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土塊のルカ  作者: 福太郎
ドワーフの生き方、魔法使いの恋
13/28

2-4

 その名前を口にした時、マグダには妙な感覚があった。まるで自分の喉から、別の人間の声が発せられたような。

 ルカや周りの子どもたちは明らかに狼狽えていた。「バーバ・ヤーガ」という名前を彼女が発したことは、彼らにとってかなり深刻な意味を持つらしかった。

「いいか! 何が起きても絶対に剣を抜くな。約束してくれ。絶対にだ!」とルカは大声で言った。「例えばオレが、突然この世から煙のように消え去ったとしてもだ」

 遠くから地鳴りのような音が響いて、室内を照らしていた光るガラス球が明滅した。建物の外にもこの変化は及んでいるらしい。町中がざわめいているのが聴こえる。

 小さな子どもたちが、一斉にルカに飛びついて「ルカ! ダメだ! どこにも行かないで!」と口々に叫ぶ。

「何が起こってる」ドメニコは辺りを見渡した。

「分かりません。これから何が起こるかは、バーバ・ヤーガの気分次第です」マルコはルカの前に立ちはだかるようにしながらそう言った。

「名前を隠す必要はなくなったのか?」バルトロメオが嘲るように吐き捨てた。

「もう手遅れです。マグダさんがその名を呼んだ時に『(しるし)』がありました」

「シルシ……?」マグダは訳も分からずマルコの言葉を繰り返した。声のことだろうか。

「お前ら、なぜルカに群がってる。そいつが目当てなのか?」バルトロメオが子どもたちに向かって言った。腰に提げた剣に伸びる手を、ルカの言いつけを思い出したのか途中で引っ込めた。

「バーバ・ヤーガはルカを気に入っています。連れ去ろうと思えばいつでもそうすることが出来る」

「それを退けたのか。方法を教えろ!」

「方法はありません。たまたまその時はそうなったというだけです」

 何か重大な変化が起こりつつあるという漠然とした、しかし逼迫した危機感に皆浮き足立っていたが、具体的に何をどうのように対処すればいいのかということについては誰も分からないらしかった。


(わらわ)を呼んだのは……、其方(そち)かえ?」と、唐突に女の声が聴こえた。

 マグダがはっと背後を振り返ると、部屋の隅の発光装置が示し合わせたように光を失った。そこには誰もいなかったが、その床に落ちた深い沼のような影の中から女の声が聴こえるように思えた。

「お呼びたてするつもりはなかったのですが、結果としては、そのようです」とマグダは、何者の姿も見えない部屋の隅の架空の空間に、恐る恐る返事をした。

「褒美をとらせねばならぬの……。女……欲しいものを言うがよい」やはり、女の声はその影の中から聴こえている。若い女のような艶があるが、しかし低く重く、暗い響きだ。そこにいる者全員が、固唾を飲んでその影を見守った。ルカだけが、「剣を抜くな……、抜くなよ……」と祈るように呟き続けた。

「あの、ここにいる誰もが傷つかずに済むなら、他には特に……」と言いかけて、「あ、強いて言うなら、以前城下で見かけた髪飾りが」といい直した。

「強いて言うな。このタイミングに」とバルトロメオが口を挟んだ。

 すると床に落ちたインクのような深い影に、水面のような波紋が走った。マグダは息を呑んだ。思えば、その部屋の隅だけが、これほど深い暗黒の影を落としていることも、自然なことではなかった。波紋の中心がゆっくりと小さく隆起した。その隆起が人間の頭だということに気づくのに、そう時間はかからなかった。それは徐々に高さを増して、人の姿を成した。顔を覆う乱れた長い髪の間から覗く瞳は、吸い込まれるように(くら)く、黒光りさえしない。背中を丸く屈めているが、それでも背丈は剛健な身体に頼みを置くバルトロメオよりさらに拳一つ高かった。

「こりゃあ……確かにヤバそうだ」バルトロメオが誰にともなく呟いた。

 どこまでが影で、どこまでが人の身体なのか、その境界が曖昧だったが、目を凝らせば、床をするような丈の長い一枚布の黒いドレスに、黒い長手袋をして、その上からさらに黒いローブを羽織った長身痩躯の女だということが分かった。

