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その集落までの道程は、極めて厳しいものだった。
石灰岩の侵食によって出来た、深く峻険な渓谷の中程にあるその集落に辿り着くには、鋭く切り立った崖面に、蛇のように張り付いた細い崖道を通らねばならず、その上、岩を切り出しただけの崖道は折からの雨で非常に滑りやすくなっていた。
行政官ドメニコ・アルベルティは、この崖道に入るに先立ち、八名の護衛から半数の者に帰隊を命じていた。この隘路を通るのに、一個分隊の護衛はかえって邪魔になるということもあったが、何より、彼自身が今回の職務について著しく情熱を欠いていると自覚していて、そのような仕事のために、八名もの護衛官を付き合わせておくことに気後れしたためだった。
そして彼の判断は、概ね正しかった。狭い崖道は先に進むにつれさらに狭く、馬一頭通るのがやっとというくらいまで狭まると、今度はのたうつように曲がりくねって、彼らは途中何度も足を止めることを余儀なくされた。護衛分隊を全員引き連れてこれを越えるには、恐らく倍以上の時間を要しただろう。
強いてこの判断に難を挙げるとするならば、この険道に入ってから、彼の伴った四名の護衛の内、実に三名が崖から滑落し、集落に着く頃には、彼と彼の補佐官、そして一番歳の若い痩せた護衛官の三名しか残っていなかったということだろう。
馬の足をとられて滑落した三名の仲間は、もはや深い谷の底へと飲み込まれて姿も見えず、これを助ける術はなかった。
彼の補佐官であるマグダ・オリヴェロは眉一つ動かさずに言った。
「行政官、この度の行程において、我々は四名の護衛を帰隊させ、三名の護衛を失い、残る一名も著しく疲弊しております」彼女の口調は平板で事務的だったが、状況報告の体裁を装った非難の響きがありありと感じられた。
「知っているよ。マグダ。意外に思うかも知れないが、私もその場にいたからね。それと、私は確かに三名の護衛を失ったが、一方で帰隊を命じた四名の命を救ったとも解釈できる」
「名を呼ぶのはおよし下さい」とマグダは明確に眉をひそめた。その仕草は、自分の立場を伝えるための技術的な表現に見えた。「奥様との仲があまり芳しくないところに、職務とはいえ私のような若い女との旅路でお心が浮つくことはお察し致しますが、あまり馴れ馴れしい振る舞いをされましては、御家の評判にも障ります」
ドメニコは苦笑いでそれに答えた。マグダは明晰な頭脳と、優れた実務能力を備えた才女で、表情の乏しいことに目をつむればかなりの美人と言ってよかったし、この道程で強靭な忍耐力も認められたが、少々自意識過剰のきらいがあり、それに加え、背筋の凍るほどデリカシーに欠ける発言をすることがしばしばあった。
他方で、若い護衛官は一頭だけ引き連れて来られた馬の上でぐったりとうな垂れて、マグダとドメニコのやりとりにも、一つとして口を挟むことはなかった。はたから見れば、まさか彼がドメニコやマグダの護衛をしているとは思うまい。そのことを思うと、ドメニコは改めて苦笑いを浮かべぬわけにはいかなかったが、「今回の護衛でただ一人、この険しい行程を見事踏破し、ここまで生きて辿り着いた君は、真の勇者であったと覚えておくよ。たとえその誉れが公に聴こえることはなくとも、私は君の勇姿を忘れはしないだろう」と労いの言葉をかけた。そしてもう一度、「たとえその誉れが公に聴こえることはなくともね」と念を押した。
馬の上で精魂尽き果てた勇者(その誉れが公に聴こえることはない)は、馬の首にもたれかかったまま、何か重大な偉業をその魂と引き換えに成し遂げた真の英雄のような表情で頷いた。
集落に着いた頃には、幸いにも雨は上がっていた。ドメニコたちは、崖面に掘られた洞穴の一つにこの護衛を休ませて、付近を探索することにした。
