【プロローグ】 古代魔法を解読したら何だかとんでもない真理へ辿り着いてしまいそうなんですけれど
世界を一度滅ぼしかけたという、失われた古代魔法。
それは、今からおよそ千年前に栄えた文明が残した、禁忌の術である。
古代魔法に関する研究は、長らく王立魔法学会の最重要課題とされてきた。しかし、その研究は一向に進展しなかった。
なにしろ、肝心の呪文が読めないのだ。
石碑に刻まれた文字は、既存のどの言語体系にも属さず、文法も発音も不明。辛うじて判明しているのは、その文字列に膨大な魔力が宿っていることだけだった。
歴代の賢者たちは解読を試み、ある者は生涯を捧げ、ある者は研究の途中で発狂し姿をくらました。
そして、千年。実に千年という長い月日が過ぎたが、誰一人として、その謎を解き明かせなかった。
――ただ一人を除いて。
「……なるほど。つまり、『ファイア』ではなく、『燃え盛る焰』ですのね。」
グロリアーナ公爵家の書斎、天井まで届く書棚に囲まれた部屋で、一人の少女が古びた石板を前にしていた。
アリアドネ・フォン・グロリアーナ。
輝く金髪に、澄んだ青い瞳。誰もが息を呑むほどの美貌を持つ、公爵家の一人娘であり、齢十六にして、王立魔法学会の論文をいくつも論破した天才。
その彼女が今、千年にわたって人類を悩ませてきた古代魔法の解読に挑んでいた。もっとも、本人はそれほど大仰なことをしているつもりはなかったが。
「この文字は、先ほどの碑文にもありましたわね。こちらは……命令形?いえ、文脈から考えると、もっと日常的な……」
さらさらと羊皮紙に文字を書き写し、しばらく考え込んだアリアは、ふと顔を上げた。
「……ニホン語?」
聞き慣れない音の並びである。
しかし、文法を整理し、単語の意味を推測していくと、驚くほど自然に解釈できる。
それどころか、現代の魔法使いたちが複雑な儀式や発音の難しい単語の組み合わせを必要としていた術式が、まるで誰かに話しかけるような短い言葉のみで構成されているというのだ。
アリアは無言で石板を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「……試してみましょうか」
石板に刻まれた文字を、一字一句違えずに読み上げ、机の上の燭台へ手のひらをかざした。
『――焰よ、燃えよ。我が道を照らせ。』
ポッと蝋燭の先に、小さな炎が灯った。
「…………」
アリアは瞬きをした。
千年の謎、人類の英知、歴代の賢者たちの悲願、その正体が。
「……たったこれだけ?」
あまりにも普通。ゆらゆらと揺れるそれがまるでこちらを煽るようだ。アリアはしばらく黙り込んだあと、羊皮紙に大きく書きつけた。
《古代魔法は、現代において失われた言語によって構成されている。その言語は、仮にニホン語と呼称する》
さらに、その下に追記する。
《なお、千年にわたる解読不能の原因については、後日考察する》
「……まあ、いいですわ」
歴史的発見の余韻に浸ること、わずか三秒。アリアは次の石板を手に取った。
「さて。残りも調べますか。」
天才とは、往々にしてこういうものである。
偉業を成し遂げたことよりも、未処理の仕事のほうが気になるのだ。
そして、その日の午後、アリアの人生は、古代魔法の解読とはまったく別の方向へ転がり始めることになる。
◇ ◇ ◇
「アリアお姉様ぁ~!」
「……はしたないですわ、ルイーズ」
「ええっ、ひどいですぅ!ルイーズ、アリアお姉様に会いたくて、ずーっと我慢してたんですのにぃ!」
「今はマナーの授業のはずですわよね?」
「やりたくなくて逃げてきたんですぅ!」
アリアは手元の本から顔を上げた。
目の前では、淡い桃色のドレスをまとった少女が、両手を胸の前で握りしめている。
ルイーズ。
アリアと同じ乳母に育てられた、少々……いや、かなり騒がしい少女である。ふわふわとした淡い金髪に大きな瞳。白磁のような肌。見た目だけなら、どこかの絵本から抜け出してきた妖精のように愛らしい。
ただし、その中身はというと。
「ねえねえ、アリアお姉様!今日のお茶会、ルイーズも一緒にいていいですか?」
「先ほどから、態度があまりよろしくないのでなくて?。」
「お姉様に甘えるのは仕方ないんですの。」
「……会話が成立していませんわね」
アリアはため息をついた。
嫌いというわけではない。嫌いではないのだが、ただ、どうにも調子が狂うのだ。
