2-6
手下が放り投げた布団の山にバーバ・ヤーガが気を取られた一瞬の間隙を突いて、バルトロメオは懐に忍ばせたナイフを投げた。
回転するナイフの刃先がバーバ・ヤーガの頬に届こうかというその刹那に、それは中空でぴたりと停止した。
「死に急ぐか。盗賊」とバーバ・ヤーガは呟いた。
「バルトロメオ! やめろ!」とルカが叫んだが、すぐにバルトロメオの姿を見失い、辺りを見回した。
バルトロメオの手下が放った布団や毛布は、ばらばらと広がりながら弧を描いてバーバ・ヤーガに向かったが、その途上で不自然に停止すると、そのまま床に落ち、あるいは宙を浮く机や椅子に引っ掛かった。一枚の毛布が地に落ちようとする瞬間、一閃の刺突がバーバ・ヤーガの喉元目がけて飛び出した。バルトロメオが宙を舞う毛布の裏に身を隠して抜刀し、それを貫いて魔女の首を狙ったのだ。
しかしその剣戟も、彼女を取り巻く目に見えぬ障害に阻まれて、その首には拳一つ分届かなかった。
バルトロメオはその剣が中空に固定され、突くも引くもままならぬと見ると、やにわに柄を握り直し、床を強く蹴って飛び上がった。蹴り上げた脚先には、彼女の頬の横、落ちるとも刺さるともなく空間に停止した、彼のナイフが浮いている。バルトロメオはその柄を強か蹴りつけた。ナイフの刃はその地点から拳一つ分の空間を彼女の頬目がけて前進した。刃先はバーバ・ヤーガの頬に触れた。しかし、その刃は彼女の皮膚を裂くには至らなかった。
「うおっ! 惜しい!」
ドメニコは、あれほど濃密な体つきをした男が、こうも素早く、そして音もなく行動出来ることに驚いたが、その体技をゆるりと鑑賞しているわけにもいかなかった。
バルトロメオ・デッラ・ロッカという男は、一見短慮に見えるし、彼自身あえてそう振る舞うところもあるが、馬鹿ではない。バーバ・ヤーガの魔法には発動条件があると仮定し、その上に、「ナイフは剣とはみなされない」、「剣にかかる発動条件は、バーバ・ヤーガが抜刀を『知覚』した時である」といった仮定をさらに重ね、ちぐはぐに積まれた積み木のような不安定な足場に迷いもなく飛び乗る思い切りの良さがある。そして今、彼はバーバ・ヤーガの頬にナイフの刃先を触れさせるという結果をもたらした。
私は何をするべきだ? とドメニコは思案した。バルトロメオは「見極めろ」と言った。彼の戦いを観察し、バーバ・ヤーガの弱点を看破して、自分の護衛と盗賊たちをして彼女を殺せしめる。果たしてそれが私のするべきことか?
