2-8
「もういい。分かった。一回ちゃんと笑え」とバルトロメオが言うのを聞いて、マグダは、(しまった!)と思った。
またしても、うっかり男性を恋に落としてしまった。
彼女は自分の容姿が一般的にかなり上等な部類に入ることを自覚している。しかし一方で、その怜悧な眼差しや、高く通った鼻筋は、意図せずして周囲の男たちを敬遠させてしまうことも。
いわゆる「高嶺の花」として凡夫どもが遠巻きに羨望の眼差しを送る自分が、ふとした拍子に笑顔など振りまいてしまえば、男たちは濁流に飲まれるように、たちまち恋に落ちてしまうのに違いない。
それでなくとも、バーバ・ヤーガとの戦闘で太ももを深く刺し貫かれているバルトロメオが、自分への恋に鼓動を高鳴らせれば、滾る血潮が傷口から噴き出して、呆気なく死んでしまうのではないかとマグダは心配した。しかし、いつも軽妙洒脱に気取ったあのドメニコが、自分の妻を寝取った高官に捨て身のアッパーカット(その攻撃がアッパーカットであったか否かは確認されていない)をお見舞いする様などは、何度想像しても滑稽かつ痛快で、その微笑みは彼女の頑強な表情筋をもってしても、口元から溢れ出て絶えることがなかった。
バルトロメオは、彼女がそうして口元からわずかに笑みを溢すたび、「だから、一回ちゃんと笑えって。一回でいいから」と必死にせがんだ。全く、とんだおねだりワンちゃんだ、とマグダは少々辟易した。
「失礼しました」とマグダは出来るだけ平静を装ってから話題を変えた。彼と彼女の安全のためだ。「あなたに分かる、『今起こっていること』とは?」
「ああ、お前の上司な。奴が最終的に何を意図してるのか、それは俺にも知りようがねえ。が、なんにしても、奴がやる気のねえ木っ端役人のフリして、ちゃっかり貴族の、あるいは官僚の世界でのし上がろうとしてやがるのは、既にあんたの知るところだろうし、俺も今までのやり取りで十分分かった。
奴はそういう世界で発言力を強めるための材料を探している。
俺は貴族の世界に詳しいわけじゃねえから、それが具体的にどういったものなのか説明するのは難しいが、恐らく、ルカとの接触が、奴に二つの大きな意義をもたらそうとしている」
「一つは、魔術部隊とのパイプ」マグダは言った。
「そう。そしてもう一つがバーバ・ヤーガだ。機嫌を損ねりゃ辺り一面綺麗に更地にしてくれる、制御不能の大量破壊兵器。掛け値無しのワイルドカードだ。その発動装置であるルカを、お前の上司が握っている。そうチラつかせることで、皆おいそれとは手出しが出来なくなる」
「そう上手くいくものでしょうか」
「さあな。扱いはかなり難しいだろう。まずあの魔女の存在を認知させ、その上であいつが正当に、あるいはやむを得ぬ事情で、それをある程度コントロールしているように見せかける必要がある。それにああいうもんは、脅威の程度が正確に把握されちまうと効果は半減する。何かよく分からない、得体が知れない、しかし、とにかくとんでもなくヤバいもんだと思わせることに意義があるんだ。あんたの上司は、そういうことが得意そうに見えるがな」
マグダは頷いた。「確かに、彼はそうしたことが得意です。いえむしろ、ほとんどそれだけが取り柄と言ってもいいくらい」と言ってから、マグダは、いや、あながちそれだけの男というわけでもない、と思い直した。彼は意外に勤勉だ。それに根気強い。徴税官時代の実績も、彼のそうした勤勉さ、根気強さに支えられてなし得たものだ。口には出さずとも、「貴族の役人なんぞに何が分かる」という態度の農夫や職人のもとに足繁く通い、打ち解け、信頼を得るのは一通りの苦労ではなかったはずだ。
彼のそういう姿を思い出すたび、胸に去来するこの想いは何だろう? と、彼女は考えた。しかし、ついぞ答えは出なかった。
バルトロメオと別れドワーフの町に出ると、マグダはドメニコの姿を追った。あの男は、放って置くとどんな厄介ごとを抱えて戻って来るか知れたものではない。
途中、集会所を案内してくれたヘルマン・プライに会い、ドメニコの行き先を尋ねると、マルコたちと共に、ディートリヒ・フィッシャー=ディスカウなるドワーフの工房に向かったと聞き、プライに道を教わってその工房へと足を運んだ。
彼女は自分たちがドワーフの町にトラブルを持ち込んだことを詫びたが、古い魔女はドワーフたちにとってもほとんど天災のように扱われていて、それをルカやマルコが鎮めたことで、結果的にドワーフの町を守ることになったと、彼らはむしろ感謝しているそうだった。