アリアは静寂を、読書を、思索を好む。
対してルイーズは、常に誰かと話していたい上に、相手が返事をするまで決して諦めないのだ。さらに、少々身体が弱いと自称している。
少し走れば息切れし、階段を上れば休憩を要求し、無理をすればすぐに顔色が悪くなるため、アリアは彼女を無碍に扱うこともできなかった。
同じ乳母に育てられた、妹のような存在。それ以上でも、それ以下でもない。少なくとも、今まではそう思っていた。
「……はぁ。アリアお姉様って、今日もお美しいですわ!」
「はい?」
「いえいえ、なんでもありませんの!」
ルイーズはにこにこと笑った。
アリアは訝しげに眉を寄せたが、深く追及することはしなかった。どうせ、いつもの調子だ。
そう判断して本に視線を戻す。
その後もルイーズはしばらく話し続けていたが、やがて疲れてしまったのだろうか、ソファーの上で丸くなった。
「……ルイーズ?」
「んぅ……」
「眠るのでしたら、お部屋に戻ったらいかが?」
「やぁ……ここがいいですぅ……」
「まったく……」
アリアは小さく息をついた。
仕方がないかと諦め、風邪をひかれても困るので侍女を呼んで毛布を持ってこさせようとした、そのときだった。
「……はぁ~……アリア様、マジ最高……」
ぴたり。
アリアの手が止まった。
「……冷徹美貌の悪役令嬢……尊い……」
…………。
「……でも俺、将来的には『BL乙女ゲームの総受けヒロイン』として学園に入れられて、クソデカ感情の男たちに奪い合われるんだよな……」
………………。
「そんでアリア様は、俺を嫉妬でいじめた罪で断罪されて死ぬ……」
………………。
「推しの処刑エンドとかマジ無理……どうにかフラグ折らなきゃ……無理……」
すやすや。
ルイーズは、穏やかな寝息を立てていた。
アリアは本を閉じ、音を立てないよう、そっと机の上に置き、それからソファーで眠る少女をその美しい理知的で鋭い青の双眸で見つめた。
「………………は?」
思考が止まった。
いや、止まったというより、おそらくあまりにも膨大な情報を処理しようとして、脳が一時的な機能停止に陥ったのである。
冷徹美貌の悪役令嬢。
これは、まあ、いい。美貌については否定しない。社交界ではそれなりに言われていることは知っていた。冷徹という評価にも、心当たりがないわけではない。
しかし。
ビーエルゲーム。
総受けヒロイン。
クソデカ感情。
断罪。
処刑。
「……何なんですの」
思わず呟いた。先ほど解読した古代魔法の文法と一部が一致しているのだ。
単語の構造も、語順も、発音も、古代魔法に、『ニホン語』に酷似している。
アリアは、はっと顔を上げた。
彼女は先ほど、人類が千年もの間解読できなかった古代魔法の正体を突き止めたばかりではないか。
しかし目の前で寝息を立てるこの少女は、その古代魔法を、ごく自然に、寝言として口にした。
しかも、その内容が。
「私が……ルイーズを……いじめる?」
アリアの声が低くなった。
「そして、断罪されて……処刑?」
ありえない。何をどうすれば、そうなるのだ。そもそも、アリアはルイーズをいじめた覚えなどない。
たしかに、騒がしいとは思っているし、読書の邪魔をされれば眉も寄せる。だからといって、わざわざ危害を加えようなどとは考えたこともない。
ましてや、処刑。
「……全く意味がわかりませんわ。」
アリアはこめかみを押さえた。
落ち着きなさい、アリア。まずは情報を整理するのです。
第一に、ルイーズは未来の出来事を知っている。
第二に、その未来では、自分がルイーズをいじめた罪で断罪される。
第三に、ルイーズはその未来を回避したいと考えている。
第四に。
「……ビーエルゲーム、とは?」
アリアは真剣に考え込んだ。
ゲーム。
『遊戯』のことか。
乙女。
女性を指す言葉。
ヒロイン。
物語の中心人物。
総受け。
「ソウウケ……?」
アリアの眉間に深い皺が寄った。
わからない。単語を分解しても、まったく意味が通らないのだ。
ただし、その直後に続いた言葉を思い出す。
男たちに奪い合われる。
アリアは、ゆっくりとルイーズへ視線を落とした。視線の先に眠るのは、一人でどこにも行けないか弱く可憐な少女だ。
病弱で、ひ弱、放っておけばもしかすると……。
そんな彼女が、複数の男たちに執着され、奪い合われる?しかもその争いに巻き込まれた私は、嫉妬に狂った悪役として断罪されるというのだ。
