Lip-2.
改札口の混雑具合も、駅前の喧騒も、何もかもが新鮮だった。改札口を抜けて、事前にコピーしておいた学園までの地図を取り出すと、瑠衣が改札口を死にものぐるいで抜けてくる。何せ、両手には大きめのボストンバッグ、背中にはリュックサックと、異常に荷物が多い。
「宅急便で送らなかったの?」
苦笑混じりに僕は瑠衣にそう言ってやる。
「そんな便利なサービスがあったのっ?」
瑠衣は栗色の癖っ毛を、逆立たせる勢いで言った。
「だって入学案内の注釈に書いてあったし」
瑠衣は硬直させた瞳を泳がせて、煉瓦張りの広場にへなへなと腰を落とした。「何でわたしってわたしって」なんて自問自答までしてる。
「もしかして」僕は顎に指を当てる。「瑠衣ってドジ?」
「そんなことないもん!」
瑠衣は髪を逆立たせる勢いで、声を張りあげた。
「あ、でもそうやってうなだれるとスカートの中のぱ」
「わー! わー! わー!」
瑠衣は取り乱して、飛び跳ねるように立ち上がる。弄ってて面白い子だ。
小柄な体が、広場の人だかりの中で騒ぎ立てるのは、意外と目立たない。長年田舎暮らしだと、何もかもが新鮮だった。
瑠衣の興奮が静まると、改札口から流れてくる利用客も徐々に数を減っていく。僕は瑠衣の手を引っ張って、駅前から放射状に伸びる道の、左端の道に脚を踏み出そうとした。
「ね、ねえ葵」
「ん? 何?」
「手、手!」
振り向くと瑠衣は、頬を赤らめて、右手で僕の引っ張っている左手を指している。瑠衣は強引に手を振り払って、僕を叱咤する。
「いきなり初対面同然の女の子の手なんて握らない!」
「え? あ、いや……僕の地元じゃ普通だったから」
「わたしが普通じゃないの!」異常者ってこと?
瑠衣は顔を赤らめたまま、瞳を強く瞑って、頬を叩く。ようやく落ち着いたのか、瑠衣は眉を釣り上げて、「ほら、行こう」と、焦燥ぎみに言った。僕はそんな彼女が可笑しくなって、苦笑してしまう。
「わ、笑わなくてもいいのに」
「いや、なんかいいな、って思って」
喧騒にかまわず、無邪気に自分を振る舞う彼女の姿は、やっぱり見ていて苦じゃなかった。正直僕は運がいいかもしれない。慣れない土地で、早々と友人を一人作ってしまったのだから(瑠衣は僕を友人と思っていないかもしれないけれど)。
瑠衣が先導して、しばらく経った頃には、僕自身この町にいくつか発見をすることが出来た。まず目を引いたのは、公共バス以外の自動車が走っていなかった。時折道路を通りかかるバスに貼り付けられている広告には、「環境宣言都市・彩海市」なんて書かれていたから、多分バスもガソリンを使っていないのだろう。やけに走行音が静かだった。だからこそ、ほとんどの人が交通に自転車を使っているし、絵図としては以前テレビで見た中国の出勤風景に近い。今は夕暮れ時だから、出勤や通学を終え帰宅する人間がメインだろうか。
「なんか、環境推進都市って言う割には結構原始的だよね」
瑠衣は僕らの側を通過していく自転車を横目で見つつ、口をすぼめて言う。
「でも、ここって実質無料で自転車借りられるらしいよ。ほら、あそこに」僕は道外れの、コンビニの脇に設置されている数台の自転車を指す。「百円入れれば、ロックが解除されて時間無制限で乗れるんだって。市内にいくつか管理場所があるから、市内のどこに止めてもいいし、使い終わったら百円は戻ってくるから、コインロッカーみたいなものだって」
