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土塊のルカ  作者: 福太郎
行政官ドメニコ・アルベルティの見た岩もぐらの生活と信仰について
2/28

2.

 ドメニコたちが案内された宿というのは、やはり石灰岩の崖面を掘り広げた横穴に扉を据えた、極めて簡素なものだった。

 しかしこの集落に着くまでの間、最寄りの村落から三日三晩歩き通しだったドメニコたちにとっては、雨風をしのげるだけでも有り難かったし、まして暖炉と椅子、ベッドが備えられているとなれば、もう文句のつけようがなかった。

「何もない所ですが」とマルコが言った。

「いや、十分だよ」とドメニコが答えた。

 外では暮れかけた陽の光が、雨の上がった空の薄い雲と、渓谷の石灰岩とを等しく緋色に染めて、この崖の中腹からは、空と大地との境目さえ判然とはしなかった。


 集落の子どもたちは、内地から来た役人がよほど珍しいとみえて、一番年かさのマルコという少年がドメニコたちを案内する間ずっと付いて回ったが、緊張しているためか、ほとんど言葉を発さなかった。

 しかし、一度集落の入り口付近の洞穴に寄って、そこに休ませておいた護衛官を連れてからは、腰に剣を下げた護衛官に強く興味を引かれたらしく、たびたび、彼についてドメニコやマグダに質問をした。

 どうやら子どもたちは、遠方から来た勇者をドメニコやマグダが案内していると考えているようだった。これには護衛官も気を良くしたらしく、ドメニコたちの手前もあって勝手な発言こそしなかったが、崖道を渡った後の萎れきった様子からは信じられないほどの凛々しい表情をしてみたり、しきりにこの旅で一度も抜いていない剣の刃こぼれを確認したりした。


 宿に着くと、ドメニコは子どもたちにこの集落のことを訊ねた。

「ここには大人はいないのか?」とドメニコが問うと、「いるにはいるけど、ここの大人は使い物にならないね。一人残らず。兵隊をとりにきた役人さんには悪いけど」とルカと呼ばれた少年が答えた。この子どもたちの長だという少年である。大方予想していた通りとはいえ、ため息を吐かずにはいられなかった。

「親はどうした」と聞くと「ここの連中に親なんかいないさ。いたとしても、誰が誰の親だか分からない」と答えたが、ルカも他の子どもたちも、そのことについて深刻に感じてはいないようだった。

「ではどうやって生活している」

「そこは上手くやるのさ」

 上手くやる(・・・・・)ということについて、ドメニコは考えた。おそらく、このルカという少年が、マグダにしたようなことだろう。婉曲な言い回しをするのは、彼らがまだ役人であるドメニコを警戒しているためだ。

「使い物にならないという、ここの大人たちも、上手くやっているのか? どうも、そうは思えないが」

「上手くやれないから使い物にならないのさ。もれなく酒かアヘンでポンコツになっちまってる」

「ここでその様では生きることさえ難しいだろう」

「だから俺たちが食い物だけはなんとかしてやってるのさ。なにも、死ぬことはないからね」

 これにはドメニコも絶句した。辺境の集落では子どもの労働力に対する依存度が高いというのは周知の事実だったが、ここはそんな生易しい所ではなかった。この集落が全て子どもの労働力によって賄われているのだ。その子どもたちを束ねるのが、歳も十を少し超えたかどうかという、この丸顔で目の大きな少年である。

 ドメニコは深く息を吸い込んで、心を落ち着かせるよう努めた。地方を巡る行政官が、最も強く心得ておかねばならないのは、同情を禁ずることである。

 程度の差こそあれ、ひどい境遇にあるのはこの集落だけではないし、救おうなどと思えばきりがない。

 しかし同時に、強い違和感も感じていた。その置かれた境遇に反して、彼らは生気に満ち溢れている。いくら上手くやる(・・・・・)とはいっても、子どものすることだ。この集落一つを養うことなどが可能なのだろうか。

「ところで、皆さんお風呂はどうされてるのでしょうか」とマグダは子供たちに訊ねた。ドメニコは、ルカとのやりとりから随分文脈がずれたものだと思ったが、強いて指摘はしなかった。

