Lip-6.
一週間遅れ、すみませんでした。
再開します。
莫大な生徒数と、彩海市の学園都市域の大半を占める敷地内は、校舎だけが占めるわけではない。校舎は総計して三棟、そのほかにメインの体育館が一つ、武道館の形を取った体育館が一つ。そして、いつでも専門的な分野を学習できる施設は独立して設けられており、それだけでも、六つの建物が敷地内に存在することになる。もちろん他には、陸上競技場やグラウンド、学食用のブースも設けられていて、僕が最初学園に来たときには、大学と間違えそうになった。
一年生棟は、いつものように騒がしい。登校してから下校して寮に向かうまで、休み時間になると男女間の会話が絶えないことが基本的にあげられる。そりゃあ、僕みたいにあまり異性との会話を持たない奴もいるけど、それもごく少数だ。
「で、視聴覚室ってどこなのかな?」
僕の後ろで、瑠衣が弾んだ声で問いかけてきた。入学したての僕らには、正直言ってこの学園は迷路のようにしか感じられない。職員室が設けられている特別棟に来たところで、研究所のような白い廊下にいざ出てみると、困惑ばかりが僕たちを包むのだ。学校内の地図が欲しいと思ったのも、正直初めてかもしれない。
「……というか、信憑性も欠けるけどね。あんな手紙じゃ」
「でも、最後の文は真面目だったよ? 由利さんって結構変わった人だから、ユーモア出しただけじゃないかな」
瑠衣は頬を持ち上げたまま、光沢を放つ廊下を進んでいく。というか、あまりの敷地面積の広さに、さっきからすれ違った人の数も少ない。
「職員室行く? その方が早いんじゃない?」
「職員室かぁ……いい印象はないなあ……」
僕が言葉を沈めると、瑠衣は「何で?」と神妙な口調で言ってくる。
「中学の時、すごい奴がいたんだよ。学校に凄い美人で巨乳な先生がいてさ……マドンナ的な先生で、年の差考えずにアタックしに行ったことがあったんだよ、そいつがさ」
何故か僕も強制連行されたんだけど、と付け足すと、瑠衣は興味深そうに相槌を打った。
「でね、中学だからその先生も軽くあしらって曖昧に返してたんだよね。でもアタックした方は諦めなくて、ほとんど毎日その先生にアタックしに行くことになってさ、そのたびに僕も連行されたんだけど、最終的にね」
「最終的に?」
「その先生が不登校になって」「えー!?」
それからは酷かったものだ。毎日アタックされた方の先生は野郎の執拗なアタックに負け、ノイローゼ状態になり、様々な弊害が発生した。英語の教師だったその先生がいなくなったことで、教師数が手薄になった英語科の教師が過労死寸前、学校のマドンナだった先生を追いやったことで僕らは学校の目の敵にされ、毎日のように奉仕活動を虐げられた。僕は何度も誤解だと主張してきたのだけど、結局僕の主張も受け入れられず、理不尽な主張ばかりを繰り返された。以来僕は、発端となった職員室が恐怖の現場として考えざるを得なくなったのだ。
沈んだ声で語る僕を見た瑠衣は、慌てふためいて「今はその学校じゃないから大丈夫だって!」なんて言ってくるけれど、僕の耳には入ってこない。
「あー、葵! 早く行こうよ! 時間に遅れちゃうから!」
「職員室なんてぇ……」
滅びればいいのに。
視聴覚室が特別棟の左端に位置すると聞いた後、僕は息づかいを荒くして早々に職員室を出た。瑠衣が丁重な言葉遣いで職員室を出てきた後、青ざめた彼女はキョトンとした表情で、僕の背を叩く。
「何でうちの担任は巨乳だったんだ……」
しかもポニーテールに纏めたシュシュの色とか、めがねの形も同じだし。
「だ、大丈夫だから、気にしすぎたらだめだって!」
瑠衣はそう諭すけれど、以後担任の表情をあまり見ることが出来なくなったのは、言うまでもない。
*
