2-1
渓谷の底に流れる川は、南西に下るにつれ徐々に川幅を拡げ、やがて海へと出た。川縁に繋いであった二艘の手漕ぎ舟は、大人が十四人、子供が七人分乗するにはいささか小さ過ぎるものだったから、度々船底に入り込んで溜まった水を、柄杓で汲み出さねばならなかったが、幸い転覆することもなく入り江へたどり着いた。ルカは、バルトロメオの手下とドメニコの護衛を混ぜて二組に分け、それぞれ分乗させた。これは、舟に乗る人数を揃える他に、ともすれば反目しかねない二つの勢力を、言うなれば互いに人質を取り合うことで沈静を図る狙いと見えた。
一艘の舟にはドメニコとマグダ、そしてルカと三人の子ども、一番若い護衛が一人と盗賊が四人乗った。もう一方にバルトロメオとその手下が三人、マルコ、護衛が三人と残りの子どもたちが乗っている。
「確かに、日の出る前にこの舟に乗っては、どうなるか分かったものではない」と、ドメニコは渓谷からの脱出にあたり、日の出を待ったルカたちの判断に納得したが、マルコによると、日の出を待った理由はむしろこの後の行程にあるらしかった。
ドメニコは頭の中に地図を思い浮かべ、彼らの現在地がどの辺にあるのか考えたが、この辺りの海岸は、出入りがノコギリの刃のように複雑に入り組んだリアス式海岸で、自分たちがいくつもの凹凸のどの位置にいるのか特定することは困難だった。
「あそこだ」とルカが指差した先にあるのは、庇状に突き出した断崖の中にぽっかりと口を開けた洞窟だった。
「またコレかよ」と、バルトロメオは文句を言ったが、その洞窟に近付くにつれ、その不満はもっと具体的な不安に変わっていった。
洞窟の入り口は半ばまで海水に埋もれており、今一同が乗っている小舟一隻が、ぎりぎり通れるか否かというだけの幅しかない。高さも、舟の縁から頭一つ出す余積もないように見えた。
「さあ、みんな頭を下げて、舟底にくっつきながら櫂を漕げ!」とルカが指揮をした。
「いや、いくらなんでも、出来ることと出来ないことってもんが……」盗賊の一人がそう漏らすと、ちょうど機を得たとばかりに、渓谷をけたたましい獣の咆哮が響き渡った。
「なんだ! 狼か?」バルトロメオは手下たちに周囲の警戒を促した。
「あれは集落の方から聞こえてるんだ。狼の声がこんな離れた所まで響くかよ!」とルカは叫んだ。
「だったら何だってんだ!」
「オルトロスでしょう」とマルコが静かに言ったが、その頬は焦燥で引きつっているのが見てとれた。「狼より軽く三倍は大きい犬型の魔物です。僕たちの引き寄せたゴブリンの群が寝床の周りを騒がせたことに怒っているんです」
「さすがに、ここまでは来ないだろう」とドメニコは言った。餌なら、渓谷に食い切れないほどのゴブリンがいる。
「いや」ルカがはっきりと否定した、「奴らは鼻がいい。俺たちがここにいるのも気付いてるぞ。ゴブリンの硬い肉よりは、人間の子どもや女の肉の方が奴らも喜ぶんじゃないか? まあ、本人に聞かねえことには分からないけど」
「ちょっと待て、奴ら? 一体じゃないのか?」ドメニコは、自分の血の気が引いていくのをはっきりと感じた。
「犬も狼も群を作るだろう。オルトロスだって作るさ。いいから洞窟に入るぞ。アイツらは崖から谷底までひとっ飛びに飛び降りる。これは例えじゃねえ。犬かきだって結構速い」
「オルトロスの犬かき……、見てみたいですね」ルカの説明にマグダが興味を示したが、「見物料はあんたの首だぜ。あんたがあの世に旅の想い出を持ってく代わりに、奴らはあんたの頭を巣まで持って帰るって寸法だ」とルカが言うと、黙って頭を下げ、ドメニコの腕を引っ張って、自分の頭の上に彼を覆い被せた。
「よし! 行くぞ!」とルカが叫ぶと、盗賊も護衛官も大人も子どもも一緒くたに楷を漕いだ。
すると、遠くの方に、先刻より一際大きい、獣の吼える声に続き、飛沫を上げて水に落ちるような音が聞こえた。
「マジかよ……」と盗賊の一人が呟いた。ドメニコが頭を上げてその盗賊の視線の先を見ると、彼らが下って来た川の水面に黒い塊が二つ、浮いているのが見えた。それらは最初、豆粒のように小さかったが、みるみるうちに大きくなり、それが二頭の犬、さらには、自分たちを猛追する件のオルトロスだということに気付くのに、そう時間はかからなかった。黒々とした太い毛は、水に濡れても針のように逆立ち、肩が大きく上下して浮いたり沈んだりするのに合わせて、一かきごと着実に船尾に近づいて来る。
「マグダ、やったぞ。オルトロスの犬かきが見える」ドメニコがマグダの肩に触れて苦笑混じりに言うと、マグダは覆いかぶさったドメニコの脇腹のあたりからこっそりと顔を出した。
「見物料は、行政官の左腕あたりで、手を打って頂ければ!」というマグダの声が、届くのではないかというところまで、二頭のオルトロスは近づいていた。
「おいおいおい、デカすぎだろ」と盗賊の一人が声を漏らした。水面に浮いた首回りの太さを見れば、大人七人と子どもを乗せた小舟一艘より、さらに一回りは大きいことが容易に知れた。