その渓谷が『岩もぐらの谷』と呼ばれるのは、中腹に『岩モグラの巣』と呼ばれる集落があるためで、その集落が『岩もぐらの巣』と呼ばれるのは、そこに『岩モグラ』と呼ばれる人たちが住み着いているためだった。ではその人たちがなぜ『岩もぐら』などと揶揄されることになったかというと、それは彼らが岩を削り出した洞窟住居に住む者たちだからである。
石灰岩の侵食によって形成された、この巨大な渓谷に、このような住居群が造られたのがいつなのかは判明していないが、ある時は異民族に追われた難民であったり、税に耐え兼ね土地を追われた貧民であったり、その時々の弱者が入れ代り立ち代り住み着いた土地だったという。
この度、行政官ドメニコ・アルベルティに課された職務とは、この筋金入りの僻地から、兵を募ることだった。ゴブリンやインプといった小型の怪物に追われ、命からがらこのような不毛の地に住み着くこととなった、哀れでか弱い民の中から、兵を募ることである。
ドメニコがこの地を訪れるのは今回が初めてだったが、この徴兵に成果が望めないことは誰の目から見ても明らかだった。
渓谷の傾斜が緩やかになったところを切り出して道を広げ、崖面に穴を掘った洞窟住居が何層にも重なって一つの集落を形成していたが、そこはあくまで崖道の中腹で、馬に積んだ天幕を一つ張る地積すらままならない。「草一本生えない」というのは比喩ではなく、辺り一面が陰気な灰色以外の全ての色彩に、排他的な態度を示しているようだった。ドメニコにはここに住む者たちが一体どういう手段で日々の糧を得ているのか、まるで想像が出来なかった。
そもそも、彼らがこの集落に足を踏み入れたのは正午を回った頃だったが、初めて人を見かけたのは、その日の暮れ方のことだった。それも、数人の子供である。
「あの子たちに案内をさせましょう」補佐官マグダ・オリヴェロはドメニコに進言したが、ドメニコはそれを取り下げた。
「少し彼らの様子を見よう。興味がある」
マグダはそれには何も答えなかったが、特に不服を感じている風でもなかった。
ドメニコたちは崖面の湾曲に身を隠し、子供達の様子を窺った。洞穴の扉から出て来た子どもたちは、ドメニコたちに背を向け崖道の奥へと進み、別の横穴へと入って行った。途中、一人の少年がドメニコたちに気付いたように見えたが、反応は示さなかった。
ドメニコとマグダは間を置いて、足音の鳴らないように気を配りながら子供たちの向かった洞穴の入り口へと向かった。その横穴は大きく口を開けており、扉は備えられていなかった。中は深く広く掘り広げられていて、広場として使われているものとみえた。この雨のせいか、結露した石灰岩の壁が床に置かれたランタンの炎に照らされて、粘膜のような、滑らかで湿った質感を帯びていた。
五人の子供が一番年かさと見える少年を囲み、地べたに膝を折って座っていた。年かさの少年は一段高くなった岩の上に座り、手には本を何冊か抱えていた。
「驚いたな」とドメニコは声を抑えて呟いた。「字が読めるのか」
「恐らく、あの少年だけでしょうが」とマグダは付け加えたが、ドメニコの驚嘆に同調しているようだった。
仕事柄、僻地へ赴くことはままあったが、領地の中心を離れるほど子供の労働力への依存度は高く、それに反比例して識字率は下がった。農村地帯に至ると識字率は限りなくゼロに近く、領地境界線と重なるこのような辺境に、文字が読める人間がいるなどとは想像も出来なかったのである。
年かさの少年は「今日は何の話が聴きたい?」と子供たちに訊ねた。彼は明るい金髪で優しい眼をしていた。
「ティル・オイレンシュピーゲル!」と一人の子供が声をあげた。子供たちは「やっぱりティルだな」「あれはヤバい」「オレたちのヒーロー」などと口々に賛同した。
マグダが隣で首をひねるのを、ドメニコは横目に見た。「知ってるか?」
マグダは「知りません」と答えた。この世に数えきれない数の書籍があるとはいえ、領内でも博識でならすマグダの知らない物語を、辺境の子供が蔵書しているという事実は、ドメニコを困惑させた。