前テレビでやってたよ、と付け足しておいた。これはデンマークのコペンハーゲンでも同様のシステムが使用されているらしい。道を通る自転車の大半が、車輪の部分に市内企業の広告を貼り付けているのも納得できた。
「じゃあ、わたしたちも自転車乗れば良かったのに!」
「でも瑠衣は荷物多すぎてだめでしょ。荷台無いよ?」
「気合いで……」やめなさい。
瑠衣が本気で二つのボストンバッグを詰めようとしたので、僕は彼女を何とか踏みとどめさせる。何だか、僕がいないといつ何をやり出すか分からないような子だ。
「……じゃあ、こうする?」
僕は自転車を見据えると、彼女の左手からボストンバッグを一つ取り、財布から百円を見せる。瑠衣は目を丸めた。
「僕が瑠衣のバッグを一つ、かごに入れるよ。そうすれば瑠衣はもう一つかごに入れて、リュックは背負えばいいだけだし」
「いいの?」
瑠衣は大粒の瞳を輝かせる。
「いいよ。別に減るもんじゃないし」
「ありがとっ」
瑠衣は感嘆の声を上げて、うれしそうに財布から銀貨を取り出し、銀色の自転車の方へ走っていった。自転車の方から、ちゃりん、ちゃりんと景気いい音を立てる。僕も瑠衣の隣に立てかけてあった自転車に百円玉を装填し、ボストンバッグをかごに押し込んだ。手で持ち運んでいたから薄々は覚悟していたけど、かごにこのバッグを入れて走るとなると、実際はかなりバランスを取りづらい。かごに子供を入れて、走行している気分だ。バッグのおかげであまり前方方向が見えないし。
「葵、だいじょーぶー?」
軽快に自転車を乗りこなして、瑠衣はもう三十メートルくらい先に進んでしまっていた。まずい。前輪が予想以上に揺らついて、今にも倒れそう。
「ちょ、ちょっと待って」
僕はバランスを立て直そうと必死だけど、
「大丈夫! 葵なら出来る!」
「いや倒れそうなんだけど!」
「問題ないから葵なら大丈夫!」
「あるわ!」
「あはははは!」なんだそのノリ。
気づいた頃には、瑠衣の姿は夕闇を見せ始めた空の向こう側にでも消えてしまったかの様に、どこかに行ってしまった。というか自分から提案しておいてついて行けない自分が情けない。僕は癖のない短い髪をくしゃくしゃに掻きむしって、自転車のペダルを踏みしめる。自転車自体の速度は出るけど、端から見たら、これじゃ千鳥足ならぬ千鳥車だ。笑えない。
「う、わ、わっ」
車輪の揺れ動きを懸念した通行人が、僕の元から波紋のように離れていく。僕の今の絵図が相当酷いのだろう、周囲の人々は完全に引いている。
諦めて、僕は自転車を降りようとする。でも、ペダルに靴紐が絡まって、今倒れたらやば「いー!」
パーカーを羽織る肩が赤銅色の道にたたきつけられたとき、ボストンバッグも同様にたたきつけられたような、柔らかい音が聞こえた。ホイールがカラカラと乾いた音を立てて、回っているような気がする。僕は僕の上に乗りかかっている自転車を退かそうとして、片膝を立てて身を立てようとする。
でも、倒れているのは僕だけじゃなかった。それに気づいたのは、なかなか自転車が持ち上がらないことに対してだった。金属の無機物音ががしゃがしゃと音を立てるだけで、なかなか体を持ち上げられない。捻ったパイプを無造作に組み立てて、僕の上にのっけているような感触だ。
「つつ……」
頭上から、声が聞こえてくる。野太いとか、低いとかでは表現できない、男の人の声だ。……男?