「違うな」とドメニコは呟いた。
「マグダ、君が頼りだ」とドメニコは言った。
「頼り? 私が?」マグダは首を傾げた。この期に及んで、自分には出る幕などないと考えているようだった。
「ひどい状況だ。実にひどい。しかし、君の形のいい頭の中に、きっとこのひどい状況を克服するヒントがあるはずだ」
マグダは自分の頭の形を確認するように、額に手をあてた。「時間がどのくらい残されているか分かりません。思いつくことを手当たり次第に言います。付いて来て下さい」
「ああ、頼む」ドメニコが返事をすると、彼女は眼をつむり、物凄い速さで語り出した。
「今から六年前の記事です。
━━『孤児院倒壊、原因不明、三十名生埋めか』メルクリウス領、グラヴィネ森林林縁で、二十七日深夜、孤児院『緑の家』が倒壊した。事故現場は孤児院を中心に直径約三キロメートルに渡り地盤が陥没しており、当初、地下空洞による地盤の沈下が原因と考えられたが、地質が非常に硬質であったため、調査隊は別の原因によるものと推測、原因の特定には至っていない。生存者は確認されておらず、倒壊した建物の下敷きになっているものと見られている。━━
この記事に添付された名簿資料の中に、ルカ、マルコという名前があります」
「それは、僕とルカがいた孤児院です」横で聞いていたマルコが言った。「僕はそれを見ました」
「なるほど、彼女の力は本物だと、これで裏付けられてしまったわけだ」とドメニコは苦笑した。
バーバ・ヤーガはこの町を丸々押し潰す力を持っている。しかし、逆に言うと、そうした力があるのなら、戦いにおいて前線に出る必要はない。彼女が白兵戦においてはバルトロメオにやや遅れをとっているように見えるのはそのためだろう。力はあるが、戦いに慣れているわけではない。
「次はバーバ・ヤーガについてです。
━━バーバ・ヤーガとは、北方民族の民話に伝わる妖婆である。元は北方神話における『冬』の神話的表現であったと考えられる。北方の厳しい冬の神話的表現として、恐ろしい魔女の姿で描かれた。
民話では、深い森に住む骨と皮だけに痩せこけた老婆の姿で描かれ、多くの場合、民草を害する存在として描かれるが、主人公に助言を与え、災害から助け、あるいは不思議なプレゼントを贈る内容の民話も存在する。後者のケースでは、主人公が礼儀正しさ、節度の遵守、魂の清らかさを示すことにより、善玉として振る舞う。━━」
「書物で読むのと実際に見るのとでは、やはり違うものだな」少なくとも、今のバーバ・ヤーガは老婆ではないし、痩身ではあるが痩せこけているという程ではない。
「ボクとルカが初めて彼女に会った時、彼女は小さな肉の塊でした。ルカが拾い上げて食事を与えると、それは今見ているような姿に、何というのでしょうか、変身、そう変身して、孤児院を潰すとまた老婆の姿になって煙のように消えました」マルコは早口にそう言った。
「彼女がやったと思われる災害は他にもあるのか?」とドメニコは尋ねた。
「過去の戦役の時期に、同様の倒壊事故が数件あります。戦役では魔術部隊が派兵されていましたから、その関連で情報が秘匿されているものと思っていましたが、明らかに戦線とは無関係な倒壊事故が数件あり、そのいずれもが同様の被害を受けています」マグダは眼をつむったまま答えた。こうしている限りは、彼女は優秀で美人だ。
「君がバーバ・ヤーガの名に思い当たったのは」
「そうした事故の生存者の中に、その名を証言した者が複数名いたと、記録に残っていたからです」
バーバ・ヤーガの魔法は強力だが、無制限でも無尽蔵でもない。一度大きな力を使えば、その身体は老婆の姿になる。恐らく、それは消費され、衰えるという事実の表出だ。初めてルカたちに会った時、バーバ・ヤーガはかなりひどく衰えていた。それがルカに与えられた一度の食事で姿を取り戻し、一軒の孤児院を潰すと、また老婆の姿になるまで衰えた。
彼女は今、どのくらい力を残し、あるいは蓄えている? そしてこの町を潰すのに、彼女が費やす力はどれほどのものか?