「ティルが欲張りな差配人からぶどう酒を盗んだ話はしたよね。空の缶にぶどう酒を入れてもらって、『こんなに高くちゃ買えない』と言って返すふりをしながら、隠し持っていた水入りの缶とすり替える話。今日はその続き」年かさの少年が言った。子どもたちのやり取りで、彼の名はマルコというらしいことが分かった。マルコは子どもたちによく慕われて、マルコも子どもたちに親身に接していることが見て取れた。
マルコはとても涼やかな声で、語り始めた。
「ティルは上手くぶどう酒を盗みましたけれども、そのことがバレて街の役人に捕まってしまいました。ティルはこの街でも散々いたずらを働いてきましたから、役人や司祭は口々に彼をののしりました。けれども、街の人たちはみな、ティルのことを可哀想に思いました。なぜなら、ティルがいままでからかったり、懲らしめたりしたのは、意地悪な学者やえばりんぼの司祭、欲張りな役人だったりしたからです。
役人はティルに『縛り首の刑』を言い渡しました。街の人々は、いたずら三昧のティルも今度こそはおしまいだろうか、それとも、また何かしらの知恵で逃げ出すのだろうかと噂しました。
当のティル・オイレンシュピーゲルは、大人しく役人に捕まったまま、すっかり観念した様子です。それを見て、街の人たちは、『ああ、今度こそ、ティル・オイレンシュピーゲルもおしまいだ』とさみしい気持ちになりました。
ティルは、『さすがの私もいよいよおしまいです。しかし、私が死ぬ前に一つだけ、ささいなお願いを聴いていただけませんか』と役人に訴えました。
『この期に及んで何を言う』と役人は厳しく言いましたが、街の人たちがこぞってこちらを見ていることに気付いて、少しだけ聞いてやることにしました。しかし、今まで散々いたずらをはたらいてきたティル・オイレンシュピーゲルです。また逃げられたり、だまされたりしてはたまりません。
そこで役人は、『お前の願いを聞くのは一度だけだ。それと、お前の刑は絶対に見逃さないぞ』と言いました。
ティルは、『ええ、それで構いませんとも。それに、私の願いは、私の死んだ後に叶えて下されば構いません』と言いました。
役人は、これを聞いて安心しました。そして、『よかろう。ならば、ここにいる市民みんなが証人じゃ』と言いました。
翌日、ティルは街の広場の処刑台まで連れられました。街の人たちは、いよいよティルの最期とあって広場にたくさん集まりました。そして、ティルの最期の願いとはなんなのか、注目しました。
ティルは手首に縄をかけられて、首吊り台に乗せられました。街の人たちは息を飲んで、その様子を見守りました。
『して、最期の願いとはなんじゃ』と役人はたずねました。
『はい、それと申しますのは……』とティルは話しはじめました。『私が死んだら、三日間、毎日三回お食事の前に、お役人様と執行人で、私の亡き骸の尻にキスをしてほしいのです。私があの世で楽しくやれるように。尻のほっぺじゃないですよ。穴にです。いいですね。確かにお願いしましたよ』とティルはそう言って寂しげに笑いました。
『そんなことができるものか』と役人は顔を真っ赤にして怒りましたが、ティルが涼しい顔で、『でも、最期の願いは聴いてくださると約束しましたよ。ここにいる市民みんなが証人です』と言うと、今度は顔を真っ青にしました。
ティルの最期を見届けようと、広場は街の人たちで埋め尽くされています。いくら偉い役人といっても、これだけたくさんの人たちの前で約束を破ったとあっては、どんなめにあわされるか分かったものではありません。役人はぎりぎりと歯を食いしばってから、『よかろう。この者の刑を免ずる』と言いました。
ティルは手首の縄を執行人に解かせると、にっこり笑って首吊り台を飛び降り、広場を去って行きました」
マルコという少年は、爽やかな声でそれを読み上げると最後に「おしまい」と付け加えた。その台詞を合図にしたように、子供たちは、「すげえ!」「頭が良すぎる!」「不死身だ! 不死鳥だ!」などと口々に賞賛の声を挙げた。
