3-9
自分の姿がすっかり透明になってしまうと、彼らは今までいかに自分たちが視覚に頼って生活していたかということを思い知った。
パックの使った姿隠しの魔法は、慣れないマルコたちにとっては不便な面がかなり多かった。
自分の身体が見えないと、足が床のどこを踏んでいるのか、手はどの高さにあるのか、正確に知ることが出来なかった。そのため、彼らは波打った床のくぼみにつまずいたり、樹の柱から出た枝にぶつかったりした。
また、想像していたのとは違い、透明になっても仲間同士は視認出来るというような都合のいいことも無かったし、ただ目には見えないだけで肉体は確かに存在していたから、お互いにぶつかったり、見失ったりしてちょっとしたパニックになった。
魔法をかけられる前は、そんな便利なものがあるならなぜもっと早く使わなかったのかと疑問に思ったが、実際にその不便さを体感すると、この複雑な城内では使わなくて正解だったと納得出来た。
「盗みに便利って言ったけど、取り消すわ。こりゃダメだ」とルカがどこかで言った。
パックはまた機嫌を損ねているだろうが、その姿も見えない。
「せっかく透明になっても、ドアを開けたらバレるじゃない」とクロエが言った。
「問題はそれだ」とマルコも同意した。
「なんだよ。全然使えねえじゃん」とルカが言うと、パックはいよいよふてくされた声で抗議した。
「キミたち文句ばっかり。ちょっと待ってれば乳母が出入りするよ」
「いや、あくまで『盗みには』ってことだよパック。これはすごい魔法だ」とマルコがおだてると、パックはすぐに機嫌を直したようで、歓声をあげた。「他にも色んな魔法が使えるの?」
「当然さ。インプが使えるような魔法なら、パックはみんな使えるね」パックの声を聞けば、姿は見えなかったが、胸を張っている様が簡単に想像出来た。
マルコたちは、手探りでお互いの位置を確認すると、声をひそめて作戦を話し合った。
「よし、これで行こう」とルカが言った時、計ったようにドアノブが回って金具の音が響いた。
一瞬の緊張に、マルコたちは息を殺した。
「僕が行く」とマルコは小声でで言うと、素早くドアの脇に移動した。
ドアはゆっくりと開いた。なるべく音を立てないように気遣うような開き方だった。開いたドアの隙間から、エルフの女が一人顔を出した。彼女がおそらく乳母だろうとマルコは考えた。眠った子どもを起こさないよう気を使っている。彼女は音が立たないようにドアを閉めようとするだろう。マルコは、あらかじめ手折っておいた小枝を摘んで息を潜めた。そして、開いたドアの蝶番の真下に、こっそりこれを挟んだ。
ドアを閉めようとした乳母は、それがうまく閉まらないことに首を傾げた。そして、ドアから少し離れてその全体を観察し、蝶番の下に枝が挟まっていることを発見すると、それを取り除くために一度大きく扉を開き、枝を除いて、またゆっくりと閉じた。
乳母がドアを大きく開いた隙に、部屋に滑り込んだマルコたちは、声が漏れないように気を付けながら、ホッとため息をついた。お互いの姿は見えなかったが、互いの身体がぶつかり合う感触で、全員が上手く部屋に入り込んだのを知ることが出来た。マルコはクロエとルカの手を握った。パックはマルコの頭の上に乗っている。この部屋に子どもとして紛れ込んでいるのが魔物だとしたら、それなりに頭の働く奴だ。魔物たちは組織立った行動をしていると考えるのが自然だし、そうだとしたら、危険度は跳ね上がる。万が一の時、はぐれないようにしなければならない。
部屋の中は、この荒れた森でマルコたちの見てきた限りでは唯一、緑の葉や赤い木の実、白や黄色や紫の花々が生きていた。そのことだけでも、ここにいる者が王夫妻にとって特別な意味を持っていることが知れた。大きな窓からは明るい月の光が差していたが、梁になっている大樹の太い枝は葉が茂り、宿り木や蔦がカーテンのように垂れ下がって部屋の奥の一角を隠していた。
渦中の子どもというのは、その奥にいるらしい。マルコたちは手を繋いだまま、足音のしないようにゆっくりとその一角に近づいて行った。
蔦の間から中を除くと、その奥で、枝を垂れる白い藤の花を天蓋にしたベッドの上に、ちょうどテオやクロエと同じくらいの子どもが横になっていた。肌は浅黒かったが、目鼻立ちの整った男の子で、身に付けている衣服も質の良さそうなものに見えた。
