3-1
その日は朝から忙しなく、ドワーフの町を奔走しなければならなかった。岩もぐらの渓谷でドメニコたちは荷物のほとんどを失っていたし、盗賊たちも元々旅の準備などしていなかったから、少なくとも次の集落にたどり着くための物資の調達、とりわけ食糧の入手が絶対に必要だった。
そのための調整や交渉までは、概ね昨日済ませていたが、現物の回収は予想以上に難航していた。
ドワーフにも当然、日用品や食料品を扱う店はあったが、そうした店はほとんど(いや、確認出来た限りでは全て)職人や坑夫が町の利便のために副業として行っているものであって、車輪付き倉庫の建造に町中のドワーフが総動員で駆け回っている現状、昨日交渉したドワーフが何処にいるのかを探すことがまず困難で、運良く見つけたとしても、作業の手を止めて彼らに応対させるために、また別個の交渉が必要だった。ドワーフは商いについての関心が低いから、取引自体の約束は守るものの、引渡しの時期だとか段取りだとかについての細かい約束まで厳密に守るような商習慣はないらしかった。
結局、調整は昼過ぎまでかかり、物資の引渡しについてはそのほとんどが今建てられている倉に積み込まれることになった。
集会所に戻り、ドワーフの用意してくれた昼食をとると、ルカがおもむろに、「じゃ、呼ぶわ」と言った。それが誰を呼ぼうとしているのかは明らかだった。
ドメニコはこれに驚いて、「何も、そんなに早く呼ぶことはないだろう」と抗議をしてから、「ほら、お忙しいだろうし」と言い訳のように付け加えた。彼女の機嫌を損ねれば、何が起きるか分かったものではない。
大人たちの間では勿論、その名前は最上級の禁句だった。昨日の騒動を経て、ルカやマルコとバーバ・ヤーガとの間では過去の誤解やわだかまりが解けて、絆のようなものが深まったのだろうと推察されたが、ドメニコを始めとする大人たちにとっては、彼女は依然、制御も予測も出来ない大きな脅威に違いなかった。
しかし、彼らの不安をよそに、ルカは「バーバ・ヤーガ」と発音し、その声には二重唱のように女の声が重なった。集会所の会議室に、光の粒が舞った。それらは互いにぶつかり合い、重なり合い、あるいは別れて次第に形を成し、無数の白い花弁を象った。
「マグダ、この花は?」とドメニコは尋ねた。
「アザレアです。ちなみに花言葉は、『貴方に愛されて幸せ』です」とマグダは答えた。
ドメニコは、しばしばマグダに指摘されたように、今後はみだりに女性の名を呼ぶのは控えようと肝に銘じた。
「昨日とは随分趣向が違うじゃねえか」とバルトロメオが漏らした。
昨日は沼のような暗闇から這い出るように登場したバーバ・ヤーガが、今日は万朶の花弁に身を包むようにして現れたことは、彼女の心境の変化を、これ以上なく、そしておよそ必要とされる範囲を超えて、明確に表現していた。しかし、やはりそこに現れたのは、徹底的とも言える黒づくめの衣装に身を包み、極端に高い背を丸く屈めた、黒く長い髪と白い肌を持つ魔女だった。
「ああ、ルカ、やっと貴方が妾を呼んでくれたのね……」バーバ・ヤーガはその言葉の余韻を味わうように、ゆっくりと言った。「胸の内から、燃え上がるような力の迸りを感じる」
一行は戦慄した。
「パワーアップしてんじゃねえよ……」とバルトロメオが呟いた。
「もう少しで、エルフどもの忌々しい封印さえ引き千切れそうな力だわ。ああ……、ルカ……」バーバ・ヤーガは名を呟きながら、ルカに歩み寄った。
ルカも彼女に歩み寄り、手を握った。そして、少し背伸びをして、「落ち着いて、落ち着いて」と言い聞かせながら、彼女の背をさすった。
バーバ・ヤーガはルカの手のひらの温もりを、背中いっぱいで受け止めるように首を仰け反らした。「そう……。そうだわ。ルカ。妾は、未来の旦那様のために、倉を曳く者を呼ばねばならないのだもの」
「ごめんな、バーバ・ヤーガ。チビたちを学校に入れてやるために、オレたちはどうしても都に出なくちゃいけない。そのためにはこうやって立ち寄る先での義理も果たさなくちゃ。
それにこの先、何が起きるか分からないから、少しでも多くの人たちと会って味方を増やしたい。力を貸してほしい」
「妾に出来ることは、何でも」とバーバ・ヤーガは言った。
ドメニコは、バーバ・ヤーガがその強大な魔法の力でなにをしようとしているのかということよりも、彼女がルカとの結婚を決まったもののように言うことについて、ルカがどう考えているのかということの方が気になったが、あえて口には出さなかった。これ以上、彼女を刺激して、また町を潰すの潰さないのという騒ぎになるのは御免こうむりたい。