なんと下品な物語だろうか。ドメニコは顔をしかめた。下品なことにはそのような反応をすることが貴族の習わしだからである。しかし、隣のマグダに眼を移した時、そのような上辺の表情は一瞬にして霧散し、驚愕だけが彼を支配した。マグダが笑っていたからである。ドメニコの元に彼女が補佐官として着任してから二年間、ドメニコはマグダが笑った所など一度も見た覚えがない。そのマグダが、口を押さえて必死に声を殺しながら、涙を浮かべて笑っていたのである。
「こういうのが好きなのか?」とドメニコが尋ねると、マグダはにわかに真顔に戻って「いえ、全然」と答えたが、口の端が引きつるのはどうにもしようがないらしかった。
「それにしても、妙な光景だ」とドメニコは誰にともなく呟いた。
このマルコという少年は、どこか他所から最近この集落へ入った者か。文字が読めるというだけならず、その語り口にせよ、振る舞いにせよ、食うや食わずの辺境に生まれ育ったものとは思われない。それに、よく見れば、子どもたちの衣服にしてもそれなりのしつらえで、決して高価ではないが、これまでドメニコの訪れた貧困に喘ぐ僻地の住人と比べれば、はるかにまともだった。領内でも城下の街角に見える、当たり前の町民と変わらない装いである。
ドメニコは、子どもたちの出で立ちと、この寂れきった集落とのバランスを欠いた対比に、形容し難い不吉を感じずにはいられなかった。
子どもたちは、マルコの話した物語についてめいめいに感想を語りあっていた。多くは『ティル・オイレンシュピーゲル』なる物語の主人公を讃える内容だったが、その語気は、神学者が神の奇跡について語るのに似て、異様な熱気を孕んでいた。
マルコはその様子をしばらく見守ってから、子どもたちを諭すように問いかけた。「このお話で、ティルよりも、ずっと偉いはずの役人が、ティルの言う願いを聞かなくてはならなくなったのは、どうしてだろう」そして、「リズ」と一人の女児を指した。
「まちのひとたちが、見てたから」リズと呼ばれた少女は戸惑いながら、答えた。
「そのとおりだよ。よく答えられたね。リズは自分の頭で考えることが出来て、とても立派だ」マルコがそう言うと、リズと呼ばれた少女は背中を丸めた。後ろ姿にも、恥ずかしがっている様が見て取れた。マルコは話を続けた。「役人がいくら偉くても、大勢の人たちが突然襲いかかってきたら叶わない。だから、大勢の前で約束してしまったことは守らなければならなかったし、それが出来ないのなら、ティルの罰を取りやめるしかなかったんだね。
こういう時、ティルにとって、街の人たちは『うしろだて』になったと言うんだ。僕たちのような弱い立場のものが、強い立場のものに話を聴いてもらったり、約束を守ってもらうためには、この『後ろ楯』が必要になるっていう話だね。それと、もう一つ大事なのは、ティルが縛り首になったら、『その亡き骸のお尻にキスをすること』を条件にしたことだ。役人は『ティルの死刑を取り止めること』と『ティルの亡き骸の尻にキスをすること』を天秤にかけ、結果としてティルの処刑を取りやめた。ティルのお尻にキスをすることの方が、ティルを逃してしまうことよりもイヤだったから。これは、条件の重さの話だ」
ドメニコはこの広場で、何が行われているのかを理解した。それは、『説法』であり、『教育』だ。彼らにとって、『ティル・オイレンシュピーゲル』とは一柱の神であり、その行いは彼らの指針であり、その舞台は世界の在り方を示しているのだ。
「まずいかもな」とドメニコは言った。マグダもそれに同意した。
彼らの世界では、学者は意地悪で、司祭は威張りんぼで、役人は欲張りなのだ。疲れ果てた護衛一人と女の補佐官を一人連れた役人は、彼らの眼にどう映るだろう。
今目の前にいるのは一番年かさでも十五に満たないであろう子どもばかりだが、この集落にいる大人がだれもドメニコたちに気付いていないと考えるならば、それはいささか楽観的に過ぎる。彼の仲間でまともに武器を扱えるのは、集落手前の洞穴で寝そべっている護衛官のみで、彼らには土地勘もない。集落の大人が数人蜂起すればひとたまりもなくこの職務は終わりを迎えるだろう。あまり好ましくない形で。
