うたた寝
(……く、苦しい)
腹を覆う温もりはとても心地よいのに、そのずっしりとした重さがその心地よさに浸らせてくれない。
朦朧とする意識の中、眉を潜め、胸に圧し掛かるものを押し退ける努力をしたが、思うようにいかないので、渋々惰眠に縋りつくのを止め、億劫だがゆるゆると瞼を持ち上げる。
視界に映る見慣れた天井に、リビングで転寝をしてしまったのだとぼんやり思い出した。
先に寝てしまった息子は自分の隣に転がしたはずだが、そこに気配はない。親の顔面に裏拳を入れたり180度回転等を平気でこなす素晴らしい寝相を発揮したようだ……と腹に乗る重たい温もりの元に視線を転じ、目が点になった。
本当に文字通り驚愕、というよりも、目が点。
重みのある温もりの正体は、息子ではなく大きな手だった。
恐る恐る手から腕を辿り、その身体の持ち主を確認する。
(――俺?!)
健やかな寝息をたてる俺が、そこに転がっていた。
驚きのあまり飛び起きかけるが俺の手に阻まれ、何となく屈辱的な気持ちを抱えつつ渾身の力でずるずると腕の下から這い出て、改めて暢気に寝ている俺の身体を見下ろし、ふと自分の手を見た。
見覚えのある小さな手。
息子の、だ。
指は短く、どこで遊んだのか擦り傷だらけで、昨夜風呂で洗ってやったら石鹸が染みると怒っていた。
グーチョキパーとやると小さな指が可愛く動く。
(……のど、渇いたな)
あまりに現実離れしていると、パニックになるどころか、逆に頭が冷えるものらしい。
ふらりと立ち上がり、キッチンで水を飲もうと食器棚の前に立つが、無論正攻法では棚の扉に指を掛けることすら出来ない。ダイニングテーブルまで戻り椅子を……持ち上げられない。仕方なく引き摺ろうとしたが、床に傷が付くと息子を叱る己の姿が脳裏に浮かんでしまったので、やめた。
(たしか、洗面所に顔洗い用の踏み台があったはずだ)
パタパタと軽快な足音を立てて洗面台に着いたところで既に面倒になり、ここの水でもいいや、と妥協してしまうのは、俺本来の性格か、子どもの脳みそだからか。
とにかく、息子のうがい用のコップに水を満たして一息に喉を鳴らして飲み干すと、やっと人心地ついた気がした。
(さて、どうしようか?)
リビングに戻って首を回すと、和室の押入れが目に留まった。
和室とリビングは本来襖で仕切られるが、息子を遊ばせるのに丁度よいので襖を取り払い使っている。
眠る俺の身体の横を通り和室の一番奥に位置する押入れの襖の取っ手に指をかけ、横方向に力を加えると襖は勢いよく滑り、木枠にぶつかってパーン!と小気味よい音を立てた。
音の大きさに思わず後ろを振り返り俺の身体の様子を窺ったが、起きる気配がないのを見て取り胸を撫で下ろして、また押入れに向き直る。
押入れ下段の右半分を子どもコーナーだと空けたのは妻だ。来客時には、子どものもの全てをここに仕舞い、襖を閉めてしまえばよいと、得意になって説明してくれた。狭そうで彼女に素直に同意しきれなかったが、自分が片づけをするわけではないので反対も出来ないまま成立したそこには、コロの付いたおもちゃを片付ける棚と小さな机があり、机の上には電池式のランタンが置かれている。
ひょいと身を屈めて入ると、奥に手頃なビーズクッションが隠れていたので、引っ張り出してそれに座ったらスッポリと嵌って、天井に怪獣のシールが何枚も張ってあるのを見つけた。
(あいつ、こんなとこにシールを貼られてるなんて知らないだろうな)
何も知らずに買い物に行っている妻を思いつつ、ここから眺めるリビングはどことなく別世界のようだ。
