第6話 枯れた公爵領
「……うーん、最高」
私はスプーンを口に運び、至福のため息をついた。
口の中に広がるのは、複雑なスパイスの香りと、ピリッとした刺激的な辛味。そして、じっくり煮込まれた野菜と肉の濃厚な旨味。
今日の夕食は「森の特製カレー」だ。
ベルナルド氏が運んできてくれた貴重な香辛料(クミンやターメリックに似た種子)を、私が石臼で挽いて独自調合した自信作である。
「カイル様、おかわりは?」
「……頼む。これで五杯目だが」
向かいに座るカイルが、真剣な顔で空の皿を差し出してくる。
彼は最初、「こんな泥のような色の汁が食えるか」と警戒していたが、一口食べた瞬間にスプーンが止まらなくなった。
額に玉のような汗を浮かべながら、夢中で食べている。
「スパイスには発汗作用と整腸作用がありますからね。森の生活にはぴったりです」
「……ああ。体が熱い。だが、魔力の巡りが良くなっている気がする」
平和だ。
塩も砂糖も、小麦粉もある。
ログハウスは快適で、カイルという最強の用心棒(兼・大食い執事)もいる。
この幸せが永遠に続けばいい。
そう思っていた矢先のことだった。
「――失礼いたします! 森の主様!」
森の入り口の方から、悲鳴のような声がした。
商人のベルナルド氏だ。
前回よりもさらに多くの荷物を積んだ馬車――ではなく、荷車を引いた従者たちを引き連れている。
けれど、彼の表情は以前のような商売人の笑顔ではなく、何かに追い詰められたように切迫したものだった。
◇
「王都が、大変なことになっています」
テラスでお茶(今日はカレーの後なのでラッシー風ヨーグルトドリンク)を出すと、ベルナルド氏はハンカチで脂汗を拭いながら語り出した。
「『黒錆病』をご存じですか?」
「いいえ。聞いたことがありません」
「皮膚が黒く変色し、高熱と魔力暴走を引き起こす奇病です。……今、王都で爆発的に流行しておりまして」
ベルナルド氏の話によると、原因は不明。
既存のポーションも、教会による回復魔法も効かない。
王都は封鎖され、物流が止まり、パニック状態だという。
(……黒錆、魔力暴走……)
私はピンときた。
それはウイルス性の病気ではない。「魔素中毒」だ。
大気中の魔素バランスが崩れ、体内に悪い魔力が溜まって錆びついている状態だ。
「ですが!」
ベルナルド氏が声を張り上げた。
「主様からいただいた、あの薬草(聖霊草)だけが効いたのです! ……実は、私の店の従業員が発症しまして。藁にもすがる思いで、あのお茶を飲ませたところ、嘘のように黒錆が消えたのです」
それが噂となり、今やベルナルド商会には薬を求める人々が長蛇の列を作っているという。
「それは良かったです。商売繁盛ですね」
「い、いえ、そうも言っていられません。……在庫が足りないのです。貴族も平民も必死で、暴動が起きかねない状況で……」
ベルナルド氏は悲痛な顔で頭を下げた。
商売のチャンスである以上に、目の前で苦しむ人々を見捨てるのが辛いのだろう。根は善人なのだ。
「分かりました。裏庭の分、すべて刈り取って持っていってください」
「よ、よろしいのですか!? あれは国宝級の資産ですよ!?」
「構いません。どうせ雑草ですから、放っておけばまた生えてきます」
それに、王都の空気が汚れたままだと、風に乗ってこの森にも悪影響が出るかもしれない。環境保全の一環だ。
「ありがとうございます……! ああ、これで多くの命が救われます!」
ベルナルド氏は涙を流して感謝した。
そして、ふと思い出したように顔を曇らせた。
「そういえば……森の外、グリーンフィールド公爵領を通ったのですが」
私の手が止まる。
「……どうなっていました?」
「地獄絵図でした」
短く、重い言葉だった。
「作物は全滅。貯蔵していた食料も底をつきかけています。領民たちは『公爵家の魔法が消えたせいだ』と噂し、逃散が始まっています。……公爵様は『フローラの呪いだ!』と叫んでおられましたが」
「…………」
呪いではない。
ただ、私が毎日行っていた「土壌改良」と「根の強化」がなくなっただけだ。
妹のロゼッタが、私のいなくなった土地で派手な花を咲かせようと魔力を注ぎ込み、逆に土の養分を吸い尽くしてトドメを刺したのだろう。
「自業自得、ですね」
私が呟くと、ベルナルド氏は何も言わず、ただ深く頷いた。
◇
ベルナルド氏が大量の薬草を積んで帰った後。
森には再び静寂が戻った――はずだった。
「……フローラ」
カイルが低い声で私を呼んだ。
彼はテラスの手すりに寄りかかり、森の奥、王都の方角を鋭い眼光で睨みつけている。
その全身から、ビリビリとした殺気が立ち上っていた。
「はい?」
「荷物をまとめろ。……いや、もう遅いか」
「どうしたんですか、急に」
「来客だ。……ベルナルドのような商人じゃない」
カイルの手が、無意識に剣の柄に伸びている。
「プロが来る。……魔力を完全に隠蔽した、手練れの集団だ」
「え?」
「王宮直属の隠密部隊『影鴉』……。俺が鍛えた連中だ」
カイルが舌打ちをした。
「ベルナルドが持ち込んだ薬草が、決定的な証拠になったんだ。王宮魔導師団の連中め、薬草に残った魔力痕跡から、生産者(=君)の居場所を特定したな。……それだけじゃない」
カイルはギリ、と歯噛みした。
「あの薬草には、そばにいた俺の魔力も微量に付着していたはずだ。……『行方不明の騎士団長』と『伝説の薬草』が同じ場所にいるとバレれば、国中の戦力が押し寄せてくるぞ」
私は息を呑んだ。
雑草だからと油断していた。
あそこには、私の魔力がたっぷり込められている。専門家が見れば、それが「誰の魔力」で「誰と一緒にいたか」なんて、GPSのように分かってしまうのか。
「カイル様、どうしますか? 逃げますか?」
「俺一人なら撒けるが、君を連れての逃避行はリスクが高い。それに……」
カイルは振り返り、私たちが作ったログハウスと、青々と茂る畑を見た。
「この家を捨てるのは、惜しい」
「同感です。やっとお風呂(石窯製)が完成したばかりなのに」
カイルはふっ、と獰猛に笑った。
それは「執事」の顔ではなく、「英雄」の顔だった。
「なら、迎え撃つしかないな。……安心しろ、フローラ。俺の安眠を妨げる奴は、たとえ国王の使いだろうと叩き出す」
カイルが剣を抜く。
蒼い刀身が、夕闇の中で怪しく輝いた。
ザワザワ……と森の木々がざわめく。
私の【雑草魔法】も、異質な侵入者の気配を伝えてきていた。
平和な引きこもり生活終了のお知らせ。
どうやら、外の世界は私たちが思っている以上に、この「森」に用があるらしい。
「……お客様には、とびきり苦いお茶を出してあげないといけませんね」
私は腹を括り、エプロンの紐をきゅっと締め直した。