特別棟の二階は、やたらと閑静に感じた。教室の窓枠が一つも見えない廊下は、地下通路か何かと間違えそうだった。蛍光灯の青白い光が際だって、妙なミステリアス感を醸し出しているようにも感じる。
正直、視聴覚室まで行くのに、心持ちは不安定だった。何せ、得体の知れない呼び出しなのだ。実際はだまされているかもしれないし、英一さんとは違う第三者が、僕らを待ち受けているのかもしれない。瑠衣の表情がさっきから強ばっているのも、そう感じているからかな、とも察することは出来た。
「誰かいるよ」
瑠衣が呟く。僕も目をこすって、非常階段付近に構えている視聴覚室の方を見据えると、そこにいたのは、英一さんの姿ではなかった。
まず脳裏に思い浮かんだ印象は、「清楚」だった。瑠衣と同じブレザーを着ているはずなのに、醸し出すオーラが違う。黒蜜のような光沢を放つ長髪の周りを、椿の花が待っているような、そんな印象だ。背中は決して曲がることなく、指先はそろって腰の前に。何もかもが整っていて、まさに「一糸乱れぬ」ってやつだ。
僕も瑠衣も、そんな女子生徒を見るなり、不意に立ち止まった。これこそ鳴桜の生徒、と言える気がする。というか、すでに生きている世界が違う気すらしてくる。
「……あの人?」僕は引きつった顔で言った。
「でも、それしか無いと思うよ。だって、全然人とすれ違わないし、それに、あの人が手紙の最後の文章書いたんだったら、納得できるし」
僕は手紙の最後の方を思い浮かべてみて、浮かんだ瞬間に相槌を打つ。
「でもさ、なんかオーラが凄くない? 『お近づきになれない』って感じが」
「するよね」
僕と瑠衣は顔を見つめ合って、乾いた笑いを見せ合う。もちろん僕も瑠衣も、本当の意味で笑ってなんていなかった。
「葵、先行く?」
「いや、こういうときは同性の瑠衣が行くべきでしょ」
「いやいや、だって葵、男でしょ?」
「いやいやいや、僕の場合異性は同年代限定で」
「あの?」
僕らはその言葉を耳にして、表情を固めてしまう。言い合っていた表情を反らしてみると、ほぼ真横に、清楚な笑みを見せていた「彼女」がいた。それが彼女だとは一瞬分からなくて、僕らは揃って目を泳がせてしまう。
「神澤さんと、橘さん……?」
水銀の滴みたいな声を漏らす彼女の声に、思わず僕は指先まで石化してしまったかのような感触におそわれた。吐息を漏らす度に花びらが舞い散って、髪がなびく度にあじさいの香りが漂うかのような、そんな容貌に、僕は声を詰まらせてしまう。
すげえ綺麗な人だ。
「……は、はいっ!」
僕よりも先に瑠衣が声を裏返す。だが何で敬礼。
「橘、瑠衣ですっ」
「あらあら」
目を細めた彼女は、声を震わせる瑠衣の前に脚を進めると、瑠衣の手を取って、柔和な表情を見せる。瑠衣の手は小刻みに震えていた。
「思った以上に可愛い子ね、そちらの方も……会長が気に入った理由がよく分かるわ」
瑠衣の頬はすっかり桃色で埋め尽くされていて、目が微かに潤んでいるようだった。
「初めまして」彼女は頭を少しだけ下げる。「生徒会副会長を務めています、三年の御佐倉唯子です。生徒会会長、由利英一に代わって迎えに来ました」
「あ、あの、えっと……」
僕は笑みを絶やさない、副会長さんの表情を逸らしつつ、口を踊らせてしまう。
「ふふ、緊張することはありませんよ。さあ、こちらへ」
御佐倉さんは背中を向けると、数メートル先の視聴覚室の扉を開き、その中へと吸い込まれていく。僕らは目を合わせて一瞬躊躇したけれど、瑠衣が先に御佐倉さんの残した影を追うように、扉の中へと駆けていった。僕もその栗色の髪を、追いかけて行った。
視聴覚室の中は、想像していたよりもずっと閑散としていた。広さは中学の頃とあまり代わらないし、スクリーンの大きさも標準的。けれど、丁寧に並べられた椅子と机だけは綺麗に磨かれていて、フローリングも、差し込んでくる陽光に反射して輝いていた。