「ああ、マグダ。よく来てくれた。ディスカウさんだ」工房に入ると、ドメニコはまるで十年来の親しい友人のように、ディスカウを紹介した。しかしディスカウと呼ばれたドワーフは、太く短い腕を組んだまま、厳しい顔つきでドメニコを正面に見据えたまま彫像のように動かず、とても二人が親しいようには見えなかった。マルコについて来た岩もぐらの子どもたちが、その髭を摘んだり、指を掴んだりしたが、眉一つ動かすことはなかった。
工房の中は照明装置で灯りをとっていたが、粉塵を含んで煙った空気のためか、照明の強さに比べても薄暗く感じられた。炉に火は入っていなかったが室内は蒸し暑く、金床や金槌、用途の判然としない様々な工具が所狭しと並んでいた。
「はじめまして。マグダ・オリヴェロと申します。メルクリウス領行政官、ドメニコ・アルベルティの補佐官です」とマグダは挨拶をした。
「ディートリヒ・フィッシャー=ディスカウだ。若い女子が、岩もぐらの渓谷から、洞窟を通ってこの町まで来るとは、さぞ大変だったろう」とディスカウは厳しい表情のまま言った。
マグダは、その苦労を労われたことにいたく感激し、手を差し出して握手を求めた。が、ディスカウは、その手を取らなかった。「すみません、失礼でしたでしょうか」とマグダは尋ねた。
「いや、あんたら人間の尺度からすれば、ほとんどのドワーフは不調法だ。そういうことではない。一日中、土や石や炭をいじっておるから、儂の手は汚れておるのだ」
「それは、立派な職人の手だと、私は思います。私のような若輩者がこんなことを申し上げるのも憚られますが」
「心の綺麗な娘じゃ」とディスカウは言ったが、そう言う間も彼の表情は凝り固まったように動かなかった。ただ、長く濃い髭に覆われた口元だけが、もぞもぞと開いたり閉じたりするだけだった。そして、その短くて太い腕を差し出し「汚れても知らんぞ」と言った。
マグダはその手を握った。そのごわごわした肉厚な手からは、確かな彼の体温が伝わった。「やっぱり、職人の手です」とマグダは言った。
「すまんな。女子の喜ぶような物は作ってやれん」とディスカウは言った。
「何を話してらしたのですか?」とマグダが尋ねると、ドメニコはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに食いついた。
「彼らの製品を中央に卸すルートが出来ないかと考えていたんだが、ご老人があまり乗り気じゃなくてね」
「中央に卸すとなると、均一な品質の物を大量に作らねばならん。今と同じ品質で、それをやるのは不可能だ」とディスカウは言った。
この町では、主に剣や槍、鎧兜といった武具、それから鞍や鐙、蹄鉄などといった馬具を生産しているらしかった。
ドメニコが目を付けたということは、多少品質が落ちたとしても、今巷で出回っているものよりは上等な物が作れると見込んでのことだろうが、握手を交わした職人の手は、そうした妥協を許さぬだろうと知れた。
「あんたら人間は、欲しがり過ぎる。そこに在るもの全てを取り尽くして、無いものまで求めるだろう。儂は、今抱えてしまった在庫だけを処分出来れば構わんのだ。あとは、本当に欲しい者だけに、必要な分だけを作り、生活出来るだけの見返りを貰えれば良い。それがドワーフの生き方だ」とディスカウは言った。
なるほど。とマグダは頷いた。ドメニコとは一生話が合わないはずだ。
「在庫が出てしまったのには、何か原因があるのでしょうか」とマグダは尋ねた。
「お客さんだったエルフの森でトラブルがあったそうです。詳しい内容は分からないそうですが」とマルコが答えた。一度ドメニコたちにした説明を、ディスカウに再びさせるのは忍びないと気を使ったのだろう。
「付き合いのあるエルフから、鎧兜や盾がいると注文が入った。戦でもするつもりなのかと心配したんだが、どうもそういう様子ではない。欲しいのは防具で、武器はいらんというのだ。それに、そもそもエルフは樹上で身軽さを活かして戦う。重い鎧や兜は好まん。しかしとにかく困っておるようだったので、大慌てで頼まれた分の物は作ったんだが、取りに来る気配が一向にない。聞けば、ワシ以外にもエルフから同じような注文を受けて在庫を余しておるドワーフが何人もおったのだ」とディスカウは詳しく付け加えた。それはマグダが彼に気に入ってもらえたからだろうか、とマグダは嬉しく思った。
「在庫は仕方がないにしても、エルフの連中の安否が気がかりだ。とはいえ、ドワーフが出向くと変に奴らを刺激しかねん。エルフとドワーフは伝統的に仲が悪いからな。外見はさておき、付き合ってみれば、一人一人中身はそう変わらんということを分かっておらんのだ。お互いにな」