「…………」
アリアの青い瞳から、すうっと温度が消えた。
「……なるほど」
理解した。
完全に理解した。
――いや、実際にはおそらく半分も理解していなかったのだが、彼女の天才的な頭脳は、理解できない部分を独自の理論で補完してしまった。
ルイーズの周囲には、彼女を利用しようとする何者かの陰謀が存在し、その者たちは、ルイーズを巡って争い、最終的には自分に罪を着せるつもりなのだ。そうに違いない。
だって、そう考えなければ、辻褄が合わないではないか。
「……許せませんわね」
静かな声だった。
しかし、その言葉には、王国の財政を揺るがしかねないほどの怒気が込められていた。
「私を断罪するのは勝手ですけれど……」
アリアは立ち上がった。
「この子を利用するつもりなら、話は別ですわ」
ソファーの上では、何も知らないルイーズが寝息を立てている。
その頬はほんのりと赤く、長い睫毛が愛らしく伏せられており、アリアはしばらくその顔を見つめていた。
これまで、ルイーズは少々騒がしい妹分だったが、今は違う。
彼女は、私の知らない未来を知っている。
私が破滅する未来を、その未来を貧弱なその身で変えようとしている。
つまり。
「……私のことをそこまで。」
アリアの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
自分の身に危険が迫っているというのに、ルイーズが真っ先に気にかけたのはアリアのことだった。
処刑エンドなど無理。
フラグを折らなければ。
そう言っていたではないか。
「…………」
アリアは、そっとルイーズの頭に手を伸ばし、ふわりと柔らかな髪を撫でる。
「……まったく。あなたという子は」
困ったように笑う。
「自分の心配をなさいな」
その瞬間。アリアの中で、何かが決定的に変わった。
今まで、少々扱いに困っていた妹分。けれど、これからは違う。
誰かがこの子を利用するというのなら。
誰かがこの子を傷つけるというのなら。
誰かが、この子を奪い合って争うというのなら。
「……冗談ではありませんわ」
アリアは顔を上げ、その瞳に天才の輝きが戻る。
「そんな悲惨な未来、私の頭脳と財力で叩き潰してさしあげます」
まずは情報収集。
次に、ルイーズの周囲にいる人間の洗い出し。
王家、貴族、騎士団、魔術師。
必要であれば、王立魔法学会にも手を回しましょう。
そして、二度と彼女に不埒な輩が近づけないよう、対策を講じ、あらゆる可能性を想定してあらゆる障害を排除する。
アリアの頭脳は、すでに幾十もの計画を組み立て始めていた。
もっとも、その計画の大半は、実際のところ存在しない秘密結社との戦いに費やされることになるのだが。
「決めましたわ」
アリアは、眠っているルイーズをそっと抱き上げたが驚くほど軽い。こんなに細い腕で、いったい何をできるというのだろう。
「この子は、私が守る。」
ルイーズの頭を胸元に寄せ、アリアは宣言した。
「男色のケダモノどもに渡すものですか。私が全力を以て可愛がり、誰一人として近づけないくらい守り抜いてみせますわ!」
「……んぅ?」
腕の中で、ルイーズがもぞりと動き、薄く目を開ける。
「……ありあ、さまぁ……?」
「お目覚めですの?」
「……ん……」
ルイーズは、ぼんやりとアリアを見上げた。
それから、今、自分がアリアに抱き上げられていることに気づいた。
「…………」
「どうかなさいました?」
「………………」
ルイーズの顔が、みるみる赤くなった。
いや、待って。待って待って待って。なにこれ。どういうこと?俺、さっきまでソファーで寝てたよな?なんで推しに抱えられてんの?えっ、夢?
夢だよね?だってアリア様だよ?あの、冷徹美貌の悪役令嬢で、俺の最推しで、原作では俺を嫉妬して断罪してくるはずの、あのアリア様だよ?
そのアリア様が。
俺を。
抱っこ。
してる。
「………………」
ルイーズは、震える手でアリアのドレスをぎゅっと掴んだ。
「……アリア、さま……」
「はい?」
「……すき……」
「まあ」
アリアは微笑んだ。
「私も、あなたのことが大切ですわよ」
――――ッッッ!!!!
ルイーズの脳内で、何かが盛大に爆発した。
えっ。
好き。
大切。
えっ、待って。
推しが。
推しが俺のこと大切って言った。
これもう実質結婚では???
