「お前のような地味な女との婚約は破棄する!」と宣言されたので、喜んでお受けしました。ところで殿下、王家の借金三億金貨はどなたが返済なさるのですか?
「お前のような地味な女との婚約は破棄する!」と宣言されたので、喜んでお受けしました。ところで殿下、王家の借金三億金貨はどなたが返済なさるのですか?
「エレノア・ヴァレンティア! 貴様との婚約を、今この場で破棄する!」
華やかな王宮の舞踏会場に、王太子アルベルトの声が響き渡った。
天井の巨大なシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床に黄金色の光を落としている。
楽団の演奏が止まり、貴族たちの視線が一斉に私へ集まった。
「……婚約破棄、でございますか?」
「ああ! 貴様のような地味で可愛げのない女は、王太子妃にふさわしくない!」
殿下は隣に立つ金髪の令嬢を抱き寄せた。
「余が真に愛するのは、このリリアだ!」
「アルベルト様……!」
リリア嬢は頬を染め、殿下の胸に顔を埋める。
まあ、仲睦まじいこと。
私は扇子で口元を隠した。
「承知いたしました。婚約破棄をお受けいたします」
「……は?」
「長い間、お世話になりました」
私は優雅に一礼した。
すると殿下が、なぜか不機嫌そうに眉を吊り上げた。
「待て! それだけか!?」
「ほかに何か?」
「泣いて許しを請うのが普通だろう!」
「なぜです?」
「な、なぜだと!?」
私は首を傾げた。
「殿下がお望みになった婚約破棄ですもの。喜んでお受けするのが礼儀かと」
会場のあちこちから、押し殺した笑い声が漏れた。
殿下の顔が赤くなる。
「強がりおって! 貴様など、王太子妃の座を失えば何の価値もない!」
「そうかもしれませんね」
私は微笑んだ。
「ところで殿下。一つ確認してもよろしいでしょうか?」
「何だ!」
「王家が我がヴァレンティア公爵家から借りている三億金貨は、いつご返済いただけますか?」
「…………は?」
今度こそ、会場が静まり返った。
* * *
「さ、三億金貨だと!?」
殿下が素っ頓狂な声を上げた。
「何を馬鹿なことを! 王家が公爵家から借金などするものか!」
「なさっていますよ?」
私は侍女から一冊の帳簿を受け取った。
「五年前の大飢饉に際しての食糧購入費が一億金貨。三年前の北部復興費が八千万金貨。昨年の王宮改修費が一億二千万金貨。合計三億金貨です」
「そ、それは父上が……!」
「はい。国王陛下のご署名と王家の印章もございます」
私は帳簿を開き、殿下に差し出した。
「婚約期間中は返済を猶予する契約でしたが、婚約が解消されれば、猶予も終了いたします」
「聞いていないぞ!」
「婚約時にご説明いたしました」
「そんな昔のことなど覚えておらん!」
……でしょうね。
殿下は私が提出する財政報告書を、一度も読んでくださらなかった。
「それに、借金だけではございません」
「ま、まだあるのか!?」
「王宮に納めている食糧の七割は、我が公爵家の商会が手配しております」
私は指を一本立てた。
「近衛騎士団の装備費も、王立学院への助成金も、現在は公爵家が負担しております」
「そ、それがどうした!」
「婚約破棄に伴い、これらの支援も契約どおり終了いたします」
殿下の唇が震えた。
「な……何だと……?」
そのとき、リリア嬢が甘えるような声を上げた。
「アルベルト様! こんな女の脅しに負けないでください!」
「リリア……!」
「お金なんて、王家にはいくらでもあるのでしょう?」
私は思わず彼女を見た。
「リリア様。王国の年間税収がいくらか、ご存じですか?」
「え?」
「現在の国庫残高は?」
「そ、そんなこと、わたくしが知る必要ありませんわ!」
「そうですか」
私は帳簿を閉じた。
「では、今後の財政運営はお二人で頑張ってくださいませ」
「待て、エレノア!」
殿下が叫んだ。
「貴様は余の婚約者だったのだぞ! 少しは王家への忠誠心を示せ!」
胸の奥で、何かが静かに冷えた。
五年間。
私は毎朝、夜明け前に起きて帳簿を確認した。
飢饉の村へ食糧を届け、寒さに震える子供たちのために毛布を集めた。
殿下が舞踏会で笑っている間も、私は王宮の執務室で書類に向かっていた。
それでも、いつか努力を認めていただけると信じていた。
けれど。
「……忠誠心、ですか」
私は殿下を見つめた。
「私の五年間は、殿下にとって何だったのでしょう」
「な、何を……」
「雨の日も雪の日も、王家のために働いてまいりました。それでも私は、ただの地味で可愛げのない女だったのですね」
一瞬だけ、殿下が言葉を失った。
けれど、すぐに顔を背ける。
「そ、それが婚約者の務めだろう!」
「……そうですか」
不思議だった。
あれほど苦しかった胸が、今は少しも痛まない。
私は静かに微笑んだ。
「では、その務めも本日で終わりにいたします」
* * *
「何の騒ぎだ!」
重厚な扉が開き、国王陛下が姿を現した。
その背後には宰相と数人の重臣が続いている。
「父上! ちょうどよかった!」
殿下は嬉々として駆け寄った。
「エレノアが王家に借金を返せなどと、無礼な要求をしているのです!」
「……何?」
国王陛下の顔色が変わった。
「アルベルト。まさか、エレノアとの婚約を破棄したのか?」
「はい! 余は真実の愛を見つけました!」
「この、大馬鹿者がぁぁぁ!!」
雷鳴のような怒号が響いた。
パァンッ!