さて、どうしたものかと一同頭をひねっているところに、工房のドアが開いた。ディスカウの表情に一瞬、平素より一層険しい緊張の色が指したのを見て、マグダが後ろの入り口を振り返ると、そこにいたのは、背を丸めた大きな黒ずくめの魔女だった。バーバ・ヤーガだ。前を合わせたマントの間から、ルカが顔をのぞかせていた。その様子は、縮尺を調整すれば、毛布を被った幼い少女がぬいぐるみを抱えているのに似ていた。
「悪たれ小僧。今度は何をしでかしおった」とディスカウは言った。マグダは、その声の中に、親しみと慈しみの響きを聴いた。
「岩もぐらの巣をさ、潰したんだ」とルカは言った。「ゴブリンの群れをおびき寄せて、あそこを潰した。そこにいるドメニコや、盗賊のバルトロメオたちを巻き込んで。子どもたちを学校に通わせるためだ。後悔はしてない。でも、あそこの大人たちには可愛そうなことをした」
ディスカウは、「そうか。こっちにおいで」とだけ言った。そして、近くまで来たルカの頭に手を置いた。
「オレは、後悔してない」とルカは自分に言い聞かせるようにもう一度言った。
「分かっとるさ、ルカ」ディスカウはルカの頭を撫でた。
ルカは鼻をすすった。
「何を話しておったのだ?」とバーバ・ヤーガが尋ねた。一同に緊張が走ったのを感じたのか、彼女は「そう構えずともよい」と言った。「可愛いルカが、他の者にも優しくせよと言うのでな。妾のルカが一宿一飯の恩を与るならば、未来の妻は、それに報いねばならん」
マグダは、ドワーフの抱える問題を、バーバ・ヤーガに話して良いのかどうかということよりも、バーバ・ヤーガが将来の婚姻をまるで既定路線のように言うことについて、ルカはどう考えているのかということの方が気になった。
しばし考えた末、ドメニコがことの次第を説明した。
「エルフの森か」とバーバ・ヤーガは顔をしかめた。
「エルフとは仲が悪いのか?」とルカは聞いた。
「ああ、ルカ。仲が悪いどころか、妾を封印したのはエルフの王夫妻なのよ。あの夫婦ったらひどいの」とバーバ・ヤーガは甘えるように言った。
マグダは、自分も恋をするとこうなってしまうのだろうかと恐ろしく思った。
「バーバ・ヤーガでも敵わないのかあ」とルカは腕を組んで低く唸った。
「腕組みするルカも素敵。すごく可愛いわ。でも、違うの。二人がかりでも、普通なら瞬きする間もなく縊り殺……、説得して帰ってもらうことが出来るのに、あの夫婦ったら、妾を罠にはめたのよ」
「危ないところだった」とドメニコが漏らした。
「そうですね。『す』まで言っていたらアウトでした」とマグダは相槌を打った。
「オベロンとテイタニアの王夫妻か」とディスカウは長い髭を扱きながら言った。「夫妻の間に何かあったのかもしれん。あれらもまた、強力な魔法使いだ」
「例えば、夫婦喧嘩とか」とドメニコが言った。
ディスカウは驚いたように口を開けた。「いや、馬鹿馬鹿しいが、そう考えれば案外辻褄が合ってしまうかもしれん。強力な魔法使い同士の争いから身を守るためには防具が必要だ。しかし武器を持って王夫妻を傷つけるわけにはいかん」
「エルフの森なら、ここからそう遠くはありませんね」とマグダは頭の中に地図を思い浮かべた。
「どの辺りなんだ」とドメニコが言うので、マグダはその地理関係を説明した。少しばかり回り道になるが、全体の行程に大きく影響するほどではない。何より、マグダはこの親切で物静かなドワーフのことが気に入って、力になれるものならばそうしたいと思った。
ルカはその説明を聞くと、「今回の道のりを決める権利はオレにある。エルフの森に寄って行こう。ドワーフのみんなには世話になるし、エルフの森でも何かいいことがあるかもしれない」と言った。
「問題は、エルフに届ける鎧兜を運搬するだけの能力が我々には無いということだ」とドメニコは言った。
「いや、この際荷物は仕方がない。儂の在庫だけ届けてもらっては、他のドワーフが納得せんだろう。かといって、エルフから注文された分を全部届けるとなれば、それは倉を一軒引っ張らねばならん量だ」
バーバ・ヤーガはそれを聞くと、フフンと自慢気に笑って見せた。「ドワーフよ、倉に車輪を付けることは出来るのか」
「いや、やろうと思えば出来んこともないが……」とディスカウは戸惑いながら答えた。「誰が曳くんじゃ」
「妾がなんとかしてやろう。明日の日暮れまでに用意せよ」とバーバ・ヤーガは言った。そしてルカの手を引いた。「それでは、妾はこれで失礼しよう。ルカとデートの続きをせねば」
「いや、明日というのはいくらなんでも……」とディスカウが呟くと、ドメニコは「無理ですか?」と慇懃に挑発した。
ドワーフの老人は、一度顔をしかめたが、「やってやるさ」とこの日初めて笑った。