「ルカ……ルカ……」と女は顔を覆う長い前髪の奥で瞳を左右に泳がせた。

 フウッ、と一つ息を吐き出した後、「バーバ・ヤーガ、オレはここだ!」とルカが名乗り出た。

 女は目を見開いて、「ルカ……!」と声を上げると、大きくゆっくりと踏み出した。ルカにしがみついていた小さな子どもたちが、短く弱い悲鳴をあげた。

「小さき者共、道を空けるがよい。ルカの、やんごとなき慈悲と憐憫の情をかけたればこそ、其方らの命はその小さき器に収まりおれるものなれど、妾をして、その命、その魂の重さたるや、路傍の石と変わらざるものと心得べし」

 子どもたちには、バーバ・ヤーガの言う言葉の意味が通じていなかった。

「オレは大丈夫だから、離れているんだ」と言いながら、ルカは一人一人の子どもの頭を撫でた。「大丈夫。オレはどこにも行ったりしないよ」

 子どもたちは、恐る恐るバーバ・ヤーガを睨みながら、一人、また一人とルカを手放した。

「ルカ!」バーバ・ヤーガはそれまでの、沼を這うような動きからは想像もできない俊敏さで、ルカに飛びかかった。

 驚いた若い護衛が剣の柄に手を触れると、バーバ・ヤーガはそれを横目で睨んだ。若い護衛が悲鳴をあげた。彼の剣帯の、本来剣があるべき位置には一匹の蛇が這っていて、その柄を握るべき彼の手は、蛇の首を掴んでいる。

「皆さん、絶対に剣に触れないで下さい。今のは運が良かった方です。彼女に刃を向ければ、ここら一帯には何もなくなります。僕や貴方という話ではありません。この町そのものが、丸々この世界から消え失せるという意味です」とマルコが注意を呼びかけた。

「これは一体、どういう状況だ?」とドメニコが漏らした。

「マルコ。賢き子よ」と言いながら、バーバ・ヤーガはルカを抱きしめていた。ルカはされるがまま、その不気味な女に頭や頬を撫でさせている。

「ここは、ルカに任せるしかありません」とマルコは言った。

 マグダはルカを抱きしめる魔女の姿を見ると、痩身だと思っていた彼女の乳房が、意外に大きくふくよかだということを発見したが、その発見について語るべき相手がいなかった。

「女よ」とバーバ・ヤーガはマグダを見て言った。マグダは電流のような恐怖が脊柱を駆け抜けるのを感じた。「其方には褒美をとらせねばならぬ。髪飾りと言ったか? 掌を上へ向けるがよい」

 マグダは言われたとおり、掌を差し出して上へ向けた。火花のような光の粒子ががその上を舞った。マグダは驚きのあまりその手を引っ込めそうになったが、身体が思うように動かなかった。掌の上で光の粒子が集まり、形を成した。そこには確かに、大輪の薔薇をあしらった髪飾りがあった。

「あ、有難う御座います」と言うのが精一杯で、マグダはデザインがあまり好みでないことを伝える術を持たなかった。

「可愛いルカに会えたのも、其方が妾の名を呼べばこそじゃ」とバーバ・ヤーガはルカの頭を撫で回しながら言った。マグダは、(でも、デザインがあまり好みじゃない)と思った。


「バーバ・ヤーガ」とルカが口を開いた。護衛官の何人かが、示し合わせたように揃って生唾を飲む音が聞こえた。彼はこの局面において最も重要な地位にいる。彼の言動一つ一つが今後の展開に大きく影響するだろう。

 何もない部屋の隅から湧き出るように姿を表し、鉄の剣を蛇に変え、無から大輪の花をあしらった髪飾りを形作る魔女。何が起きても不思議ではなかったし、この町を丸々消し去るとマルコが言うのも、もはや大袈裟とは思われなかった。

