操観念の破綻した女をドメニコに当てがうことで溜飲を下げるというのみならず、ドメニコに首輪を付ける意図があったものと思われるが、思いもよらず、この謀略は期待をはるかに超える成果を役人たちにもたらすこととなる。
ある時、遠方の職務から予定より早く帰宅したドメニコは、自宅で自分の妻が別の男に跨っているのを目撃してしまう。マグダの知る平静のドメニコであれば、皮肉を込めた軽口でも叩いて終わりにしたことだろう。彼は彼の結婚が、役人たちの陰湿な謀によってもたらされたものだということを薄々理解しているようだったし、家庭に頓着する様子もほとんどなかった。しかし、この日の彼は、彼の辣腕を持ってしてもまるで更生の見込みのない(ちょうど、今いるこの集落より小指一本分だけましといった程度の)辺境の集落から帰ったばかりで、その集落を再起不能なまでに搾取したのも他ならぬ貴族の役人であれば、彼の家で彼の妻を腰の上に乗せている男もまた貴族の役人であったという秀逸な巡り合わせが、彼の精神と肉体に理屈では到底解明出来ない作用をもたらし、ドメニコは、こともあろうに高官の顔面に強烈な一撃を加えるに至ったのである。
ことの顛末は瞬く間に宮内を駆け巡った。行政官ドメニコ・アルベルティには様々な方向から様々な種類の圧力が複雑な角度で加わることとなり、その結果、彼は領内方々の辺境へ吹っ飛ばされることとなったのである。
こういう事情を知る者は、マグダに対して同情的な態度を示すことが少なくなかった。有能な上司に仕えたはずが、予期せずその上司に零落のレールが敷かれることとなったのである。実際、ドメニコも辺境の徴兵を任ぜられるにあたり、マグダに知己の役人を新たな勤め先として紹介しようと持ちかけた。しかし、当のマグダはその提案をすぐに断った。彼女はこの事態をむしろ好ましくさえ思っていたのである。
彼女にとって仕事というものは、自分を食わせていく手段に過ぎず、過剰な給与も承認も必要ではなかった。三度の食事と住むところ、毎日夕方には風呂を浴び、月に一冊の書籍を買うというのが彼女の欲する全てだった。
従って、度々とんでもない辺境への往訪を命ぜられはするものの、事実上の閑職に追いやられたドメニコの補佐というのは、マグダにとっては悪くない就業環境だったのである。彼らに与えられる職務というのはそもそも成果の見込めないことが分かりきったものばかりで、殊更結果にとらわれて右往左往する必要もない。無理だと分かりきった命令を、無理だと分かったまま遂行し、果たして無理だったという報告をするのが彼らの仕事なのだ。割り切ってしまえば、これほど楽なことはない。
「むしろ、余計な仕事を増やさなければいいけど……」とマグダは髪に櫛を通しながら呟いた。彼女は、ドメニコがこの集落の子どもたちに特別な関心を寄せていることを危惧していた。これは彼にしては珍しいことだった。ドメニコは、僻地の徴兵を任ぜられるようになってからも、訪れた先で住民に助言を与えることが少なくなかった。しかしそれは住民から報酬が得られるからである。反対に、いくら助言や手助けのあったところで到底立ち直る見込みのないようなところでは、彼は進んで人と関わろうとしなかったし、たとえ目の前に餓死寸前の子どもがうずくまっていたとしても、決して手を差し伸べたりはしなかった。
マグダはそれが正しい判断だと思う。当然、彼女にも人情というものがあるし、目の前の弱者を救いたい欲求もある。しかし、公僕の公僕たる地位と権限を担保するものは、取りも直さず公平性の一語である。一人の飢えを救うならば、領内にはびこる全ての飢餓を取り払わなければならない。そして何より、一生をかけて養っていく覚悟でもない限り、飢えに苦しむ子どもに一片のパンを与えることは、彼にもう一度飢えの苦しみを与える以上の意味はない。ドメニコ・アルベルティという一人の役人には、その公平性と持続性において、領内のあまねく貧困と飢餓から民を救うに足る力はないのだ。そのことは、他ならぬ彼自身が誰よりも強く自覚しているはずだ。
