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「ルカ、痛いところはない? して欲しいことは? お腹は空かない? 何か欲しいものは?」とバーバ・ヤーガは矢継ぎ早にまくし立てていた。その態度は、さっきまでこの町を住民もろとも押し潰そうとしていた、恐ろしい魔女のものとは思われなかった。歳下の恋人の世話を焼く、当たり前の町娘と変わりがない。ただ長い前髪に顔を隠し、極端に姿勢が悪く、高い背丈に黒ずくめのローブを羽織っているということを除けば。
集会所の広い会議室の中では、さっきまで宙に浮いていた机や椅子や、布団や毛布といったものが散乱していたが、もうそれが不思議な力で動き出すような気遣いはなかった。代わりに、怪我をしたバルトロメオを囲んで、ドワーフや手下たちが、やいのやいのと騒ぎ立てている。
「オレは大丈夫。他の人たちにも優しくしてあげて欲しい」とルカは答えた。
ぜひそうしてもらいたいものだ、とバルトロメオも思った。
バーバ・ヤーガの口調は分かりずらい、他の人と話す時も、普通にして欲しいとルカが改めて訴えると、彼女は人差し指を小さく二度回し、それを自らのこめかみにあてた。それは、言葉というものを組み立て直す魔法なのだと彼女は説明した。ルカと喋る時には歯の浮くような女言葉を溢れるほど垂れ流すくせに、他の連中とは普通に話すにも魔法を使わなければならないという彼女の頭の中の仕組みについて、バルトロメオは、不満と疑問の入り混じった複雑な心境になった。
「おい、その女、まさか付いてくるんじゃねえだろうな」とバルトロメオは刺された太ももを、裂いた毛布の切れ端で縛りながらルカに言った。その傷は、消毒のためにドワーフたちが走り回ってかき集めた酒を容赦なく浴びせ続けられ、ドワーフの秘薬だという得体の知れない軟膏を塗りつけられて、刺された時よりよほど痛んだ。
ドワーフたちはバルトロメオの勇猛な戦いぶりにいたく感心したらしく、やれ傷に効く薬を塗ってやるだの、新しい剣を打ってやるだのと、寄ってたかって甲斐甲斐しく世話を焼いた。
「残念だが、付いて行ってやることは出来ない。妾は深い森に縛られている。忌々しい封印だ」とバーバ・ヤーガは言った。
「封印されてるのか? それで?」とルカは驚いて声をあげた。そのことは、ルカもマルコも聞かされてはいないようだった。
「そうなの。妾、封印されているから、こうして名を呼んでもらえないと、ルカの側には居られないの。きっと、今日の日暮れまでには、森にまた縛られてしまうわ。ルカ。妾、すごく寂しい」
ルカやマルコは慣れているようだったが、バルトロメオはこの、ルカに対してだけ唐突に人格が切り替わったようにしなを作るバーバ・ヤーガの態度には、どうしても慣れることが出来なかった。
「その封印は、機能しているのか?」とドメニコは尋ねた。
「そうでなければ、妾が可愛いルカの側を離れるわけがあるまい」バーバ・ヤーガはドメニコを嘲るように鼻で笑った。
ルカとマルコが初めてバーバ・ヤーガに出会ったのは、ちょうど彼女が持てる力の大部分を費やして、その封印の一部を解いた直後だったのだという。これによって、彼女は一時的に封印の森を離れたり、力の一部を行使することが可能になったが、それは本来より消耗が激しく、かつ制約も多いのだそうだった。「しかし、ルカのことはいつでも見ている。そして、ルカが妾の名を呼べばいつでも参じることが出来る。実を言うと、名を呼ばれなくともごく短い時間側へ行くことは出来るが、そうして移動出来るのは身体だけだ。力を持って行くことがほとんど出来ない。出来るのは、ルカの寝息をこっそり聴いたり、着物の匂いを嗅いだり、床に落ちた髪の毛を拾って帰ることぐらいだ」
「おい、ルカ……、やべえぞこの女」バルトロメオは、ナイフで太ももを刺された時より強い脅威を感じた。
「いいだろ別に。減るもんじゃあるまいし」ルカは平然と答えた。
バルトロメオは呆れて、「時折見せるその器のデカさは何なんだよ。海かお前は」と言ったが、ルカは本当に、不快にも恐怖にも感じていないらしかった。
