これが貴族社会というものだ。
王立学園は王家直轄の学び舎だった。
だが現実には、有力家門の意向が水面下で働く場でもある。
とりわけルヴァリエ公爵家は、代々王家に近い。
学園の後援評議会にも名を連ね、教師人事や推薦にも影響を持つと囁かれていた。
いずれ王太子妃となるレミリアにとって、それは幼い頃から当たり前のことだった。
父――アルベール・フォン・ルヴァリエは、手にしていた書類から目を上げ、娘を見た。
「学園から退けたのなら、まずは十分だ」
「ありがとうございます、お父様。せいせいしましたわ」
父は書類を閉じた。
「……もっとも、あの家はもう難しかろうな」
「あら? どういう意味ですの?」
父は椅子に深く座り直し、淡々と続ける。
「上の家に楯突いた下の家を、そのまま戻してやるわけにはいかん。見せしめは必要だ」
「そこまでなさるのですね」
「容赦して得があるか?」
父はうっすらと笑った。
レミリアも、つられるように目を細める。
王立学園を退学になった男爵令嬢――クラリス・アーデルハイドの姿が、ふと脳裏をよぎる。
学園とは、知識だけでなく、身分に応じた振る舞いを学ぶ場でもある。
けれどあの娘は、それを少しも分かっていなかった。
上位貴族を前にしても臆せず口を開き、ときには異を唱える。
正しければ、誰にでも口を出してよい。
そんな愚かなことを、本気で信じているようだった。
「学園でも、皆さんおっしゃっていましたもの。度を越した無礼は、いずれご自身を滅ぼしますわって」
父はわずかに鼻で笑った。
「身をもって知ることになっただけだ」
レミリアは頷いた。
これが貴族社会というものだ。
◆
退学騒ぎからしばらく経った頃、学園でも、その話は自然と話題に上った。
「男爵家、支援者が減ったそうですわ」
「お父上の仕事先も変わったとか」
「屋敷を縮小するのでは、なんて聞きましたわよ」
「まあ……」
令嬢たちは、驚いたような顔をしながらも、どこか当然の結末のように語っていた。
「ご存知? クラリスさん、どこかのお屋敷に引き取られ、下働きのようなことをしているとか」
「成績が良くても、結局その程度なのですね」
「身の丈に合った場所へ戻っただけでしょう」
レミリアは静かにティーカップを置いた。
「仕方ありませんわよ。無礼が過ぎましたもの」
それから、少しだけ首を傾げる。
「……それに少し、生意気でしたわね」
その言葉に、令嬢たちは待っていたように頷いた。
「ええ。ご本人でもないのに、席次や紹介のことへ口を挟まれては」
「ほんの少し席を外しただけで、不公平だなんて」
「レミリア様にまで、まるで咎めるような口を利いておりましたもの」
「下の家にしては、分不相応なお振る舞いでしたわね」
くすくすと笑いが漏れる。
誰も反論しない。
誰もクラリスを庇わない。
その空気が、レミリアの気分をよくした。
「そうですわね」
レミリアは口元に笑みを浮かべた。
そうして学園生活を送るうちに、クラリスのことを口にする者は少しずつ減っていった。
やがて、誰も彼女の名を話題にしなくなった。
◆
それから数年が過ぎた。
レミリアは十八を迎え、王妃教育も本格的になっていた。
宮中作法、外交の基礎、歴代王妃の事績。王家に連なる者として求められる教養は多く、決して楽ではない。
それでもレミリアは、真面目に学んだ。
いずれ王太子妃となり、王妃となり、この国の女たちの頂点に立つのだからと。
けれど、二十歳を目前にした頃から、妙な噂が立ち始めた。
「最近、殿下がある令嬢と親しくしておられるそうですわ」
「寄付の席でも、制度改革の話し合いでも、その方の名が挙がるとか」
「新興貴族の養女になった方でしょう? 旧貴族の家とも縁を繋いでおられるとか」
夜会で耳に入ったその話に、レミリアはかすかに眉を寄せた。
新興貴族の養女。
その響きだけで、気分が悪くなった。
金で爵位を整えた家々は、どれほど絹をまとっても、どこか商人の匂いがする。
礼を覚え、言葉を飾ったところで、血の薄さまでは隠せない。
そんな家の養女の名が、王家の席で上がる。
それ自体が、レミリアにはひどく目障りだった。
「殿下もお優しいから、珍しがっておられるだけではなくて?」
令嬢の一人がそう言って笑う。
レミリアも笑みを返したが、胸の奥には言いようのないざらつきが残った。
その日の夕刻、レミリアは珍しく自分から父の執務室を訪ねた。
「――たかが新興貴族の養女が、どうして王家の話にまで顔を出しますの? 図々しいにも程がありますわ」
父は鼻で笑った。
「新興貴族は金を持っている。寄付の席で名が出るのは、珍しい話ではない」
「ですが、お父様」
「耳触りのよい制度改革とやらに名を貸せば、金を落とすと王家もお考えなのだろう」
「……では、放っておけとおっしゃるのですか」
「今はな。もっとも、動きは見ておかせる」
「では……もしこれ以上、殿下のお側へ近づくようなら」