風呂を出たマグダが宿に戻る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。風呂場の外に、マルコと呼ばれていた一番年かさの少年が待っていて、灯りを持って宿まで付き添ってくれた。
宿にはドメニコが一人、暖炉の前の椅子に掛けていた。
「護衛の、彼は?」とドメニコに聞くと、ドメニコは苦笑いをしながら「彼は一人部屋に案内されたよ」と答えた。マグダは貞操の危機を感じたが、それを表に出すのは避けた。女のそうした表情が、かえって男の劣情を刺激するというようなことを警戒したためだった。
男子というのは総じて剣が大好きで、腰に剣を提げた護衛官は、子どもたちの世界では行政官より序列が高いのだとドメニコは説明した。それはドメニコがマグダをものにするために拵えた口実ではないかと疑ったが、ドメニコが目頭を揉むような仕草をしたために、そのことについて追及する機会を逸してしまった。目頭を揉むのはドメニコが真剣に考え事をしている時の癖だった。
ドメニコは常に飄々として、軽口や皮肉をよく口にしたが、それは彼が努めてそうしているのだということに、マグダは気付いていた。
「まさか、あの子たちを救おうなどとお考えではないでしょうね」とマグダは牽制した。
ドメニコはそれには答えなかった。
「マグダ、あの子たちを学校にねじ込めるかい」ドメニコは訊ねた。
「無理ですね。越権行為です」とマグダは答えた。
「だろうね」と呟くドメニコに、マグダは「妙なお考えはお辞め下さい」と改めて釘を刺した。
暖炉の薪が乾いた音をたてた。その光は、彫りの深いドメニコの顔に、濃い陰影を落としていた。
「私はね、役人になってからというもの、今まで偽善者にだけはなるまいと思ってきた。自分には救えないものがこの世には多過ぎた。だから、目の前の一人二人を救って、いや、救ったつもりになって悦に浸るような浅ましい真似だけは絶対にしないと決めていたんだ」
「官吏のお立場として、正しいお考えだと思います」
「私もそう思うよ。役人として、私の姿勢は正しかったと思う。けどね、私は自らが役人でありながら、役人というものが大嫌いだったんだ。気付いてたかい?」
「ええ。それなりには」マグダはドメニコの問いに、戸惑いながら答えた。ドメニコが自分の話をすること自体、かなり珍しいことだったが、まして、その内面に触れるような話題を持ち出したことは、彼女の記憶する限りこれまでに一度もなかった。彼は何か、本当のことを話そうとしている、とマグダは感じた。軽薄で洒脱な薄皮の裏側に隠された、彼の肉と骨を晒そうとしている。
「その私がだね、役人としての正しさにこだわるなんて、おかしな話じゃないか。矛盾している」
「好むと好まざるとに関わらず、貴方は役人です。役人としての倫理に従うのが当然かと」
「それが、従うに足る倫理ならね。マグダ。さっきの君の問いに答えるならば、私はあの子どもたちを救う気などさらさらないよ」ドメニコはマグダを正面に見た。彼の瞳の中にはっきりと映されたマグダの顔は、今までに幾度となく鏡で見てきた自分の顔とは思えない表情をしていた。私は、怯えているのだ。マグダはそう思った。
「何をなさるおつもりですか」口の中が妙に渇いて、マグダには自分の言葉がはっきりと発音されたのかも判然としなかった。
「私が宮仕えの高官を殴った時、どんな気分だったと思う? 最高さ。愉快痛快ってやつだ。あの時の気分をもう一度味わいたいんだよ。踏ん反り返った貴族どもの鼻っ柱に、一撃を喰らわしてやるのさ。強烈なやつをね」いつの間にか、ドメニコは笑っていた。
「あの……」と、マグダは少し迷ってから、「出来れば、もう少し具体的に」と言った。何をするつもりか聞いているのに、そんな言い方をされても全然分からない。宮仕えの高官を殴ったときの気分など聞いていないのだ。
「今のは、雰囲気だけ感じ取ってもらって、何か重大なことに巻き込まれそうな予感とかに狼狽して欲しい場面なんだけどな」とドメニコはまた苦笑いをした。