「そう。ルカの心は海のように広く、空のように高く、大地のように強いのだ。勇ましき者、バルトロメオ・デッラ・ロッカ、お前はなかなか見所のある男だ」とバーバ・ヤーガは言った。
バルトロメオは自嘲気味に「そりゃどうも」と笑った。
「妾の力が封印されておるとはいえ、あそこまで渡り合える男はそういない」
「あんたが俺一人を殺そうとしてたなら、俺は今頃ひき肉になってこの床に散らばってただろうさ。もっとも、あんたがそのつもりだったら、俺は一目散に逃げ出したがな。俺一人殺すことなどいつでも出来るとあんたがタカをくくって、手を抜くことが分かってたから俺は戦ったんだ」
「そう卑下したものではない。妾は戦に通じてはおらんが、あれほどの手並みはなかなかおらんだろう」
「どうした急に。さっきまで、曲がりなりにも殺し合おうとした仲だぜ」
「脚の具合はどうだ? ドワーフたちの薬で、傷は遠からず塞がるだろうが、神経が切れてまともに動かんのではないか?」バーバ・ヤーガはバルトロメオを見下ろして言った。
「そうなのか? バルトロメオ」とルカがバルトロメオの顔を覗き込んだ。事実、刺された脚は、膝から先の感覚が無かった。
バルトロメオは「ふん」と鼻で笑った。「脚の先が動かんでも、根元が動けば添え木でもして戦うさ。それ以外に生き方を知らねえ」
「お前が良くとも、それではルカたちの役には立つまい。そこでだ。お前がその手下どもと、今後ルカたちの護りとなるよう誓うならば、妾はお前の脚を元通りに治してやろうではないか。ただし、妾はいつでもルカたちを見ておる。お前がルカを害するならば、妾はこの身に代えて忌わしき封印を打ち破り、魂に代えて必ずお前を塵芥にしてやるがな」
「脚がどうのは関係ねえだろ。俺が裏切れば、あんたはどの道俺を殺しにくるさ」バルトロメオは寝そべったまま、紙巻煙草をくわえてその先に火をつけた。バーバ・ヤーガは答えなかった。それは肯定の意味を含んだ沈黙だった。「怖い怖い」とバルトロメオは煙を吐きながら冗談めかして笑った。「俺たちも、あんたを敵に回してまでガキどもと事を構える理由はねえ。ただし、俺たちにも目的がある。あんたもルカを見てたなら知ってるだろう? いつまでもガキどもに引っ付いて守ってやるわけにはいかねえ。それに、至れり尽くせりじゃ、ガキは育たねえもんだぜ。あんたもマルコに説教されたばかりだろ」
バーバ・ヤーガはしばし俯いてから、「よかろう」と言った。「ただし、お前の脚を癒すのは、日が沈みかける頃だ。妾はそれまでルカを愛でねばならん」
バルトロメオはため息をついて、「どうぞ、ごゆっくり」と言った。
バーバ・ヤーガはルカを抱いて、ドワーフの町へと出て行った。その後姿を見送っていると、不意に女に呼びかけられた。行政官ドメニコ・アルベルティの付き人、マグダとかいう女だ。
「助かりました」と女は言った。
「あの魔女が現れたのは、俺に責任があった。助かったのは、何から何までたまたまだ。運が良かったとしか言いようがねえ」とバルトロメオは答えた。
「私には、あの時何が起きているのかほとんど分かりませんでした。貴方が動き出したことで、他の全てが動き出した。貴方は、こうなることを見越してらしたんでしょう」
「いや、『そうなればいいな』という程度さ」
これもまた、油断のならない女だとバルトロメオは思った。若い女特有の身勝手さと我の強さを前面に出して来るかと思えば、ここ一番で妙な冴えを見せたりする。その頭には王宮図書館一棟分の情報が詰まっていると、ドメニコが我が物顔で語っていたが、それもあながち誇張ではないのかもしれない。
「私の上司が何をしようとしているのか、貴方は知っているのでしょうか」とマグダは尋ねた。
「お前の上司について、お前が知ってる以上のことを、俺が知ってると思うのか?」
当のドメニコは、ドワーフの町を見物にでも行ったのか、部屋の中には見当たらなかった。
「この際ですから、隠し立てせずに申しますと、私は、立身出世というものにほとんど関心がありません。そうした面では、むしろ貴方の方が、彼と通じ合う部分があるのではと考えているのです。私はそもそも、一人生きていくのに十分なお給金さえ頂ければそれで満足という人間です。ここに来て、急に話がややこしくなって混乱しています」