ドメニコはマグダに手振りで合図を送り、一歩後ろへ退がった。
しかし、その撤退はすぐに遮られた。
マルコの視線が不意にドメニコを射抜き、「お役人さん、そんなところでは風にあたるでしょう。中へどうぞ。お隣のお姉さんも」と言ったと思うと、いつの間にかドメニコとマグダの間に一人、子どもが立っていたのである。マグダは子どもの腕を掴んでいた。子どもの手には、マグダの財布があった。
「返してやってくれないか。大した額じゃないが、大事な路銀でね」とドメニコはなるべく相手を刺激しないように言った。
「ルカ、返してやってよ」とマルコが言うと、ルカと呼ばれた少年は頬を膨らませてマグダに財布を返した。「私のような大人の女の身体に対するご興味はお察し致しますが、女性の着物に手を入れるというのは感心しませんよ」とマグダが言うと、ルカは「用があったのは財布だ」と応えた。二人の間の空気がにわかに張り詰めた。
「こそこそした真似をして済まない。私はメルクリウス領行政官ドメニコ・アルベルティだ」とドメニコは名乗り出た。話題を変えるためだ。「この地に徴兵の任を負って来た。案内を頼みたかったんだが、何せ初めての土地なので、暮らしぶりに興味があってね、様子を見させてもらったんだ」
「チョウヘイってなに?」とルカと呼ばれた少年が訊ねた。
「兵隊を集めることです。この地にも、ゴブリンやインプといった怪物が多く出ます。そういう怪物達を退治して、土地を拡げるための兵を募っているのです」とマグダは説明した。その語調には棘があったが、ドメニコは気付かないふりをした。
「あの崖道からいらしたのですか?」とマルコが訊ねた。ドメニコがそうだと答えると、「それはお疲れでしょう。宿を案内致します」と言った。
「君は随分大人びている。ここのリーダーかい?」とドメニコは聴いた。
「いいえ。ここの長はルカです。先ほど、お連れの女性から財布を拝借した」とマルコは答えた。
「この子が?」ドメニコよりも早くマグダが反応した。
ルカは得意顔でマグダを見た。
「宿を案内してもらえるのは有難いが、我々は兵を募る役目がある。出来ればこの集落を一通り案内してもらいたい」とドメニコは言った。
「ご事情はお察しします。ですが、もうすぐ日が落ちます。見ての通り、この辺りは崖の中腹、崖道を少々拡げただけで、谷側にも柵はありません。慣れぬ方が出歩きますと、大変危険です。明日、陽が昇るまでお待ちになってはいかがでしょう」
ドメニコは少し考えてから、マルコの提案を承諾した。
ルカという少年は、ドメニコたちがマルコに声をかけられた一瞬の隙にマグダの財布をくすねようとした。こんなところに一晩泊まっては、どういう目に遭うか想像に難くない。まして役人であるドメニコは、彼らの教義によると敵視される恐れも大いにあった。しかし、マルコの言う通り、このような崖道の中腹を陽の光もなしに出歩くのは不安が大きかったし、実際に渓谷の奥深くまで滑り落ちていった三名の護衛官の表情は、ドメニコの脳裏にまだありありと焼き付いていた。
ドメニコの不安を感じとったのか、マグダは頷いた。「ここは私に任せておいて下さい」とまで言った。
マグダは「行政官について、誤解の無いよう申し上げたいのですが」と前置きして子供達の注意を引いた。「もしかすると、皆さま役人というものはおしなべて強い権力を持ち、加えて強欲だとお考えかもしれません。確かに、位の高い役人の中にそういう者もいようことは否定出来ません。が、ここにいるドメニコ・アルベルティ行政官は、官位も中の下といったところで、取り分け強欲ではありませんし、偉くも御座いません」
「マグダ、もう少し言い方ってものが……」とドメニコは苦情を言ったが、マグダは気にかける様子はなかった。
ともあれ、かくて行政官ドメニコ・アルベルティは、この『岩もぐらの巣』に一晩宿をとることとなったのである。