いや待て落ち着け俺。
原作ではこんなイベントなかった。
こんなスチルなかった。
というか、そもそもアリア様は俺にこんな優しくなかった。
原作崩壊してる。
完全に崩壊してる。
でも。
でもさ。
「………………」
ルイーズは、アリアの胸元に顔を埋めた。
ふわふわ。
いい匂い。
推しの体温。
推しの腕。
推しの声。
「……オールオッケー……」
「何かおっしゃいまして?」
「な、なんでもないですぅ!」
ルイーズは慌てて顔を上げる。その目は、幸福にきらきらと輝いていた。
アリアは満足げに頷く。
「よろしい。では、今日は私と一緒に過ごしましょうね」
「えっ!?」
「明日も、その次の日も。あなたの体調が許す限り、私がおそばにいてさしあげますわ」
「えっ、えっ、えっ!?」
「何かご不満でも?」
「ないです!! まったくないです!! むしろ一生お願いします!!」
「ふふ。元気がよろしいこと」
アリアは、腕の中の少女を大切そうに抱き直した。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で囁く。
「……大丈夫。あなたの未来は、私が変えてみせますわ」
ルイーズは、その言葉を聞いていなかった。
正確には、聞こえていたが、幸福のあまり脳が処理を放棄していたため、気づかなかった。
自分を抱きしめるアリアの瞳に、どれほど苛烈な決意が宿っているのか。
そして、アリアがこの日を境に、ルイーズの周囲にいる人間を徹底的に調べ上げ始めることも。
ましてや。
自分がアリアに向ける感情が、いつか「推しへの愛」だけでは収まらなくなることなど、まだ知る由もなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
グロリアーナ公爵家の執務室に、一人の青年が呼び出された。
地味な使用人服をまとった青年は、主人の前で静かに膝をつく。
「お呼びでしょうか、アリアドネ様」
「ええ、ハル」
アリアは机の上に置かれた書類から顔を上げた。
「少々、調べていただきたいことがありますの」
「何なりと」
「ルイーズの周囲にいる人間を、すべて洗い出しなさい」
「……すべて、でございますか」
「ええ。王族、貴族、騎士、魔術師、平民、奴隷……。身分は問いません。彼女に接触した者、接触を試みた者、彼女の情報を集めている者。すべてですわ」
「承知いたしました」
ハルは一切の疑問を挟まない。主君が命じたのなら、そこには必ず理由がある。ましてやあの、アリアドネ・フォン・グロリアーナの判断である。
疑う余地などない。
「警戒対象でしたっけ?」
「……そうですわね」
アリアは頬杖をついた。
「秘密裏に動いている、非常に厄介な集団が存在する可能性がありますの。」
「主導が彼だと?」
「……ええ。まあ、そのようなものね。」
アリアは少し考えた。
男たちに奪い合われる総受けヒロイン。
私の断罪と処刑。
そして『黒ロザ』という聞いた事のない何か。
あの言葉の断片から推測する限り、彼らはルイーズを中心に活動する、何らかの秘密組織なのだろう。
その目的も構成員も不明。
しかし、王族や騎士、魔術師までもが関与している可能性があるならば、警戒するに越したことはない。
「組織の名前はおそらく……」
アリアは一瞬、言葉に詰まった。
ビーエル。
オトメゲーム。
クロロザ。
どれも全く、これっぽっちも、微塵も意味がわからないがひとまず。
「……『黒ロザ』としておきましょう」
「クロロザ、でございますね。」
ハルは深々と頭を下げた。
「必ずや、その尻尾を掴んでみせます。」
「頼みましたわよ。」
青年は無言で頷くと音もなく立ち上がり、闇の中へと消えていった。
アリアは再び書類に視線を落とす。その表情は、すでにいつもの冷静な天才令嬢のものに戻っていた。
「……さて」
羽根ペンを手に取る。
「まずは、王家の資金の流れから調べましょう。」
こうして世界で唯一、古代魔法を解読し、それが日本語として理解してしまった大天才の少女は、自らの破滅を回避するため、壮大な勘違いの第一歩を踏み出したのだった。
なお、その頃。自室に戻ったルイーズは、枕を抱きしめながら、ひとり静かに悶えていた。
「……アリア様……好き……」
頬を染め、うっとりと天井を見上げる。
「俺、絶対にアリア様を幸せにする……」
その声は、誰にも聞かれなかった。
少なくとも、本人はそう思っていた。
――ただし。
グロリアーナ公爵家の廊下には、すでに新たな護衛が配置されていた。
アリアの命令によって、ルイーズの安全を二十四時間体制で確保するために。
こうして、ルイーズの知らないところで彼女を巡る包囲網は、着々と完成しつつあった。
守る者と、守られる者。
その両者が、互いの知らないところで相手を想い始めたとき、物語は原作とはまったく異なる方向へ動き始める。
――これは、悪役令嬢が世界の理不尽をぶち壊し、ヒロインの皮を被った転生王子が彼女への執着を深めていく物語。
そして、いつか誰かが気づくことになる。
最も危険な攻略対象は、最初からゲームの中には存在しなかったのだと。