「しかし、私にとっては就労条件に大きく影響することですので」とマグダはきっぱりと断った上で、「行政官がお気持ちを打ち明けて下さいましたので、私も隠し立てせず申します」と言った。「私は、今の職務について正直に申しますと、『経費で旅行をしている』という意識でおります。このような辺境の地は不便ですけれど、なかなか来られる機会も御座いませんし、景色も良くてそれなりに楽しんでいるのです。私がこのような気分で仕事をさせて頂けておりますのも、率直に申し上げて、アルベルティ行政官のお仕事に、成果が期待されていないからです。行政官があの子たちに何か特別な思いをお持ちであったり、貴族や役人といった方々に対して何かお考えがあるのは結構です。しかしながら、私としましては、今より仕事が忙しくなったり、何か、成果を厳しく求められるようなことになっては困ります」
ドメニコは、マグダの話を聞くと、めっきり困り果てたというような顔をして、「気持ちは分からないでもないが、仕事っていうのは本来、成果を求められるものだからね」と言った。
「もちろん、承知しております。しかし、嫌なのです。もう、ちゃんと仕事をしなければならない立場になるのが、恐ろしいのです」
「何も恐いことなどないさ。君は優秀だし、今だってちゃんと仕事をこなしているじゃないか。実際、君ほど周囲の評価を集めている補佐官は、少なくとも領内には一人もいない」
「存じております」とマグダが言うと、ドメニコは驚いた様子で彼女の顔を覗き込むように見つめたが、マグダは構わず続けた。「私は、補佐官として、私以上に早く正確に仕事をする人間を見たことがありません。しかし私は、あくまで『そう出来る』というだけであって、早く沢山仕事がしたいなどとはちっとも考えていないのです」
「本人の口から出たことに少々抵抗を感じるが、正確な自己評価だ」とドメニコは言った。「しかし、もったいないなあ」
マグダは不思議に思った。風呂上がりの若い女と夜の宿で二人きりという絶好のシチュエーションに、この男は何の因果で、ろくでもない仕事の話など長々と続けているのだろう。男というものは、既婚未婚に関わらず、若い女と見ればまるで飢えたコヨーテのように権謀術数を尽くして、その身体を貪り食おうとするものではないのか。これまでに見るドメニコの馴れ馴れしい振る舞いも、マグダの眼には精神的な距離を詰めつつ獲物の隙を突くための布石としか思われなかった。マグダにはそんな策謀に踊らされるつもりはさらさら無かったが、それにしても未だに役人の立場がどうの、辺境の経済がどうのという話を飽きもせず垂れ流すというのは一体どういう了見か。
マグダはその顔貌や体つきについて、一般的に美しいとされる部類に属することを認識している。多くの女性がそうであるように、彼女もまた自らの美について大きな関心を寄せていたが、鏡で見る彼女の姿には、統計的に見て男をよく惹きつける女の外見的特徴(彼女はそうした分析をすることを趣味の一つにしていた)と、多くの共通点が認められたからである。とはいえ、風呂に入る前であれば、多少不潔であるという理由で、身体を求めることを躊躇するというのも、うなずけないことはない。が、今のマグダは長旅の汚れもきれいさっぱり洗い流し、石灰岩の浴槽から滲み出たと見える謎の成分で肌の調子もすこぶる快調なのである。マグダはこのドメニコ・アルベルティという男のズボンを引っ剥がし、その股間にぶら下がっているべきものが、豚の腸詰か何かとすり替えられていないか確かめた方がいいのではないかと考えたが、実際にそうしなかったのは、その時、不意にドアが鳴らされたためだった。
そのドアの鳴り方は、いかにも剣呑な感じのする鳴り方だった。決して大きな音ではなかったが、手に取れるような、確かな硬さと質量を持っていた。
マグダはドメニコに視線を送り、そのドアを開けるよう言外に促した。生命の危急において、国や領主の定めた職務上の序列などはいかなる価値も持たない。ドメニコも、その視線に彼女のソリッドな意志を感じ取ったらしく、腰を上げ、恐る恐るドアを開けた。
そこに立っていたのは、ルカと呼ばれる少年だった。
「悪い。トラブルだ」とルカは言った。
マグダは、今後の就労条件について、もっと具体的に話を詰めておくべきだったと後悔した。