「谷底から川の水を汲んで、それを沸かすものがあります」とマルコが答えた。

「出来れば入りたいのですが」とマグダは言った。

 マルコは少々渋るような素振りを見せたので、ドメニコは「今日一日は我慢しようじゃないか」と提案した。最寄りの村落から三日歩き通しだったのだから、マグダの気持ちも分からないではなかったが、もとより望みのない徴兵任務である。形だけこの集落に辿り着き、一応の徴兵活動をしたら「壮健なる男子募れど、兵役勤むるに足る者なし」などいう報告書を書いて、「成果のない徴兵に三名もの護衛を失うとは何事か」という小言を聴けばそれで職務は完了なのだ。長居するつもりはさらさら無かった。となれば、風呂の一つくらいは我慢も出来ようものだ。

 しかし、マグダは聞き入れなかった。

「この期を逃せば最寄りの村落までまた三日かかります。合わせて一週間もの間、入浴もせずに過ごすことは、断じて承服致し兼ねます。私は、行政官の生命と全財産にかけても、今日という今日は、入浴させて頂きます」

「そういう時は、自分の生命と財産をかけるべきだ」とドメニコは言ったが、マグダは人形のように表情を固めたまま、返事もしなかった。

 この期を逃すまいとばかりに、ルカが「いいぜ、風呂を用意するよ。もちろん、タダってわけにはいかないけどな」と口を挟んだ。

「分かったよ。じゃあ、用意を頼む。で、報酬は?」とドメニコは観念して言った。地方に出れば、そこに金を落とすのも黙示的な役人の務めである。

「俺たち七人で風呂の用意をする。分けられるように銀貨で十二枚だ」とルカは言った。

「銅貨の間違いだろう。それでも高すぎる」と言ってから、ドメニコは「それに七人で分けるなら十四枚だ」と付け加えた。わざと間違えたのに違いない。ドメニコが欲張りな役人かどうか、鎌をかけたのだ。正当な値切りは良くても、相手の間違いに漬け込んでの交渉は信用を落とす。

 ルカは眼を細めてから、「ああ、そうだったな。十四枚だ」と言い、「でも、銅貨じゃなくて銀貨だ。そこら辺の町や村と一緒にしてもらっちゃ困る。この薄暗い中、谷底まで水を汲みに降りて、また登って来なくちゃいけない。俺たちは慣れっこだから、谷を降りるくらいで怪我はしないが、それでもすごく大変だ」と主張した。

「どこか、雨水を貯めるような場所はないのか? 谷を降りるのはさすがに危険だろう」

「雨水は大事な飲み水だ。風呂になんか使ったら、みんなが干からびちまう」

 堂々としたルカの態度にドメニコは感心したが、いかんせん暴利に過ぎる。街中では真鍮貨一枚で入れる風呂に、銀貨を出すわけにはいかない。

「君たちの事情は分かったが、私じゃなければ斬り捨てられてもおかしくない条件だ」

「俺たちだって相手を選ぶ。あんたたちじゃなかったら、『へへえ、お役人様、ここいらにゃ風呂なんてご大層なものぁ御座んせん』とか、そう言うさ」そう言って、ルカは卑屈な田舎者を演じて見せた。その仕草は、役人に対する僻地の住民の態度をかなり正確に模写していた。

「そうか。しかし、我々にも事情ってものがある。まず、街での風呂の相場は銅貨二分の一だ。そして、さっきマグダの言った通り、私も役人としては中の下ってところでね、期待に添えず申し訳無いが金持ちじゃない。従って、風呂に入るだけのことに、どうしたって銀貨は払えない」

「それじゃあ仕方がない。そこの姉さんには我慢してもらうしかないね」とルカは言った。

 ドメニコはマグダの表情を横目で見た。マグダは眉一つ動かさなかったが、ドメニコはその様子に尋常ならざる圧力を感じた。

 常識で考えれば、ドメニコは部下のわがままをたしなめるべきだし、たかが風呂に法外な値段を吹っかける辺境の賎民を切って捨てるべきである。しかし、僻地の子どもに尊大な態度をとるほどドメニコは自らの貴族という立場に誇りを感じなくなっていたし、また、不機嫌な女との旅路というものが、現世と地獄の境目よりやや地獄側に位置するものだということをよく知っていた。