「ここは地下だ。潰すと同時に、崩落する地盤から、お気に入りのルカと、ルカが大切にする子どもたちを守らねばならない。彼女はそれによって、大きく消耗するだろう。少なくとも、老婆の姿になるまで衰える。しかし、それ自体は可能だとも考えている。今すぐに実行しない理由は何だ?」
「彼女は、恋をしています」とマグダは答えた。
なるほど。
「君は優秀だ。賢く、タフで、その上美人だ」とドメニコはマグダを褒めちぎった。マグダは眼を開いた。表情はいつも通りの鉄面皮だったが、頬が赤くなった。
「マルコ、話は分かったか?」とドメニコは問いかけた。
「はい。これはきっと、僕たちにしか出来ないことです。僕と、ルカにしか」
「そうだ。この窮地を抜ける唯一の道は、君の勇気の先にある」
ドワーフのヘルマン・プライは集会所の壁に掛けてあった見慣れぬ装置に向かって大声で叫んだ。
「魔女が出たぞ! 集会所に魔女だ! ドワーフは武器を持って集会所へ! 客人を守れ!」
もう状況は待ってくれない。
「待て! やめろ! バーバ・ヤーガはオレを傷つけたくないだけなんだ!」とルカは声を張り上げた。
「悪いが俺たちも、それが理由で死ぬわけにはいかねえ」とバルトロメオは魔女の喉元に止まった剣の柄を握り、力を込めた。
「待って下さい!」マルコが踊り出て、バルトロメオの握る剣の刃を握りしめた。バーバ・ヤーガがその剣を睨むと、それは枯れ木の枝に姿を変えた。バルトロメオはその枝を真ん中から叩き折り、彼女の脇腹に突き立てようと身を翻したが、バーバ・ヤーガが頬に触れたナイフに息を吹きかけると、それはマルコの頬をかすめ、バルトロメオが折れ枝を振り抜くより速く彼の太ももに突き刺さった。
バルトロメオは低い唸りをあげたが、太ももに刺さったナイフをすぐに引き抜き、それを振り上げた。マルコはバルトロメオに飛びつき、その動きを制した。
「勇ましき者よ、しばし待っておれ。子らが話そうとしておる」とバーバ・ヤーガは言った。
「クソ! 刺す前に言え!」とバルトロメオは大声で抗議した。
集会所の入り口には、斧や槌を握ったドワーフが殺到していた。彼らは今にも魔女に飛びかからんばかりに殺気立っていたが、ドメニコが声を上げるより早く、マルコが彼らの前に立ちはだかった。
「彼女は、貴方達ドワーフを傷つけようとしているのではありません。少しだけ、彼女と話す時間をください」とマルコは言った。嘘ではない。ドワーフたちの安否は、バーバ・ヤーガにとって関心の外だというだけだ。
マルコはバーバ・ヤーガを正面から見つめて、ゆっくりと語りかけた。「バーバ・ヤーガ、僕たちに必要なのは、話し合うことだった。なのに、僕はあなたが怖くて逃げ回っていただけでした。あなたがルカを奪い去って、どこか遠くへ連れて行ってしまうことや、その大きな力でたくさんの人たちを傷つけることが、怖くて仕方がなかった」
バーバ・ヤーガは、彼を招くように人差し指を曲げた。すると、一陣の柔らかな風が吹いて、マルコはその風に乗りバーバ・ヤーガの手の届くところまで運ばれた。バーバ・ヤーガはマルコの頭にそっと掌を置いた。
「賢しき子、マルコ。妾は大魔法使いぞ。其方が妾を怖れ、慄いておったことなど、いかで妾が知りざらんや。
されど、妾は其方を恨みはせぬ。妾が如き剛力を前に、幼き其方が慄くは当然のことなれば。
妾がルカと居られるも、其方が、妾のルカに、その智慧を貸し、側におって支えたればこそじゃ。其方がおらねばルカはおらず、ルカがおらねば其方はおられぬ、其方らはそのように出来ておった」
「そうです。ルカがいたから、僕は今まで生きて来られた。僕の兄弟たちもです。僕の足りない部分を、ルカが支えてくれたから。だから僕は、あなたがいつか、ルカを連れ去ってしまうことにずっと怯えていました。
でも、あなたはルカを連れ去りはしなかった。あなたはいつでも、そうすることが出来たのに。それがどうしてか、ずっと考えていました。