乾いた音とともに、殿下の頬が赤く染まる。
「ち、父上!?」
「貴様、自分が何をしたか分かっておるのか!」
国王陛下は怒りに震えていた。
「ヴァレンティア公爵家の支援がなければ、王家の財政は立ち行かぬのだぞ!」
「で、ですが、王家には税収が……!」
「今年の税収の大半は、すでに復興事業に充てられておる!」
「そ、そんな……!」
国王陛下は私に向き直った。
「エレノア嬢。どうか婚約破棄を撤回してくれぬか」
その声には、切実な響きがあった。
私は静かに頭を下げた。
「申し訳ございません、陛下」
「そこを何とか……!」
「私も五年間、王家を支えるために尽力してまいりました。ですが、もう限界です」
陛下は唇を噛み締めた。
「……そうか」
「ただし、国民に罪はございません。食糧供給と復興支援については、新たな契約を結ぶ用意がございます」
「本当か!」
「はい。適正な対価をお支払いいただけるのであれば」
私は微笑んだ。
「もちろん、王太子殿下の私的な浪費まで負担するつもりはございませんが」
その瞬間、宰相が一歩前に出た。
「陛下。実は、王太子殿下の支出についてもご報告がございます」
「何だ?」
「この半年で、リリア嬢への贈答品に二百万金貨が使われております」
「に、二百万!?」
陛下の顔が引きつった。
リリア嬢が慌てて叫ぶ。
「だ、だって! アルベルト様が何でも買ってくださるって!」
「余は王太子だぞ! それくらい当然だ!」
「当然なものかぁぁぁ!!」
再び怒号が響いた。
私はそっと一歩下がった。
……もう、私の出る幕ではなさそうね。
* * *
それから一か月後。
王太子アルベルトは、王位継承権を剥奪された。
国王陛下は王家の資産を整理し、借金の返済を開始した。
アルベルト元殿下は、地方の領地で財政管理を一から学び直すことになったらしい。
もちろん、自由に使えるお金などない。
リリア嬢は贅沢な暮らしができなくなると知るや、早々に婚約を解消して実家へ帰ったという。
……真実の愛とは、ずいぶん短いものなのね。
一方、私はというと。
「エレノア様! 今年の薔薇が咲きましたよ!」
侍女の声に、私は庭園へ出た。
朝露をまとった白薔薇が、柔らかな陽光を浴びて輝いている。
風が頬を撫で、甘い花の香りが漂った。
「……綺麗」
こんなふうに、ゆっくり花を眺めるのは何年ぶりだろう。
「エレノア」
振り返ると、そこには隣国の第二王子、レオンハルト殿下が立っていた。
以前から公爵家と交易の交渉を重ねてきた方だ。
「おはようございます、殿下」
「また仕事をしていたのか?」
「いいえ。今日はお休みです」
「それはよかった」
殿下は穏やかに笑った。
「君はいつも誰かのために働いている。たまには自分の幸せを優先してもいいんだ」
私は目を瞬かせた。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
「……私の幸せ、ですか?」
「ああ」
殿下は一輪の白薔薇を差し出した。
「もしよければ、これからは私にも、その幸せを探す手伝いをさせてほしい」
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
私は薔薇を受け取り、微笑んだ。
「では、まずは一緒にお茶でもいかがですか?」
「喜んで」
差し込む朝日が、白い花弁を優しく照らしていた。
もう、誰かに認めてもらうために無理をする必要はない。
私の人生は、私自身のものなのだから。
そして数か月後。
隣国から正式な求婚状が届くことになるのだけれど。
それはまた、別のお話。