「こちらですよ」
「え?」
御佐倉さんが僕たちを導いたのは、その視聴覚室ではなく、視聴覚室の脇に据え付けられているような、扉だった。教室内の白塗りの壁も真新しいのだけれど、その扉だけはやたらと古い。灰被れているというか、寂れているというか、銀色の塗装が剥げかかっている。
「足下、注意してくださいね」
細い指がドアノブを回すと、そこには何年も使われていないであろうストーブが、部屋の中を占領していた。天窓の曇りガラスから差し込む光は弱く、御佐倉さんが明かりを灯さないと暗くてとても内部が見えたもんじゃなかった。目をこらすと、ストーブ以外にも、空になったワックスの小さなドラム缶や、モップなんかが散乱している。
怪訝な表情を見せる僕らに、御佐倉さんは笑いかけた。
「ここは以前、学園の大掃除の時に使用していた部屋なんですよ」
「はあ……」
「ですが今は、私たちが『入り口』として使用しています」
御佐倉さんはストーブや、ドラム缶の隙間に上履きを埋めていきながら、少しずつ歩んでいくと、一番奥の掃除用具入れの前に立った。御佐倉さんは迷いもせずにその戸を開き、扉の中に手を突っ込む。ごそごそと御佐倉さんの手が散策を始めたと思った頃だ。
ガコン、と何かが落ちたような音が、狭い部屋中に響き渡った。最初は、壊れたロッカーの上に山積されたバケツが落ちてきたものだと思ったけれど、その見解は一瞬で崩れ去る。僕も瑠衣も、目を疑った。どう見ても、音は黒ずんだ壁から、確かに響いていたのだ。目を丸くして、歯車の回るような音に目を向けていると、御佐倉さんの方への視線なんてものは既に無かった。気づいた頃には、掃除用具入れはすっかりその姿を消していて、真新しい茶色塗りの扉が現れていた。御佐倉さんがスカートを靡かせて、ドアノブを回し、扉の先に消えていった頃には、僕らは立ちつくすしか無くて、現状何が起こったかすら理解できなかった。
「……隠し扉?」
瑠衣が震えた声で呟く。僕は散乱したゴミの間を踏みながら、物置の一番奥へと脚を進めて行った。扉の前に立って見ると、錆びかけた銀色の掃除用具入れは、扉の前に「沈んで」いた。本当なら、何で学校にこんなからくり屋敷じみたものがあるんだよと苦笑めいたものが沸いてくるはずなのに、なんだかそんな気にもなれない。
「いいのかな、入って」
僕はドアノブを指さして、ゆっくりと僕の方に向かってくる瑠衣に、引きつった表情を見せながら言った。
「入ろうよ」
瑠衣の口調が、妙な真剣味を帯びていて、僕はのけぞりそうになる。
「わくわくしない? こういうの」
瑠衣は、出会ったときのような、天真爛漫とした笑顔を見せて、僕の目の前に立った。何だか、考えが違うというか、僕は彼女の考えていることがよく分からなくて、一瞬言葉に詰まってしまう。
でも、瑠衣の指先が、僕の胸板に当たったとき、そんな曖昧な考えはどこかに吹き飛んでしまったような気がした。
「だって、せっかくこの学校に入学したんだし」瑠衣は首を少しだけ傾ける。「わくわくがあっても、いいんじゃないかな」
心臓の鼓動が、高鳴りを始めた頃、瑠衣は指を離して、ドアノブに手を掛けた。なんとなく、僕には分かるのだ。
この扉を開いたら、瑠衣の言うわくわくが、たくさんあるような。もっと、知らないようなことをたくさん知ることが出来るような気がして――。
僕も、ドアノブに手を掛ける。瑠衣が僕を横目で見て、微笑むと、僕らはドアノブをひねり、こぼれてくる光をいっぱいに浴びた。
その先にいたのは、英一さんの姿だった。
「やあ、来たね」
英一さんは、陽気な物言いで続ける。
「ようこそ、鳴桜学園特殊委員会――」
英一さんが、僕たちの前に歩み寄り、出会ったときと変わることのない、屈託のない笑顔を見せた。
「――『恋友会』へ」