「まあ、いいさ」とドメニコは呟いた。ルカにはルカの人生がある。それに、全ての結婚が失敗するというわけでもない。個人的にはあまりおすすめ出来ないというだけだ。「それより、こんなに早く彼女を呼び出した理由があるのだろう」
「バーバ・ヤーガに早く会いたかったから」とルカは言った。
「嬉しくておかしくなりそうだわ」とバーバ・ヤーガはルカに抱きついた。
ドメニコはなんだかよく分からない気分のために、目眩を覚えるほどだった。
「バーバ・ヤーガはエルフの森に近付くことが出来ない。エルフの王オベロンと、女王テイタニアが魔法で彼女を遠ざけてるからだ。だから、しばらく会えなくなるかもしれないんだ」とルカが説明した。ルカがエルフの森に入ることをバーバ・ヤーガが承服したところを見ると、ルカは女たらしとしてもかなりの腕だとドメニコは舌を巻いた。ルカに対するバーバ・ヤーガの溺愛ぶりは常軌を逸している。どういう手管で彼女を丸め込んだのか、と考えたところでドメニコは一つの仮説に思い至ったが、この場でそれを口にするのは見送った。今ルカと意見を戦わせるのは得策ではない。
「そういうわけだ。ドメニコ・アルベルティ。エルフの森におる間、ルカの身の安全は盗賊たちが守るであろう。貴様は、ルカの心を守るのだ。ルカにおかしな虫がつかぬようにせよ」とバーバ・ヤーガは言った。
「おかしな虫?」とドメニコは反芻した。
「左様。妾のルカが、エルフの浅ましい女どもになびくことなど万に一つもあるまいが、どこに色情魔がおるとも限らん。エルフどもは『恋の妙薬』を用いると聞く。貴様は妾の可愛いルカが彼奴らの毒牙にかからぬよう常に目を光らせていよ」
やれやれ、とドメニコは頭を掻きながら首肯した。
「それより、確認したいことがあるんだ」とルカが言ったので、やっと本題に入れるものとドメニコは安心した。
「何でも聞いてくれていい」ルカもどんな無茶を言い出すか分かったものではないが、他人の色恋沙汰に無理矢理首を突っ込まされるよりは実りある話が期待出来る。
「オレに魔法の素質があるっていうのは本当か?」そう言うルカの目には、今までになく子どもらしい輝きがあるように見えた。
「ああ。本当だ」とドメニコは答えた。なるほど、バーバ・ヤーガを呼んだのはそのためか。「少なくとも、私の考えが正しければということだが」
「そうか。で? あれはどうなってんだ? 属性は?」とルカはいよいよ本格的に目を輝かせ始めた。
「属性?」とドメニコは聞き返した。実際、彼は魔法というものについてそれほど詳しいわけではなかった。魔術部隊が領内に占める地位だとか、そこに人員を引き入れることの影響だとかいったことには関心があったが、魔法そのもののこととなると、彼の領分ではない。
ルカはドメニコが魔法についてその程度の知見しか持たないことを悟ったのか、呆れたようにため息をついた。「はあ、知らねえのかよ。あるだろ。『火』とか、『水』とかよー」
「四大元素というものですね」とマグダが言った。
「そう! それだよ」とルカは我が意を得たりという調子でうなずいた。「人によってさあ、どれが得意とかあるわけよ。やっぱ『火』かなあ。性格的には。『水』もクールっぽくていいけどさあ。いや、『風』も気まぐれで天才肌みたいなところがカッコいいけどなあ」
ドメニコはルカが年相応の子どもらしくはしゃぐことに戸惑ったが、バーバ・ヤーガはその姿を見て機嫌を良くしたらしかった。
ルカは幼い時分から物語に聞く勇者や魔法使いに強い憧れを持っているのだと、マルコが小声で説明してくれた。
「そういうことなら、多分『土』だろう」とドメニコは言った。
「は?」とルカは首を傾げた。全く何を言っているのか分からないという反応だ。
「いやだから、『土』だと思う」とドメニコは繰り返した。
「いやいや、それはないだろドメニコ。いくらなんでも」とルカは言った。ドメニコには、なぜ「それはない」のか、何が「いくらなんでも」なのか、さっぱり分からなかった。
「私が君の魔法の素質に気付いたのは、君が、いつの間にか、どこで拾ったか分からない小石を握っているということがしばしばあったからだ。私はこれを、君自身がそうと気付かぬうちに、魔法によって顕現させているのではないかという仮説を立てた。君に杖を持たせたのはそのためだ。君が入り江でオルトロスと戦った時も、私の頭の上に泥がこぼれていた。おそらく、君が魔法で発現させたものだろう」