「それは気の毒だな」とバルトロメオは本心からそう言った。「あいつが何を企んでいるのかなど、俺には知りようもねえ。知りたいとも思わねえしな。ただ、今何が起こっているのかということは、少しだけ分かる」
「代わりに欲しい情報はありますか?」とマグダは言った。
「話が早くて助かる。あの役人の財政状況だ。奴は自ら木っ端役人みたいに振る舞うが、実際『遊撃隊』なる私兵を囲うだけの金はあるのか?」
「これは他言無用に願いたいのですが」とマグダは釘を刺した。
「口は堅い方だ。そうでなかったとしても、盗賊の口から出た貴族の醜聞など、誰もまともに耳を貸さんだろう」
「彼は徴税官時代に相当な裏金を貯め込んでいると思います」
「ホァっ?」唐突に飛び出したスキャンダルに、バルトロメオの口から言葉にならない叫びが上がったが、その声が、一体自分の身体のどこから出たものか、彼自身にも分からなかった。「ド悪党じゃねえか!」
「返す言葉もありません。法的にも道義的にも、掛け値無しの犯罪です」
「おいおい、あんたは大丈夫なのか? 俺たちは金さえ出りゃ、出どころはどうでもいい。しかしあんたは違うだろ」その話が本当ならば、マグダの立場はかなり危うい。落ち目の上司の下についたなどという生やさしい話ではない。下手をすれば、共謀者として共に首を括ることにだってなり得る。
「彼が現在、徴兵官などという似合いもしない職務を与えられているのは、平たく言えば、官僚社会の上層部から不興を買った結果の左遷です。しかし、このことは裏を返せば、どんなに彼が気に入らなくとも、上層部は彼の尻尾を掴むことが出来なかったということであり、また、官僚機構から締め出すには、彼の貢献は大き過ぎたということです」
バルトロメオはしばらく考えた。彼は自ら悪党であることを自称して憚らぬ男である。取引相手に身の潔白を要求しようなどという気はさらさらない。しかし、正体が分からないというのは与信管理上好ましくなかった。
「奴は、その筋じゃあかなり出来る男だということか?」
「徴税官として言うならば、彼以上の人物は、少なくともこの領内ではどこを探してもいないでしょう」
「そしてあんたは、奴の不正についても納得出来る。法的に、あるいは道義的には明らかな不正だと知りながら、心では理解出来る」
「彼の身体は役人ですが、心や頭は優れた商人です。彼は徴税地の産業を見ると、そのほとんどで収益を増加させるための方策を提案することが出来ました。ですから、税率を据え置いても歳入が増加することで領地の税収を増やすことが出来たのです。そしてその増収のうちの何割かは、彼の懐に入る仕組みになっていました。これは業務上の着服ですが、言わば『客体のない犯罪』です」
「なるほどな」バルトロメオは、ドワーフが用意してくれた焼き物の灰皿に、煙草の先を押し付けた。「しかし、事実左遷されてるわけだろ? それにだって、建前が必要だろう。気に入らねえってだけで、それだけ有用な徴税官を飛ばせるもんなのか?」
「それについては……」と口を開くと、マグダは堪え切れないと言う様子で短く笑った。バルトロメオは彼女の笑顔というのが全く想像出来ないと考えていたから、この文脈の中で唐突に差し込まれた笑いに戸惑った。「それは……ふふっ……、彼が地方の徴税から帰任した時、自宅で……、ふふっ……、奥様が……ハァ……、他の男性と通じていたのを目撃してしまったのです。それで……、ふふふっ……、その、思いっきり殴ってしまったらしいんですね。二発。相手は宮仕えの高官だったのに。ふふふふ……。慌てふためく奥様の前で出し抜けに一発、それから、身分をかさに開き直って、居丈高なセリフを吐く顎にもう一発……」
「笑ってやるなよ。趣味悪いぞ」とバルトロメオは言った。
マグダの笑いは、真面目で冷静な行政補佐官としての自我を守ろうとするためか、無理に我慢をするせいで変に歪んでいて、こう言ってはなんだが、少々気色が悪かった。