 つまり、ドメニコにはこのルカという十かそこらの子どもと粘り強く交渉をする以外に残された道はなかったのである。

「ここにいる彼女に風呂を我慢するよう言い聞かせることは確かに出来る。しかしそれでは、私は厳しい道のりをついてきた部下への労いも出来ないし、君たちは銅貨一枚程度のチップでただ我々を案内し、見送るだけだ。それでは双方益がない。今日少しだけ君たちの様子を見させてもらったが、君たちはものをよく知っている。風呂に入るのに銀貨を出す者などいないことだって知っているだろう。銀貨十四枚にこだわる理由が他にあるんじゃないのか?」ドメニコがそう言うと、ルカは、ドメニコをじっと見つめた。その視線は、ドメニコという人間の奥行きを測るような視線だった。しばらくそうして考える素振りを見せてから、ルカは「マルコが仕切って、六人で風呂を沸かしてくれ! オレは客人と話がある」と言った。子どもたちは、ルカの号令を聴くと一斉に部屋を飛び出した。

 ドメニコはこれに応えて、マグダと護衛を部屋から外させた。

 部屋にはドメニコとルカだけが残った。ルカは子どもたちの声が聞こえなくなるまで、いつの間に拾ったものか、この辺りの石灰岩のかけらと見える小石を指先でもてあそんだ。

 

 そうしている間に子どもたちの笑い声や足音が遠ざかり、やがてほとんど聴こえないくらいまで遠ざかると、ルカは「チビたちとマルコを、学校にやりたい」と、おもむろにそう言った。

「学校に?」

「そうだ。一人につき銀貨二枚あれば、一ヶ月学校に通えるって聞いたんだ。その間に俺は、次の月の分を稼ぐ」

「だから銀貨十二枚か」とドメニコは言った。あれはドメニコを量る鎌かけではなかった。自分を勘定に入れていなかったのだ。「なぜ歳上のマルコではなく、君が稼ぐんだ?」

「マルコはもともと頭がいい。マルコが学校で勉強すれば、きっと、世の中をもっとよく出来るくらい立派になれる。そうすれば、この集落での暮らしも少しはマシになるはずさ」

 ルカはそう言って、彼らの将来を語った。

 学校に通うことさえ出来れば、彼らは衣食住に困ることもなくなる。ルカはその分の食費や衣料費を彼らの学費に充てるのだという。そうして教養を得た彼らはそれぞれ全うな職につく。彼らはいずれ本当の家族を持ち、街に家庭を築くだろう。時には彼らがこの洞窟住居に住まう『岩もぐら』であったことについて、いわれなき差別や中傷を受けることもあるかもしれない。しかし、彼らはその程度の逆風に膝をついたりはしない。タフでしたたかであることが、『岩もぐら』である彼らの誇りであり、信仰だからだ。そしていつか、彼らの築いた本当の家族を、時々岩もぐらの巣から少しだけ顔を出して遠くから見守ることが、このルカという少年の夢なのだという。

 ドメニコはほとんど怒りと哀しさのために目眩を覚えるほどだった。それはこの世界に対する怒りであり、目の前の健気な少年と、無邪気な子どもたちのための悲しみだった。

 この少年は、人が人と認められて生きるための要件が、知力と経済力であるということを知っている。そして彼は、その上で、彼自身が人として生きる可能性すら投げ打って、血の繋がりなき兄弟の礎にならんと欲する者である。彼はこの世界が彼らにとって冷酷であることを知っている。しかし、どのくらい冷酷であるかを知らないのだ。

「まあ、あんたの言う通り、たかが風呂ごときに銀貨が稼げると本気で期待したわけじゃない。これからもコツコツやるさ」とルカは言った。

「しかし、君たちは風呂の準備を始めてしまった。銀貨が無理とはいえ、私はその対価を払わねばならない」

 ドメニコがそう言うと、ルカは手に持った小石を上へ放り、また掴んだ。「まあ、せいぜいはずんでくれよ」

「その件については、補佐官と少し相談させてくれ」とドメニコは答えた。ルカは頷くと、部屋を出て行った。ドメニコは、ルカを呼ぶ子どもたちの声を聞いた。

 暖炉の薪が爆ぜる音は、その熱量に反していやに寒々しく、偽善者の愛想笑いに似て白々しく響いた。

 


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