 バーバ・ヤーガはルカに声をかけられると、雷に撃たれたようにその身体を仰け反らせた。そして突然飛び退いた。

「あんまり、昔っぽい言い方しないでくれよ。何を言ってるのか、よく分からない」とルカは言った。

 今、言うべきことはそれなのか? とマグダは思った。おそらくマグダ以外もそう思ったに違いない。

「うん。ごめんね? ルカは、最近の子だもんね」とバーバ・ヤーガは言った。

「ん?」と、周りの大人たちが口々に声を漏らした。しかし、それ以上の言葉は誰の口からも出なかった。

「それに、妾ったら、あんまり久し振りだったから、急に抱きついたりして。はしたないわ」

「いや、別に構わない」とルカは言った。

「何がどうなってるんだ?」とドメニコが隣のマルコに尋ねた。

「彼女は、ルカの前では大体いつもあんな感じです。女性の扱いについて、ルカは結構大人なのです」とマルコが小声で答えた。

 マグダは、ルカに対し異性としての関心は一切持ち合わせていなかったが、それでも自分がこれまで、女性としての扱いを受けてこなかったことに不満を感じた。

 ドメニコの声に反応したものか、バーバ・ヤーガは「そこなる男、ドメニコ・アルベルティと申したか」とドメニコを睨みつけた。

 ルカが「言い方、言い方」と注意した。

「貴様、妾のルカに、在ろう事か神器を持たせたな」口調こそ、多少現代寄りではあったが、そこには明らかな敵意があった。

 ドメニコは小さく口を動かしながら、ごく短い時間、目頭を揉んだ。その口の動きは、声にはならなかったが、「うわ……、こっち来たよ」と言っているのがマグダには分かった。

「いかにも、私はメルクリウス領行政官ドメニコ・アルベルティである。あの神器を彼に持たせたのは他ならぬ私だ。私はあの神器について、領内の書物で調べた結果、その性質を、魔術の力を増幅させる触媒だと考えるに至ったものである。

 ルカの願いは、岩モグラの渓谷で共に暮らしていた子どもたちに、学校での教育を受けさせることにある。しかし、貴方も知っているだろうが、人の世には人の世の(ことわり)がある。子どもたちに教育を受けさせるためには、学校を管轄する行政に対してなんらかの見返りが必要だ。それは例えば金銭であったり、政治的な便宜であったりするわけだが、私は彼を、魔術部隊の予備教練過程に推薦しようと考えている。魔術部隊の領内での地位は極めて高い。魔法の素質がある者を一名発掘出来るなら、普通学校五、六人分の学費などものの数ではない。

 きわめて微弱だが、彼には魔法の素質がある。それを発見出来たのは、あの神器、カドゥケイウスがあったからだ。

 つまり、彼に神器を預けたことは、彼が、彼の望みを、彼自身の力で叶えるためだ。私は彼の望みに少し手を添えただけに過ぎない」

 そういうことか。マグダはドメニコの横顔を見た。自分の息のかかった者を、魔術部隊に潜り込ませることが出来れば、そこから得られる恩恵は計り知れない。ただし、あくまでそれが無事に出来れば、もっと具体的に言うと、ここを生きて出られればの話だが。

「小賢しい役人だ。子どもらのことなど、貴様が便宜を図ればよかろう」

「今の私にその権限は無い」

「それはつまり、妾にとって、わざわざ貴様を生かしておく意味もないと言うことにはならんか?」とバーバ・ヤーガは嘲笑った。「そこなる盗賊、貴様も由あれば、ルカたちに刃を剥こうと機を伺っておるように見えるぞ。この館の外にも貴様の手下がおるのだろう。よし。それでは妾が一肌脱いでしんぜよう。ルカと、血の繋がらぬその兄弟たちを残して、この辺りの一切を消し去ってくれようではないか」

「ダメだ。バーバ・ヤーガ」とルカが言った。彼の目には決然とした意志の光が宿っている。おそらく得体の知れぬあの魔女も、ルカのそういう部分に惹かれたのではないか。

「いいえ、ルカ。これでいいのだわ。貴方のための世界を創ってあげる。貴方と妾、それから貴方の大好きな子どもたちだけの世界で、静かに生きていけばいいのよ。誰も貴方を傷つけたり、利用したりしない世界で」

 それはなかなか、結構な世界だとマグダは思った。そこに自分もいられたならば、なお結構なのだが。

 しかし、バーバ・ヤーガの言う静かで穏やかな世界には、どうも彼女の居所は無いようだった。

 辺境の渓谷に住んでいた、小さな一人の少年が、途方も無い力を持つあの魔女にとっては世界の全てなのだ。途轍も無い恋だ、とマグダは思った。まるで暴風雨(テンペスト)だ。

 長机や椅子が、ゆっくりと宙に浮いた。しかしマグダは今更驚きもしなかった。何せこれから町一つを滅そうというのだ。机だって浮くだろう。

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