「その時は、立場を分からせるだけだ」
その言葉に、レミリアの表情がわずかに和らいだ。
「ただし、今すぐ騒ぐな。金を持つ家は、叩き方を誤ると面倒だ。潰すにも、順番というものがある」
「……分かりましたわ」
「お前が気に病むような話ではない。王太子妃の席に座る者が、ぽっと出の娘の噂に振り回されるな」
父の言葉に、レミリアはようやく頷いた。
結婚準備の整いつつあるこの時期に、あのような娘の名へ心を乱されるほうがおかしい。
そう言い聞かせるように、彼女は静かに扇を閉じた。
◆
夜会の当日、レミリアは一点の曇りもなく鏡の前に立っていた。
王家主催の大夜会。
今宵は婚約に関して、何らかの正式な発表があるのではないかと、宮中でも社交界でも囁かれていた。
淡い銀青のドレスは、王家の色を意識して仕立てられたものだ。
宝飾品も、髪を飾る真珠も、すべてが未来の王太子妃にふさわしいよう選ばれている。
父も満足げに頷いた。
「よく似合っている」
「ありがとうございます、お父様」
今夜を越えれば、誰も妙な噂など口にしなくなる。
新興貴族の養女だの何だの、そうした話はすべて、王家と公爵家の婚約の前にかき消えるはずだった。
そう思っていたのに――
「私は本日、ルヴァリエ公爵家との婚約を白紙に戻す」
王太子の声が、会場に響いた。
「……は?」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
「殿下……いま、何を……」
「聞こえなかったか。婚約を見直す」
「なぜですの!?」
王太子の眼差しは、驚くほど冷たかった。
「ルヴァリエ公爵家が私怨で下位貴族を追い詰め、王立学園にまで私的圧力を及ぼした疑いがあるからだ」
レミリアの背筋が、すっと冷えた。
「……ずいぶんと大きく出られましたな、殿下」
父が一歩前へ出る。
「そこまで仰るからには、無論、証はお揃いなのでしょう」
「記録はすべて残っている」
王太子の合図で、側に控えていた書記官が書類を広げた。
下位貴族家への圧力。
支援停止と縁談妨害。
家令や側近を通じた指示。
そして、学園関係者による証言と記録。
レミリアは震えながら、広げられた書類へ目を向けた。
知らぬ名も多い。けれど、父の家の印と署名だけは見慣れていた。
王太子は静かに言う。
「下位の者を正すこと自体を咎めるつもりはない。
だが、ルヴァリエ公爵家ほどの家が、私怨で王立学園にまで圧を及ぼし、一つの家を締め上げた。それが問題なのだ」
父は書類を一瞥したきり、すぐには返さなかった。
その沈黙が、レミリアにはかえって異様に思えた。
「……よく、ここまで揃えてこられましたな」
「いや。私が集めたわけではない」
王太子が視線を送る。
人垣が静かに割れた。
現れたのは、第二王子エリアスと、一人の令嬢だった。
令嬢はエリアスの腕に手を添え、落ち着いた足取りで歩いてくる。
流行の薄絹を重ねたドレスに、光を受ける細工の髪飾り。
古い家門の令嬢が好む重厚さとは違う。
近頃、新興貴族の集まりでよく見かける、軽やかで目立つ装いだった。
その姿を見て、レミリアは息を止めた。
「……まさか」
「お久しぶりでございます、レミリア様」
クラリスだった。
学園から消え、もう二度と自分の前には現れないと思っていたはずの女。
「昨年、正式にアストレア伯爵家の養女として迎えていただきました」
クラリスは感情を見せぬまま、淡々と告げる。
「学園を追われた直後は、誰も耳を貸してくださいませんでした。
けれど、伯爵家に迎えられてから、新興の家には旧家への席を、旧家には新しい資金と販路をつないでまいりました。
その積み重ねがあったからこそ、かつて口を閉ざした方々も、私に記録と証言を預けてくださったのです」
エリアスが一歩進み出る。
「クラリス嬢には、私から正式に縁談を申し入れております」
会場に、今度こそはっきりとしたどよめきが走る。
エリアスは落ち着いた声で続けた。
「彼女は、分断されていた家々に利を通した。王家が見過ごしてよい人材ではない」
王太子は冷然と言い渡す。
「ルヴァリエ公爵家には当面、王立学園への関与を禁じる。後援評議会からも退いてもらう」
「……っ」
場が静まり返った。
レミリアは息を詰めたまま父を見た。
いつもなら、父は相手の隙を突き、空気を自分の側へ引き寄せる。
そして最後には、必ず相手を黙らせていた。
なのに。
今は、何も言わなかった。
しばらくして、父はレミリアを振り返った。
「来なさい」
それだけだった。
レミリアはふらふらと父の後に続いた。
新興貴族も、旧貴族も、静かに道を開けた。
誰も引き留めず、誰も声をかけない。
何が悪かったのか、レミリアには分からなかった。
けれど、この場に自分たちへ頷く者がいないことだけは分かった。
その沈黙に押し出されるように、レミリアは会場を後にした。