そして今日、やっと分かりました。きっと、僕たちから無理やり引き離して連れ去ったルカは、あなたの好きなルカとは違うものになってしまうからだ」
バーバ・ヤーガは笑った。それは、慈しみと嘲りが一つの地点に重なり合って存在するような、不思議な笑い方だった。
「賢しきかな、賢しきかな。マルコや。されば妾のせんとす事も、分かるであろ。其方と、小さき者ばらと、ルカに伴いて妾の側へ侍るがよい。そして、其方らを謀り、仇なさんとす奴ばらを、暗き土の下へと葬らん。しかれば妾は、其方らにとこしへの安楽を授くべし」
ドメニコは、マルコの指先が恐怖に慄くのを見た。しかし、マルコはすぐにその手を握り、決然と、真っ直ぐに魔女の瞳を見た。護衛も盗賊もドワーフたちも、その貴く美しい少年の勇気を見守った。
「あなたは間違っています。かつて僕が間違っていたように」と彼は言った。バーバ・ヤーガのこめかみに引きつれが起きた。なんと強く、美しく響く声だろうかとドメニコは思った。「僕たちは、傷付けられて、打ちのめされて、踏みつけられて、苛められて、打ち捨てられて、夜通し泣いて、うずくまって、這いつくばって、そうやって生きて来ました。そのことが、今の僕たちを作っている。それが良かったなんて思わない。けれど、僕たちは強くなりました。
バーバ・ヤーガ、僕たちは強いんだ。腕力でも財力でも権力でも、また、あなたの持つような魔法の力でもない、けれども強い力を僕たちは持っている。僕はそのことに、もっと早く気がつくべきでした。
あなたは僕ら兄弟たちさえ近くにいれば、ルカは今のルカのまま、あなたの側にいられるはずだと考えています。けれどもそれは違う。僕たちを助け、慰め、励ましてくれる人たちだけじゃない。僕たちを騙し、利用し、時には傷つけようとする人たち、そんな人たちとの関わりが皆、僕らの心を動かしている。
傷つくことは怖いけれど、僕たちはそうやって傷ついて、汚れながら、それでも生きていくことが出来るんだ。
あなたの作った誰もいない世界に閉じ込められた僕たちは、水草の無い水槽に囲われた魚みたいに、いつか窒息して死んでしまう。心臓に鼓動があったとしても、心が呼吸をしていなければ、それは死んでいるのと同じです。たとえ僕たちと一緒に囲い込んだとしても、そこに連れ去られたルカは、もうあなたの好きなルカじゃない。ルカの形をした別の何かだ。
あなたは、ずっと昔の言葉を使い続けてしまうくらい、長い長い時間を一人で過ごしてきたから、きっと忘れてしまったんだ。だけど、あなただって、ルカと出会って心のどこかが変わったはずです。人間だってドワーフだって、エルフだってみんな同じ、『知恵ある獣』の正体は、きっとそうやって変わり続ける心だ」
そこまで言い切ると、マルコは大きく息を吐いた。
バーバ・ヤーガは、しばらくの間、呆けたように立ち尽くしていたが、やがて、今にも泣き出しそうに目を伏せた。
「だって、これ以外に、やり方を知らない」そう言った彼女の声は、拗ねた幼い子どものようだった。
宙に浮いた机や椅子が、がらがらと音を立てて床の上に落ち、もうそこから動くことはなかった。
「ルカの役に立ちたい。忘れられたくない」と、彼女は小さく弱々しい声で言った。彼女の指先は、目に見えぬ誰かの温もりを探すように、力なく差し出された。
「どうやって忘れろってんだ。尋常じゃねえ存在感だよ」バルトロメオが仰向けに倒れこんで、愚痴を漏らすように呟いた。
ルカはゆっくりと手を差し出し、バーバ・ヤーガの手を握った。
「大丈夫だよ。オレは忘れたりしないから、寂しくなんてないんだ。もう、あんな風に、誰かを傷つけたりしなくていいんだよ」
ドメニコには、二人の繋がれた手に伝わり合う何かが、目に見えるように感じられた。しかし、いくら目を凝らしても、そこに確かに存在する何かを、言葉に表すことは出来なかった。