ならばと、更に湧き上がる衝動のままに身を起こし、襖の端に指を掛けようとしたところで、小さな穴を見つけた。閃きに誘われ、そっと人差し指を差し込むとぴったりだ。襖を動かす力加減を知らなかった先程とは打って変わり、ゆっくりと襖を滑らす。小さな空間を照らす光はあっという間に細くなり、最後は音もなく襖がぴたりと閉まると暗闇に満たされた。
幼い頃は暗がりすら怖れていたのに、今は漆黒ではないが掌すら見えない闇に、ささやかな安堵を覚える。何もかもを関係なく受け入れる闇に懐の深さを感じるようになったのは、大人になった証だろうか。
(懐かしいな)
すっかりこの感覚を忘れていた。
外灯のない街角などないし、部屋の中も敢えて暗くなどしない。就寝時すら、闇が怖いと怯える息子のために小さな常夜灯をつけているのだから、作り物とはいえ、これほどの闇など久方ぶりだ。
そっと腕を伸ばしたら指先に何か触れて、カタンと硬いものが倒れた。
手探りで倒れたランタンを探し出して点けると、ほぅと吐息が漏れる。
特異な環境に自然と緊張した身体がついた安堵の息だ。
だからランタンが要るのか。
どうしてこんなものを置いているのか不思議だったが、我が身を置いてみれば自明の理。
(子どもはいいなぁ)
愚痴でも揶揄でもなく、湧き上がるのは純然たる羨望だ。
有限の世界で無限に生きる能力に、子どもほど長けたものはいないだろう。
けれど既に大人の自分がいつまでもいてよい場所ではない。
後ろ髪を引かれるが、ランタンを翳して人差し指の穴を探り出しそっと襖を開けると、途端にランタンの輝きは鈍磨し色褪せる。
スイッチを切ったランタンを元ある場所に戻し、自分も元の場所に戻った。流石に重い手を自分の腹に乗せる気にはならないので、太い腕を足で蹴るように押して脇の下にスペースを作り、暫くごそごそして収まりのよいポジションに落ち着いた。
(こっちのほうがいいな)
自分の手の重さも知らず、腹を冷やさないようにと眠る我が子の腹に手を当て横になる習慣はもう止めよう。
確かな温もりに包まれ、瞼は自然と閉じていった。
*
「おとーさん!おきてよ」
ペチペチと小さな手が頬を叩く。
小さいのに手加減をしてくれているのが嬉しくて、可愛くて、もう少し寝たふりをしていたら、一旦気配が離れ、腹に重い一撃が来た。
「ぐっ」
衝撃の強さに涙目になりながら「おはよう」と言ったら、仰向けに寝ている俺の腹にどんと尻を据えて得意満面の息子がおはようと笑った。
「おとーさん。かいじゅう かいて」
じゆう帳の真っ白なページを何枚かちぎって、色鉛筆と一緒に差し出してきた。
「ああ、強いのがいいか?」
「うん。しっぽが おおきくて はが ときんときんの! がおーって どーん やるの」
「じゃあ、とうさんが絵を描くから、色を塗れよ」
「うん!」
「よし、降りろー」
「はーい」
素直に降りて隣に座りなおす息子の横でごろりと寝返りを打ち腹ばいになると、息子が色鉛筆を差し出してきた。鉛筆を握る指に、ふと、襖裏の小さな穴を思い出す。思い出したら、すぐにでも確かめたくなった。
「なぁ、今からあそこ見せてくれないか?」
押入れを指差すと、息子が難しい顔をして考え込み始めた。
「駄目か?」
「ダメじゃないけど……おとーさん おっきーから はいれるかなぁ?」
本気で悩んでいるらしい息子の様子に、口元が緩む。
「入れるさ」
「でも あとで かいじゅう かいてよ」
「ああ、いっぱい書いてやるさ」
「やくそくだよ」
『いっぱい』という言葉が効いたらしく、息子が勢いよくぴょこんと立ち上がった。
「ああ、約束だ」
自分も立ち上がり、息子と二人手を繋いで押入れへと歩き出した。