彼が眠ったので、乳母は部屋を出た。マルコの考えが正しければ、もうすぐ動きがあるはずだ。
クロエが強く二回、マルコの手を握った。やはりそうか。
部屋に入るにあたり、クロエには、この部屋の子供が、人間の子ども以外の何かに見えたなら、マルコの手を二回握るように指示していた。
マルコはルカの手を二回握り、クロエのメッセージを伝えた。
ルカが強く頷くように、マルコの手を一度、強く握り返した。
マルコはその握り方に、勇気を分けてもらったような心持ちがした。
しかし一方で、クロエの手が少しずつ、冷たくなっていくのを感じた。その手は次第に汗で濡れていき、小さく、力なく震え始めた。
マルコは手を引き、クロエを抱き寄せた。そしてルカがマルコの手を強く握るように、繋いだ手を放して彼女の肩を強く抱いた。クロエの目には、彼がどのように映っているのだろう。何か、とても恐ろしいものに見えているのに違いない。だとすれば、目の前の少年に化けている魔物は、ただのインプではない。
マルコの胸の中で、クロエが頷いた。そして彼女はまた、マルコの手を強く握った。
「私はもう大丈夫」声はなくとも、クロエがそう言っているのが分かった。
エルフの森は種々の事情で混乱していたが、今日に限って言えば、ここに紛れ込んでいる魔物も、あるいはエルフ以上に混乱しているはずだとマルコは考えた。一時とは言え、インプがトランクィッロに捕まってしまったのだ。彼らの弱点は、せっかくの変身が、子どもには見破られてしまうということである。マルコの考えた通り、彼らが組織的に王夫妻を欺き、この森で何か大きなことを企んでいると仮定すれば、インプがパックに成りすまして紛れ込んでいると露見することは、彼らの作戦の根幹を揺るがすことになるはずだ。従って、トランクィッロの手から逃げ出したインプは、森に子どもが入り込んだことをリーダーに報告しなければならない。ではリーダーとは誰か。この城の中で、直接王夫妻を欺くという重要な役割を果たしている、渦中の子どもであると考えていいだろう。
「インプ。出ておいで」
来た。藤のベッドから不意に聞こえた声に、マルコは思わず声が出そうになるのを噛み殺した。
繋いだルカとクロエの手が、にわかに強くマルコの手を握った。その皮膚の動きからは、痺れるような緊張が伝わって来た。
すると、大樹の枝の梁の裏から、小さな黒い生き物が顔を出した。
「パペ!」とその生き物は言った。意味は分からない。魔物の言葉だろうか。
何にせよ、彼らはマルコたちには気付いていなさそうだった。
これが、チビたちの見ていたインプの姿か、とマルコはその魔物を観察した。大きさは丁度パックと同じくらいだが、大きい頭の割に身体は痩せていて、腹部だけがぽっこりと膨らんでいる。色は黒く、頭には短い角が、背中にはコウモリに似た羽が生え、尻尾の先がカギ状に曲がり、尖っていた。
「報告は?」と言いながら、その子どもはベッドから上半身を起こした。乳母がいたために報告が保留になっていたのではないか、とマルコは推測した。この子どもが、インプに対して指導的な立場にいることは間違いない。
「パペ! 報告します。人間の子どもたちは広場に集まって、エルフ共に鎧を配っています。王と女王もそこに向かっています。今ごろ接触しているでしょう」インプはその黒い羽を羽ばたかせながらそう言った。
王夫妻が、テオたちと接触している。マルコはその情報を聴くと、状況のリスクとメリットを秤にかけた。王夫妻の争いは徐々にエスカレートしているらしかったが、現状ではエルフの民に死傷者は出ていない。夫妻にはまだ市民を傷付けないよう配慮するだけの分別が残っていると期待したいが、それがいつまでどのくらい保つものかは予想出来なかった。
一方で、テオがそこにいるのは救いだった。テオは天性の詐欺師だ。あがり症で、あたふたすることも多いが、むしろ自分のそういう態度さえ味方につけて、相手に自分を信じ込ませることが出来る。彼なら、あるいは王夫妻の争いを抑えてその場に引きつけることくらいは出来るかもしれない。