「速い速い速い!」歳若い護衛官は、早馬のような速度で追いすがる二頭の魔物を正面に、普段の職務からは想像も出来ない真剣さと力強さで舟を漕いだ。
もう一艘の舟の上で、不意にバルトロメオが立ち上がり、刀剣を抜き払って獣のように怒鳴りつけた。「かかって来いや! 犬っころがあ!」
「バカ! 頭下げろっての!」とルカがバルトロメオを叱りつけた。
「だって、怯むかもしれねえじゃん」と言い訳するバルトロメオの乗った小舟は、もうその舳先が洞窟の入り口に差し掛かっていた。
「しょうがねえ! そのまま突っ込め!」とルカが叫ぶと、舟は慌てて身をかがめようとするバルトロメオに構わず洞窟の入り口に吸い込まれていった。バルトロメオは後頭部を岩壁にしたたか打ち付けたが、そのまま舟に倒れ込み、幸い海に投げ出される事だけは免れたようだった。
「あああああああ!」
入り江に残されたもう一艘の舟では、若い護衛官が、まさに身も世もなく叫びながら櫂を漕いでいた。しかし、彼も元を正せば陸軍歩兵隊の一兵卒である。馴れぬ櫂の扱いに、焦れば焦るほど舟は右へ左へと舳先を振った。ドメニコが恐る恐る顔を上げると、もう手を伸ばせば剣先が届くような位置まで魔物の鼻先が迫っていた。護衛官や盗賊は揃って櫂を漕いでいて、剣を抜くには漕ぎ手を止めねばならない。
「私がやるしかないのか……」とドメニコは呟いた。「マグダ! 私の剣を!」
「私の身体の下敷きで、抜けません」とマグダが弱々しく言った。
「何とかならない?」とドメニコは懇願したが、マグダは舟底に身体を押し付けたままもぞもぞと身体を動かすものの、一向に剣の行方は知れぬままだった。同乗した子どもたちはどこから拾ったものか一生懸命魔物に石を投げつけたが、当の魔犬は意に介する気配もなく、いよいよ魔物の鼻先は、その息遣いが聞こえるくらいまで近づいていた。しかし、舟の舳先も右往左往しながらようやく洞穴の入り口に差し掛かっている。
「魔法の杖が、火を噴くぜ! 喰らえ! 犬畜生!」そう叫んだのはルカだった。その手に握られているのは、ドメニコが神殿の蔵から持ち出した、神より遣わされたとされる神器である。松明の火で国を焼き、土器の水で島を沈め、一握の土で山を成し、幼子の寝息で霧を払うと言われる伝説の杖、この記述の表すところは、この杖が魔法の力を増幅させる触媒であるということだとドメニコは考えていた。
「行け! ルカ!」
ルカは力一杯杖を振った。伝説の聖杖は唸りを上げて、その先にあしらわれた翼の装飾を、オルトロスの右目に突き立てた。
魔物の眼球は思いの外硬かったものと見え、ルカは杖を握ったまま、ドメニコの背中の上にひっくり返った。その刹那、頭を下げて伏せていたドメニコの頭の後ろに、何か柔らかいものが落ちる感触があった。
「そのまま、頭上げるなよ!」ルカが叫んだ。魔物も目玉を叩かれたことが堪えたものか、おぞましいほどの慟哭の声を上げると、その口の先が舟尻を押して、ドメニコたちを乗せた小舟は洞窟のなかへ押し込まれた。
洞窟の中にはしばらく、墨のような暗黒と、怒り狂って執念く洞穴の中の獲物を漁ろうとする魔犬の唸り声とで充満したが、やがて諦めたオルトロスが洞窟の入り口から鼻先を引き抜くと、そこに現れた光景に、ドメニコは息を呑まずにいられなかった。
「ファビオがいたら、歓喜のあまり失神したかもな」と、ドメニコは呟いた。
「ご学友のですか?」舟底にうずくまっていたマグダがそう言いながら頭を上げると、彼女もそれっきり絶句した。
洞窟の内部には、目測で奥行き五十メートル、高さ十五メートル程の空間が広がっていた。入り口から射し込んだ日光が海底の白い石灰岩に反射するためだろうか、海水そのものから発せられるような紺碧の光が、洞穴全体を満たしている。この空間の奥は入り江のようになっていて、一足先にここへ辿り着いたバルトロメオやマルコたちは、舟を降りて、さらにその先へと続く通路の側で待っていた。通路の先は所々翡翠のような緑色に輝いていたが、これは岩壁に生えたヒカリゴケの発する光だと、リズという少女が教えてくれた。楷の雫の一つ一つがサファイアのように輝いて、それが落ちるたび、水面には複雑な光の波紋が描かれた。洞穴の中の入り江は、それ自体が独立した生命と感性を持った、思慮深い獣みたいにゆっくりと揺れた。
「私は感受性の高い方ではないが、それでも胸に迫るものがある」ドメニコはしばらくその景観に浸っていたが、ふと思い出してルカに尋ねた。「そういえば、ルカがオルトロスと戦った時、頭に何か落ちてきた感触があったんだが」
「いや、分かんないな。オレもあの時は夢中だったから」とルカは答えた。
頭の後ろをさすると、べたべたした感触があった。手には、泥のようなものが着いている。ドメニコは恐る恐るその匂いを嗅いだが、それはどこにでもある、ありふれた土の塊以外のなにものでもなかった。ドメニコは安堵のため息を漏らした。