「わ、悪いね。おれの前方不注意だ」
「わ、わ、わ!」
「大丈夫か? とりあえず、自転車は退かした方がいいな」
僕の背から、重みがすう、と消えていく。僕は両手で身を起こして、ジーンズの土を払った。もうろうとしていた視界がようやく戻ってくると、目の前には同じ型の自転車が二台、立てかけてある。そして、目の前の自転車のサドルに手をかけている人影を見て、僕は反射的に立ち上がってしまった。
「す、すみません!」
「ん? あー、気にしないでよ。おれも不注意だったし。おれも悪かった」
爽やかな笑顔を向けた男性は、僕と少しくらいしか年齢が変わらないのだろう、大人っぽさの中に子供っぽい面影を残したような、微妙な顔立ちをしていた。肌はそこまで焼けていないけど、髪は炭みたいに黒い、スポーツヘアだ。
「べ、弁償します」
「いやいや、何言ってるんだよ」彼は苦笑した。「これ、結構頑丈に作られてるし、そう簡単に壊れないぜ? 市だってそんなにバカじゃない」
「いや、そうじゃなくて」
「あー、おれ? 大丈夫大丈夫、部活で鍛えてるからね」
彼はブレザーの土ぼこりを払って、俺の肩を陽気に叩いてくる。身長差のせいで、僕が中学生みたいだ。
「……高校生の方、ですか?」
僕は自嘲ぎみに言った。
「ん? まあね。鳴桜の……今年で、三年か」
「わ、わ!」
僕の肩がさらに縮こまって、脳まで故障しそうになる。鳴桜の人で三年で僕より明らか年上でお兄さんで男の人で爽やかでイケ「どうした?」どわあ!
「や、やっぱり申し訳ないです!」
「いやあ、そんなに恐縮しなくてもいいんだぜ? おれを見なよ、ぶっちゃけもう反省なんてしてないから」
ははは、と軽快な笑いをあげた彼は、歩道に倒れていたボストンバッグを拾い、僕の目の前に置く。
「これ、君のだろ?」
「は、はい。どうもすみません……」
僕は瑠衣のボストンバッグを拾って、自転車のハンドルに手を回す。多分、もう一度あんな形で走行したら、二の舞になりそうだった。
「あの」
「ん? どうした?」
ふわふわした声が、彼の口から飛んでくる。
「この自転車、どこか近場で置ける場所無いですか?」
「ああ、えーとな」
「あー、葵! 遅いよ!」
僕と先輩(と呼ぶことにする)が声の先を見ると、瑠衣が忙しく自転車のチェーンを鳴らして、走ってくる。瑠衣は僕の使っていた自転車の隣でブレーキをかけると、憤慨して僕のボストンバッグをひったくる。
「遅いよ!」
「いや、瑠衣が速すぎるだけだって」
これくらい普通だよ、と瑠衣は誇張してくる。見た目とは裏腹に、運動神経はいいみたいだ。
「……だれ? この人」
怪訝な視線を先輩に向けた瑠衣は、指さして言う。
「この人とか言うな!」
僕は瑠衣の口を咄嗟に塞いだ。抵抗する瑠衣を抑えつつ、僕は先輩に愛想笑いを浮かべて、ボストンバッグに手を伸ばそうとする。これ以上この場にいたら、余計な迷惑をかけかねない。
僕が頭を下げて先輩の前から去ろうとすると、先輩顎に親指を当てて自問していた。
「すみませんでした」
「あ、いや、いいから。それよりさ」
先輩は僕と瑠衣の額を、人差し指で叩いてみせる。
「君ら、もしかして鳴桜の新入生?」
「え……」
「やっぱりそうみたいだな」
僕と瑠衣の声がシンクロして、高低の波長が響く。先輩はにやりと笑って、ネクタイを締め直した。そして、僕は先輩の左胸に光る、白い翼と黄色のベルのワッペンを見てはっとする。
もちろん、それに気づいたのは僕だけじゃなかった。瑠衣と視線が合って、僕らは互いに口をぽかんとさせてしまう。先輩は、僕らの反応を待ちわびているかのように、笑みを浮かべながら、動こうとはしなかった。
「今更だけど、はじめまして」
先輩の声が一気に清楚で、上品な口調になる。
「鳴桜学園へようこそ、新一年生のお二方。おれは新三年生で、生徒会長の由利英一だ」
夕暮れ時の、突然すぎる出会い。その出会いは、後に僕のあこがれにもなっていく、英一さんとのものだった。