「いや、『土』はねえよ、ドメニコ」とルカは重ねて言った。「あんなの、ゴリゴリのおっさんがやるヤツじゃん。『魔法なんか使ってないで手で殴れ』って感じのさあ。そんで、大体噛ませ犬みたいな感じで負けんだよ。『四天王で最弱』みたいな感じで。『土』属性ならオレ、自分が魔法使いだってこと秘密にするね」
ドメニコには、ルカが『土』という属性に強い抵抗を示しているのは分かったが、その理由はいくら聞いてもいまいち理解出来なかった。どうも、物語ではいい役所にあたらないということらしかったが、ドメニコはそうした物語をあまり真剣に読んだ経験がなかったし、物語上の立ち位置を現実に対応させて考えるという習慣もなかった。「いや、しかしなあ」と頭を掻く以外に彼に出来ることはなさそうだった。
「素人考えであんまりものを言うのは良くないぜドメニコ」とルカは噛んで含めるように言った。「すぐそばに、専門家がいるわけだし」
ルカがそう言うと、バーバ・ヤーガはルカから目を逸らした。
「彼女なら、判別出来るのかな」とドメニコは言った。
「役人、余計なことを言うな」とバーバ・ヤーガはドメニコを睨んだ。「妾はルカに嘘をつくことが出来ん」
「じゃあ、ちょっと見てみてよ」とルカはバーバ・ヤーガに手を差し出した。「二つ名とかも付いちゃうわけだろ? 『紅蓮のルカ』とか、『樹氷のルカ』とかさあ。カッコいいやつが。あれって、どうやって決まってんの?」
「権威ある魔法使いが、名付けの儀式を行うの。名前は任意に決められるものではなくて、降りてくるものなのよ」とバーバ・ヤーガはルカの手を握りながら説明した。
「今、その儀式をすることはできる?」とルカは尋ねた。
確かに、その分野での権威という点について言うなら、彼女以上の人物はそういるものではないだろう、とドメニコは納得した。彼女の言葉を信じるならば、当代きっての魔法使いと謳われる、エルフの王夫妻も凌ぐという。
「出来るわ。ルカ。あなたの名付けをするなら、妾がしたい。でも、こればかりは望んだ通りに出来るわけではないということを分かってほしいの」とバーバ・ヤーガは言葉を選びながら言った。「魔法とは、現世の理を曲げて、幽界の事柄を持ち出す技術だけれども、幽界にも秩序があるし、そこにある事柄を持ち出すことにも、掟がある」
悪党には悪党の掟があるというような話だ、とドメニコは思った。
「やってくれ」とルカは言った。「どの道オレは、自分は何が出来るヤツなのか知らなきゃいけない」
「我々は、外した方がいいだろうか」とドメニコはバーバ・ヤーガに尋ねた。
「そこで構わん。すぐ終わる」バーバ・ヤーガはそう言うと、両手をゆっくりと高く掲げた。丸く屈めていた背を伸ばすと、彼女の肢体は驚くほど大きく、そして美しかった。首を仰け反らせて天井を仰いだ彼女の顔にかかっていた長い前髪が耳の後ろに流れ、その目や、鼻や頬が露わになった。
バーバ・ヤーガがゆったりとした速度で息を吸い込むと、彼女の胸がそれに応じて、ゆっくりと大きく膨らんだ。彼女は歌い出した。白銀の横笛のような、艶めいた、よどみのない歌声だった。
━━高天原に神座り坐す、名付司り給ひぬ御神の命以ちて、諸々禍事罪穢を祓へ給ひ清め給へと白す事の由を、天津神、国津神、八百萬之神等共に、天の斑駒の耳振立て所聞食と畏み畏みも白す。━━
バーバ・ヤーガの歌は、それからしばらくの間続いた。詩の内容は概ね、神々に対する感謝と賛辞、新しく力を授かる者への名付けの願い、そしてまた神々に対する謝辞、という流れで、ドメニコがこれまで抱いていた彼女のイメージとはとても似つかわしくない、祝祭的な響きに満ちていた。大きな真鍮の鐘の中にいるように室内を反響する歌声に浸っていると、次第に歌というものが目に見えるような心持ちがしてきた。
詩はその一字一字が蝶のように宙を舞い、絹糸のような旋律の一筋一筋が天井から垂れて光の弧を描いた。それらはやがてバーバ・ヤーガの右の掌に収束して、ちょうど、鶉の卵のような大きさの、翠玉になった。バーバ・ヤーガは左手の指で魔法を用い、細い銀の鎖を作ると、その石に通してルカの首にかけた。皆が珍しがって覗き込むと、そこには文字のようなものが彫られていた。
━━Μάζα γης━━
「なんて書いてある?」とルカが尋ねた。一同はその様を、固唾を飲んで見守った。
バーバ・ヤーガは一度目を伏せたが、ルカの瞳を覗き込んで、「土塊」と答えた。
「『土塊のルカ』よ」