「それはもういいよ」子どもはインプをその手に捕まえて言った。「おっちょこちょいのインプが人間の子どもに正体を見られた以上、エルフの里全体にキミたちの侵入がバレるのは時間の問題だ。今、キミたちが大急ぎでやらなくちゃいけないのは、その愚昧さのために遅々として進まなかった、結界の解除だ。こうなってしまったら、キミたちがエルフに狩り尽くされるのと、結界を解いて力を取り戻した僕がこの森を焼き尽くすのと、どっちが早いかっていう競争だ」
子どもは、いや、子どもに化けた何かは、インプを握った拳に力を込めた。彼の手の中で、その小さな生き物は喘ぎながら、「ファルファレルロ様……」と絞り出すように言った。
「僕の名を呼ぶな!」という高い怒鳴り声が、部屋に谺した。それと同時に、彼の手の中にあった小さな生き物は、その後に続くはずだったであろう命乞いの代わりに、赤い血液と臓物とを口から溢れさせて息絶えた。
マルコはクロエの手を強く握った。彼女の手はまた小さく震えていたが、しかしその手の中には確かな力が残っていた。クロエもまた、岩もぐらなのであり、オイレンシュピーゲルを名乗る兄妹の一人なのだ。この程度のことで悲鳴をあげたり、怖気付いたりなどはしない。
ファルファレルロ。それが、子どもに化けた邪悪な者の名前らしい。
「まだこれからだ。サロンは僕が……」ファルファレルロは舌打ちをしてから呟いた。
サロン? それが意味するところをマルコは考えた。それは、インプたちを従えている、彼に紐付く上位の組織だろうか。
ルカがマルコの手を強く三回握って、離した。ルカは腹を決めたらしい。
マルコは頭の上に乗っている、パックのお腹のあたりを三回つついた。
マルコの頭からパックの乗っている感触と重さがなくなると、目の前がぱっと光った。
その瞬間、彼らは色彩を取り戻し、お互いの姿をはっきりと目にすることが出来た。
「おい、悪党! きさまの悪事は全部お見通しだ!」ルカが高らかに宣言すると、ファルファレルロは驚いてベッドから飛び上がり、身を屈めてこちらを睨む。
ルカの大声を聞きつけたか、廊下からにわかに慌ただしい足音が聞こえ出した。
「誰だ、お前ら」
「君は、王夫妻を惑わして上手くことを運んだつもりかもしれない。しかし、愛情深い王夫妻は騙せても、百戦錬磨の近衛兵長ポール・デュカスの眼は欺けなかったってことさ」マルコが兵長の名を出したのは、エルフの軍を後ろ盾に圧力をかけるためだ。乳母や侍女が慌てて駆け寄る足音も、こう言えば衛兵の足音に聞こえるだろう。
「嘘だな」とファルファレルロは嘲笑った。「デュカスがお前らのようなガキどもを寄越すものか」
それを聴くと、ルカがファルファレルロの嘲笑を上から押し潰すように高く笑い声を上げた。「お前、賢ぶってるけどバカだなあ。自分がどんな格好しているのか見てみろよ。ガキに化けて人を欺いている奴が、相手がガキだからって理由でその実力を測れないとは」
「策士、策に溺れるってヤツだ」とマルコも同調した。
さあ、ルカ、言ってやれ。フェンリルの倉で一生懸命考えた、その名乗り文句を。
「やあやあ我こそは! えと……」とルカは口ごもった。
「いや、それじゃない方にしようって言ったじゃん」とマルコはルカをつついた。
『土塊のルカ』という二つ名がダサいとルカが落ち込んでいたので、マルコは格好良く登場するための名乗り文句を一緒に考えていた。いくつか候補があったのだが、それがルカの頭の中でごちゃ混ぜになってしまったらしい。
そうしているうちに、廊下を走る足音がすぐ側まで近づいていた。マルコはじりじりと皮膚を焼くような焦りを、口元に浮かべた薄笑いで隠した。この部屋のドアを開けた侍女の目に映るマルコたちの姿は、王夫妻の大事な養子の寝室に入り込んだ侵入者以外の何者にも見えないだろう。
「クソガキども……」ファルファレルロはマルコたちを睨みながら、噛み潰すようにそう言うと、一足飛びに窓を突き破って外へ飛び出した。
「マジ危ねえ! ギリ!」とルカが叫んだ。
「時間が無い! 追いかけよう。パック、デュカス兵長にこのことを伝えて!」マルコは鉤付きロープを窓から投げた。パックはマルコの脇を抜けて、窓から飛び立った。
その間にも、ファルファレルロの後ろ姿はどんどん小さくなって、夜の闇に紛れようとしている。
マルコ、ルカ、クロエの三人は、近くの枝に飛び移って後ろを振り向いた。一瞬遅れて侍女たちが部屋に入ったらしい。
マルコは次の枝にロープを投げた。「急ごう。見失っちゃ駄目だ」




